日本の夏は蒸し暑い。暑い上に、蒸すのだ。これが余計に不快を増す。
「う〜……暑い〜……」
 あつい、というかあづい、という発音に吉田はなっていた。それだけで、いかにこの気温にうんざりしているかが解る。
「なら、今度の休みプールとか行くか?」
 佐藤が言う。海は行くまで時間がかかるし、天候に大きく左右されると佐藤はプールを選んでみた。
「ん〜でも、人が多そうだし……」
 人が多くて吉田が困るのは、単純に混雑が嫌だと言うのもあるが、まず佐藤が逆ナンパに遭うからである。そのヤキモチを素直に出さないで、別の理由にすり替えようと唇を尖らす吉田が、佐藤には可愛い。
「あっ、じゃあ、俺の家で水風呂入ろうよ」
 いかにも、さも今思い付いた、という風に佐藤が提案し出す。あまりに唐突な発言に、吉田も目を丸くしてきょとんとした。
「えっ……水風呂って……ええっ?」
「勿論言っておくけど、俺と2人で入るんだよv」
 現実に追いつけない様に戸惑っていた吉田が、その佐藤の台詞でぱっと赤くなった。嫌がらない反応に、佐藤は気を良くする。
「うん、それがいいよな。人込みは無いし、ゆっくり出来るし。そうだ、アイスとか用意してやろっか」
 アイス!と吉田の目が輝く。恋人の佐藤と、最後まではまだしてないがそれなりの事は済ませていると言うのに、相変わらずの初心さだ。それに時折イラッとする事もあるが、大抵は愛しく思える。
「……うーん、そうだな〜……」
 吉田が顎に手を当てて考える。これはもうひと押しだな、と佐藤が更に吉田を巧妙に誘う手段を繰り出そうかという時だった。吉田の携帯が鳴ったのは。
 そこまでは別に良かったのだが、佐藤にとって雲行きが怪しくなったのは次の吉田の一言だった。
「あっ、艶子さんだ」
 それは佐藤にとって、ある種一番の理解者であり、同時にそれ故に最も敵に回してはいけない人物の名前だ。佐藤を介して吉田と出会い、今は佐藤を抜きにしてそれなりに交流を持っている。
 メールでは無く、電話だったようで吉田は携帯を耳に当てる。その様子を見て、佐藤には何故だか悪い予感めいたものが胸に広がっていった。
「……うん、うん……あー、佐藤と一緒……えへへ……」
 そう言ってはにかむ様子は実に可愛いが。
「えっ、次の休み?えっ、別荘??えっっ、プール付き!!!?」
「……………」
 とりあえず静観の佐藤。
「ジャックとヨハンも!?うわー!行きたい行きたい!!うん、うん!あっ、訊いてみる!」
 そこで吉田は、くるん、と佐藤を向き直った。
「あのねっ、次の休み、艶子さんが別荘に連れてってくれるって!そこ、プールがあるんだって!!!」
 その目は、佐藤が頷いてくれるのを期待していた。佐藤は非道ではなくてドSなので、このキラキラした眼差しを裏切る事は出来なかった。
「皆も、来るんだって!ねえ、行こう!!」
(……水風呂は、またの機会だな……)
 撤回するつもりのさらさらない佐藤の胸中を余所に、賛同を得た吉田はきゃっきゃとはしゃぎながら、艶子から詳細な予定の打ち合わせをしていたのだった。


「――えいっ」
 小気味良い掛け声と共に、吉田は飛び込み台から飛び降りた。数秒後、どぶん!とプールに沈む。跳ねた水滴が、陽の光を浴びてキラキラと光る。
 ぷっはぁ!と顔を出しだ吉田は、爽快感から背伸びをした。
「っあー!気持ち良いー!!」
 そして手を万歳と上に上げたまま、後ろへとまたざぶーん!と音を立てて潜る。程なく、仰向けの吉田がぷかりと浮かび上がった。そのまま背泳ぎで気の向くままに進んでいく。
「はしゃいでるな〜、吉田」
 そんな吉田の一部始終を見て、佐藤が呟く。吉田は根暗ではないが、やたら騒ぐ性質でも無いので、吉田にしてみればこのテンションは結構珍しいと言えるだろう。存分にプールを堪能していた吉田は、佐藤の元へとちゃぷちゃぷと音を立てて近寄る。にこっと目を細めて笑う吉田は、ネコみたいだ。
「だって、こんな空いたプール初めて!」
 ここは艶子の別荘なのだから、当然ながら彼女が招いた客人しか居ない。しかも現在、プールを使用しているのは佐藤と吉田を含めても数名だけだ。
「それに、この水着、着れたし」
 えへへ、と吉田ははにかみながら言った。吉田の着ている水着は、いつぞや佐藤に買って貰ったものだ。勿論海やプールに行くために買った訳だが、その機会が中々訪れなかったのだ。主に佐藤が、吉田の水着姿を他人に晒すのを芳しく思わなかった結果だが。
「その水着、新しいの?ヨシダに似合ってて、とっても可愛いよ」
 同じくプールに入っていたヨハンが、素直な意見で吉田を称える。プールに浸かっているというのに、吉田はちょっと頬を赤らめて言った。
「んー、佐藤が選んでくれたんだ」
 いかにも照れ臭そうに、吉田が言う。
「へえー、隆彦がね〜」
 吉田の反応に釣られるように和みながら、佐藤をちょっと見て密かに笑う。あの隆彦が他人の衣服(水着だが)を選ぶ日が来るだなんて、という意味を込めて。
 その笑みを、佐藤は微妙な心持で受け取る。精神的に荒んで居たあの時を共に過ごした仲間と居るのは、気楽と同時に気まずい時もある。まさにこんな時だ。
 まあ、吉田との関係を心から歓迎していてくれるから、女を食いまくっていたという破壊力満点なエピソードはそっと避けてくれるけども。
「おーい、スイカ割りしようぜ!」
 温室のようなガラス張りのプール室内で、スイカを片手で軽々と掲げたジャックの声が響く。全面ガラス張りではあるが、角度を綿密に計算されて居る為、決して暑くはならないのだ。
「プールサイドで?」
「別に場所に縛りは無い筈だ」
 冷静な佐藤の突っ込みに、にやりとしてジャックは言い返す。吉田が「わーい、スイカ割りだー!」と嬉々とした顔でプールから出たので、佐藤もそれに倣う。
「ま、確かに場所はどうでもいいけどな……はい、吉田v」
 目隠しのためのタオルと、スイカを割る為の棒を、佐藤は吉田家と差し出す。
「えええええ!なんで決まっちゃうの!?」
 誰がやるの?どうやってそれ決めるの?とワクワクしていた吉田は、いきなり矢面に立たされて戸惑う。
「だって、他のヤツらだと一発で決めちゃうし」
 そ、そうなの!?と目を丸める吉田。見渡す先で、頷く一同。彼らにとって目隠してスイカを割るなんて、それこそフライパンで目玉焼きを作るより簡単な事だ。
 なんだか、周りから丸めこまれるように、目隠しをして棒を持つ。目隠しされ、真っ暗ではないが、視界は完全に潰れている。その為か、聴覚が敏感になったようで、人の声が普段より余計に耳についた。
「ど、どっちに行けばいいの!?」
 おろおろして吉田が言う。突如皆、口々に右だ左だ言い出して、また軽く混乱した。当然と言っていいのか、おろおろする吉田見たさに、皆本当の順路は告げていない。程良く堪能した所(そして佐藤がキレる前)に、やっと正しい道を示してやった。おそるおそる、という風に吉田の足が一歩一歩と進む。
「はい、そうそう、そのまま真っすぐ、真ーっすぐ………
 捕まえたv」
 ぎゅvvv
 佐藤の声に導かれて進んで居た吉田は、しかしスイカには辿りつけなかった。何故なら、佐藤にがっしりと抱擁されてしまったからだ。
「……へっ?え?あれっ、さ、佐藤!?スイカは!?スイカは――――!!!?」
「目隠しの吉田、すごくそそられるなーv ねえ、今度俺の部屋で……」
「!!! しないしない! しないったらしない―――!!」
 っていうかスイカ――――!!という叫び声が、ただ木霊したのだった。


 とりあえずスイカ割りを恙無く終え、割った後綺麗に切り分けられたスイカは皆で美味しく頂いた。甘くて赤くて、とても美味しいスイカだった。その後は昼食タイムで、一旦水着から着替える。ジャックが気ままに串に刺していった野菜や肉を、好き好きに取って焼いていく。
「あれっ、ヨシダは?」
 ヨシダ用の串を作ったジャックだが、渡す相手が見当たらないのに気付く。そうして尋ねた相手は佐藤だ。
「ああ……ちょっと、どこか行ってるみたいだな」
 佐藤も、周囲を見渡しながら言う。吉田がこの場から離れたのは知っているが、すぐに戻って来ると思って行き先までは気にかけていなかったのだ。ジャックに尋ねられたのをきっかけのように、吉田を探し始める。
 庭には見かけないから、別荘のの中だろうか、と佐藤はバルコニーから部屋に入る。もしや、日射病や熱射病にでもなってしまっているのか。
 探せば、吉田はあっさり見つかった。その吉田もまた、誰かを、あるいは何かを探しているように、頭をきょろきょろと動かしている。
「吉田、何かあった?」
「あ……」
 麻の、涼しげなワンピースに着替えた吉田が振り向く。さっきまでのはしゃいでいたテンションがすっかり潜んでしまっている。表情が、というか、顔色が優れないようにも見える。
 本当に体調を崩したか、と佐藤が口を開く前に吉田が言う。
「えっと……艶子さん、何処に居るか知ってる?」
 どうやら、艶子を探しに家の中に居たらしい。家主を探す吉田の真意は何だろう、と佐藤は考えを巡らす。
「なんだ、具合が悪くなったか? だったら、部屋で休んで………」
「〜〜〜〜いいからっ! 艶子さんどこか知ってるの!? 知らないの!?」
 吉田が声を荒げた。確かに、訊かれた事を余所に違う事を言ったのは、質問した側にとって焦れる事だろうが。
 それでも、吉田を心配しての事なのに。
「……………」
 気まずい沈黙だ。どうしてだ?さっきまで、楽しく過ごせていたのに。
「……艶子なら、自分の部屋じゃないか? あとはシャワー浴びてるとか……そうじゃなかったら、知らない」
 最後は言い捨てるように告げて、佐藤は吉田を振り返る事無く歩き出した。
 足早に歩き出した佐藤に、吉田が佐藤を小さく呼んだような声がした気がしたが、佐藤は振り返って確かめる事は無かった。


「……そうだね、いつもよりあまり食べてない様だったし……
 あれっ、隆彦、ヨシダは?」
 一人で戻ってきた佐藤を、皆は怪訝そうに見た。ヨハンは丁度その直前まで吉田の事を話していた。佐藤が他の仲間と話している時、吉田と一緒に食べていたのは、ヨハンだ。その時ヨハンは、吉田の異変というか、いつもより食べっぷりが悪い事に気付いたのだそうだ。吉田とはまだ出会ってからの期間や回数は多くないが、それくらいは解る。
 吉田が居ない事に気付いたヨハンが、その事を佐藤に相談してみようと思った時は、すでに佐藤は吉田を探しに屋内へと入った時だった。
「隆彦。ヨシダはやっぱり具合が悪いの?」
 佐藤が多少不機嫌でも、ここに居るメンバーはびくともしないのだった。と、いうか施設に居た時の佐藤は仏頂面がデフォルトだから、ある意味こっちが見なれた佐藤と言えるかもしれない。
 ヨハンの言葉に、さっきの事を思い出した佐藤は、不機嫌な顔を更に顰めた。
「さあな。知らない」
「知らないって、お前……」
「だって、俺が具合悪いかって訊いても、艶子は何処だってそればっかりだし」
 ジャックの呟きを遮って佐藤は言う。何だよ、何なんだよ、と苛立ちを露わにしている佐藤だが、自分の発言後、それが原因のように微妙な空気になったのは感じ取った。
 みれば全員が、佐藤に対して呆れていると言うか、生ぬるい視線を送っていた。何だよ、ともう一度思う。
「隆彦……お前、本当に気付かないのか」
「はあ? 気付くも気付かないも、吉田何も言ってくれないし」
「言ってくれない、じゃなくて、察しろよお前が」
「だから、何を………!!」
「……ほら、あるだろ。病気じゃなくても具合が悪くなる時が………毎月」
 毎月。
 そのキーワードで、佐藤の中の全てが解消された。吉田の顔色が優れ無かった事も、艶子ばかり頼って佐藤には言わなかった事も。
「………………………」
 ようやく思い当たったような佐藤に、互いは視線を交わしつつ、肩も竦めた。少し考えれば、解る事だろうに、これが所謂「恋は盲目」というヤツだろうか(少し違うかもしれない)。
「……もしかして………」
 佐藤の声が存外冷静なのは、まだちゃんと事実を受け止めきれていないからだろうか。
「……俺、凄くみっともない事をしたか」
「ああ。かなり、とても」
「……………………」
 力強く断言したジャックに、しかし佐藤は何も言い返す事が出来なかった。


「大丈夫? 痛みとかは無いのかしら?」
「うん。そこは平気」
 気遣わしげに顔を覗きこむ艶子に、吉田は返事した。
「痛くは無いけど……気持ち悪いのがお腹でぐるぐる溜まってる感じ……かな?」
「あら、それは良くないわね。私がそんな時に良く飲むハーブティーがあるから、後で持ってきて差し上げるわ」
 にっこり、と微笑む艶子に、吉田も笑ってありがとう、と答える。
 シャワーから出た艶子は、そこで吉田に会い、事情を聞いて一番風通しの良い部屋へと案内したのだ。こんな時人工的な風を、扇風機でもあまり浴びたくないというのは艶子にもある事だ。却って気分が悪くなる。
 ゆったりとした椅子に身を預け、吉田は心身ともにリラックスしようとするが、先ほどの佐藤とのやり取りを思い出す。しょんぼりと肩を落とした吉田に、艶子が改めてどうしたの、と尋ねる。
「……さっき、佐藤とごちゃごちゃしちゃって……佐藤は、心配してくれたのに」
 生理になったと言えなくて、上手くはぐらかす事も出来なかった。ぽつぽつと呟かれる吉田の言葉に、艶子は苦笑する。その苦笑いの矛先は、目の前の吉田では無く、佐藤の方。
「まだ、佐藤、怒ってるかな……」
「そうね……きっと今ごろ、隆彦の事だから、自分の失態に気付いて地にめり込んで裏側に到達する程落ち込んでると思いましてよv」
 実際この時、ジャックに突っ込みも入れれずに絶句していた時だった。さすが艶子さん!!
 明るい物言いの艶子に、吉田もふにゃりとした笑顔を取り戻す。
「ん……でも、やっぱり謝らなきゃ」
 どこまでも人の良い吉田だった。本当に、天使のようだ。最も、ここまでじゃないと、あの隆彦とは付き合えないのかも、なんて艶子は思ってみる。
「……佐藤には、さ」
 吉田が言う。ここに居たのは艶子ではあるが、艶子にだけ向けて言った言葉でもなさそうだった。
「怒ったり悲しんだりしないで、もっと笑っていて欲しいんだけどな。
 あっ、でも、怒ったり悲しんでるのを我慢して欲しいって事じゃなくって、」
「ええ、解ってるわ」
 吉田がそう言うのは、佐藤が傷つく事も出来なかった頃を間近で見て知っているからだろう。そしてその分、大いに喜んだり笑ったりして欲しいと、常に祈っている。
 それは頭の中で組み立てた理論では無く、心で直接築き上げたものだから、余計に言葉にするのが難しいのだろう。慌てて言い繕おうとする吉田の頭を、艶子がそっと撫でる。
 艶子の指は細くて長くて、あまりに華奢で、佐藤が撫でた時とは大違いだ、と吉田は思った。
(……って、佐藤と比べてる……)
 その事実に、吉田は顔を赤くしたのだった。


 ハーブティーを持ってくる、と言って艶子は部屋を出た。吉田は1人、椅子に腰かけて時間の流れを肌で感じる。
 結局、一度しかプールに入れなかったな〜とそんな事を思う。折角の別荘なのに、勿体ない。
 身体に纏わりつくような怠惰感で、少しぼうっとする。体温も少し上がっているのかもしれない。佐藤を探し出したいけど、もう少しここで休んでからの方がいいだろう。
 やがて、カチャリとドアの開く音がした。艶子さん?と振り返ると、何とそこには。
「さ、佐藤、」
 あわわ、はわわ、と吉田は少し慌てた。まだ怒ってたらどうしよう!なんて吉田は思っているのだが、そもそも怒っていたのなら此処には来ない、という単純な事実に気付かない。それも、ハーブティーを携えて。ガラスのポットの中、紅色の液体が入っている。
「大丈夫? 辛くない?」
「う、うん……」
 椅子の横のサイドテーブルに、ポット一式を音を立てずに置く。まるで有能な使用人のようだ。と、なるとこの場合主人は吉田となるのだろうか。
 おそらくは艶子に頼まれたのだろう、ハーブティーを持って来てくれた事や、今の笑みを携えた口調に、さっきの苛立ちは微塵も無い。とは言え、さっきの事実が消える訳でも無いので、吉田はやっぱり謝罪を口にした。
「あの……さ、さっき、ごめんね。態度、悪かった」
 顔を赤くしながら、申し訳なさそうに言う吉田。その吉田を見て、佐藤は軽く目を見開く。そして、口元を歪める。
「……吉田は偉いな。大人だよ」
 呟かれた佐藤の台詞に、吉田はえっと顔を上げて佐藤を見た。
「でも、まだ中学生どころか、小学生に見られるけど、」
「外見じゃなくて、内面の事言ってるんだってば。すぐに謝れるのは、凄い事だよ」
 解らないだろうと思っていたが、やっぱり解ってない吉田を、佐藤は面白そうに笑って額を指で軽く小突く。
 そして小突いた後、その場所に軽くキスをした。あぅ、と小さく呻く吉田。
「ごめんな。すぐに気付かなくて」
「いや、それは……その前に、その、こっちが、」
 吉田はあくまで、事情を素直に打ち明けられなかった自分に非があると言いたいのだろう。
「べ、べ、別に悪い事じゃないんだから、すぐに言えば良かった」
 真っ赤になって必死に台詞を紡ぐこの吉田を見たら、また仲間から「ここまで言わすなんて!」と叱られてしまうだろう。まあ、見せないけど。
「で、痛みは?」
 佐藤は余程さっきの失態を謝りたかったけど、堂々巡りに嵌りそうで別の話題に移った。この謝罪の分は積み立てておいて今後、吉田にうんと優しく、甘く接する事に割り当てよう。
 尋ねる佐藤に、吉田は今度は素直に答える。さっき艶子に言ったような事を。
 それを聞きながら、佐藤はハーブティーをカップへと注いでいた。そして、手渡す。
 赤い液体は、まるでルビーのように綺麗だった。そっと口を付けて飲み込む。熱く無く、冷え過ぎない。心地よい温度だ。
「! 甘くて、美味しい!」
 ようやっと吉田が笑顔を浮かべてくれたようで、佐藤も内心胸を撫で下ろす。
「ハチミツ、入れたんだ」
「そうかー」
 吉田が気に入ってくれたらしく、カップの中は程なくして空になった。
 嬉々として飲み干す吉田が可愛くて、佐藤はそっと頭に手を置き優しく撫でる。吉田の髪は張りが合って、撫でた感触が楽しいのだ。
 佐藤に撫でられているのは、勿論吉田もすぐに気付いた。が、振り解かずにそのままにしておく。その傍らで、やっぱり佐藤の手と艶子の手が大部違うというのを考えていた。佐藤の手は当然ながら大きくて、そして温かくて触れられている箇所以外も包まれるような感覚に満たされる。心地よさに目を細めていたら、それを眠いのかと勘違いした佐藤が声をかける。
 吉田は違うといいかけて、否定するのを止めた。それはベッドに移動するのに都合の良い口実だ。
 この椅子はとても座り心地がいいけれど、いかんせん一人用なのが残念だ。佐藤と並んで座りたい吉田としては、重大な欠点である。この部屋で、2人で並んで座れそうな場所はベットしかなかったのだ。
 しかし吉田は、あくまで並んで座る目的の為にベッドへの移動を示したのだが、佐藤に運ばれた吉田はそっとベッドの上に横たわらせられてしまった。まあ、佐藤は吉田が眠いと思っているから、当然の流れなのだが。
 起き上がろうとして吉田がそれを途中でやめたのは、佐藤が横に並んで同じく寝転んだからだ。横になったまま、吉田を背後から抱き締めるようにして、そして佐藤の掌が吉田の下腹部に当てられる。
「気持ち悪いのって、この辺?」
「う、うん……」
 優しく摩る佐藤の手の感触が、なんだかとても恥ずかしかった。喚いて逃げ出したいくらいだけど、同時にずっとこうしていたい気持ちもある。顔が見れない姿勢で幸いだった。きっと、みっともないくらい顔が赤いだろう。
 眠たい、なんてのは言い訳の筈だったのに、腹に触れる佐藤の掌からの温もりで、何だか本当に眠くなってきた。いや、口実のつもりが、本当は実際に睡眠を求めていたのかもしれない。ゆっくりゆっくり、意識が下降していく。その中で、佐藤が後頭部にキスをしたのを感じた。微かな感触に、くすりと笑ってしまう。
「……佐藤……」
「ん?」
「今ね、すごく、気持ち良い……」
 ふにゃむにゃ、とはにかむように言って、やがて程なく、吉田の口から寝息が零れ落ちた。


 そして心地よい睡眠を迎えた吉田の一方、佐藤と言えば。
 かなりの規模の自分との闘いに挑んで居た。
 だって吉田は可愛いし、すっぽり腕の中だし柔らかいし、しかもさっき、「気持ち良い」とうっとりした声で!!挙句の果てに、ここはベッドの上だ!!!
 しかし今の吉田はキス以上は出来ない。とは言え、キスをしたら必然にその先に踏み込みそうだから、キスも自重しなければならない。そんな事態だ。
(あ〜もう、なんだって出来ないってのに、何で吉田はこんな良い匂いしてるんだ!)
 もやもやというか、いらいらというか、むらむらというか。
 そんな佐藤だけど、反応した自分を密着した吉田に悟られたら、という事に気を取られていた為、とりあえず本格的な兆候を示さずには済んだ。
 そして、吉田の元に行ったきり戻って来ない佐藤に、どうやら仲直り出来たようだ、と皆は胸を撫で下ろしていた。
「すぐに仲直りするんなら、最初からしなければいいのにな」
 心臓に悪い、と一人が言った。吉田と破局してしまえば、佐藤はきっと世にも恐ろしい怪物に成り果てるやもしれない、というのは全員の共通の意識である。
「あら、仲直り出来るっていう確信があるから、喧嘩も出来るんでしょ?」
「なるほど、真理だ」
 優雅な艶子の呟きに、ジャックも深く頷く。
 皆にそんな風に祝福されながらも、佐藤は依然吉田を抱きしめたまま、抱きたいのに抱けない、というある種幸せな苦痛に悩んで居た。それは吉田が、お腹空いたと目を開けるまで続いたのだった。



<END>