艶子からクリスマス……というか、冬休みをあの屋敷で過ごす提案をされた時点では、佐藤の感情に大して起伏は起こらない。これに吉田という要素が加わってこなければ。
 携帯の電波が届かないのは前回の事で実感よりも痛感している吉田が、この誘いに来てくれるか、佐藤には若干の不安があった。一切では無いにしても、主たる連絡手段が使えなくなるのだから。佐藤のように建前や処世術ではなく、休日に一緒に遊ぶ友達が居る身として、それは如何なものだろうか、と。
 しかし佐藤の後ろ向きな懸念を払拭するように、佐藤伝手でその誘いを聞いた吉田は、顔を輝かせて行きたい!と宣言した。何せ前回は3日という期間で、互いの自己紹介で日程を消化してしまったようなものだ。親交や交流はむしろこれから始まると、吉田もそんな事を思ったのかもしれない。
 一応、携帯が使えない件は言っておいた。どうせ現地でバレる事だ。ここで隠しておいても、意味が無いし、帰りたいと泣かれても困る。かなり困る。
 しかしこれも吉田はあっけらかんと、事前に言っておけばいいよ、の一言だった。まあ、完全に通信手段が途絶えているという訳でも無いので、佐藤の不安の方がむしろ過剰かもしれない。
 でも、もし。自分が連れて行く立場では無く、置いて行かれる立場だったら、吉田と連絡つかない日が続くだなんて、考えるだけでも憂鬱だ。そんな風に考えてしまい、つい気にしてしまう佐藤なのだ。
「皆はいつまで居るの?」
 吉田のこの質問は、つまりは自分たちもどれくらいの滞在になるのか、という点を尋ねて居るものだ。
「あいつらは、まあ、俺達が居る内は絶対帰らないだろうからな」
 むしろ自分たちを連れて戻りかねない勢いだ。今はまだ学校があるから相手も自重するだろうが、それが無くなる頃……卒業後の春休みは要注意だな、と佐藤は今から気を引き締める。
 帰って次の日からいきなり学校はキツいだろうと、余裕を持たせて休みの終わる2日前に戻る事にした。ざっと10日ばかり居る事になる。
 これくらい一緒に過ごせば、当分はいきなり押し掛けるような真似もしないだろう。……多分。
「それで、何持って行けばいいのかなー」
 次なる吉田の疑問は持ち物だった。今度の訪問は吉田のこれまでの人生としては長期滞在とも呼べる日にちだ。準備する物の漠然としたイメージすら、よく掴めない。
「とりあえず、着替えで言うなら3,4着もあれば十分だと思うよ。向こうで洗濯出来るからな」
 荷物量としては、ごく普通の、2泊3日くらいの旅行する時の用意で事足りると思われる。それに、吉田が気にって居る艶子と他の連中だから、吉田が「無い」と言って不便にしている所を見ればすぐにでも差し出してくれる気がする。いや、間違いなくする。自分だってするし。
「後はまぁ……適当に自分に必要だと思った物でも持って行けば」
 目的地は山奥みたいなキャンプ場でもないのだし、生活必需品的なものはあまり持って行く必要はないと思う。それこそ、嗜好品だけで。
 佐藤の説明に、吉田は「そっかぁ」と頷いた。そして、言う。
「じゃあ、お菓子いっぱい持って行こうvv」
「……………」
 遠足じゃないから金額なんて気にしないぞ!と意気込む吉田を間近に見て、その可愛さに堪らなくなった佐藤が吉田を押し倒すのに、3秒程しかかからなかった。


 しかしながら、そうして持ち込まれたバックに一杯のお菓子だったが、吉田が甘いもの好きと知った面々が、美味しいケーキを焼きあげたりしてくれたので、吉田がそれを開ける必要は無かった。
 なら、そのまま持ち帰る羽目になるのかと言えばそうでもなくて。
「あー、美味いなぁ〜。ジャガリコ、あっちでも売ってくれないかな」
「きのこの山の方が好きだな、俺は」
「たけのこの里だっていいぞ」
 等と、物珍しさと好奇心で施設の皆の口に放り込まれていった。国の差はあれど、やっぱり美味しい物は美味しい。ただ、惜しむらくはサイズが小さい事だろうか。もっと食べたいと皆が口々に言っている。
 自分が持ち込んだ菓子が順調に食べられている中で、吉田は出来たてのフォンダンショコラを、中のチョコレートのように表情を蕩けさせて堪能していた。一緒に添えられたストロベリーアイスの冷たさと甘酸っぱさが、フォンダンショコラの熱さと濃厚さをより引き立てている。
「美味しかったーv ごちそうさま」
 それをぺろりと平らげた吉田は、空になった皿とフォークをシンクへと持って行く。そして、自分で洗う。
「あっ。置いといてくれたら、やるのに」
「いいよ、これくらい。後片付けくらいしないとさ」
 ここに来てからずっと、美味しいものをごちそうになっている。片付けくらいしないと、バチが当たりそうな程だ。母親の顔が思い浮かぶ。
 料理を作る主なメンバーは固定されている。彼らは昼間の内から夜の仕込みをし、キッチンでその日の大半を過ごしているように思える。大変じゃないのかな、と魚を捌いている手元を眺める。外国人には馴染みの無さそうな魚の三枚おろしを、とても綺麗にこなしていた。思わず、感嘆のため息を吐く吉田。
「凄いなー。まるでプロみたい」
 吉田が素直な讃辞を言うと、「いやぁ、趣味の一環だよ」とやや照れくさそうに言う。
「よく皆からも大変だなとか言われるけどさ。まあ、大変じゃないとも言えないけど、好きでやってる事だからね。苦にならないというか……
 ヨシダだって、佐藤が好きだから付き合ってるんだろ?それと同じだよ」
「そ、そーゆーのとは違うと思うけど」
 吉田はややドキマギしつつ答える。付き合ってるという認識が、未だ慣れないのだ。特に、他人から言われる事に対して。
「いやー、ヨシダは凄いよ?なにせあの隆彦の恋人だもの。
 隆彦の事は嫌いじゃないし、勿論良い友達だと思うけど、恋愛で付き合うとしたら物凄く苦労するのが目に見えるタイプじゃない?隆彦ってさ」
「…………まあ、違わないけど」
 さすがかつて生活を共にしていただけあり、指摘が鋭いと言うか、遠慮が無いと言うか。
 そう言えば、と吉田は今思った訳じゃないが、思い出したタイミングだったのでついでのように訊いてみた。
「皆って、人の名前は下の方で呼ぶよね。佐藤なら隆彦って」
 しかし、吉田は何故か全員からヨシダと呼ばれている。下の名前では無いのだ。
 疎外されているなんてちっとも思ってないが、微妙に気になっていたのだ。
 何気ない吉田の問いかけに、しかし相手は「ああ!」と何故か嬉しそうだ。よくぞ聞いてくれたとでも言いたげに。
「それはね――隆彦がまだヨシダの事、名前で呼んでないからさ」
 さも重要な事のように吉田へと告げる。
「それを差し置いて先に呼ぼうものならどんな目に遭わされるか、解ったもんじゃないって皆で日本に来る前に決めてたんだ。ヨシダの事は名前で呼ばないぞって」
「………そ、そうなんだ」
 若干訊いたのを後悔しそうな真実だった。まあ、真実なんて大概知らなければ良かったと思う様な事ばかりだが。
 あっ、そうだ、とそんな吉田の前で、何しかしら閃いたような声を上げる。
「ヨシダがまず隆彦って呼んであげればいいよ。そしたら、佐藤もヨシダを名前で呼ぶよ、きっと」
 そう言われてみて、吉田はちょっと想像してみた。隆彦、と呼ぶ自分の姿。
「………。…………。む、無理―――!!!呼べない!何か恥ずかしい!!!!」
「そう?でも、隆彦絶対喜ぶと思うけどなー」
「もう、今の呼び方で慣れちゃってるから!急に変えると何て言うか、変な感じがするっていうか……」
 決して嫌という訳ではないが、はっきりとした区切りをつけるのがちょっと怖い様な所もある。それまでの自分が無くなってしまうようで。
 特別な関係となった後でも、佐藤が苗字で呼ぶのは、そんな吉田の事を慮ったからなのかもしれない。それなら、吉田の出方次第ですぐにでも佐藤は名前の方で呼ぶだろうが。
 呼び方を変えるタイミングって、いつなのかな、と吉田は思う。自分の過去の事例を取ってみても、「吉田」と「高橋」が「ヨシヨシ」と「とらちん」に変わった端境期が鮮明では無い。なんとなく、いつの間にかそうなっていたのだ。
 だから、佐藤の場合でもそうなるのかな。吉田はぼんやりと考えた。
 と、その時。
「おーい、オーブン空いてるかー?」
 それなら使わせてくれー、と不躾な声がキッチンに舞い込んで来た。こんな突然の登場をするのは、ジャックだった。肩に、小麦粉の袋を担いでいる。実に軽々と。
 いいよ、という返事と同じくして、ジャックは室内に足を踏み入れていた。
「へー。ジャック、料理出来たんだ」
 感心したように吉田が呟きと視線を受けながら、ジャックは袋をどさりと台の上に置く。
「まあ、スコーンくらいならな。たまには、自分の作ったの食べてみようかなーって思ってな。
 吉田も一緒に作るか?凄い簡単だぞ」
 何せ俺が作れるくらいだからな、と自分を物証にして誘うジャックだった。
「ふーん。面白そうだなー。うん、やってみたい」
 そうこなくっちゃ、と誘いに乗って来た吉田を笑顔で歓迎する。
 粉しか持って来なかったジャックだが、他の物はすべてこのキッチン内にある。ジャックが吉田と話している間、すっかり用意されてしまっていた。まあ、そんなに特別な材料が居る訳でもない。
 揃えたれた材料を見て、牛乳が入る事に吉田はちょっと意外に思えた。でも、あの優しい口当たりは牛乳のおかげなのだろうと思える。
「作り方――と言っても、混ぜるだけなんだけどな。これとこれ入れて、そして捏ねる」
 生地のようになってきた所で、型を取り、オーブンへ。ジャックの言った通り、確かにとても簡単だった。逆にちょっと不安になる程だったが、例によって夜の仕込みが隣でなされている。問題があれば指摘してくれるだろうから、無かったと言う事はこのままで良いのだろう。
 オーブンの中でスコーンが焼き上がりつつある。生地の放つ良い香りが吉田の鼻を擽った。
「作る時にコツなんて、俺は無いと思ってる。でも、食べる時は温める事を断然オススメしておくね。
 冷えたスコーンは、正直あまり美味しいとは思えないからな」
 食べれない事は無いんだけどな、とジャックは付け加えた。
 ジャックとそのままキッチンで談笑していると、程なくスコーンが焼き上がる時間になった。
 出来たスコーンはちゃんと形になっていて、吉田はちょっと感動した。
「そういや、隆彦はどうしたんだ?」
 まるで吉田の背後霊……とは言いすぎかもしれないが、べったりくっついている佐藤の姿が今は無い。どうりで平穏な訳だ、と失礼な事を思うジャックだった。
「部屋で本読んでる。ここまで来て部屋に居る事無いのにな〜」
 なんていう吉田だが、佐藤が自分の思うように過ごしているのが嬉しいのか、顔は笑っている。学校の佐藤は、女子の行動を念頭に入れて過ごしているから。勿論、そうする必要は十分にあるのだが。
「まあ、それならヨシダもヨシダで気ままにしてればいいさ。
 とりあえず、スコーンでも食べるか」
 勿論、と吉田はテーブルについた。丁度その時、タイミング良くポットが差しだされる。ふと見れば、今まで支度していたのを、ちょっと休憩、と言って吉田達と同じように席に座ろうとして居た。
 ――佐藤が居ないこの状態なら、佐藤の目を盗んで彼の過去を聞き出す事は出来るかもしれない。でも、吉田はそうしようとは思わなかった。それは佐藤本人から聞き出すべき事だし、それにジャック達の事ももっと知りたい。
 温かいスコーンと熱い紅茶を携えて、他愛ない会話はとても楽しい時間になった。


 読み上げるのに、想像よりちょっと時間が掛ってしまった。思ったより進んで居た時計の針に、佐藤は見て思う。
 佐藤が見た最後の吉田は、広間の方に行って来るねー、と言いながらドアの向こうに消えた所。もし屋敷を出るのなら、その時も自分に告げてから行くだろうから、外には行って無いとは思う。
 吉田の最後の言葉を頼って、広間の方に行く。テレビの前ではまた数人がゲームにのめり込んでいた。それを一望出来る位置にあるソファに座り、からかい混じりながらジャックがスコーンを頬張っていた。
 こういう時、まっさきに外に遊びに出っぱなしになるだろうと思っていたジャックだが、屋敷滞在組で居る方が多かった。ジャックの目的が吉田を構う事にあるのは、想像も推理も要らなかった。おかげでジャックへの突っ込みが厳しくなっている自覚はあるが、相手も承知の上だろうと解るので敢えてその態度はほっといた。
「おー、隆彦。本はもう良いのか?」
 そのセリフで、ジャックが吉田と会った事を知る。
「悪い恋人だなー。ヨシダより本を取るなんて!」
 なんて酷い!と芝居掛った風に嘆くジャックはほっといて、佐藤は広間をざっと見渡した。吉田の姿は、無い。
「スコーン食うか?」
 吉田は何処に居るという問いかけの前に、ジャックはそう言った。スコーンの乗った皿を差し出しつつ。3つが乗っていたが、皿の大きさを考えると初めはもっと乗っていたのだと思う。
「いや、要らない。それより……」
「これ、ヨシダと作ったんだぜ」
「……………」
 無言でスコーンを1つ手に取る佐藤を見て、ジャックは遠慮なくプーッ!と噴出した。解りやすい、と言わんばかりに。
「美味いだろ。愛情たっぷりだからな」
「その口から言うとジャックの愛情が籠ってるみたいだから、止めろ」
「うっわー。酷ぇの!っていうか隆彦。ヨシダともそんな顔して食ってるのか?」
 相変わらずもげもげ食べて居る佐藤を見て、ジャックの指摘が入る。
「もっと笑えって言ってるだろー?ヨシダに嫌われるなよ。お前にはあの子しか居ないんだからな」
「余計な御世話だよ。吉田はな、こんな俺の顔も可愛いって言ってくれてるんだからな」
 そんな事は解りきっている、というセリフの代わりに佐藤は言ってやる。
 実際に吉田の口から可愛いという単語は聴かないが、毎度楽しげに揶揄するというのはそういう事なのだろう。好きな子をからかいたいという気持ちは、どうやら誰にでも宿るみたいだ。
 佐藤の返事に、ジャックは目を丸くして「さすが天使……心が広すぎる」としきりに感嘆していた。自分のセリフを疑わないんだな、と佐藤は思ったが、あえて尋ねる事はしなかった。そう言えばジャックは、だって友達だろ、というに決まっているだろうし。
「……で、吉田は?」
 若干の周り道をしながら、佐藤は尋ねる。ああ、とジャックは手についたスコーンのカスを舐め取りながら言う。
「艶子と風呂に行ったよ」
 思わぬ相手と思わぬ場所に行ったものだ。意表を突かれた佐藤は、ちょっと目を丸くする。
「艶子の部屋の風呂は特に凝った造りだからなー。そう言って誘って行った。
 外の景色が見えるような感じになっていて……えーと、そういう風呂なんて言うんだっけ?」
 露天風呂、と佐藤は短く正解を言う。
「そうそう、そんな感じになってるからって。明るい内から入っても楽しいからって」
 それにしても日本人って風呂好きだな、とジャックは誰ともなく言った。
 そして、続ける。
「冗談で俺も入るー、とか言おうと思ったけど、思った所で艶子から笑顔で見られたから、言うのは止めておいた」
「そうだな。実際入ろうものなら今頃外の海にお前は浮かんでいるだろう」
「だから冗談だって!!俺をそんな目で見るなよ!!!!」
 明らかな殺意を目の当たりにして、ジャックは焦った。
 しかし、風呂か。佐藤は胸中で呟く。吉田だけなら押し掛けるけども、艶子が一緒となると話しはまた別だ。
 この時間こそ読書に割り当てるべきだったな、と部屋に戻るのも面倒で、佐藤も空いている席に適当に落ちついた。と、その佐藤の耳の端に引っ掛かる会話があった。
「……だから、ヨシダは絶対そうだってば!」
 ヨシダ、の一言を聴き逃す佐藤ではない。しかしここには仲間しか居ないから、校内の時の様な俊敏で機敏な反応はしなかった。ここには、自分から吉田を奪おうとする者は居ない。
 ゆるゆると顔を会話の聴こえた方に向ける。吉田の名を口にしたのはヨハンだった。何かの議題で(それも吉田に纏わる事で)2対1の劣勢に合いながらも、懸命に自分の意見を主張していた。他人の会話に口を挟む野暮ではないが、吉田が絡む事なら乗りこんでみるべきだろう。自分に聴かれたくないような事なら、そもそもこんな人の集まる場所でしないだろうし。
「吉田がなんだって?」
「あっ!隆彦、良い所に!」
 ヨハンの口ぶりは、味方を見つけたような、公正なジャッジを下せる人物を見つけた喜びに溢れて居た。これだけでは、いまいち状況がまだ掴みきれない。これまでの会話の詳細を言ったのは、ヨハンではなかった。
「なぁ、隆彦。ヨハンがさっきから言うんだけどさ。ヨシダって、いわゆるお姉さんタイプなのか?」
 今までの流れを知らない佐藤から見れば、全くの唐突だった。答える前に、は?と戸惑ってしまう。
 佐藤が理解できるように、ヨハンがさらに詳しく言う。
「あのね、今までやってたゲームで、最初の設定では知らされて無かったキャラが実は兄弟だった、みたいな場面があって。
 それで僕が、この中で兄弟の順序つけるなら、ヨシダは姉になるね、っていうのを言って……」
「そんな訳ないってー。あんなにちっさいのに」
「だから、見た目の問題じゃないって言ってるだろ!」
 ヨハンが途中挟まれた反論に食い付いた。なるほど、とこれで佐藤も話しの流れが掴めた。さっきのヨハンの態度も。ここで吉田を一番知っているのは、自分だからだ。
「……そうだな。どっちかというと、姉っぽいかな、吉田は」
 佐藤が言う。これで数の上では同等になったのだが、佐藤の一票は他のと違う。実質、結論のようなものだ。
 意外な顔をする2人の前で、ほらね!とヨハンは得意そうだった。
「マジか?」
「ヨハンと何か取引でもしてるんじゃないか」
「そんな事、してないって!」
 相手もジョークで言ったと解るから、ヨハンも笑いながら言い返した。
「うん、まあ、吉田、あれでいて頼られる事が多いし、話の場でも聞き手側になる事が多いしな」
 言いながら、佐藤は頭の中で吉田を思い返す。
 小学校の時はむしろ兄貴肌であったし、高校になってもその気質はまだ健在のようで、高橋の相談に乗っているし、牧村の身の無い恋愛話にも付き合ってやっている。
 目に見えて頼れるタイプではないが、ほとほと困り果てた時、ぽっと浮かぶような人物なのだ。吉田は。
 一般基準で兄姉に抱くイメージが頼りになる事というなら、吉田はそっちになるのだろう。最も、全ての兄姉が頼れる存在という訳でも無いというのは、他でも無い佐藤がよく知っている事だが。
 最初の佐藤の言葉だけではまだ半信半疑だったような2人だが、そういう校内での様子を聞くと、段々と納得してきたようだ。
 吉田の元々の性格もあるだろうが、この先吉田に血縁的な新たな家族が出来るとして、それは弟妹しかあり得ないのだ。一人っ子と言えど、姉になる素質が備わっているのかもな、というのを、佐藤は何となく思った。
「……まあ、確かに隆彦と付き合うくらいなら、それくらいの度量が無いと出来ないんだろうな」
「良かったなぁ、隆彦。良い子が見つかって」
「……煩いな」
 本気で心配してくれていたと解るからこそ、ぶっきらぼうに言うしかない佐藤だった。それでもちょっと突っ込みたいのは、見つかったというより、見つけたというか、傍に居たのを気付けたのだと思う。
「それに、隆彦って甘えたい方だろうから、ホントにお似合いだよね」
 とどめのようにヨハンが言った。佐藤は、あえて否定を言わない程度に留めておいた。
「ところで、ヨシダはどうしたんだ?」
 佐藤の傍には吉田……むしろ吉田の傍には佐藤、という認識がすでに皆のデフォルトだった。始終くっついている訳でもないが、やっぱり2人は一緒だというイメージが買ってしまう。
 佐藤は少し苦笑して、さっきジャックから訊いた事を伝える。
「艶子と風呂、だってさ」
 あ、確かそんな話してたような気がする……とヨハンは思い出すように言った。
「それなら、隆彦。一緒に入ればいいのに」
「ばーか。そんな事したら、艶子に半殺しにされるよ」
 そのセリフは、艶子が居なければ一緒に入ると普通に言っている内容だが、誰もそこに突っ込むような事はしなかった。今更だし。
 佐藤がこの場に留まっているのは、勿論艶子の報復が恐ろしいというものあるが、それ以上に思うのは吉田の事。
 女子に優しい態度を取ったら、すぐに苦言する様な吉田だが、実は多くの事を言わずに抱え込んでしまっている。佐藤がモテるのは仕方ないからと、妬いたら悪いと思わず本音を零してしまった吉田に、愛しさを募らせると同時にそんな思いをさせてしまっていたのか、と胸の軋む罪悪も抱いた。
 艶子はこの中で以前からの顔見知りだし、堪えながらも妬いてしまう吉田の状況を目の当たりにもしている。相談相手、というか、敢えて言い方を鑑みなければ、不満のはけ口にはうってつけだ。吉田にとって、いいガス抜きになれば、と佐藤は思って止まない。
 ……唯一の不安は、艶子も吉田を非常に気にって居る事と、彼女の特有の嗜好の事だ。まあ、艶子も佐藤と吉田の仲を歓迎して祝福しているのだから、安心とは思うが。……思いたいが。
 一抹の不安を覚え、早く2人が風呂からあがって来るのを切に待ち焦がれる佐藤だった。


 風呂から出ても、湯冷めしないくらいに身体を外気に慣れさせたのだろうけど、数時間ぶりの吉田の顔は真っ赤だった。それに最初に気付いたのは、ジャックだった。
「ヨシダ!すげぇ赤いけど、どうした?」
 本人が気付いてない可能性を思い、ジャックは説明するように言う。吉田は、真っ赤な顔のまま、あーうー、と言葉にならない声を上げた後で。
「……その、艶子さんって………痩せてるようで………そのー………」
「…………。うん、なんとなく、解った」
 艶子の本性を知っているジャックは靡かないが、街などで通り縋れば男性の全員が振り返りそうなプロポーションの持ち主の艶子なのだ。同性の目からでも、それは刺激的に見えるだろう。
「吉田。ちゃんと温まって来たか?」
 さすがというか、すぐに佐藤が現れた。そこでジャックは必死に、この吉田の顔が真っ赤なのは俺のせいではありませんよ、と顔で伝えた。どうやら成功したようで、物騒な視線がジャックに突きささる事は無かった。ほっとするジャック。
「うん。お風呂、凄く大きかったー。泳げそうだったよ」
 にこにこして報告する吉田を、佐藤は穏やかな表情で眺めている。どうやら、佐藤の怒りを買わなかったのは、自分の意思がちゃんと伝わったからじゃなさそうだな、とジャックは苦笑した。出来れば、2人の世界は部屋に戻った時に作って貰いたいと思いながら。


 お風呂はとても豪華で綺麗で、入っていて寛げたし、艶子との話しも楽しかった。佐藤との事を秘密にしている以上、友達にまだ言えないような事も、艶子には話せる。それに、佐藤本人にも言えない事を。大した不満じゃないけども、ちょっと気になる所とか。それらに艶子はとても真摯に、そして優しく受け答えてくれた。
 艶子は自分たちの関係を、一番良く知っていると言っていい立場だから、彼女の意見は励みになる。もし艶子にも相手が出来たら、自分も一生懸命考えようと吉田は決めた。しかしながら、艶子に相応しい相手の像も、あまり浮かばないけれども。
 佐藤と部屋に戻り、吉田はスコーンを手に取った。ジャックと一緒に作ったもの。すっかり、冷えてしまっている。
 それをぱくり、と口に含み、吉田は難しい顔になる。ジャックの言った通り、食べられないではない……けども、温かい時のふんわりとした味に比べると劣ると思う。バターの油が冷めた事によりぼそぼそとした食感になっている気がする。
「吉田?何食べてるんだ?……ああ、スコーンか」
 ひょっこりと顔を出した佐藤が、手元を見てすぐに頷く。そして、あまり吉田が美味しくないような顔を浮かべて居るのを見て、ちょっと噴出した。
「何、不精してるんだよ。温めてやるから」
 食べかけのスコーンを取り上げ、トースターの中に入れる。
 温まる間に油を沸かし、紅茶の準備を整えて行く。その鮮やかな手つきに、吉田はほれぼれと眺めてしまっていた。
 かくして、程なくティータイムの支度が整っていた。実は、ジャックの言った事を思い出してちょっと試しに齧ってみただけだったのだけど、佐藤が自分の為に用意してくれたし、何より食べたくない訳では無いので、スコーンにジャムを塗っていく。やっぱり、温かい方が美味しい、と口に入れて吉田は思うのだった。
「佐藤って、スコーン、好き?レシピ覚えたから、もう作れるよ。
 あっ、そうだ。実はこのスコーンって……」
「ジャックと一緒に作ったんだろ?俺も食べたけど、上手に出来てたな」
 知ってたのか、と自分で伝えれなかった残念さもあったけど、それ以上に褒められて嬉しかった。えへへ、と嬉しそうに笑い、スコーンをもう1口齧る。
 その味を噛み締めながら、吉田は思い切って佐藤に尋ねた。
「艶子さんも勿論だけど、ジャックも、他の皆も、良い人ばっかりだよね」
「ん?……ああ、まあな」
 友達と認めるのに、まだ気恥ずかしい所のある佐藤は、ちょっとだけ間を置いてから頷いた。そんな些細な所に、佐藤の本音を見えた様な気がして、吉田はちょっと微笑む。
 そして。
「……日本に帰る時、寂しくなかった?」
 さっき、艶子には言い出せなかった事だ。吉田は慎重になって言う。佐藤に誤解されないようにと、やや早口になって。
「あっ!べ、別にその、佐藤は向こうの生活が良かったのかなとか、勝手に帰っちゃうのかなとか、そんな心配じゃなくって!!
 ……ただ……なんていうか………」
 佐藤は吉田の次のセリフを待った。てっきり、クリスマスの夜の続きかと思ったが、そうではないらしい。
「それで佐藤が寂しいって思ってるなら……何とかしたいな、って」
「何とか、って?」
 懸命に考えながらも、結局は具体案の出なかった吉田に、悪戯に笑って佐藤は尋ねる。
「そ、それはこれから考える……」
 そう言いながらも、おそらく今と同じようにいいアイデアは浮かばないだろうというのは、他でも無い吉田が一番思い知っているようだ。気のせいでなければ、冷や汗をかいているように見える。
 真剣に悩んでいる吉田に悪いとは思うが、そんな様子は佐藤の笑いを誘って止まない。2人がけの小ぶりなソファに、佐藤も腰を降ろす。先に坐っていた吉田は、佐藤のスペースをちゃんと開けて居た。こういう所に、愛しさを感じるのだ。
「そりゃまぁ、寂しくなかったって言ったら嘘になるけど。一生会えないって訳でも無いんだから、そこまで深刻に悩んだ事は無いよ」
「……うーん、でもー………」
 それでも、顔を合わせる時は格段に減っているだろうに。例えばこれから、自分が高橋や井上と遠く離れた異国の地に行くのだとしたら、それは堪らなく寂しくて、しばらくは落ち込んでいそうな気もする。想像だけで気が滅入りそうな状況に、佐藤はまさ身を置いているのだから、吉田はそれが気になって仕方ない。
 そんな風に自分に告げて来る吉田を見て思い出すのは、この別荘の滞在に吉田を誘おうとした時の自分だ。他と連絡が取れなくなる事を懸念して、なんだかやたら吉田が承諾してくれる事に消極的になっていた。それは取りも直さず、自分が吉田と連絡が取れなくなるのが嫌だからだという気持ちの表れだった。だから、2つ返事で答えた吉田に、ちょっと吃驚したのだけど――
 もしかして、この答えは同じと思って良いのか、と佐藤は思う。
 吉田がこんなに心配している事を、佐藤が然程重要視して居ない事も。
「吉田が一緒に居るから、寂しいとかあまり悲しまないよ」
 まだ色々考えて居た吉田は、佐藤のその一言に、ぱっと顔を上げて、みるみる赤く染め上げた。ジャックがこの時の吉田を見たら、艶子の裸体に赤面している時以上だな、と言っただろう。
「あ、う、そ、それは……その………」
 そ、そうなんだ。と、一通りの葛藤でもしたらしい吉田は、最後には頷いた。そうだよ、と佐藤はたっぷりと感情を含ませて言う。ますます赤くなる吉田。
 吉田もなのかな、と佐藤は思う。
 ここに居るのが10日の期間というのもあるけど、友達といつもの連絡が出来なくなっても、自分が居るから寂しくないのかと。
 そう思って自惚れてしまうのが怖くて、逆に佐藤は訊けなかった。
 手を伸ばしてみる。……そうしたら、吉田に触れる。これ以上の幸せを探すのが、恐ろしい様な気もする。
 洗いたてのせいか、手触りがいつもより滑る。その感触が楽しくて、佐藤は何度も撫でた。
「…………?」
 そんな風に触れて居るのになかなかキスをしないのを、怪訝そうに眺めるものだから。
 佐藤は堪らず、顔を近づけた。



<END>