ネクタイを締め、上着を羽織り、すっかり出勤の出で立ちとなった佐藤だが、まだ玄関を出ようとしない。それは、今は晴れて住まいを共にする事が出来た、佐藤の愛しいもはや伴侶と呼ぶべき人物が関係する。
「はい。……はい、すいません……それでは」
 見えない電話先の相手に、ぺこぺこと吉田は頭を下げ、子機を置いた。それだけの動作なのに、気だるげに見えるのは錯覚だろうか。
「どう? 休めそう?」
「うん。もう、忙しい時は過ぎたからね」
 ふにゃり、と笑みに締りが無いのは、吉田の調子が良くないからだ。季節の変わり目で落ちつかない気温と、繁忙期が重なってしまった結果である。仕事が落ちついて、気が緩んだのが原因だろうか。
 ここ最近、自分より帰りの遅い吉田を心配に思ったが、それが的中してしまった。良くない予感程、よく当たる皮肉さを佐藤は感じる。
 とりあえずは、休みが取れて良かった、と佐藤は吉田の頭をそっと撫でる。幸い今日は週末だから、休日も合わせればまた元気になるだろう。
「昼に、鍋焼きうどんっぽいの作ったから。コンロに乗せてあるから、食べる時5分くらい温めて。食べ終わったら、洗わなくていいかr水につけておけよ」
「えー、お昼作ってくれたの!? ありがと! 佐藤、凄いー」
 なんだか場違いの様に、吉田が賞賛する。まあ、確かにそれに値する佐藤の手際の良さだ。何せ、置きぬけから不調だった吉田の為、朝食もその後片付けも、そして自分の身支度まですっかりし終わった上での、吉田の昼の用意である。それでいて、普段出掛ける時間と大差なのだから、いっそその手腕にほれぼれするしかない。
 ふにゃふにゃと呑気に笑う吉田を見て、やっぱり本調子じゃないな、と佐藤は胸中で密かに苦笑する。普段の吉田は意地っ張りだから、こんな緩い笑みはアルコールでも取らない限り中々見せてくれない。まあ、吉田の意地っ張りな、そんな所も可愛くて仕方ないのだが。佐藤は。
「じゃ、行って来る。なるべく早く帰って来るから」
 後日出来る事はなるべく後日に回し、家でやれるものなら持って帰って来てしまおう、と決めている佐藤だった。
「ん。佐藤も、気を付けてね」
「病人にそんな事言われるなんてな」
 思わず、苦笑を顔に出す佐藤。そして、ちょっと顔を引き締めて。
「辛くなったら、お義母さん呼ぶんだぞ。本当にダメだと思ったら、タクシー呼んで病院行って、」
 まるで小さい子のお留守番を任せるように、くどくどと口上を述べる佐藤に、さすがの吉田も「もー!」と言って頬を膨らませた。
「そんなに子供じゃないんだから! 佐藤、母ちゃんみたい」
「それはちょっと嬉しいなー」
「なんで!?」
 何故、あんな口やかましい母親に似て喜べるのか、と吉田は理解に苦しむ。それでも、佐藤にとって吉田の両親は、彼女を大切に育てて来た、ある意味この世で最も尊敬する人物なのだった。

 まだ、眠気はある。けれど、時間を見て吉田はのっそり起き上がった。今は昼食の時間。食べるものを食べて、飲む薬を飲んでぐっすり寝るのが、回復の秘訣だと吉田は思う。幸い、普段程のものではないものの、食欲の様なものは感じられる。
 スリッパを履いて、吉田はてくてくと1人きりの室内を歩く。2人が1人になっただけの室内だけど、だからだろいか、余計に広く思えるのだ。佐藤が出がけに言ってくれた通り、コンロの上には1人用の土鍋が置いてる。鍋焼き用の土鍋だ。火をつける前に、そっと蓋を開けて中を見る。具沢山の装いに、吉田も嬉しくなる。
 火を付けて、タイマーのスイッチを置く。テレビを見るでもなく、カウンター席の椅子に座ってぼうっとしていたら、5分はあっという間だった。すでに美味しそうな匂いを漂わせ、テーブルの上に置いた鍋敷の上に置いた土鍋の蓋を取ると、火が加わった事により、余計に中は美味しそうな仕上がりになっていた。美味しそうーvと吉田が笑みを浮かべる。
 はふはふ、と出来たての熱さと戦いながら、吉田はうどんを食べて行く。なんだか、身体に必要な栄養が全部この鍋に詰まっていそうだ。食べ終わると、汗をかいた爽快感からか、さっきよりも身体が軽くなったように感じられた。食器を洗うくらいは出来そうだが、したら帰って来た佐藤にあれこれ言われそうな気がするので、言われた通り水につけておいた。
 その後、薬をきちんと飲んで、佐藤にうどんが美味しかったとメールをして、寝床に着いた。佐藤の返信を待っていたかったが、向こうのタイミングが合わないらしく、その前に吉田はまた眠りの淵へと落ちて行ってしまっていた。うどん、美味しかったな〜、と思いながら。


 眠りの中で、吉田は夢を見ていた。夢、というか過去の思い出である。
 まだ学生だった頃、イギリスでの佐藤の仲間たちが佐藤と馬鹿騒ぎ目当ててちょくとく来日して来た。その滞在の際の食事は、大抵特有の人が担っていた。彼らは別に、責務でもなんでもなく、自分の楽しみのために料理をしているので、むしろ作らせてくれてありがとう!というような感じだ。
 それも吉田は解っているが、多少なりと拙いながらも手伝いをしたいと、キッチンへちょくちょく顔を覗かせた。美味しい食事を振舞ってくれる事に、何か返したいと思うし、味見という楽しみも待っている。それに、佐藤に美味しいものを作ってあげたいから、その作り方も見て学べるのだ。そんな中での事だ。
「よし、今日はイタリアンで決めてみようかな。ヨシダ、何食べたい?」
「んー、えっとね」
 考える吉田の頭の中では、さまざまなイタリア料理が踊り狂っている事だろう。それを思い、そっと笑みを浮かべる。
「そうだ、リゾット食べたいな」
 時期は、秋を迎え朝晩がちょっと肌寒い。リゾット等、クリームを使うこってりとした料理が美味しき感じられるのだ。
「オッケー。いいよ。ヨシダは、リゾット好きだよね」
 そう言われ、えっ、そうだったかな?と目を瞬かせる吉田。
「まあ、ヨシダが、というより、日本人が好きなのかな?」
 米の文化だもんね、と言う。確かに言われみれば、時期や状況もあるだろうけど、連れだってイタリア料理店に行った時、何人かはリゾットやドリアを頼んでいるように思える。
 作る所、見て行く?と尋ねる声に、吉田はすぐに頷いた。
「リゾットっていうのはね、ヨシダ。何よりも、愛情が不可欠な料理なんだよ」
「そうなの?」
 着々と準備を進める手付きを見ながら、吉田は目を瞬かせて返事をする。
「そう。リゾットって言うのは、簡単に言えばお米をスープで煮込んだ料理。でも、そう言うと日本のおじやと一緒だろう?
 それでも、リゾットはリゾットで、決しておじやじゃない。それは、単に味付けの違いに留まらず、違いを決定つけるのはその作り方なんだ」
 ふむふむ、といつかは佐藤に作ってあげたい吉田は、真剣な面持ちで聞き入る。
「おじやは、スープの中にお米を入れて煮込むよね。でも、リゾットはそれじゃいけない。フライパンに入れたお米の中に、お玉一杯分のブイヨンを入れて、その都度混ぜ合わせて行く。一度に入れるより、これはとても面倒で時間もかかる事だよ。
 そんな手間暇も厭わずに、ただ美味しいリゾットを食べさせたい。そういう気持ちが、リゾットを作って行くんだよ」
 だからね、リゾットには愛情が欠かせないんだ。
 ブイヨンを作りながら、彼はそう言った。


「……… …………… …………………」
 何度か瞬きをして、吉田は目を覚ました。枕元の携帯は、メールの着信のランプがついていた。佐藤からの返信だ。それを見るついでに、時刻も確かめる。もう、8時を過ぎていた。随分、たっぷり寝ていたようだ。
 と、何やら室内に人の気配を感じる。特に物音がしたという訳ではないが、人の居る雰囲気とでもいうのだろうか。そんなものを感じる。そして、それは。
 吉田はベッドから起き上がり、居間へと向かう、明かりのついた室内は、すでに良い匂いが充満しつつある。
「佐藤、おかえり」
「吉田。もう起きて、大丈夫か?」
「うん。元から大したことないよ」
 キッチンに立っている佐藤は、その手を休める事無く吉田を気遣う。吉田の口から出たように、多少の熱とだるさがあっただけで、他に痛みを覚えたという訳でもないのだ。そのだるさも、十分取った睡眠のおかげですっきり解消できている。
 一人しか増えて居ない室内だけど、やっぱり一人ぼっちより余程良い。温かさすら、感じられる。
「あ、ケーキ買って来たぞ。吉田が前に美味しいって言ってた、白桃と林檎のムース」
「えっ、本当!? ありがとう!」
「まだ食べるなよ」
「……食べないよっ!」
 普段の様な、噛みつく吉田の言い返しに、いつもの吉田だ、と佐藤はひっそり笑みを浮かべた。
 吉田は、そのまま佐藤の近くへと移動した。何作ってるのかな、とその手の中を見て、軽く目を見張る。
「リゾットだ」
「うん、レモンのね」
 そう言って、佐藤はお玉に一杯、ブイヨンを言える。フライパンの中で、出来上がりつつあるリゾットが、くつくつと煮えている。
「ね、味見して良い?」
「もうすぐ出来るけど、」
「うん。でも、ちょっとだけ。今すぐ食べたい」
 何せ、お昼に食べたきりなのだ。ずっと寝ていたとは言え、空腹を感じる。
 佐藤は、仕方ないな、とばかりに木のスプーンを取りだし、一口救って吉田に差し出す。それを受け取り、吉田はふーふー、と息を吹きかけ食べる程に冷めたのを見計らい、口に含む。レモンの風味がほのかにして、あっさりとした後味だ。
「どう?」
 佐藤が、味の感想を求める。その手元は、絶えず木ベラを動かし、ブイヨンと混ぜ合わせて行く。この工程を、どれだけ繰り返したのだろう。
「うん、」
 口の中のリゾットを飲み込み、吉田が言う。
「美味しいよ、とっても」



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