*前からの続きです〜

 畳みの上で、折り曲げた座布団を枕に昼寝する吉田に、絶えず心地よい風が吹いていた。暑い夏の空気を縫って吹き込まれるその涼しげな風は、吉田に安息の時間を与えている。
 意識が完全な睡眠から少し浮上し、転寝くらいになった吉田は、その気持ち良い風に口元を綻ばせた。
 と、そこで気付く。
 その風は、あまりに規則的なのだ。自然ではあり得なく、かと言って扇風機の様な機械とも何かが違う。
「…………?」
 睡眠はたっぷり取れた吉田は、風の正体が気になって目を開けた。すると、そこに。
「あ、起きた?」
 団扇を仰いでいる佐藤が居た。その手元が仰いでいる先は、佐藤にではなく、吉田にだった。
 これが風の正体か、と吉田は身を起こす。
「ず、ずっと仰いでくれてたの? 疲れてない?」
「ううん。ゆっくり仰ぐと、あまり疲れないんだよ」
 実際、何も負担になっていないように、佐藤は言う。
「そ、そう………」
 目の前に座る佐藤を、しかし吉田は直視出来ないで居た。お礼だって言いたいのに、目を逸らしてしまうのは、佐藤の浴衣姿が格好良いからだ。とても格好良くて、逆に見てられないくらいなのである。
 祭りにすら着てこなかった佐藤なのに、何故か今は浴衣姿だ。「どうして?」と吉田が何気なく尋ねたら「吉田だけが見れば良いから」とさらっと返される。
 この浴衣姿、学校の女子が見たら、また卒倒するんだろうなぁ、と吉田は思っているが、そんな事を考えている吉田こそ、今にも倒れそうな程真っ赤っかだった。
「吉田」
 真っ赤になって指をもじもじさせる吉田はとても可愛くて、キスの1つでもしたくなった佐藤は、そっと名前を呼びながら顔を近づける。しかし。
「み、皆の所に行こうよ!」
 佐藤が近づいたのを見てからではないが、吉田が急にすくっと立ちあがる。佐藤にしてみれば珍しく、キスのタイミングを見誤った感じだ。
「まあ、いいけど……その前に、お前、涎の跡着いてるぞ」
「えっ、ウソ!!」
「うん、ウソ」
「…………佐藤―――!!!」
 顔を赤らめて怒る吉田に、佐藤は諌める様に頭を撫でて、それから軽いキスをした。


 日本の祭りを見てみたい。という理由だけではるばるイギリスから、また仲間たちはやって来た。嫌じゃないけど、なんだかこう、くすぐったくも感じる。
「ていうか日本の夏マジ暑い」
 ジャックがややげんなりしつつ、そうぼやく。昨日までは祭りのテンションで乗り切っていたらしいが、その効力もついに切れたらしい。
 この旅館は日本の風情を満喫出来るようにと、エアコンみたいな無粋な物を取りつけていないのだ。最も、それで十分涼しいのだが、やはりジャック達はそうでもないようで。
「そりゃそうだ。夏に来たんだから。言っとくけど、ここはまだ涼しい方だぞ」
 佐藤がそう言うと、ジャックは神に向かって嘆いた。ジーザス!と。
「クレイジーにも程があるだろ……」
「ま、イギリスに比べて湿気もあるしな」
 同じ気温でも、湿度が高い方が不快指数も跳ね上がるものだ。佐藤は3年間向こうで過ごして来た後に迎える初めての夏だが、然程身体はこの暑さも受け入れていた。なんだかんだで、結局自分は日本人という事だろうか。
 と、ふと視線を感じてそっちを振り返ってみる。そこには、テーブルに突っ伏していた筈のジャックが、顔を上げてにやにやとした笑みを浮かべていた。
「なんだ、気持ち悪いな」
 ジャックに容赦なく言う佐藤だった。相手にしても気にして居ない。
「いやー、そうやって和服姿見ると、隆彦も日本人だな〜って」
 理由は別だが、佐藤も同じ事を思っていたタイミングだ。どんな顔をすべきか解らなくて、そのままほっとく事にした。
「んで、ヨシダはどこだ?」
 個人的に(勿論恋愛感情を抜きにして)吉田を気に入っているジャックが、その姿を探す。
「多分、艶子と一緒だな」
 吉田が一人でうろちょろしていたら、確実に捕まえるだろうという確信が佐藤にはあった。実際、そうだろうし。
「なんだか、ちょっと吉田が余所余所しくて」
 佐藤はそう切り出した。
「浴衣に着替えた時からだから、これが原因なんだろうけど……たかが服が違うくらいで、あんなにうろたえなくったって」
 吉田と一緒に居たいけど、あんまりぐるぐるさせるのもどうかな、と思って今は吉田を尊重して距離を置いているのだった。勿論、夜には一緒に寝るけども。絶対寝るけども。
 溜息しそうな佐藤に向かい、ジャックは言う。
「じゃあ、隆彦。お前は浴衣姿になったヨシダに、普段と何とも変わらない印象だったてのか?」
「まさか」
 と、あっさり言う佐藤だ。
「普段の日常じゃ見られない姿だからな。それはもうしっかり目に焼き付ける勢いで堪能した」
「……んで、ヨシダは凝視出来るタイプじゃないから、目を逸らしちゃうんだろ」
 ジャックが控えめに突っ込むが、佐藤はそんな事解ってるとばかりにそっぽを向く。全く、ややこしい男である。
「……ダメだ。やっぱり吉田に会いたくなってきた」
 今の吉田は、浴衣では無く簡素なワンピースだが、そんな事はどうでもいいのだ。浴衣姿を褒めた後で矛盾するかもしれないが、要は吉田が良いのである。吉田が。
「あんまり苛めてやるなよー」
 吉田のせめてもの助けになるように、いそいそと足を進める佐藤に、そっと呼びかけてみる。果たして届いたかどうかも不明だが、それよりジャックは涼を求めて旅館内を彷徨った。


 縁側から広がる日本庭園。軒先の風鈴に、豚の形の蚊取り線香入れ。まさに日本の夏という装いの室内で、吉田は切り子のグラスを傾けていた。
「……あー、お茶が美味しい」
 お茶だから渋みもあるが、今飲んだ物には甘味すらあったように感じた。これが甘露というものだろうか。
「水羊羹もありましてよ」
「わー、食べて良い?」
「勿論v」
 笹の葉を添えられて、殊更涼しげに皿に乗る水羊羹を、吉田は嬉々として口に含んだ。つるんとした喉越しで、さりげない餡の味が良い。
 艶子は今も藍色の浴衣を着ていて、煌びやかに長いその髪は、綺麗にアップされている。髪の毛一筋程のもつれも無い。
 しかしその艶やかな姿を見て、吉田が思い出したのは浴衣姿の佐藤だ。佐藤は造詣が整っていて、それはどちらかと言えば日本的な顔立ちでの事だから、浴衣がとても似合っていた。恐ろしく似合っていた。見つめたら、悪いくらいに似合っていた。思い出し、吉田の顔も赤くなる。
「あら、吉田さん。顔を赤くなさって、如何したかしら?」
 吉田がこんな反応を取るのは、大概佐藤が原因だと解って聞く艶子だった。さりげないSである。
「ん〜とね、佐藤がね………」
 浴衣姿が似合って過ぎて困る、と2つ目の水羊羹をもごもご口に含みながら、吉田は言う。全く相変わらず、可愛らしい理由で悩むものだ、と艶子の顔も綻んでくる。
 水羊羹を飲み下した後、吉田はふぅ、と息をはいた。溜息だったのかも。
「佐藤って、なんだか毎日格好良くなってるみたい」
「まあ、そうなの?」
「うん」
 みたい、と言った割にははっきり頷く吉田だった。理屈ではないから、あえてぼかした言い方だったのかもしれない。
「最初は校内だけだったんだけど、最近じゃ学校の外まで佐藤のファンが一杯で。……まあ、仕方ないんだけど」
 ぽつり、と補足のように吐き出された台詞は、吉田の本音であっても本意ではないのだろう。
 まあ、校外のファンは校内の女子達によってきっちり取り締まられているようだから、その辺りは安心……安心、出来るのか? 思いながら、首を捻ってしまった吉田だった。
「そうね。確かに隆彦、会うたびに顔が良くなっている気はするわ。
 けれどね、それは吉田さんも同じ事よ」
 えっ? と吉田は目を瞬かせて、艶子を見やる。彼女は、至って優雅に微笑みを浮かべていた。
「会う度にどんどん可愛らしくなっているもの。けれどこれって、隆彦に恋をしているからよね。
 だったら、隆彦も同じだわ。昨日の隆彦より今日の隆彦の方が格好良く見えたのなら、それはきっと、今日の隆彦の方が吉田さんの事を深く愛しているからよ」
「あ、愛っ……!?」
 とんでもない単語に、絶句してしまう吉田だった。艶子は、その表情を愉しみつつ、茶を含んだ。
 吉田にはああ言ったが、佐藤は吉田を、愛しているだろうが恋の部分もまだ存分に残っている。下手をすれば、片想いの気持ちすら残っているかもしれないのだ。だからいつも、少し焦燥感を持って吉田と居るのだろう。
 もうちょっと、落ちつけばよいのに、と艶子は思う。最も、最初に比べて大分素を表し始めている所を見る分には、好調かもしれないが。
「今だって、隆彦の事思って顔を赤らめている吉田さん、とても可愛らしいわv もう、食べてしまいたいくらいvv」
「………? あっ、艶子さんも水羊羹、食べる?」
 思えば一人で食べていた、と吉田は慌てて艶子にも勧めるのだった。勿論これは、艶子の例えを文面通りに解釈した結果である。食べちゃいたいのは腹を空かせた訳じゃないんだ、吉田!
 しかしこんな吉田のボケっぷりも好きな艶子は、あえて放置した。
「じゃあ、頂こうかしら」
 と、艶子が手を伸ばした時、部屋の襖がスパーンッと小気味よく音を立てて開いた。勿論というか、佐藤が立っている。
 若干眉間に皺が寄っているのを見ると、艶子の危ない発言は耳に入ったようだ。襖を蹴り破らない所、まあ進歩した、と言って良いだろうか。
「あっ、佐藤」
 その姿を見るなり、ぽっと赤らめて俯いてしまう吉田だった。何だか初々しいな、とキスとちょっとだけそれ以上をした間にくせに、そう思う佐藤だ。
「あら、隆彦いらしたのね。そこで立ってないで、早く座ったらいかが?」
 佐藤の敵愾心を吹き飛ばす笑みで、艶子が言う。
「……ああ」
 若干低い声で返事をすると、佐藤は迷い無く吉田の隣に腰を降ろした。横になった吉田は「うひゃっ」と近くになった佐藤に、飛び上がらんばかりに驚く。
(う〜ん、やっぱり格好いいなぁ……)
 まるで、初めて会ったようにドキドキしてしまう。まあ、浴衣姿は初めて見る訳だが。
 さらさらとした黒髪も、すっきりした鼻筋も全部全部似合っている。佐藤の魅力を引き出すのには、洋服より和服の方が相応しいのかもしれないとすら思える。
「さ、佐藤」
「ん?」
「み、水羊羹、食べる? とっても美味しいよ」
 気を紛らわす為か、吉田が勧めて来る。何だかその健気さに打たれてしまって、こう言う時は一度は断ってみせるのだが(結局は食べるのだが)佐藤は一口、水羊羹を食べる。
 すると、横の吉田は、強張った顔から一転、へにゃ、とふやけた顔になる。その表情で、自分の癖が出たのだな、と佐藤も解る。
 この癖は、自分にとって気に入らないものだけど。
(ま。いいか)
 吉田のリラックスに繋がれば。目の前の艶子には、すでに知れた事だし。
「美味しいな〜、この水羊羹」
 いつの間にか、気付けば吉田は普段の調子で水羊羹を食べていた。基本、食べ物で機嫌を変える吉田である。
「水羊羹好きなら、今度作ってやろうか」
「えっ、佐藤、出来るの?!」
「作り方解れば出来るよ。要は冷やして固めるんだろ」
「そりゃまぁ、そうだなぁ」
 そんな会話を続ける2人を見て、艶子は当人たちの和んだ空気がが移ったかのように、そっと綺麗に微笑むのだった。



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