「それじゃ、佐藤君は接待って事?」
 井上の台詞に、吉田はんー、と考えて言葉を探しながら佐藤のやり取りも思い出していた。
「そういうんじゃなくて、単なる会食みたいな感じだって」
 接待は取引成立の為に行うのだろうが、佐藤が参加するそれはすでに契約が決まっている状態なのである。取り掛かる企画を前に、人となりが解る程度の親睦を深めるのが目的だと思われた。
 佐藤と2人で暮らしている吉田は、相手に予定が入れば部屋で一人だ。それは逆にも当て嵌まる事だが。
 その時の自分の予定を思った時、そういえば前に井上から「良いディナーを食べさせてくれる所を教えて欲しい」と言われていたのを思い出し、自分の気に入りの店に彼女を誘って夕食を済まそうと計画を立てた。店の名前と地図と教えれば事済むかもしれないが、やはり味というものは説明し辛いし、何より好きな味というのは個人で違うものだ。実際に味をみて貰うのが一番だろう。試しに井上に尋ねてみれば、その日は特に予定も無いからと快い返事をもらえた。
 そして今日がその当日。割と久しぶりの対面を喜びあった後、2人は店へと向かった。行く先は、イタリアのリストランテ。それでもディナーコースもあるし、予約も受け付けてくれる。そんなに混雑した店ではないが、ゆっくり食事を愉しみたいのならやはり予約はした方が良いのかもしれない。今日は金曜日という事もあり、入ってすぐには席にはつけなかった。案内されるまで30分程の時間はあったが、近況を話し合っていたら、そんな時間はあっという間だった。
 テーブルに付き、井上は早速メニューを開く。井上にとって、ここは初めて訪れる店だ。興味深そうにメニューに目を通す。
「ふーん、ワイン付けてもコースが5千円を切るのは嬉しいな。2人でも1万超え無いもんね」
 値段ばかり気にする井上だが、別にケチとかいうのではなく、味の事は吉田の推薦と言う事ですでに保証されているようなものだからだ。これまで数回「美味しいよ」と教えて貰った所に、外れは無い。
 2人分、と井上は言った。敢えて言わずとも聞かずとも、ディナーの美味しい店をと頼まれたのだから、その相手は彼女の恋人だと思って間違いないだろう。井上も吉田と、そして高橋と同じく、高校で出来た恋人と長い間続いている。卒業後からも付き合いがあるのは、こういう共通項があるからだろうか。
 2人はコースでは無く、アラカルトにした。好きなものを見繕い、注文する。やがて品々がテーブルに運ばれ、酒が入るにつれて井上の口が饒舌になって行く。吉田と飲む酒はいつでも楽しいのだ。それに、飲酒が出来る年齢まで付き合いがある、という事自体も純粋に嬉しい。
「うん、美味しい美味しいv 値段もリーズナブルだし、すっごく良いよ。ありがとね、ヨシヨシ!」
「えへへ。気に入って貰えて、良かったよ」
 手放しで感謝する井上に、吉田ははにかんで応えた。そんな風に笑う吉田は可愛くて、井上は一層ニコニコする。
「ケーキもね、凄く美味しいよ。コースだと、綺麗に盛りつけてくれるし」
「へえー、それは期待しちゃうわ」
 その時の食事の事を思い出したか、吉田の目が嬉しそうに輝く。ところで、と井上はそんな吉田に尋ねた。
「やっぱり、この店も佐藤君と行ってるの?」
「え!? い、いや、その……あわわ、」
 佐藤、という名前一つで、ハーブソルトで焼いたスペアリブを食べようとしていた吉田の手元が狂う。その様を見て、井上は殊更楽しそうに笑った。
「今更照れなくても良いじゃない。ヨシヨシと佐藤君が付き合ってるの、もうとっくに知ってるんだし」
「そ、そうだけど……」
 井上のせいで、あやうく皿から飛び出しかけたスペアリブを、吉田はどうにか味わう事が出来た。オレガノやローズマリー。色んなハーブが混然一体となっているこのスペアリブは吉田のお気に入りの1つだ。
 頬が赤いのがアルコールの為ではない吉田を見、ワインを一口含んだ井上は、陽気に言う。
「いやー、でも、ヨシヨシがあの佐藤君と付き合ってるって知った時は驚いたわー。天地がひっくり返るって、きっとあんな時を言うのね」
「……そこまで?」
「だって、それまでヨシヨシ、ちっとも言ってくれなかったじゃん」
 不貞腐れたような吉田に、しかし井上は拗ねたように言う。そこを突かれると、吉田は弱い。確かにクラスメイトの女子には隠す必要はあったが、友達にまで伏せる事は無かったかもしれない。でも、だって。
(恥ずかしかったんだもん!!)
 と、吉田はサーモンのマリネをパクリ。元から、こういう事に関して器用とは決して云えず、当時は自分の気持ちと向き合うことと、佐藤の想いを受けれ入れる事で毎日必死だったように思えた。大事な事だからちゃんと井上達には伝えたいと思うし、しかしその為の語彙もスキルも無い吉田は、中々言い出す事が出来なくて。特に井上は、自分の恋人が出来た時は教えてくれたと言うのに、それを思うと本当に申し訳ない。
井上は続けた。
「でも、ホントにびっくりしたけど、やっぱりって納得した所もあったな〜」
「そ、そう?」
「そうだよ。だって佐藤君、ヨシヨシと居る時が一番楽しそうだったもん。まあ、そう言う意味だったってのは思って無かったから、その辺り驚いたけどね」
 そうなんだ、と吉田は顔を赤くして俯いてしまった。全く可愛い反応だ。こんな吉田を、もっと近くでもっと多く見ている佐藤に、ちょっと妬ける。
 思えばその態度で勘付くべきだったのだ。早く言ってくれなかった吉田にもやきもきしたけど、でも解り易い構図を前に先入観でそれを見逃してしまった自分にこそ問題があったのかな、と井上は省みるのだ。当時2人が付き合ってるとは、毛頭も思って無かった自分に、さぞや話を切り出しにくかっただろうな、と井上は井上で思い返す事が多い。
 まあ、そんな時を経て今がある。吉田のグラスが空になっているのに気付いた井上は、注いであげようとボトルを持った。


 リストランテを出た2人は、そのまま夜カフェみたいな所でもう少し時間を過ごした。そこも井上には好評で「また来たいな」と店内滞在時からご機嫌に言っていた。その後は、タクシーに乗って帰宅。マンションの真ん前で降ろして貰ったというのに、車内の井上から「気をつけてね」なんて言われてしまった吉田だった。まあ、部屋に入るまでが帰宅だけども。
「ただいまー……って、居ないんだよな……」
 誰も居ない空間に向かって、吉田はひとり呟く。酒が入って少し火照る頬に、無人の空間がひんやりと感じた。
 吉田が2件ハシゴしたように、佐藤も2次会、3次会があるのだろう。終わったらその連絡がメールで入る所だが、タクシーから降りて携帯を開いても、佐藤からのメールは無かった。
 あんまり遅くなるようなら、無理して帰らないで近くのビジネスホテル等に泊まれば、とは言ったけど、今朝の佐藤を見てももう意地でも帰るという気迫が伝わってきたくらいだ。その上、休みの日はどこか遊びに行こうとも決めた。こうして予定を組むのは珍しい事でも無いけど、吉田以外に時間を取られるのが余程佐藤には堪えるらしい。休日出掛ける事で、その分のストレスを発散したいようだ。
 仕事も終わり、三度の食事を済ませた。あとは風呂に入って眠るだけである。風呂が張る時間、吉田はミルクを入れたカモミールティーで、外食後の胃を労っていた。そして、入浴。
(あー、気持ち良い……v)
 何せここの風呂は、手足が伸ばせられるのが良い。もっとそれは小さい吉田の体躯だが。それでも、通常の成人でもゆったり入れる大きさである。そして、2人で入っても窮屈では無い。
「…………」
 ここの風呂、1人で入るのと2人で入るの、どっちが多いんだろう、なんて思って顔を赤くする吉田だった。
 吉田は手を伸ばし、傍らにある綺麗な小瓶を取る。その蓋を開け、2,3滴湯に落とす。すると、湯気に乗って爽やかで芳しい香りが湧きたった。いつぞや、艶子から贈られたフランス製のアロマオイルである。見てるだけでうっとりしてしまう綺麗な小瓶は全部で4つ。単品で入れてもいいし、違うのを混ぜても良い。どの組み合わせでも喧嘩しないよう、調整されている。
 吉田が今落としたのは、レモンバームのオイルだ。メリッサとも呼ばれ、ハーブと柑橘類を合わせた爽やかな香りがする。消化促進の効果があるというので、何となく選んでみた。まあ、別に食べ過ぎたという訳でもないけど。外食は嫌いじゃないけど、やっぱり家での食事の方が好きだ。外食は毎日だと疲れてしまうけど、自分の食卓ではそんな事はあり得ない。
 高校の時、佐藤の部屋でデートする時は、佐藤が何か作ってくれたっけ。手間がかかってないように見えて、でもとても美味しかった。勿論今も美味しいし、むしろ腕は確実に上達してるのだろうが、思い出としてその記憶が強く残るのは、その時はそれが特別な事だったからだろう。今は、佐藤が自分の食事を作ってくれるのは、当然の、当たり前の日常の事なのだ。


 風呂を出て、髪を乾かす吉田にとろんと睡魔が襲って来た。井上と一緒だから、酒量がいつもより多かったかもしれない。楽しいとついつい酒が進んでしまうのだ。
 パジャマに着替えた吉田は、携帯を見る。佐藤からのメールは無し。
(……え〜っと……もう、寝るね……気をつけて帰って来てね。無理ならどこかで泊まってね……っと)
 吉田は直接は言えない「おやすみ」をメールに託し、大きなベッドに潜り込む。軽くて暖かい布団。しっかりと頭を支えてくれる枕。でも、安眠に一番欠かせないものが今の吉田には無かった。
「…………」
 吉田は、もそもそと毛布の中に潜り込む。
(佐藤の匂い……する、かな?)
 ここには居ない、大好きな人の香りを見つけられたのか。吉田はすやすやと夢の世界へと旅立った。


 次の朝。吉田の目覚めは決して快適とは言えなかった。それは好きな人と一緒じゃないから……などというセンチメンタルなものではなく、もっと解り易く物理的な事が原因だった。
(……うう〜〜……く、苦しい……??)
 呼吸が何だか上手く出来ないような。例えば胸の上に何かが乗っかり、息を吸い込んで膨らもうとする肺の動きを押さえている様な。
(ま、まさかこれが噂に聴く金縛り!!? え―――っ!!!やだぁぁぁぁぁ!!!)
 まだ目を綴じている状態なので、何も解らない。なのに先にそんな事を考えてしまって、怖くて目が開けられない吉田だった。
 何で佐藤の居ない時によりによってそんなのが!と嘆いた後、吉田は、そういえば佐藤はどうなったんだろう、帰ったのかそうじゃないのかと気になり、吉田は携帯を見る為、気合を入れて目を開いた。
 そこには、朝の光に照らされた寝室の天井が広がっている。
 そして。視界に入るか入りきらないかという微妙な所で、何か黒く大きなものが見えた。
 その大きな何かは不躾なくらい吉田の上に乗っかかり、あまつさえすやすやと健やかな寝息を立てて、挙句寝言も言う。
「ん〜……吉田………」
 まあ、なんというか。
 佐藤だった。
「〜〜〜〜〜!!! 佐藤っっっっ!!! 起きろ―――――――!!!!」
 朝一番、吉田の怒声が響いた。




*朝の光景、も少し続きます^^*