「じゃあ、腕を水平に上げていて」
 と、いう佐藤の台詞に従い、吉田は両手を肩まで上げて、水平に伸ばす。なんだか案山子になったみたいだな、と吉田は思ったりした。
 こんな体勢を強いられるのは、浴衣を着つけられているからに他ならない。佐藤は、実に手慣れた手つきで、事を運んでいる。これで、本で調べただけなのだそうだ。何をさせても器用な男だ。……本気の恋以外は。
 胴に帯を巻いて行く工程は、軽く抱きしめるような形になる。間近になった佐藤に、吉田は顔が赤くなるのを止められない。こんな抱擁以上の事なんで、何度も何度もしているのに。
「次は髪だな」
 佐藤は、好きな人を着飾る作業に、嬉々として臨んでいる。本当に嬉しそうで、吉田の方がなんだか恥ずかしくなってしまう。
 今日の為に吟味した簪を手に、佐藤は吉田の髪をこれまた器用に結いあげて行く。
「吉田の髪ってしっかりしていて、良いね」
 やりやすい、というように佐藤が褒める。特に髪の事なんて気にした事の無い吉田は、褒められた事より「そ、そうなのかな?」という戸惑いの方が強かった。
 脱色もパーマもない吉田の髪は、勿論ダメージも無い。最も、ケアも同じようにしていないのだが、枝毛等は確認されない。さらさらとは言い難いが、その分違った触り心地がある。佐藤は、この髪を一日中撫で続けても飽きない、と思っている。最も、そんな事をされた吉田は堪ったものじゃないだろうけど。
「――よし、出来た」
 満足そうにそう言って、佐藤は手を離す。そしてその時、勿論吉田の首筋が仄かに色づいているのに気付く。髪を弄る過程で触れてしまう指先に、吉田がいちいち反応した証だ。表面上、じっと大人しくしているけど、内心は慌てふためいていた事だろう。胸中の吉田の様子を想像し、微笑を浮かべた佐藤は、結いあげた為に露わになった首筋にそっと唇を当てた。途端、文字通りに飛び上がった吉田。
「ぎゃ―――ッ!!? 何すんだ佐藤!!!」
「だって、吉田が可愛いからvv」
「あ、あ、あ、跡とかつけた!?」
 しれっという佐藤の答えには突っ込まず、吉田は見えない場所のキスマークでも確かめたいように、身体をよじる。
「付けて無い付けて無い。軽くキスしただけ」
「ホ、ホントに?」
「ホント、ホント」
 佐藤が人の良い笑顔で頷く。しかし、この笑顔に何回騙された事か。
「……大体、あいつらが居るんだから、俺もそんな隙は見せないよ」
 ぼそっと付け加えられた台詞にこそ、吉田は信憑を覚えた。
 支度が整った2人は、皆の元へ行く。姿を現した途端、わっとした歓声があがった。
「おおー! ジャパニーズ・ユカタ!!!」
「東洋の神秘だな!!!」
 惜しみない賛辞に、驚いた吉田は思わず佐藤の影に隠れてしまう。
「おい、騒ぎ過ぎだぞ」
 吉田をしっかり匿いながら、佐藤が場を収めるように言う。勿論、そんな佐藤の言葉なんて、通用しない。
 やんややんやと騒ぐ中、慎ましやかに凛とした声がした。
「まあ、吉田さん。本当に良く似合ってらっしゃるv」
「あっ、艶子さん」
 自分と同じ浴衣姿の艶子に、吉田も佐藤の後ろからひょこっと顔を出す。艶子の浴衣は藍色で、吉田のは淡い橙色で並ぶと対照的だ。いや、もしかしたら示し合わせたのかもな、と佐藤は考える。吉田の浴衣を用意したのは、艶子なのだ。吉田に着付ける権利は、どうにか佐藤が勝ちとったが。
「おう、似合ってるな〜。俺も浴衣着ようかな」
 そう言いながら、2人の元に近づいたのはジャックだ。ガリガリくんをガリガリさせながらの登場である。しかも、両手に携えていた。
「お前、どんだけ食べる気だよ」
 佐藤がありのままに突っ込む。
「大丈夫だぜ、隆彦。ガリガリくんは市販のアイスの中でカロリーが低いんだ」
 何をどう捉えて大丈夫と言ったのか。佐藤は面倒なのでもうほっといた。ちなみに、ガリガリくんのカロリーが低いのは事実だ。まあ、食べ過ぎた所で、太る前に腹を壊すだろうが。
「あっ、ジャック、そのガリガリくんって梨味?」
 吉田が、目敏くジャックの手元に目を付けた。おう、そうだぜ、という返事を受けて、吉田は言う。
「わー! まだ、梨味って食べた事無いんだ! 一口ちょーだい……ぐえっ!!」
 ジャックに強請りに行く吉田の首根っこを、佐藤が素早く掴んで阻止する。何すんだよ!といきり立つ吉田だが。
「他のヤツの食いかけなんか、食うな! 俺にはそんな事しないくせに」
 佐藤がそう言うと、吉田は困った顔になりつつ、真っ赤になった。
「だ、だってそりゃ……佐藤は、アレだから……」
「アレってなんだ。アレって」
「〜〜〜〜、アレはアレなのッッ!!!」
「そんな言い方で俺が引き下がると思ったか。答えないと、祭りに行かせてやんない」
 そう言うやいなや、佐藤は吉田をがっしり抱きしめてしまう。
「うわ〜ん、艶子さん〜〜!!!」
 ばたばたと手足をばたつかせながら、助けを求める吉田。
 そんな、喧嘩とも呼べない可愛い佐藤と吉田のやり取りを、艶子も周囲も、微笑みながら眺めていた。


 日本の祭りに行ってみたい!!
 そんな一言で済む目的の為、施設の仲間たちはまた気軽に来日して来た。その内、何人かがこっちに定住しそうだな、なんて思いを佐藤は抱く。
 佐藤が決して交友関係が外に開くタイプではなく、そんな佐藤はこうして強引に押しかえるような繋がりの方が合っているのかもしれない、とは吉田の思いだ。一見迷惑ぶってるような佐藤だけど、本当にそうだと思ったら、顔を見るだけで蹴飛ばすくらいの事はする人間である。具体例をあげればつまり山中だが。
 そしてもう一度繰り返すが、押し掛けて来た一団の今回の目的は日本の祭りである。艶子はすぐに、近日開催される手頃な夏祭りをリストアップし、最も適切だと思われた会場近くの旅館を丸ごと貸し切った。艶子達と会う時、こんな純和風の建物は初めてだな、と吉田は思った。
 当然のように招かれた吉田には、当然のように浴衣が用意されていた。着方が解らないよ!とおろおろする吉田に、佐藤が誰より先に「俺が着つけるから」といそいそと吉田の腕を取って、部屋へと引っ込んだのだった。
 着替え終わった後、多少の小競り合いはあったものの、とりあえず今は祭りの会場内に身を置いている。結構規模の大きい所で、街全体が祭り一色に染まっている。吉田も、これだけの規模の祭りの開催地に赴いたのは初めてで、場所に近付くにつれてそわそわしてきた。それに此処は、住んでいる所から遠く離れていて、クラスメイトとかち合う可能性は無いと言って良いだろう。――最も、知り合いの目は気にしなくても良いとは言え、佐藤は相変わらず女性たちの注目を集めているが。
 そんな佐藤に加え、艶子とジャック、ヨハンも居る。単純に考えて良いなら、その注目の度合いも3倍増しという所か。そんな一団の中、ある種ひと際目立つ吉田である。
「これが日本の祭りか〜! なかなか、良いんじゃねぇの?」
 ジャックが満足そうに言う。どうやら、彼らのお眼鏡に叶ったようで、日本人の吉田はちょっと嬉しく思う。自国の文化を受け入れてくれた事に。
 それにしても、凄い混雑である。人が集まるからこそのこの規模だと思うが、それにしても多すぎないか。
「もうすぐ、神輿が来るんじゃないかしら」
 艶子がそう言う。どうやら、その見物にここ一帯に密集しているようだ。
 今にも埋もれそうな吉田の手を、佐藤がぎゅっと握る。
「離れないようにね」
「う、うん………」
 遠くから、神輿の掛け声がする。もっと酷くなるだろう混雑の為、吉田もその手をそっと握り返した。


 だと言うのに、2人の手は解かれてしまった。予想に反して、一気に人がどっと来た為、その衝撃に耐えきれなかったようだ。
「くそっ……吉田! 吉田!?」
 この喧騒には、携帯の呼び出し音も負けそうだ。だったらと、佐藤は声で呼びかけていた。
 人の波を、必死にかけわけて吉田を探す。こんな時、育ち過ぎた身体がちょっと煩わしかった。中々吉田を見つけられない自分に、佐藤が苛立ちを覚えた時だ。丁度、相応する後ろ姿を発見した。
 相変わらず細い手首をがっしり掴み、今度は絶対離さない様、気をつける。そして同じくらい、吉田の手に無粋な痣を作らない様、手首を掴む力加減にも最新の注意を配る。
「おお、隆彦」
 人ごみに揉まれたようなヨハンの横に、至って平然として立っているのは、艶子だ。特に艶子は、髪の一筋も解れさせていない完璧な身のこなしを保っている。あの人ごみの中で。
「ジャックはどうした?」
「はぐれちゃったみたい」
 ヨハンが苦笑して言う。
「あの人込みだもの。仕方ないわ」
 どんな時でも、艶子は優雅に言う。
 しかし、不意にその表情を曇らせる。
「ところで、隆彦。その方はどなた?」
 どなた、とはつまり佐藤が手を繋いでいるその相手の事であり、それは勿論吉田の筈だ。何をそんなに驚く、と思って吉田の方を向いた時、佐藤は、大きな驚愕で表情を染めた。
「………。誰?」
「アイナちゃん、ななさい!」
 どうやら、迷子になった時はきちんとこう言いなさいと躾られていたのだろう。
 吉田と同じような浴衣を着たアイナちゃん(7歳)は、声高々に言った。


「まさか、よりによって吉田さんと7歳と間違えるだなんて。馬鹿な隆彦」
「……煩いな。あの込みようだったんだから」
 ため息交じりに言う艶子に、ぐうの音も出無い佐藤だった。念の為、吉田に言うなよ、と言いたい所だが、言ったら弱みを握られそうで、何か言い出せない。
 佐藤が間違えて連れて来てしまった子は、近くにあった案内所に預けて来た。他にも、同じような迷子になった子が何人か居た。うっかり、その中に吉田の姿を佐藤が探したのは、ここだけの話だ。
 あの人の流れに、逆らうのは吉田の体躯ではまず無理だ。どこか、違う場所へと辿りついてしまっているのかもしれない。ある程度落ちついた今なら、携帯にも気付いてくれるだろうと、佐藤は呼び出し音を鳴らす。程なくして、相手が電話を開いた。
「吉田? 今、何処に居る?」
『……佐藤、あのね………』
 声を潜めて言う吉田の様子に、佐藤はすぐさまただならぬものを感じ取った。その佐藤の表情に、ヨハン達もすぐに気付く。
「何かあったか?」
 佐藤の問いかけに、吉田は言った。
『うん、あのね。今、スリの人を追いかけてる』


 佐藤の手から離れてしまったあの後、勿論吉田はすぐさま佐藤を探した。しかし、あの人込みでは人探しすら、上手くはいかない。
 とりあえず、この場から抜け出さない事には連絡も取れない、と踏んだ吉田は、少しでも開けた場所に移動しようと試みた。
 その時、目撃したのだと言う。他人の鞄に手を突っ込み、財布を取りだしたその一部始終を。吉田の身長が、その場面を目撃しやすい視線にさせたのだろう。
『すぐに、警備員の人か誰かに知らせようと思ったんだけど、近くにそんな人は居ないし、見て無いと見逃しちゃうし』
「……それで追いかけてるってお前……」
 スリとは言え、犯罪者は犯罪者だ。そんな思慮の欠けた浅はかな粗暴者に吉田が見つかったら、と思うと佐藤は気が気では無い。
「とりあえず、今から追いかけるから。通話は切らないでおいて」
『うん』
 そして佐藤は、艶子に目配せした。彼女の携帯のGPS機能で、吉田の所在地を探って貰っている。ヨハンも、会場内に散らばる仲間に、現在穏やかな状況下ではない吉田の事を告げ、艶子のように吉田を追跡してくれ、という連絡を触れまくっていた。
「どうやら、祭りの会場外に向かってるみたいね」
 地図上の吉田の位置は、そんな経路を彷彿させる。
 会場外ということは、人気の無い場所でもある。焦る佐藤。
「今から、行くからな。すぐに追いつく」
『うん……』
 吉田の声には、いつもの張りがない。やはり、犯罪者の追跡に少なからず緊張と不安を抱いているのだろう。
「すぐに行くから」
 艶子の先導に、佐藤達は足を速めた。


 一方吉田は、慣れない尾行ながらも、どうにかこうにか続かせる事が出来ていた。祭りの喧騒のおかげではあるが。
 しかし、その加護も会場から外れるに従い、あてには出来なくなる。今は下駄を履いているだけに、足音には時に気を配る。
 吉田の尾けていた人物、年は20前後かの青年は、閉店したスーパーの裏へと周った。吉田は一層緊張しながら、その後を追いかける。
 曲がり角を曲がった。その先がどうなってるか解らない吉田は、とりあえず曲がり角ぎりぎりで立ち止まった。その吉田の行動は、正解だった。この先は行き止まりであり、そして。
「よう、どうだった?」
「ぼちぼちかな」
 他にも誰かが居たのだ。吉田がそのまま追って顔を出してしまえば、2人がかりで捉えられる所だった。危ない危ない、と吉田は胸を撫で下ろす。
 男達の居る所は、至近距離ではないが、周りに他に音が無い為、会話を拾う事が出来た。
「俺、これで5つめゲットした」
「げっ、マジで? 抜かされたなー。もういっちょ、ハントしてみっかな」
「結構コツつかめてし、負けねえよ?」
 そして、笑い合う声。
 それを聞いて、吉田は憤怒した。会話から察するに、彼らはスリという犯罪を、完全にゲーム感覚で行っていた。最も、性質の悪いパターンと言えよう。
 その財布の中に、その持ち主の生活にとってどれだけ大事なものが詰まっているか。そんなもの、考えないでも解るだろうに。
 今すぐ飛び出してコラー!と怒鳴りたい吉田だが、ぐっと堪える。さすがにそれをしてしまえば、たちまち身の破滅だ。
 そんな風に、怒りに我を忘れてしまったのがいけなかったのか、角の向こうばかりに気を取られていたのがいけなかったのか。
「――おい! お前、なんだ!?」
「!!!」
 背後から声がしたのと同時に、吉田の身体は前に吹っ飛んだ。声の主が、吉田を突きだしたのだ。アスファルトの上に、顔から着地する。ズザーッと吉田の携帯も、倒れた拍子に手から離れ、地面を滑って行った。携帯、傷だらけになっちゃったな、とこんな時に似つかわしくない事を考える。
 突如現れた吉田に、呑気に会話していた2人もぎょっとして振り向く。
「お前ら何してんだよ! つけられてるじゃねーか!」
 吉田を突きだした男は、まず仲間たちを非難した。見つかってヤバいという自覚が出来るなら、最初からこんな事しなければいいのに。鼻の痛みと戦いながら、吉田はそう思う。
「ど、どうすんだ、そいつ……」
「ヤバいだろ。顔、見られてんだし」
 ざわざわ、とスリグループが騒ぐ。自分の処遇が最悪に向かない様、吉田は自ら言いだした。
「もう、とっくに携帯で連絡つけたんだからな! もうすぐ、皆がここにやって来る!!」
 吉田のこの行動は、半分くらいは効した。3人のうち、2人はすっかり露見してしまった自分たちの悪事に呆然としていた。
 そして、残りの1人は――……
「――このガキィィィィィ!!!!」
 近くにあった角材を手に、吉田に迫る。せめて発見者への報復だけはしておこう、という算段だろうか。
 倒れ込んだ吉田は、慣れない浴衣のせいで素早く起き上がる事が出来ない。吉田の目の前、角材を持った手が吉田に向かって振りおろされた。


 しかし、実際角材によってダメージを与えられたのは、吉田に振り降ろそうとしたその相手だった。真横から水平に飛んできた角材が、脇腹に思いっきり当たる。見ただけで、わき腹が痛くなる光景だった。まあ、当たった本人は、そのまま棒に押されるまま横に吹っ飛び、壁に激突してわき腹どころか全身もれなく痛そうな目に遭っていた。
「――天知る地知る!子知る我知る!
 祭りの喧騒に紛れて人様の金品くすねようたぁ、狡すっからい真似してくれるじゃねぇか、ええ!?
 あまつさえ無垢な婦女子を手にかけるとは言語道断!この手で成敗してくれるわ!!
 いざ、神妙に縄につけぃ!!!」
「ジャ……ジャック、どうしたの」
 突然始まった古風な向上に、助けられた感謝よりも戸惑いの方が勝ってしまう吉田だった。
「いや〜、こういう台詞、一度でいいから使ってみたくってよv ああ、良い思い出が出来たvv」
 満足vという顔でジャックが言った。……まあ、良い思い出としてくれるなら、そのままにしとえこうか。吉田は思う。
 ちなみにその背後で。
「……無垢な婦女子って、誰だ?……」
「……さあ?……」
 などという会話が成されており、吉田がちょっぴり傷ついた。
「と、とにかく……あいつ、なんかヤバいぞ!」
 ジャックに向けたその発言に、誰も異を唱える者は居ないだろう。
「逃げろ!」
 その判断は間違って無いが、いかんせん何もかもは遅すぎた。その先には、すでに駆けつけた別の仲間が控えていて――
 これで彼らも学ぶ事だろう。現実に行うゲームには、リセットが無くけれど厳しいペナルティだけはしっかりあるのだと。


 あっと言う前に一網打尽にされる様を見ながら、吉田は何となく地面に座り込んだままだ。と、その身体が急に宙に行く。
 慌てるけども、騒がないのはその相手が誰だか、吉田には解っているからだ。
「吉田……! 良かった……!!」
 吉田の身体を、足が浮く程抱きしめ、万感の思いで佐藤はその一言を捻りだす。
 正面から抱きしえめられた吉田は気付いた。速く打つ鼓動も、滅多に見せない汗が頬に流れているのも、それだけ急いで駆け付けた証だった。
「さとう………」
 こんな時だが、いや、こんな時だからこそか、佐藤への愛しさが募って止まない。佐藤、ともう一度名前を呼んだ時だ。
「隆彦? そろそろ私の携帯、返して下さらない?」
 艶子の声に、甘い空気に浸っていた吉田が、はっと我に返る。こんな、思いっきり人の見られている中で恥ずかしい、と顔を真っ赤にした。
「ああ……ほら」
 依然吉田を抱きしたまま、佐藤がつき出すように返す。艶子は返された携帯を見て、にこっと微笑む。
「良かった。凄い剣幕だったもの、てっきり握りつぶされたかと思ったわ」
「…………」
 煩いな、といいたけに佐藤は沈黙した。
 吉田が、複数居るスリ犯の誰かに見つかった。電話の先でその事態を知った佐藤は、画面で吉田の居場所を指している艶子の携帯を奪い取り、艶子とヨハンを置いて猛然と駆けだしたのだ。まあ、それより早く、ジャックの方が到着していた訳だが。
「吉田、怪我して、………」
 尋ねる途中で、佐藤の声が止まってしまった。顔から倒れ込んだのだ。顔全体がヒリヒリしている。どこを擦りむいたかは、すぐに解らない。
「おーい、艶子!」
 犯人を締め上げていたジャックが言う。
「他にも仲間が居るらしくってさ、ちょっくら捕まえて来る! 後の事は頼んだぜー」
 そしてジャックは、吉田と犯人が迂回した塀を、楽々で超えて行った。
 もう、ジャックったら、とむしろ艶子は楽しんでいる素振りすら見せている。
「さて、吉田さんは如何しましょう?」
「へ? いかが、って?」
 佐藤に抱きしめられたまま、きょとんとする吉田。
「何せ、スリ集団一斉検挙に一役買ったんですもの。吉田さんが見つけなければ、被害はもっと出たでしょうね。警察から、感謝状でも贈られるかもしれなくてよ」
 しかし、警察からの感謝状なんてものに、吉田の心は何も反応しなかった。
「えー、そういうの、いいよ。あんまり目立ちたくないっていうか」
 それに実際捕まえたのはジャック達なのだし、そういう場面になればジャック達が貰うべきだ、という吉田の見解だった。
 いかにも面倒臭そうに辞退した吉田に、艶子はしかし嬉しそうだった。
「じゃあ、隆彦。吉田さんを任したわ」
 そう言って、拾った吉田の携帯を佐藤に手渡す。
「言われる間でも無い。……っていうか、任される事じゃないだろ」
 吉田の傍に居るのは、誰に請われたでも、頼まれたのでも無い。
 他でも無い、佐藤自身が望んだ事なのだ。


 アスファルトの上をホッケーのように滑り、見事に傷だらけになった吉田の携帯だが、艶子の手配ですぐに同種の物が手に入った。外装を変えるより、データを移した方が早いだろうと、その方面に長けてる仲間がパソコンを使ってその作業に勤しんでいる。
「出来るか?」
「楽勝、楽勝。……ほい、っと」
 最後のキーを弾く。後は処理を待つだけだ。その処理もすぐに終わり、ピカピカの携帯に吉田のこれまでの情報が全て収まった。完了!と今一度声を上げた。
「早速渡してこようかな。なあ、ヨシダは?」
「風呂だよ」
「そうか。なら、隆彦は?」
「風呂だよ」
「………………」
 と、言う事はつまり。
「……あー、俺も可愛い恋人と一緒に風呂入りてぇ!!!」
 頭を抱えて喚く仲間を、もう1人が生ぬるい目で見つめていた。


 そしてその頃。風呂場では。
「全く、相変わらず無鉄砲というか何と言うか……
 まあ、そんな所にも惚れてるんだけどな」
 苦笑して、佐藤は言う。そしてその時、故意か無意識か、吉田の左目下の傷跡をなぞった。吉田の無鉄砲さの表れであり、佐藤の忘れられない過去の象徴で何より2人を繋ぐ絆にもなっている。この傷跡の意味する所は、佐藤にとってどれもが大きく、そして数多い。その傷を負っている吉田当人は、そんなに深刻に捉えていないギャップが少し滑稽だが、それで良いと思う。吉田もまた、重大に受け取って居たら、佐藤はそのプレッシャーに潰されそうだからだ。自分は強くなんかない、という自覚のある佐藤だから。
 佐藤と一緒に風呂に入るに当たって、吉田はどこもかしこも存分に洗われてしまった。普段はヤだ!と抵抗する所だが、今日は迷惑かけた自負があるからか、基本無抵抗だった。普段から、恥ずかしさばかりが先立つけども、こうして隈なく磨かれるのは、悪いものではない。エステやスパに、予約が殺到するのがちょっと解る吉田だ。最も、こうして佐藤がやってくれるのだから、吉田は一生エステに縁のが無さそうだが。
 吉田を丹念に洗いあげた後、佐藤は自分の身体も洗って湯船に浸かった。ここの旅館は温泉ではないものの、その分内装に力を入れている。佐藤達が現在使っているのは大浴場では無く部屋風呂であったが、十分寛げるものだった。
「無事でよかったよ。まあ、完全にとは言い難いけど。
 顔の傷、痛い?」
「うーん、ちょっと沁みるけど、平気。すぐに治るよ、かすり傷だし」
 倒れた拍子に、吉田は鼻と右頬を少し擦りむいてしまったようだった。血は出なかったが傷にはなっていて、そこそこ痛い。でも、大した事では無いと、吉田は背後の佐藤を振り返って言う。実際、消毒だけで済むレベルだ。
「あんまり、無茶な事はするなよ」
 吉田の正義感からして、目の前で行われた犯罪をほっとくなんて出来ないと思うが、それでも自分の身を第一に行動して貰いたい。まして犯人を尾行するだなんて。
「……うん。でも、」
 そこで吉田は、また佐藤を振り返る。ふにゃり、とした笑みを共に、吉田は言った。
「佐藤が、何とかしてくれるかなって」
 そう思ったから、無茶な事も出来てしまうのだと、吉田はそう言う。嘘偽りない、その目と声で。
「…………」
「? 佐藤?」
「……吉田は、ズルい」
「え?」
「ずるい、ずるーい」
 言いながら、ぐりぐりと顔を押し付ける。大型犬の様な仕草に、「もう、何?」と吉田も笑って答える。
「そんな事言われたら、何をしてでも助けるしかないじゃないか」
 佐藤は、吉田の身体の向きを変えて、自分と向かい合う姿勢にした。
 吉田の危機には、必ず救える自分でありたい。
 そんな風に強くなりたいし、何より傍を許される関係がずっと続く様に。
 祈りを込めてキスをしたけども、佐藤の顔で傷跡を少し擦ってしまったようで「ふぎゃっ!」と吉田から、可愛いうめき声がした。
 それが面白くて何度もキスを求め、すっかりへそを曲げて艶子の元に駆け込んだ吉田の機嫌を直す為、佐藤は現在、ガリガリくんの梨味を買い求めに出掛けたのだった。
「言っておくが隆彦。この先のコンビニは俺がすでに買い占めた後だぜ!」
「ジャック殺す」
 揚々と言うジャックに、佐藤の目は本気だった。



<END>