今年最初の台風は、けれど1号ではなかった。吉田の知らない間にどこかで台風が発生していて、そして消えていたらしい。
 ともあれ、今週末の天候は日本列島に到来する台風の為、かなり荒れるという予想だ。
 それならば、大人しく家で落ちついて居たい所だが、人の事情と天気の都合は必ずしも示し合わせてくれる筈もなかった。
「母さん、数珠はどこだったかな」
「えーっと……」
 その日の夜は、ちょっとバタついていた。明日に備えての為に。数珠。そして黒ネクタイを用意してるように、葬式の準備をしている。
 つい先日。両親の仲人を務めた人が、亡くなったそうだ。最近は年賀状のやり取りくらいの繋がりだったとは言え、最後のお別れをしたいのは義理よりもむしろ人情で。
 しかし吉田と言えば、顔もろくに知らないような人物だ。悼みようが無いし、それに何より明日は金曜日で学校があるので、吉田はお留守番である。
 そして翌朝。
(う〜ん、不穏な空だ……)
 いかにも嵐が来ますよ、というような雲が空を覆っている。台風独特の、生温かい風もしてきた。
「せめて、今日中は天気が持って貰いたいね」
 吉田の横で空を見上げ、父親が呟く。
 向かう先は、決して近場ではないが、泊まり掛けで行く程の遠方でも無い。日帰り出来る距離だが、つまりは移動に数時間かかると言う事。それでも本来夕方には帰れる日程だが、それはあくまで何も障害の無い場合だ。台風となっては、閉鎖される道路とかあるかもしれない。
「あのさ、雨とか凄かったら、無理して帰ってこなくていいよ。一人を満喫してるし」
「まあ、この子ったら」
 小突く様に母親が言う。そんな風に言うが、自分の娘の台詞が身を案じての事だとは解っている。
 いってきます、と吉田は両親に揃って挨拶をした。いつもは父親が早く出てしまうので、自分を出迎えるその姿を見るのは、なんだか妙な気がして少し可笑しかった。


 雨が降り出したのは、昼前の事だ。昼休みとなれば、もう嵐かという勢いになっていた。これでは屋上にもオチケン部室にも行けないので、吉田も教室でもそもそと昼食である。と、言いたいが自分のクラスを離れて高橋のクラスにひょっこり顔を出してみた。
「とらちんー。お昼一緒にしよ」
「おー、いいぜ」
 高橋が手招きをしてくれたのを良い事に、吉田もとことこと教室内に入って行く。揃っている面子が違うだけで、同じつくりの部屋の雰囲気が違って感じる。
「なっ!なななな!吉田!!?」
 こんな強烈な過剰反応をしたのは、勿論と言うか山中である。居もしない佐藤の陰にここまで怯えるとは、憐れなヤツ、と吉田は台風の風よりさらに生ぬるい視線を山中へ送る。
「こんなに雨なんだから、警報とか出てないのかな〜」
 窓の外を見ながらオニギリを食べつつ、吉田が言う。警報が出ていれば、途中で帰れるのだが。
「……なあっ!オイ!ホントに佐藤居ないんだな!?居ないんだな!!?」
 高橋がトイレに立った隙に、山中がかなりしつこく確認を求めて来た。「見れば解るだろ」と素っ気なく返したが「見ても解らないから怖いんだろ!!」と割と真っ当な反論を食らってしまった。山中の意見は最もだった。
「佐藤は、一緒じゃないよ。今は教室で食べてるし……」
 それも、女子に囲まれて。
 最近は吉田(と、付随して秋本と牧村)でオチケン部室で昼を取っているのが多い為、女子はこのチャンスを逃さないだろう。
 女子にきゃーきゃー言われて囲まれている佐藤を見ていては、食事も美味しくなくなる。折角だから美味しく食べてあげないと、それは食べ物に対する冒涜だろうと吉田はこうして避難してきた訳だ。もぐもぐ、と咀嚼する顔が、なんだか必然のように佐藤のように眉間に皺が寄る。
「ほ、本当だな?本当だな??……もし嘘だったら、俺はお前を恨むからな……!」
「はいはい」
 山中に恨まれるくらい怖くもなんともない、と吉田は必死の形相の山中をとことんスルーしたのだった。


「うへぇ、凄い風」
 溜息をつくように、吉田は昇降口向こうの景色を見て、うんざりと呟いた。結局警報は発動してくれず、今日の授業は最後まで行われた。吉田の苦手な英語まで。
「一応、明日には日本を抜けてるらしいけど」
 その横で、佐藤が言った。
「今日は、寄り道しないでまっすぐ帰らないとな」
 佐藤がちょっと詰まらなさそうに言う。昼食もゆっくり出来なかったし、この天気では帰りに佐藤の部屋に寄っている場合でも無い。1週間の締め括りとしては、少し残念な日だろうか。
「うん。…………」
 目の前の荒れ模様を見て、吉田は両親の事を思っていた。帰宅予定時間を思えば、今は車で走行中の筈だ。携帯を見たが、今の所向こうの状況の報せは入っていない。
「吉田? 何かあるの?」
 しきりに携帯を気にしている様子に、佐藤が声を掛けた。何か不安や心配事があるのなら、手助けになりたい。自覚は無くても、吉田は昔、自分を救ってくれたのだから。
「えっ、あ、いや!」
 目に余るくらい、気にかけていたのかと思うと吉田に気恥しさが走る。
 一瞬言うかを迷ったが、隠す程でも無いと思い、佐藤に話す事にした。
「今日、母ちゃん達がちょっと遠くの葬式に出席する事になってさ……」
「えっ、泊まりか?」
 遠く、という単語で佐藤はそう連想したのだろう。
「そこまで遠くじゃないから。式を終えたら戻って来るって言ってたし」
「でも、この天気だろ?下手に帰るより、向こうで泊まりを決めてるかもしれないし。
 なあ、吉田の家、俺行こうか?」
 佐藤の申し出に、吉田はえっとなった。
「いっ……いいって!そんな、もうちっちゃな子供じゃないんだし、一人でも留守番くらい出来るってば!」
「でも………」
「根性で帰って来るかもしれないし!それにこんな天気だし、泥棒とかも外出歩いたりしないって〜」
 あはは、と殊更元気に吉田は笑って見せる。心配なんてする必要ないのだ、と説明するように。
「それじゃね!」
「あっ、吉田……」
 何か言いたげな佐藤を残し、丁度別れ道の所で、吉田は足早に駆け去った。
「………」
 佐藤は追いかけるかべきか、少し思巡して、とりあえずその場は自分も自宅に戻る道を選んだ。


 母親から、今日は向こうのホテルで泊まるという電話を受けたのは、吉田が帰宅して程ない頃だった。
 佐藤にはああ言ったが、吉田も外に出た時点で今日は帰って来ないだろうという考えの方が強かった。あんな言い方をしたのは、佐藤の誘いを円滑に断る様にしたかっただけで。
『て事で、夕食は自分で何とかしなさいよ』
「はいはい」
 吉田としても、この悪天候で「天ぷらそば1つお願いね」なんて無慈悲な事を言うつもりはない。
『一応、雨戸は閉めておいてね。あと、寝る前は戸締りと火の元をしっかり確認して、洗いものは残さないでちゃんと洗って仕舞って、あとそれから、』
「もー!解ってるってば!!」
 どこまでも続きそうな母親の注意を途中で遮り、吉田が叫ぶ。全く、自分を小学生の子供と思っているのではないだろうか。……まあ、外見に限ってはその然りなのだが。
『とにかく、ちゃんとしたもの食べなさいよ』
 そうは言われたが、吉田の献立はすっかりインスタントラーメンで決まっている。
 やれやれ、と嘆息しながら電話を終えて、まずは雨戸を閉めて回った。
 相変わらず、雨も風も酷い。終わる予兆すら見せない様子に、この中を両親が戻る事が無くて、本当に良かったと吉田はそう思った。


 何せラーメンなので、支度も後片付けも楽なものだ。普段の半分で夕食の時間を終えてしまった吉田は、文字通り手持無沙汰だ。とりあえず、ぼーっとテレビを見ている。
 雨戸越しに、暴風雨の轟音が吉田の耳にも届く。破壊音はしてこないが、それでも聞いていて気持ちの良い音でも無い。テレビをつけているのは、その対策でもあった。
 両親の泊まる所は何ともないだろうか。浸水とか、していないだろうか。
 佐藤の家も、どうなっているだろう。
(……って、大丈夫に決まってるよな)
 多少規模は大きいが、深刻な災害を齎すレベルでも無い。それに、造りとしては佐藤のマンションの方がしっかりしていそうだし。
(佐藤、何してるかな)
 もう、お姉さんも帰っていて一緒に居るのだろうか。どこに勤めているのか解らないけど、会社だって学校のように帰宅を促す事もあるそうだし。
 聞きたいけど、メールだとしてもちょっと聞きにくいのは、帰り際佐藤の折角の気遣いを無下にしてしまったからだ。この程度で騒ぐ程じゃないと自分で突っぱねた手前、その同じ理由で尋ねるのは気が引ける。それに断る時ちょっと、素っ気なさ過ぎたかもしれない。
 心配してくれたのは嬉しかったという気持ちは、相手に伝わっていないかもしれない。
「…………」
 なんとなしに、携帯を弄ってみる。弄るだけで、操作はしない。
 だというのに、吉田の携帯は音を奏で始めた。着信である。しかも、佐藤から。
 手に持っていたせいで、危く落としかけた携帯だが、何とか床への落下を堪える事は出来た。も、もしもし!とやや力の入った出方をしてしまった。
『あー、吉田。何してた?』
「何って言われても……テレビ見てた」
『そっか』
 ちょっと笑った様な佐藤の返事。平素ではない荒れた天候の中で交わす普段通りの会話だ。なんだか、ほっとする。
『それでさ、何度もしつこいって怒るかもしれないけど』
 そんな風に佐藤は前置きをして言った。
『お母さんたちって、結局帰って来た?やっぱり、気になっちゃって』
「…………」
 自分を心配してくれる佐藤を振り切るように、半ば逃げるように去ってしまった自覚が吉田にはある。それなのに、変わらず気にかけてくれていた。少し……いや、かなり嬉しい。
『………吉田?』
 沈黙の反応に、やはり怒らせたかと、佐藤の声は少し弱気だ。そんな佐藤に、吉田はふにゃりと顔を和ませる。
「……ううん。今日は帰らないって。ホテル泊まるって」
『そうかー、やっぱりな。この天気だしな』
「うん、帰って来ない方がいいよ。その方が安全だもの」
 吉田は座り直し、話し易い体勢になる。今日は教室でも帰り道でも、佐藤とゆっくり出来なかった。少々の長電話がしたい所だ。来月、代金がちょっと値が嵩張るだろうけど、何も勿体ないとも思わない。
『じゃあ、吉田は今一人なんだな』
「うん」
『解った。今からそっちに行くから』
「うん。………へっ?」
『待ってて』
「えっ、ちょっ!?さ、佐藤!?あの……っ!」
 しかし、吉田が声が出るようになった時、すでに通話は切られていた。
「………………」
 吉田は今しがた交わされた内容を、頭の中で反芻する。
 来る。誰が。佐藤が。
 何時。今から。今すぐ。
 今すぐ、佐藤が、家に来る――………
「えっ……ええええええッ!」
 叫んだ所で、時はすでに遅いのであった。


 何とか頭の中を整理させた後、吉田はまずは着替えた。
 何せ、今の服装と来たら、下は中学の時のジャージなのだ。とてもこんな恰好で出迎えられない。
 後は何をすべきだったか、と部屋の中で右往左往していたら、チャイムが鳴り響く。ビクーッ!と吉田の身体が飛び上がった。
 出れば、当然のように佐藤だった。早い。早すぎる!
「は、早かったねぇ……」
 玄関先に現れた佐藤は、レインコートを着ていた。そんな恰好でも、佐藤だと格好良く見えてしまう。
「ああ、うん。タクシーで来た」
 タクシー!?と吉田は声を上げる。
「こんな中でタクシーあったの!?」
「うん、何とか」
 と、いうのは佐藤の嘘である。本当は、施設時代に培った超人的とも言える体力を使ってここまで来たのだ。幸いこの台風で、外を出歩く人はほぼ皆無。居たとしても傘や嵐で狭まれる視界の中、目撃はされる事は無いと、佐藤は驚異的なスピードで街中を駆けたのだった。
「…………」
 本当に来たんだ、とレインコートのフード部分を上げ、より露わになった佐藤の顔を見て思う。
 例えフードを被っていたとしても、容赦なく吹きつける雨風のせいで、佐藤の髪は少し濡れている。肌に張り付く黒い髪は、何とも言えない色気を醸し出していた。ぽ〜とした顔で、吉田はなんとなく見つめてしまう。
 この雨の中、佐藤は来たのだ。自分の所まで。
 うう、と言葉に詰まって顔が赤くなる。胸がいっぱい、というのはきっとこんな気持ちを言うのだろう。
「吉田。ハンガー貸してくれる?」
 ここにレインコートをかけておきたいのだ、と佐藤は言う。その声ではっと我に返った吉田は、慌ててハンガーを探しに行った。ついでにタオルも持って行くと「ありがと」と素直な礼を貰う。なんだが、もじもじしたい気分だ。
 レインコートを脱ぎ終えた佐藤は、すぐさま吉田を抱きしめた。わっと吉田は驚いたが、振り解いたりはしなかった。
 ぽんぽん、と背中を優しく摩られる。その仕草に、知らず蓄積されていた不安が溶けるようだった。
「それじゃ、おじゃましまーす」
 佐藤は嬉々とした声を上げ、玄関に上がったのだった。


 ここが吉田の家か、と口には出さずとも、佐藤の表情はそう物語っていた。
「……そんなに見たって、面白いモンとか無いから」
 やたら嬉しそうに見渡すので、吉田からそんな台詞が零れる。
「うん。でも、吉田はここで生活してるんだな〜って」
 感慨深く佐藤は言う。ここで過ごす吉田の様子は、佐藤は知らない。初めて見るのだから、目移りしてしまっても仕方ない。
「吉田の部屋って何処?」
「こっち……って、入っちゃダメ!絶対、ダメだから!!」
「えー、なんでー」
 佐藤はむしろ、拒まれている事を愉しむように言った。そんな佐藤に気付かず、吉田はその小さな体で必死に佐藤の侵入を阻止している。
「だって、そ、掃除してないしッ!散らかってるし!」
 佐藤が来るまでは本当にあっという間で、着替えしか出来なかった。むしろ着替える事が出来て良かったというか。
 あんな自堕落な格好(中学ジャージ)を見たら、百年の恋も冷めるかもしれない。
「別にそんなの気にしないけど。怒らないし」
「そっちが良くても、こっちが気にする!」
 何が悲しくて、好きな人に漫画やその他もろもろが乱雑している部屋を見せなければならないのか。それにおそらく、見られたら最後一緒の笑いのタネにされそうだ。
 真っ赤になって拒否する吉田を、佐藤は楽しそうに笑って見せる。趣味の悪いヤツ!と憤りながらも、そんな佐藤を可愛いと思っているのも事実だった。
「こっちは、ご両親の部屋?」
「ん?うん」
 居間に向かう途中、佐藤が1つの扉を指して言う。予想できる全体間取り図から、吉田の部屋や、風呂場・キッチンなどを差し引いて考えると私室に出来るのは今指している部屋くらいなものだ。実際佐藤の予想は当たっている。
「そうか」
 その部屋については、その一言だけだった。うっかり開けてしまわない様という、自分へ促すように言ったのだろう。
 食事はすでに2人とも終えている。とりあえずウーロン茶を用意した。コップに注いで、差し出す。
「そういや、お姉さんは良いの?」
 2人暮らしの1人がこちらに来てしまっては、当然ながら1人で残される事になる。
「ああ、良いよ。吉田を1人にさせておく方が心配だし」
「もー、佐藤まで母ちゃんみたいな事言う!」
 そんなに信用ないかな……と呟く吉田に、相変わらず想われてる自覚が薄いというか、なんというか。母親はともかく、佐藤は吉田の事が特別で大事だからという意味で言っている。
 しかしそれは、お付き合いというものに免疫が無い故でもあり、それを思うとこの鈍感ぷりも愛しく思えて来る。
「ところで、俺が来てるの、親に連絡した?」
 佐藤が言うと、吉田はへっ?という感じで顔を上げる。その必要を感じていない顔だ。
「いや……誰かが来ていたのが後からバレるより、こっちから言った方がいいんじゃないかなーって。
 誰かが来た痕跡って、割と残るもんだし」
「た、確かに……」
 その危険性にようやく気付けた吉田は、顔を引き攣らせてこくこくと頷いた。特にあの母親は、絶対勘付くだろうし。
「じゃあ、ちょっとメールで……」
 言いながら携帯を開き、ぽちぽちと打って行く。何だか、普段の倍以上、打つのに時間が掛った気がする。文の長さの問題では無く。
 携帯を再びテーブルの上に置いた吉田を見て、佐藤は「送った?」と尋ねてみる。
「うん」
 頷く吉田。
「どんな風に伝えたの?」
「う、」
 今度は頷けなかった吉田だ。ちょっと迷って、でも言った。
「……高校の友達が心配して来てくれた、って……」
「……ふうん。友達、か」
 吉田にも解らせるように、佐藤はあからさまに含みを持たせた言い方をした。案の定。吉田がわたわたして話しだす。
「だ、だって!こういうの、メールでぽんって言うべきじゃないと思うし!それに台風でバタバタしてるしさ……!!」
 恋人の存在を隠したい訳ではなく、打明けるタイミングの問題だと吉田は必死に訴える。
 どうやら吉田は、きちんと自分と親を顔合わせして紹介したいらしい。
 これだから吉田は好きなのだ、と佐藤はまだあわあわしている吉田を見て、幸せに微笑んだ。


 今日の予定は、残す所入浴と就寝のみとなっていた。
 一緒にお風呂入ろう、なんていう佐藤に「ばかっ!」と言いながら先に入って貰った。
 ちょっと気がかりだったのは、着替えの事だ。日本人の平均以上の背丈の佐藤が着られる服は、この家には無い。
 しかしそこは、佐藤がちゃんと服を持って来たので何も問題は無かった。抜かりの無い男である。
 寝る場所は、居間にしてもらおう。自分の部屋には入れる訳にはいかないし、テーブルをどかせば一番広い部屋でもあるし。
 吉田は、来客用の布団をよいしょよいしょと居間まで持ち運んだ。佐藤の足が出ないといいなぁ、と思いながら敷布団を床に広げる。
「あっ。布団運ぶの手伝ったのに」
 すっかり整った寝床に、佐藤が言った。洗いたての髪が、濡れてはないがしっとりと色気を放っている。でも周りの光景は自分の家で、吉田はなんだか変にドギマギしてきた。
「布団運ぶのくらい、なんでもないって。じゃ、お風呂入って来る」
「うん、いってらっしゃい」
 佐藤に見送られて、吉田は自宅の風呂へと向かう。やっぱり変な気分、と顔を綻ばせながら。


 風呂から上がって、吉田が居間に戻ると佐藤は文庫本を手にして読んで居た。吉田の家に無いものであるから、家から持って来たのだろう。本当に用意が良い、とうっかりほれぼれとする。
「じゃ、寝るね。電気消すよー」
 電灯から伸びる紐を手に、吉田が言う。そんな吉田を、佐藤は物言いたげな視線で見ていた。
「吉田は何処で寝るの?」
「え?……自室だけど……」
「ここで一緒に寝ようよ」
「えっ、」
「だって、1人じゃ寂しいし」
 なんて言って、佐藤は人の良さそうな笑みを浮かべている。その表情を浮かべているのが佐藤だとしたら、油断ならない顔だ。
 吉田は、紐を手にしたまま固まってしまう。いや、寝床を聞かれた時点で、この展開は予想は出来ていたが。
「う、で、でも……」
「変な事はしないから」
 その台詞を信じて、何度痛い目(いや痛くはなかったんだけど)に遭った事か。じぃ、と半目でその事実を訴える。
「今日はホントだって」
 さすがの佐藤も、吉田の自室ならまだしも、家族が揃って過ごすこの場所で及んだりする無神経さは無い。まあ、どこぞの山中なら解らないが。
「う〜………」
「ヘンな事した、って思ったら布団から出て良いから」
 警戒を解かない様子の吉田に、佐藤が言った。
 変な事はつまり逃げられない状態に陥る事でもあるのだが……佐藤が懇々と言うその様子に、吉田も絆されたというか、まあ変な事ではあるが、嫌な事でも無いのだし。
「……じゃあ、布団と枕持ってくる」
「うん」
 吉田の返事に、佐藤も嬉しそうに笑う。こうやって笑う佐藤は可愛くて、それだけでも承諾した価値はあるかな、なんて思ってみる。
 まあ、実際に変な事をされないのが、一番良いのだけど。
 枕のサイズは普通なんだ、とかよく解らない事でからかわれながら、今度こそ消灯した。思えば、自分の家ながら居間で寝るのは初めてである。さっきまで寛いでいた部屋なのに、見知らぬ感じすらした。
 外は、まだ嵐の中であるようだ。佐藤と話していた時は少し忘れていたが、暴風雨の音は依然としてその勢いを落としていない。
「……外、凄いな」
 誰ともなしに、すぐ傍の佐藤に向けてでも無く、吉田が言う。
「うん。朝になればなくなってるよ」
 そして佐藤も、独り言のように言う。暗闇と轟音に包まれた中で、その声が唯一吉田を安らげた。
 佐藤は寝たかな、と明かりを消してから少し経った頃、吉田は佐藤の方を向く。見れば、佐藤もこっちを向いていた。
「吉田。こっち来てよ」
 掛け布団を捲り、空いた空間に吉田を招く。吉田の顔が、暗闇でも解る程に赤くなる。
 こうして、別の布団で居るならまだしも、一緒の布団だなんて。それこそ「変な事」をされる確率がぐっとあがる。
「何もしないから」
 躊躇する吉田の理由をきちんと解っている佐藤は、そう言う。
「……ホントに?」
「ホント、ホント」
 寝転んだまま、佐藤は頷く。その仕草がちょっと可笑しくて、吉田も警戒を解いた。
 恥ずかしくて照れ臭くて、拒んでしまう事も多いけど、本当は佐藤が望むならなんでもしてあげたい。いつだってそう思っている。
 さすがに、小さいと言ってもすでに佐藤が入っている布団の中、吉田も完全に収まるのは難しい。結局、二つの布団を繋げるようにして、ダブルベットみたいな形にした。
 すぐそばの佐藤の体温に落ちつかなくて、しばしごそごそしていた吉田だが、やがてその温かさが心地よく感じて来る。そして、うとうととしてきた。そんな吉田に気付いてか、佐藤が優しく頭を撫でる。安らかな眠りを齎すように。
 しかし吉田は、睡魔に身を任せる前に口を開いた。
「……佐藤……」
「ん?」
「来てくれて、ありがと……」
 こんな日に1人で居るのは嫌だった。安全な家の中とは言え、じわじわと自分で解消できない不安が蓄積していく感覚が、堪らなく不安だった。本当は、帰り際に佐藤が行っても良いかと尋ねた時、2つ返事で頷いてしまいたかったけども。
 でもそうやって差し出される佐藤の手ばかり縋っていたら、自分の力で立ちあがれなくなりそうで。
 佐藤の負担になりたくないし、依存もしたくない。今だって、佐藤の為に何が出来るか、そればかり考えている。
 でもそのせいで、振り解かなくていい手まで、離してしまっているのかもしれない。今日の事が、それだったのかも。
 ごく至近距離のせいで、くぐもって聴こえた吉田の声に、佐藤は優しく髪を撫でて応える。
 そして、言う。
「……吉田が来てっていうなら、どこだっていつだって行くよ」
 来て、なんて言って無い。そう反論しようと思って、止めた。実際口には出して居なかったけど、その胸の中ではずっと言っていたのだから。
 吉田がいよいよ眠りに落ちるその直前、微かに残った意識が、佐藤が動いた事を察する。布団の中で動いた佐藤は、自分の隣で眠る吉田の口に、そっと口付けた。
 何もしないって言った癖に。やっぱり何かしたじゃんか。
 現場をしっかり押さえておきながら、吉田がそう言わなかったのは、ただ眠いだけでは無かったのだった。
 唇に感じた佐藤の感触のくすぐったさに、吉田は口元を緩め、とうとう眠りについた。


「……吉田。吉田」
「うん〜……何……」
 今日は土曜日なのだ。寝坊は許された怠惰の筈だと言うのに、この促される起床はどういう事か。
「吉田。キスで起こしてあげようか?」
「ん……へっ?ふえぇぇッ!!?」
 とんでもない内容と、それを発した人物に吉田は飛び上がって起きた。見れば、すぐ横に佐藤が控えている。
 一瞬、自宅に佐藤が居る事に「!?」となった吉田だが、すぐに昨日の事を思い出す。嵐の音はさっぱり無い。佐藤の言ったように、もう通り過ぎたのだろう。
「おはよう」
「……おはよ」
 佐藤はもうすっかり起きていて、服だって寝まきでは無くて普段着だ。勿論、寝ていた吉田はパジャマのまま。
 いつから起きていたというか、起こしてくれても良かったのに……なんてぐるぐる思う吉田だった。また、佐藤は寝顔でも眺めていたのだろうし。
 佐藤は、休みの朝に起こした理由を話す。
「さっき、携帯が鳴ってたんだけど。お母さんからじゃないか?」
「えっ!うそっ!」
 鳴っていたのにちっとも気付かなかった。慌てて携帯を開いてみる。幸いに、というか着信ではなくてメールだったので、後から出なかったと煩く言われる事もないだろう。ほっと胸を撫で下ろしながら、メールを開く。
「……… ……………… ………………………………」
 文面を読み進めてく毎に、吉田の顔が非常にビミョーになっていく。すぐ横から佐藤はそれを見ていた。1人百面相の吉田は可愛い。
「帰って来るって?」
 携帯を閉じた吉田に、佐藤は尋ねる。
「うーん、その逆って言うか……良い天気になったから、デートしてから帰って来るって。まあ、晩御飯には戻るっていってるけど……」
「仲が良いな、吉田の親って」
 佐藤は小さく笑いながら言った。
「良過ぎるよ……もう……」
 いっそ溜息でも出しそうに、吉田は言う。そんな吉田が、佐藤にはちょっと羨ましかった。自分の両親は、傍目見て理想の夫婦像のように見えるけども、でも実際はお互い自分の事が第一なんじゃないだろうか、と思う時もある。資産と顔さえ一定水準を満たしていれば、今の相手でなくても良かったような。
 まあ、実際に2人の本音を確かめた事は無いし、確かめようとも思わないけど。
「じゃあ、俺らもどこか外に遊びに行こうか。良い天気だし」
 どうやら夕方までは帰って来ないみたいだし、今から時間はたっぷりある。昨日、部屋に閉じこもっていた為か、吉田は佐藤の提案に率先して賛同した。
「うん!どこに行こう!……って、まず着替えなきゃ」
 パジャマのままはしゃいでいた自分を照れるように、吉田はそう言って自室に向かう。残された佐藤は、とりあえず布団を畳む事にする。
 畳みながら、ふと思った。
 吉田の両親のこのデートは、勿論本人たちの意向だろうけど、結果として自分たちもデート出来る事になった。
 昨日、吉田が送ったメールでの身分は、決して恋人では無く、友人だったけども。
(……気付いた上での、お礼とか……)
 いや、まさか、と思いつつもその可能性もなんだか拭えない。
 いつか、この真相を知る日が来るのだろうか。もしそんな日が来たら、この家もある意味佐藤にとっての「実家」になるのだろう。
 自分達の将来が、どんなものになるのかまだ何も見通しはつかない。
 けれども、多数の道の中にはそんな明るい未来もあるのだ。出来ればそれが現実になって欲しいと、吉田の着替えを待ちながら、そんな事を思った。



<END>