酢飯を入れている、大きな桶みたいな容れ物はなんて言うんだったかな、と吉田はちょっと思った。そんな吉田の目の前には、まさにその実物がある。芳醇な酢の香りを漂わす酢飯は、つやつやと表面が輝いている。
 今日のメニューは手巻き寿司だった。ここに来てから、海外の食事ばかりが続いたから、調理側が気遣ったのもあるし、純粋に作りたかった方が多いだろうか。
 滞在している所の国の料理を作ってみたいと思うものなのだろう。何せ材料は全て揃う。
「寿司を食べるのも久しぶりだなー」
「えっ、そうなの?」
 吉田の何気ない呟きに、驚いたように反応したのはヨハンだった。その態度の理由が解った吉田は、笑いながら言う。
「そりゃ、日本人だからっていつもお寿司食べてる訳じゃないよ」
 吉田は実際に出会った事は無いが、未だに日本に忍者が居ると思っている外国人も居るらしい。まあ、他国へのイメージなんてそんなものかもしれない。吉田だって、平均的なイギリス人の生活なんて、何も知らないし。
「これが海苔でね、ご飯をこうやって乗せて――……」
 ヨハンに教えながら、吉田は自分の手巻き寿司も作っていく。ヨハンは海苔がとても珍しく見えるらしく、何度もまじまじと見つめていた。母国語なので吉田は理解出来ないが、周囲の呟きは「これが本当に食べ物なのか?」というニュアンスで満ち溢れている。
「で、これが完成!」
 多少不格好ながらも、吉田はなんとか作りあげた。教えた側のヨハンの方が上手に作りあげて居るのは、ちょっと凹んだけども。
「ふーん、ブリドーみたいなんだね」
「ブリドー?」
 今度は吉田が未知なる料理に首を傾げる番だった。
「吉田……お前、そんな酢飯ばかり詰めたら、すぐに腹が膨れるぞ」
 そこに口を挟むように、佐藤がやって来た。煩いなー、と痛い指摘をされた吉田が、顔を赤らめながら言い返す。薄く均等に酢飯を敷き詰めるという作業が、吉田はちょっと苦手だった。
「ほら」
 と、言って佐藤は店前のショーケースに並ぶ食品サンプルのように綺麗に作られた手巻き寿司を、吉田に差し出す。何気に、吉田の好きなものばかりが巻かれていた。
「あ、ありがと」
 意地悪したかと思えば親切なんだもんな、と愚痴を零すようでいて、嬉しさに頬を染める。
「吉田も俺の作ってよ」
 佐藤が早速対価を強請った。佐藤から貰った寿司に齧り付きながら、吉田は戸惑う。
「だって、上手に巻けないし……」
「いいよ。どうせ食べれば形崩れるんだし」
「そ、そうだけどー」
 ちょっと困ったような吉田を見る佐藤は、本当に幸せそうだ。
 これは邪魔をしたら刺さられるな、と思ったヨハンは、そっと2人から離れたのだった。


 しかし、そのまま吉田に佐藤がべったり纏わりつくのだろう、というヨハンの予想は外れる事となった。メインを手巻き寿司として、サブメニューも全て日本食で整えた為か、いつも以上に皆が吉田に話しかけて居るように見えた。使われている食材に対して、意見を求めていると言った方がいいのかもしれない。
 吉田も、自分が皆に教えられることがあって、とても楽しそうだ。
 で、その反面、楽しくない人が居る訳で。
「………………」
 その不穏な気配をいち早く感じ取ったのは、ヨハンだった。さすがに逃げ隠れが得意なだけあり、そういう気配には敏感のようだ。ヨハンはひと目見て、「あ、これはヤバイ」と冷や汗をたらした。不穏な空気の発信源――佐藤に対して。
 ヨハンが見た時、ぽつん、と佇んていたような佐藤は、やおら動き出した。そして、何をするかと思えば手巻き寿司を作っている。
 そこまではいいのだが、そこに入れられた食材――いや、調味料の方が近いかもしれない「ソレ」は、確か吉田が嫌いだと言っていたような――ヨハンは、記憶を掘り起こしてみる。「ソレ」がどういうものであったか。何故吉田が顔を顰めて説明して居たか。
 ヨハンが確証を得る前、佐藤はその手巻き寿司を、吉田へと差し出していた。とびきりの笑顔と共に。
「ほら、吉田v」
「ん? ああ、ありがと!」
 話しこむのに夢中だった吉田も、佐藤の指し出した手巻き寿司にはすぐに気付いた。にっこり笑って、受け取る。
 と、その時。ヨハンが問題となった「ソレ」の味や効能を思い出した。佐藤が入れて居た量を鑑みて、これは大変だ!と人知れず慌てる。止めようと思ったその時、まさに吉田は思いっきり頬張っていた。ジーザス!とヨハンは胸中で嘆く。
「あっ、ツナマヨだ………、……………――――――ッッ!!!!」
 にこにこと咀嚼していた吉田の目が、極限まで見開かれる。
 そして次の瞬間、吉田は声の限り叫んでいた。
「かっかっ……辛いぃぃぃぃぃ―――――ッッ!!!!!」
 ワサビは辛いから苦手。渾身の叫び声を聞いて、そう自分に言った吉田の姿が、ヨハンの脳裏に過ぎった。



「う〜、鼻がまだ変……」
 佐藤のばかー、と、ぐすっ、と啜って吉田は恨めしげに佐藤に言う。仕込まれていた大量なワサビのおかげで、食事を終え、部屋に戻った今も息をするだけでも鼻の奥がツーンとしている。
 急に叫び出した吉田に周りはぎょっとなったが、佐藤の一部始終を見て居たヨハンはすぐに吉田の為に水を差しだした。
 辛い辛いと喚きながら涙をボロボロと流す吉田を見て、佐藤はいっそ満足そうだったが、それに激昂したのはヨハンだった。
 吉田が泣いているのは勿論ワサビのせいなのだが、ワサビにそんな強烈な作用があると知らないヨハンは、吉田の号泣がそのまま彼女の嘆きだと勘違いしたのだ。その様子を見て、慌てて吉田がワサビについての説明を施す。こんな事で佐藤とヨハンが仲たがいされたら、堪ったものではない。
 身振り手振りも交えた吉田のワサビについての説明を聞き、ヨハンは自分の思い違いに顔を赤らめたが、そこはまた、吉田が「心配してくれてありがとね」と感謝を述べた事で場は収まった。
「ホントにもう、何て事するんだよ」
 ややこしい捩れが起きる事だけは避けられたが、そもそもそんな場面に追い込んだのは佐藤だ。さっきの一連を思い返して、吉田はソファに座る目の前の佐藤をじろりと睨む。現在、佐藤との間にとっている距離が吉田の不機嫌さを表していた。
 佐藤もまた、ちょっと眉間に皺を寄せている。吉田が言い表す所の「変な顔」というヤツだ。抱いた感情がそのまま表に現れている無防備な様子。
 こんな状況でも、佐藤のそんな顔を吉田は可愛いと思ってしまう。
「だって、吉田だって悪いんじゃないか。俺が寂しがり屋だって知ってるくせに」
 佐藤がちょっと、チクリと刺すように言うと、吉田も何だか気まずい。佐藤を置いて皆とのおしゃべりに夢中になっていた自覚はあるのだ。
「そ、そりゃ、ちょっとは悪いとは思ったけど〜」
 吉田はちょっと唇をとがらせながら言う。
「何て言うかさ。ほら、ウチは他に兄弟も居ないし、父ちゃんも出張多いから、母ちゃんと2人きりの食事の方が多くてさ。
 こんな大勢と一緒に食事なんて、そんなに滅多にある事でもないから」
 ぽつぽつ、と話す吉田。
 自分が家族との食卓にあまり良い思い出らしきものが無いからか、佐藤にはその発想が無かった。意表を突かれたように、軽く目を見開いて吉田の言葉を佐藤は聞く。
「だから、ちょっと舞い上がってたっていうか、はしゃいでたっていうか……
 ……それで佐藤にヤな思いさせてたんなら、ごめん」
 実質的被害を被ったというのに、素直に頭を下げられる吉田を、佐藤はちょっと尊敬もしている。精神的に未熟なのは自分なのだと、思い知らされる。
「嫌だとかじゃなくて、たださ。あれじゃ俺より皆の方優先してるみたいに見えるのが嫌だ」
「だからって、あんなの食べさせる事は無いと思う!」
 あんな強行策に出る前に、何段階ものもっと穏やかな方法はあったと思う。その筈だ。
「大体さ、佐藤のおかげで皆と知り合えたんだから、どっちが優先とか言う問題じゃないだろうに」
「まあ、そうなんだけどな」
 吉田の言葉に、佐藤はちょっと嬉しそうに返事した。
 吉田さえいればいい、という閉鎖的な考えの自分は、吉田の可能性を狭めてしまうのではないかと佐藤は常に危惧している。でも、皆を紹介出来て、吉田の世界が広まったというのなら、こんなに嬉しい事は無い。
 佐藤が何だか嬉しげなのが、吉田も解り、急に機嫌が直ったような佐藤を怪訝に思ってか、警戒して開けていた距離を知らず詰めていた。これを逃がす佐藤では無い。すかさず、腕を伸ばして吉田の手を取った。そして、自分の身体に抱きこむ。
 急に抱き締められたものだから、吉田のバランスはあっさり崩れたが、自力での支えの無くなった身体は佐藤が支える事となる。
 ちょん、とソファに座る佐藤の足の上に横抱きになる感じで吉田は収まった。この姿勢はなんだか小さい子にするように感じられて、吉田にとってあまりいいものではないのだが、佐藤は吉田と密着が出来てかつ顔が見易い姿勢としてお気に入りだった。抱き締めるとなると、どうしても顔が見れなくなってしまうから。
 吉田の頭に頬を乗せるように擦りよる。動物が懐く様な仕草に、吉田も顔をちょっと綻ばす。吉田の微笑を、佐藤は空気の流れで感じ取った。
 横抱きのこの姿勢は、キスがし易いのも利点だ。頬で吉田の髪の感触を楽しんでいた佐藤だが、やや名残り惜しげに顔を起こし、今度は熱くて蕩けるような口内を堪能すべく、口付けしようと思ったのだが――
「あ。ま、待っ、て!」
 ぱふり、と吉田の可愛い掌で、顔の進行を止められてしまう。その力は佐藤似とってあまりに微細なのだが、拒否しているというその姿勢が物理的な抑制よりも遥かに効くのだ。
「い、今はダメ!もうちょっと待って!」
「……なんで」
 明らかに不貞腐れた低い声。しかし、屈する吉田では無い。
「だって、まだワサビが残ってる気がするんだもん!ヤだよ、ワサビ味のキスなんて!!」
 確かにそれはロマンチックの欠片も無い。佐藤も、吉田がしたがらない気持ちは解るが……
(……自業自得っていうんだな、こういうの)
 自分がしでかした事の報いは、きちんと回って来るように出来ているらしい。しかし、もっと別な方法をとればよかった、と思う辺り、佐藤も大概懲りない性格だった。関係が破綻しないのは、吉田の度量が大きいからだろう。
「なぁ、佐藤」
 吉田が言う。
「また皆の所戻ろうよ。そこでなんやかやしてたら、ワサビも取れるだろうし」
 そう言って、腕を引く様な仕草はとっても可愛いのだが。
「折角2人きりになれたのに」
 佐藤はやや不貞腐れて言った。正直、この場で吉田と2人きりになるのは骨なのだ。今は、ワサビにやれたれた口の中を休ませる為に、こうして部屋に引っ込めたのだけども。
 ワサビが気にならなくなるまで、この場に居ても構わないじゃないか、と佐藤はそう訴える。
 しかし、吉田にはそうもいかない事情があった。
「……いや、だから……」
 吉田は顔を赤らめながら言う。
「2人きりだと……その、やっぱり……う〜……
 し、したくなるから………」
 キスが、と最後は殆ど消え入りそうな小声で吉田は言った。
 うぅ、と最後に呻いて顔を伏せてしまうと、額にチュっという軽い感触。突然のそれに驚いたように顔上げれば、満面の喜色を浮かべた佐藤の顔があった。より一層、赤くなる吉田の顔。
「あ〜、やっぱり俺の吉田は可愛いなv」
「……なんか悔しい」
 吉田がせめてもの意地で言ってみるが、そんな言葉すら佐藤の耳には甘く擽ったい。
 自分が吉田にとっての特別を噛み締めながら、皆の集う広間へと向かったのだった。



<END>