おう、ヨハン、と丁度向かいからやって来たジャックに、何だか呼び止められるように名前を呼ばれた。
 何?と問いかける前に、ジャックは何故か声を潜ませて言う。
「今、リビングに行ってみろよ。面白いものが見えるぜ」
 面白いもの?とヨハンの想像中に、ジャックがセリフを続けた。
「ただし、絶対大きな物音は立てるなよ」
「? ……あ、さてはヨシダが寝てるんでしょ」
 意味不明な注釈だったが、そう考えると合点が行った。正解だろうと思った答えだったが、ジャックの笑い方を見ると良い所サンカク、と言った具合だろうか。
「まあ、行けば解るって」
 結局はそこに落ちつき、ヨハンは微妙に首を傾げながら、リビングへと向かった。


(あ〜、これは……また……)
 百聞は一見にしかずと言うが、まさにその通りだった。ヨハンは、目の前の光景に笑みを隠せなかった。
 リビングに置かれたゆったりとした座り心地のいいソファ。吉田と佐藤は並んで座っていて、寝ている方がその顔を相手の肩に預けていた。ヨハンの予想は、おおむね正しかった。ただし、その対照となる人物が違った。
 寝ているのは、佐藤だった。
 その佐藤が身を預けている吉田は、もう体中の熱が顔に集結したかのように、真っ赤だった。逃げ出したいのに、佐藤の為に身動きが出来ないという胸中がその赤さの元だろう。
 ここは今で、共同スペース。つまりは皆が集う場所で。吉田の顔の赤さは、ここを通り縋った人数に比例しているに違いなかった。
 早く部屋に引っ込みたいけど、寝ている佐藤を起こしたくないという吉田の葛藤が、手に取るように解る。
 ヨハンは、そんな吉田を労うように、頭を軽くぽんぽん、と撫でるように触り、そっとリビングを後にした。
 自室に戻る道すがら、リビングに向かう人に遭遇して、さっきのジャックを同じような事を、ヨハンはその人に言ったのだった。


 目覚めた佐藤は、自分が眠りに着くには不自然な姿勢だと解った。
 頭が乗っていたのも枕では無くて、華奢な吉田の肩だった。
 視線を上に向ければ、見事に赤い吉田の顔とばっちり合った。
「…………ああ。」
 リビングで転寝をしたいたのだという事実に思い至り、佐藤は声を挙げていた。
「ああ。じゃない!!部屋、戻るからね!!」
 起きたからにはもう遠慮しない、とばかりに吉田は声を張り上げ、勢いよく立ちあがった。間近に座る佐藤がちょっとよろめく程に。
 それでも、佐藤がちゃんとついて来るのを待っている吉田を見て、その口元を緩めて佐藤もソファから立ち上がった。


「――佐藤さ、ちゃんと寝てるの?」
 咎めたい訳ではないだろうが、吉田は部屋に戻るなり佐藤に問い詰めるように言った。吉田にはそう言えるだけの材料がある。
 ここに来てから、吉田は佐藤に起こされ、寝る前の記憶は自分を優しく見つめる佐藤の顔である。つまりは吉田が寝入ってから佐藤は眠りについている訳で、それで吉田より早く目覚めているのだから、佐藤の睡眠時間が吉田のより短い事を証明するのに、もはや計算すら要らない。
「寝てるよ、ちゃんと」
 しかし佐藤は、そんな吉田の揺さぶりに全く動じる事は無かった。
「そりゃ、吉田より短いけど、それでもいつも通りくらい寝てるって」
 本当〜?と吉田は佐藤を疑う眼差しを止めなかった。佐藤は、大事な事程隠す。
「じゃあ、なんでさっきは寝たの」
 吉田は顔を赤らめて言う。結構な人数に見られてしまったのだ。悪意あるからかいをする人達ではないと解っているが、あの恥ずかしさは堪ったもんじゃ無かった。
「別に、眠たくなるのは睡眠不足が原因とは限らないと思うけど」
 佐藤は言う。
「安心してる時とか、気が緩んでる時とかさ」
 吉田の傍はとても心地いいと告げると、またさっきのように吉田は顔を赤らめた。全く可愛いな、と内心佐藤は誰にともなく、惚気ていた。
「〜〜で、でも………」
 佐藤に早く寝るように仕向けたいのは、どうやら睡眠時間の確保の他にも理由がありそうだ。吉田の口から、続く言葉を佐藤は待った。
「その……さ、佐藤ばっかりずるいっていうか……寝顔見るの」
「…………」
 唇を尖らせ、ちょっと不機嫌気味に真っ赤な吉田は、ようやくと言った具合にそれだけを言った。つまりは、吉田も好きな人の、佐藤の寝顔を見たいと言う。
 佐藤が、無防備に自分の傍で寝てくれるその姿に、愛しさと幸せを同時に込み上げる気持ちを、吉田にも味あわせたいという気持ちは佐藤もやぶさかではない。
 とは言え佐藤は、寝たいのを無理に起きている訳では無いのが、吉田がそれを望んでいるのだから、彼女に忠実な自分の心はきっとその期待に沿えてすぐに寝付いてくれるだろう。しかし佐藤の懸念は別の所にあった。そもそも、何故吉田の方が早く寝入ってしまうかと言えば――
(……まあ、いいか)
 明日に影響するかもしれないが、その時はその時だ、と佐藤は変に腹を括った。その佐藤の前で、吉田は吉田で今日は佐藤よりも起きてるぞ!と自分に決意を込めていた。


 夜――
 吉田の手にしたカップの中。焙煎したコーヒーの芳醇な香りが立ち昇って行く。いつもはミルクが入るのでマイルドになっている香りが今日はダイレクトに鼻に着いた。
「…………」
 吉田はしばし、ミルク無しのコーヒーと向き合った後、えいっと一口を飲んだ。
(うっ!!!に、苦い………!!)
 不得手な味わいに、若干涙目になる。ミルクが恋しい。ここになみなみと注ぎ入れたい。
「……あれ、吉田。そのまま飲んでるのか?」
 闇の様に真っ黒な吉田のカップの中を覗きこみ、佐藤は言う。
「うん。だって、今日は絶対佐藤より起きてなきゃ」
 えっへん、と何故か得意げに言う吉田だった。その為に苦いコーヒーも一生懸命飲み下そうとしている吉田に、佐藤は微笑ましさを感じる。夜更かし=コーヒーという単純なのが吉田の良い所だ。
 しかし実の所、コーヒーよりも紅茶の方が多くカフェインを含んで居たりするのだが――まあ、この場でそれを言うのは野暮というものだろう。また、別の機会を狙う事にする。
 吉田がコーヒーと真剣勝負に挑んでいる傍ら、佐藤は部屋にある吉田がつまむ様の菓子が適当に詰まった籠の中に手を伸ばす。ここにある菓子は、皆が吉田へとあげた物だった。手作りしたものではなく、所謂駄菓子の類の物ばかりだが、吉田は所謂スイーツ的な甘いものが好きだが、こうした菓子類も勿論好物だった。差し出す物にもれなくとびきりの笑顔と礼で言うので、それが目当てで皆があげてるのだと佐藤には予測が着く。
 自分にはあんな顔してくれないのにな、と不貞腐れる佐藤は別にこれまで吉田へ贈った激辛チョコを忘れた訳では無かった。笑顔の吉田も勿論良いが、泣き顔も堪らないのだ。
 チョコレート、クッキー、ビスケット、キャンディ……雑多に入った中をまさぐり、佐藤は目当てのものを見つけた。そして、吉田のカップの中にころんころん、と入れてやる。
「えっ!な、何!!?」
 いきなり白いころころしたものを入れられ、これまでの経験からコーヒーに口がつけれなくなった吉田だった。抗議よりも戸惑いの色が濃い声で、佐藤を振り向く。
「マシュマロだよ」
 大慌てな吉田を面白く眺めながら、佐藤は入れたものの正体を告げる。そう言われてみれば、マシュマロにしか見えない。すでに、コーヒーの熱で原形を無くす程に解けていた。
 コーヒーにマシュマロを入れるのは、吉田のこれまでには無かった事で。しかし原料を思えばその味は酷い惨事にはならないだろう、とそっとカップを傾ける。
「!あ、美味しい」
 砂糖だけではなく、ゼラチン等も入っている為、少しとろみがついて冬の夜にはぴったりな飲み物に仕上がっていた。身体の中からぽかぽかと温まる様で、今日はよく眠れそう……って寝ている場合では無いのだ。少なくとも佐藤より先には。
 マシュマロが入って味が幾分優しくなったコーヒーを飲み干し、いよいよ就寝タイムだ。
「おやすみー」
「おやすみ、吉田……って、何でそんな所で座ってるの」
 ベッドに横になる段階になっても、吉田は傍らの椅子に腰かけ、そこから動こうとはしない。やっぱり突っ込まれたか、と吉田はやや言いにくそうにその理由を言った。
「だ、だって……一緒に横になったらすぐに寝ちゃうそうだし」
「だからって、そんな横で見張られてたら物凄く寝辛いんだけど」
 佐藤の主張が最もだと思っている吉田は、ただ困ったような顔で俯くしか無かった。
 しかし吉田も、何も嘘を言っている訳でも無い。良い香りがして温かい佐藤に抱き締められていると、その内意識がとろんとしてきて、それが布団の中だったりするともう後は眠るしかない。それに耐える自信が吉田にはさっぱり無かった。
「今日がダメでも、また挑戦すればいいだろ」
 暗に自分の部屋への寝泊まりを促していた佐藤だったが、色々いっぱいいっぱいな吉田はそこまでには考えが至らなかった。
「っていうか、俺も吉田が隣に居ないと眠れないし。吉田、俺の安眠妨害するの?」
 酷いなぁ〜と責める気の欠片も無い声で言う。おいでおいで、と誘う佐藤に、吉田も段々と絆されるようにベットへと向かう。
 もそもそ、と佐藤の横にもぐりこんでいく。暖かくて軽い羽毛より、佐藤の方が余程和む。
 部屋の中の気温はいつも快適なのだが、佐藤の隣に潜ると居心地の良さを感じるのだった。
 こたつの中の猫のように、目を細めて身体を擦り寄せる可愛い吉田に、佐藤の中ではささやかながらに重大な問題が浮上しつつあった。
 吉田が佐藤より先に寝てしまう原因は、つまり吉田の方が疲れるような事をしている訳で……この、ベットで。昨夜も、自分では届かない絶頂に身体を震わせ、荒い吐息を洩らしていた。過言してしまえば、佐藤より先に寝たいという吉田の願いは、今日はしない、と言っているようなものだった。本人にはその自覚はおそらくないだろうが。
 この小さくて無垢な身体が、自分にどれほどの快楽を齎すか、佐藤は知っている。それをこんな密着した状態で、無事に寝つけるかどうか。
(これでまた、ヤったりしたら……吉田、怒るだろうな〜)
 激しい叱咤というより、可愛くプンプンとした怒りだろうけど、好きな人の願いを叶えたいという思いは佐藤にもあった。
 どうして身体を繋げないと気が済まないんだろう、と佐藤は劣情から少しでも気を紛らわす為、そんな事を思う。
 会えない間は、顔さえ見れたらと思っていた。再会した時は、自分に振り向いてくれたら、と思っていた。欲求がエスカレートしているのが如実に解る。
 このまま、どんどん昇り詰めて行ってしまったら、どうしよう。もしかしたら、吉田を壊してしまうかもしれない。
 手加減なんて解らない。標準なんて、吉田しか好きになった事のない佐藤には、まるで見当もつかない事だった。
 自分が弱い事を知っている佐藤は、その前に気付いた吉田が自分から去っていくのを願った。


 佐藤に包みこまれる感触を、ふにゃふにゃとした笑顔で満喫していた吉田は、ふと何かを感じ取って佐藤の顔を覗きこんだ。互いに向き合う形で寝そべっているので、視線を変えるだけで良かった。
 覗きこんだ佐藤の顔を見て、吉田はぱちくりと瞬きをした。
(あっ、寝てる……)
 ちょっとの驚きの後、ある種の感動が押し寄せた。達成感に近かったかもしれない。
 間近で見た佐藤の寝顔は、何だか物を食べている時を彷彿させるような、ややしかめっ面だった。何か、良くない夢でも見てるのかな、と吉田はちょっと不安になった。佐藤の心がとても複雑であるのは、吉田が一番理解していた。
 起きちゃうかな、と心配しながら、吉田は慎重に手を伸ばして、佐藤の顔をそろそろと撫でた。触れた時、その感触で佐藤が微かに反応した気もするが、それだけで佐藤の瞼が開く事は無かった。佐藤の事だから寝た振りでもしているのかもしれないが、この寝顔が縁起とも思えない。
 吉田がその小さな手で佐藤の顔を撫でてると、眉間を寄せていたような表情がふっと和らいだ。
 安らかになった寝顔に、吉田もほっとし、その気の緩みから眠気を誘発させた吉田は、もう抗う必要のないそれに身を任せた。この時になって吉田が気付いたのは、佐藤より先に寝てしまうと、佐藤に見守られるように寝入るあの感覚が無いという事。
 佐藤の寝顔は勿論見たいけど、あの感覚も捨てがたい、と答えの出ない選択を抱え、吉田もまた夢の世界に潜って行った。
 閉じた瞼の裏に、佐藤の寝顔を見続けながら。



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*次で施設来訪編(?)締めます〜 長かったな;;