可笑しな言い方かもしれないが、空から地鳴りのような音がする。つまりは、雷である。
 真っ暗になった空を見て、佐藤は多少不安に思う。雷自体にというより、その後に来るにわか雨の方に。最近の雨はぼういっそ暴力か兵器かという勢いで降って来る。しかも、吉田は今日傘を持っては居なかった。雨が降れば、ここに来る間に確実に濡れる事になるだろう。
「…………」
 佐藤は少し考え、風呂の準備をした。それと、玄関先にタオルをたっぷり用意して。


「わ〜〜〜〜ん!!濡れた――――!!!」
 おおよそ、佐藤の予想した通りの吉田の帰宅だった。全身ずぶぬれ、という表現がぴったり似合う。
 鞄の濡れがそんなに酷くはないのは、中身を死守するように、それをしっかり抱えて来た結果だろう。
「全く……だから今朝、傘持って行けって言ったんだよ」
「う……ごめん」
 嘆息混じりにそう言いながら、佐藤はまずしとどに水滴を滴らす髪をわっしゃわっしゃと拭いてやる。完全には程遠いが、粗方水分を拭えた後、新たに大きな(←吉田にとってのサイズで)バスタオルで濡れた衣服ごと包み込む。そして、そのまま風呂場へと直行した。
 一人で脱げる!と顔を赤らめて言う吉田の主張を軽く流し、肌に張り付く服をはぎ取っていく。手際良く全裸にされてしまた吉田は、どぶんと湯船に浸かるまで佐藤の手によって抱き上げられての移動だった。何だか、何も出来ない赤ん坊みたいで恥ずかしい。
 佐藤は浴槽の吉田に、しっかり温まってから出て来いよ、と一声かけた。うん、と頷く吉田は、顎の下まで湯に埋もれている。
 吉田が風呂から出て来るまで、佐藤は、さてどうしたものか、と前準備の済んだ食卓で考える。
 こんな風に、吉田がずぶぬれになって帰って来るのは、今日が初めてではない。にわか雨どころではない集中豪雨の被害に、吉田は結構な確率で遭っている。集中豪雨は、文字通り短時間であっという間に降るものだから、予測が難しいのだ。そして吉田は、出る時に雨が降ってないと中々傘を持ち歩かないタイプだった。多少雨に濡れたくらいでは風邪なんてひかない、頑丈な身体のせいだろうか。その手の慎重さが吉田には欠けている。普通の傘は吉田には大きいし、折り畳みは広げたりするのが面倒くさい。そう言って、持ち歩くのを倦厭している。
 まあ、吉田も自分で金を稼いでいる身分でもあるし、いざとなれば降っている場で傘を買えばいいのだが、そんな事をすれば家が傘だらけになる。それはどうも気にしているようだ。そういう所ではしっかりした面を見せるのだ。
 とはいえ、毎回毎回濡れて帰って来られても、堪ったものではない。
 雨からの冷えというのは油断できないし、うっかり肺炎を拗らせてしまうかもしれない。これまでは平気でも、どんな拍子に体調を崩すかはあるいは本人にも解らない事なのだ。
 それになにより、この季節、衣服は自然と薄くなり雨に濡れれば身体のラインを浮き彫りにさせてしまうし、事の場合によっては下着のラインすら露わにしてしまうかもしれないのだ。それは全く、佐藤にとって由々しき事態である!!
 一番良いのは、吉田本人が傘を持ち歩く意識を芽生えさす事だが、どれだけ口を酸っぱくして言ったとしても、これまでの人生で多分言われ続けているだろう事をすぐに翻す事が出来るとも思えない。雨が降りそうな時、こっそり吉田の鞄に忍ばせておく――なんてのは、そもそもの解決にはなっていないし。
 これは別角度から考える必要がありそうだ。さてどうする、と佐藤は頭をかいて――ふと、妙案を思い付いたのだった。


「はい、吉田。プレゼントv」
 プレゼント、と差し出されたそれを、吉田はきょとんとした面持ちで眺める。何故って、今日は誕生日でも無いし、ましてクリスマスでも無い。そして勿論、何かの記念日でも無かった。
 いや、もしかしたら2人の思い出に関わる日で、忘れているのかもしれない。青ざめて記憶を探り始めた吉田に、とりあえず開けてみてよ、と中身の確認を促す佐藤。
 吉田は戸惑いながらも、綺麗な包装紙を剥いで行く。現れた品物に、またきょとんとなった。
「……折りたたみ傘?」
 見たままを吉田は口にした。どこからどう見ても、折り畳み式傘である。紛れも無く。
 吉田がこの部屋に引っ越すに辺り、大抵の身の回りの小物も一緒に持ち込んだ。
 その中には勿論折りたたみ傘もあったし、佐藤もその事は知ってる筈だが。はてさてこの折り畳み傘の意味は、と吉田がまだ首を傾げていると。
「ほら、この先もっと通り雨が多くなるし」
「………?」
「俺が贈ったものなら、いつでも持っててくれるだろ?」
 佐藤は考えたのだ。どうすれば吉田が傘を持ち歩いてくれるか、というより、どういう傘なら吉田は持っていたいと思うのか、と。
 そこで、好きな人からの贈物なら、あるいはと。少なくとも、佐藤がその立場なら絶対持ち歩く。
「くれるだろ?」
「…………う、うん……」
 真っ赤になって頷く吉田。佐藤も、微笑ましくそれを見る。
 これで、吉田が全身ぐっしょりになって帰って来るのは、ゼロではないだろうけどぐっと減ってくれると良い。
 まあ、自分からの贈り物だから持っていてくれる、なんてのは佐藤の方の希望的観測の方が強い。相変わらず玄関口にぶら下がっている可能性だってある。それでも、佐藤は吉田に贈物をしたい機会を常々狙っているのだ。無闇に買い与えられる事を、決して由としない吉田だから。


 それから数日して、また突然の雨に見舞われる事となった。雨に逃げ惑う人の中、吉田は悠々と佐藤からのプレゼントを広げる。
 佐藤から貰ったこの傘は、今まで自分が持っていたものより、ずっと軽くて畳み易くて、何よりデザインが可愛い。落ちついたピンク色の中で、黒猫が上を見上げるようにちょこんと座っているイラストが一か所だけ、ついている。晴れ空を待っているようなその猫の姿は、傘を広げないと見られない。それで吉田は、天気予報関係無く、曇った空の時は持ち歩く様にしている。畳んだ時の傘はコンパクトにまとまり、鞄の中にすっと収まる事もあり。
 突然の雨に、人は皆辟易した表情を浮かべながら、雨の中を行く中、吉田だけはにこにこした顔で歩いて行く。
 そして、濡れる事無く帰宅したのだった。


「―――って……佐藤が濡れて帰って来て、どーすんの!!」
 吉田は帰宅した佐藤の姿を見るなり、思わずそう叫んでいた。
「いや、油断した……」
 ぼたぼた、とあらゆる所から水を落とす佐藤は、実に気まずそうだった。この前の立場が全く逆である。とは言え、吉田はとても佐藤を風呂場へと運んでは行けない。
 ちょっと待ってて!と吉田は玄関口で佐藤を待たせ、大急ぎでバスタオルを抱えて戻ってきた。吉田の小さい体躯だと、畳んだバスタオル3枚運ぶのに精いっぱいだ。バスタオルを置いた後は、着替えと濡れた服を入れる為の籠を持って来た。
「ごめん。ありがと」
「うん。お風呂今から沸かすからね」
 ぱたぱた、と吉田はびしょぬれの佐藤の為、忙しなく動く。何気ないこんな時、佐藤は身に包まれるような幸せを感じるのだった。とりあえず今は、触れていない衣服に身を包む必要が先だが。
 辛うじて部屋に上がれるくらいになり、佐藤は廊下を歩いた。何でも無い服が温かく感じるのは、それだけ身体が冷えているからだろう。早く風呂に入らないと、と思う。今から入れたのなら、あと10分くらいはかかるだろうか。
「寒い?」
 ソファに座る佐藤に、横に着いた吉田は気遣わしげに訊く。佐藤の手には、この季節には似合わないホットコーヒーが握られている。
「ん。まあ、着替えたから大丈夫だよ」
「……………」
 自分の身を案じてくれる吉田の髪を優しく撫で、佐藤は言う。そんな佐藤をじ、っと見上げていた吉田は――おもむろに、抱きついた。
「!!!」
 危く、カップを落としそうになる佐藤。吉田は、上着の代わり!と自分の行動を説明した。確かに、吉田の体温は温かい――いや、もう熱いくらいだ。
 たまにとんでもない事するんだからな、と佐藤は困ったように嬉しく思い、カップをテーブルに置いてその腕で抱きしめる。より密着した身体で、吉田が耳元で言った。
「今度は、佐藤に傘、買ってあげるね」
 ――今年から、雨の日がとても楽しくなりそうだ。
 他でも無い、吉田のおかげで。



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