頬に何かが優しく触れ、吉田の意識はゆっくりと浮上し始めた。
 髪のひと房を梳いて撫でるような手つきは、その眼ざめを促すでも邪魔するでも無い。この撫でる指先の持ち主が誰かを、吉田は時に気にするでもなく、しかしとりあえず眼を開いた。
 するとそこには、佐藤の端正な顔があって。
「っ!!! わわわ、わぁぁぁぁッ!」
 ぎょっと眼を極限まで見開いた吉田は、そのまま布団をがばり!と被さって、布団の中で引きこもりになってしまった。吉田が中に居る所だけ、こんもりとしている。
「吉田ー? どうかしたか?」
 吉田が照れて恥ずかしがっているのを知って、佐藤はそんな声をかけるのだった。咄嗟に隠れてしまった吉田の気持ちが、佐藤にも解らなくはない。例えば逆の立場。佐藤が眼が覚めてすぐ目の前に吉田の顔があったら、おそらく同じ真似をするだろう。どんな間抜けな寝顔を晒していたのかと気が気ではないし、何より寝起き直後のぼけっとした所をまじまじと見られたくは無い……と、共感できても、やっぱりそんな無防備な所が見たい佐藤だった。吉田、出て来てー、とベッドの上に出来たまんじゅう(←吉田)を揺さぶる。
 布団の中でプチ引きこもり(←色んな意味で)になっていても仕方ないと、何かを諦めたか吉田がひょっこりと顔を覗かせる。好きな子のパジャマ姿って、どうもこう、見るだけでそわそわしてしまうのかなー、とワンピース調のパジャマの吉田を佐藤が和んだ顔で眺める。
「もー、吃驚した!まさか、ずっと寝顔見てた?」
 ちょっと頬を膨らましているのは、ポーズなのだろうか。朱が散る頬は、どうみても怒りだけではなさそうだ。佐藤が微笑みながら「吉田の想像に任せるよv」と返事にならない返事をした時も、顰めた顔はむしろ甘受するようだった。
 佐藤の部屋で、転寝してしまった時とか、佐藤は吉田の寝顔を覗きこみ、飽きることなく吉田が目覚めるまで見続ける。今のこの時は、吉田を独占しているというのが特に実感出来るのだ。それは佐藤の幸せな時間でもある。勿論、吉田と一緒に他愛ない事を話したりしている時も、佐藤の大事な時間だが。吉田もそれを解っているのか、寝顔見るの絶対厳禁!とまではしない。……もっとも、していても佐藤はきっと盗み見るのだろうけども。
 さすがに着替えは見られたくないらしく(これも今更だと思うが)ちょっと向こう向いててーと佐藤に言う。ここは大人しく従う佐藤だった。何故だか微かな布ずれの音だけで、吉田がごそごそと着替えている様子が想像できる。
 セーターなど、ちょっと厚手の服を着てしまうだけで、辛うじては確認できる胸の膨らみはすっかり隠れてしまう。スタイル抜群の艶子を思い出して、そこだけちょっと朝から凹んだ。
「皆、もう起きてるかなー……って、佐藤なんで着替えて無いの」
 自分が着替えるついでに、佐藤も着替えているばかりだと思っていた。しかし佐藤は、ベッドに潜る時の姿のままだった。そのパジャマの肌触りが良い事は、実際に着ている佐藤のみならず、寄り添って寝ていた吉田も知っている事だった。
「ああ……じゃ、着替えようかな」
 佐藤はそう言って、吉田の前で堂々な程パジャマを脱ぎ始める。慌てて、真後ろを振り向く吉田。そんな様子を見て、佐藤は意地悪く笑う。
「別に俺は見られていても平気だけど?」
「!ばばば、ばかっ!もう、先行ってるから!!」
 ばたーん!とやや乱暴にドアを開いて、吉田はおそらく朝食の為に食堂に向かった。夜は料理好きな面々がその腕を存分に振るうだろが、他は好き勝手だ。吉田の為に何を作ろう、と佐藤はわくわくしながら着替えを進めた。
 2人のクリスマスは、こうして始まった。


 しかし食堂に着いても、吉田の姿は無かった。今からキッチンで今夜や明日の仕込みをしている仲間に尋ねても、見て居ないという返事。なら、広間にでも向かったか、と佐藤も行き先を変える。スコーンを焼いたから持って行け、と言われ、素直に受け取った。まだ、温かい。
 そして広間にも付いたが、やっぱり吉田の姿は無かった。
「なあ、吉田は?」
 近くに坐っていたジャックを捕まえ、佐藤が聴く。ああ、とジャックは返事する。
「ヨハンと一緒に、昨日のゲームの続きをするって、部屋に行ったぜ」
「え……部屋って、ヨハンの?」
 瞬間、昨日のヨハンのセリフが脳裏を過ぎる。
「そりゃ、そうだろ」
 何言ってんだお前?と怪訝そうなジャックには答えず、佐藤は来た道を引き返した。
(……いやいや、確かに昨日の今日だけども)
 吉田に意地悪したら貰っちゃうよ、なんて言ってたけども、あれは社交辞令というか軽いジョークのようなものだ。本気で奪おうなんて、思っても無い筈だ。……筈、だ(2回目)。
 相手がヨハンなので、佐藤はドアを予告なく蹴り破る事無く、一応ノックする。これがジャック相手だったら、問答無用でドアを引き剥がしている所だが。
「誰ー? ……あ、佐藤!」
 出て来たのは、吉田だった。自分を見て明るい顔を浮かべた吉田に、佐藤もちょっとほっとする。
「どうしたの? ヨハンに用事?」
 まあ、確かに、ここはヨハンの部屋なのだから、来訪者が主に用があると考えるのが筋ではあるが。
「いや、お前、朝飯も食べない内から何処行ったんだろうな、って皆に聞いて、ここに居るって解って。
 もう、食べたのか?」
 そう言いながら、差し出すようにスコーンの小山を差し出す。食べ物を見て、吉田の顔がもっと輝く。何だか、複雑な感情に陥る佐藤だった。
「うん、さっきヨハンの食べてたサンドイッチ分けて貰って―― ヨハンー!佐藤がスコーン持って来てくれたー!」
 何かゲームの設定でもしていたのか、テレビの前で何かをしていたヨハンは、吉田の呼びかけでドアの前まで来た。
「ゲームしてたのか?」
 並んだ吉田とヨハンの、特にどちらかへ向けたのではなく、佐藤が尋ねた。
「うーん、しようとしてた所って感じ? 別のをやろうと思って、接続にちょっと手間取っちゃった」
 ヨハンが答える。昨日の続きで、と部屋に来たものの、新しいのに手をつけたくなったようだ。その辺りを心得ているヨハンと吉田が「ねっ」と目配せのように頷きあう。なんだか、置いてけぼりをくらったような気持ちの佐藤。
「…………」
 スコーンしか乗って居ない皿なのに、やや重く感じる。
 あ、とヨハンが声を上げた。
「折角持って来てくれたけど、飲み物が無いよ、この部屋」
「あ、じゃあ、持って来る」
 吉田が率先して言ったが、部屋から出ようとする吉田に待ったを言ったのはヨハンだった。
「それより、僕らの方が向かおう。クリームとかも欲しいしね。
 そうだ、ゲームも持って行って、向こうでやろうよ。
 その方が皆と盛り上がれていいだろうし――」
 と、意味ありげに佐藤を見るヨハン。吉田が、自分以外の誰かと部屋に2人きりというシチュエーションが気になり、ここまで急いで来た自分の足取りがバレたようで、佐藤もちょっと気まずい。
 そんな裏の事情は知らない吉田は、無邪気に「うん、そうしよう!」とヨハンの提案を快く受け入れた。


「――佐藤って、案外解りやすいんだね。僕、さっきはどうしようかと思ったよ」
 頭脳優秀な彼らは、母国語以外をそれと同然のように流暢に話すのも容易い。吉田に話す時は当然日本語であり、そして仲間とは施設での共有語である英語を使っている。あるいは、吉田に聞かれるのはあまり歓迎できない内容とか。なので現在、佐藤とヨハンは英語にて会話をしている。
「……別に、ヨハンの事も吉田の事も、疑ってる訳じゃないんだけどな」
 自分自身に疲れたように佐藤が呟く。確固たる信用を抱きながら、それを裏切る行動を取る自分が、佐藤は上手に操れない。違う誰かが自分を操縦している、という事にしておいた方がまだ納得できそうだ。
「まあ、僕も隆彦が本気で嫉妬してると思っても無いし……昨日あんな事言ったばかりだからね。余計に気にしたのかも」
 しかし、ヨハンは昨日の発言を特に後悔している風でも無かった。それでいい、と佐藤も思える。
「でも、隆彦が過敏になるのも解るよ」
 ヨハンが言う。そのヨハンの視線の先では、ジャックとゲームに興じている吉田が居た。ゲームに興じている吉田は実に感情豊かで、画面を見て居るより吉田を見ている方が余程楽しかった。
「ヨシダと居ると、何だかほっとするんだよね。なんていうか、この子は絶対に人を傷つけたりしないんだろうなー、っていう感じかな。気を張ったりしなくて済むし、凄く安心できる。
 僕も、相手が隆彦じゃなかったら、本気で迫ってたかも」
 最後にさらりと、割と洒落にならない事をさらりと言うヨハンだった。あまり気にしないようにしよう……と佐藤は自分に暗示を掛ける。
 ――佐藤と艶子は、親に騙されてあの施設に収容された。他がどういう経緯でやってきたかは知らないが、体形の改善を家庭内で施さずに施設に預けたという点で、親に見捨てられたという意識は少なからずあったのではないだろうか。ここが肥満矯正施設では無く、遺伝子を弄る研究施設だのとかいう流言飛語も、そんな所から生まれたのかもしれない。
 そんな自分達だから、だから横の繋がりを大事にしているし、痩せた後も親元には戻らずに居る。あの施設に居た皆はきっと、慢性的に餓えている。無償の愛情や、安息できる場所を。常に探し求めているから、いざ本当に現れた時、目の前の人物こそそうなのだとすぐに判断が出来るのだろう。12歳の頃吉田と出会った時、自分がもうその時から、吉田の事を特別だと思ったように。
 それを真理とするなら、学校でいまいち吉田がぱっとしないのも頷ける。極一般に、普通に育った者は、吉田の良さには中々気付かない。真冬の凍て付くような震えを知らなければ、春の日差しの優しさが解らないのと同じなのだろう。そうなのだとしたら、あまり振り返りたくない過去も、吉田を早く見つける為に必要な布石だとしたら、佐藤もまだ受け入れやすい。
 自分の傷を癒してくれるのはいつだって吉田なのだ。これまでも、そしてこれからも。
「なあ、ヨハン」
 佐藤はふと思い浮かんだ事を言ってみる。
「もし吉田が俺と付き合って無かったら、お前は吉田に告白してたのか?」
 未来は不確かで、どうなるか解らない。今は傍に居る吉田もいつか自分に愛想を尽かしてしまうかもしれないし、その空いた隙間を埋める為に別の誰かが現れるのかもしれない。そうなったとき、佐藤は出来れば自分の信用出来る相手から、もっと言えば自分の知っている人物から吉田が選んでくれるといい、そう思った。 
 例え吉田の意識から自分が外れたとしても、少しでも近い所で彼女の幸せを見守って居たいから。そんな、エゴで。
 ヨハンは普段は怯えていても、咄嗟の時には身を呈して守る強さも湛えているのも知っている。自身を省みない無鉄砲さは欠点かもしれないけど、吉田はきっと蔑んだりはしない。
「……うーん、どうだろ」
 ヨハンは軽く首を傾ける。勿論、という即答を予想していた佐藤だったから、軽く目を瞬かせた。
「だって、隆彦と付き合って無いヨシダって、なんだか想像出来なくて」
 それはヨハンの中で、あまりにも当然過ぎる事のように言う。
「……………」
 堪らず、沈黙する佐藤の元へ、ゲームを終えたらしき吉田が寄って来る。
「ふー、ちょっと休憩……あれ、佐藤、どうしたの?変な顔して」
「……してない」
 訳を知っているヨハンだけが、その光景を見て和んだ。


 今更ながらに仲間たちの自分への親愛を感じとった佐藤ではあるが、やっぱりそれはそれとして吉田とワイワイしているのを見ると「人のモンに何慣れ慣れしくしれるんだコラ」と施設時代の荒ぶった自分が顔を出そうなのを堪えていた。相手が山中や西田だったら耐える事無くポン!と出ているだろうが。
 クリスマスのディナーは多種多彩だった。専らバイキング形式を気取って、大テーブルの上には大皿に盛った思い思いの料理が置いてある。それの製作者は、挙って吉田に勧めているのだった。その人垣のせいで、小さい吉田が埋もれて佐藤の視界から隠れてしまった。
 吉田と、一緒に居たい。でも、皆の前で居るとからかわれる。
 結局もやもやとしたものを抱えて、少し離れた所でペリエに口を付けている次第だ。ほっとかれる佐藤なんて、現在現在通う高校内では考えられない事だろう。そんな佐藤の元に、艶子が赴いた。
「隆彦、もっと笑顔を浮かべなさいな。今日はクリスマスなのよ」
 優美な笑みを讃えて言う。手にしているグラスに入っているのはジンジャーエールだろうが、艶子が持つとシャンパンに見える。
「やっぱり、吉田さんと2人きりじゃなきゃ嫌かしら?」
「そうでもないけど」
 真実を言ったつもりなのに、まるで負け惜しみのような感じになってしまった。まあ確かに、吉田と2人きりになるのが難しい状況は、あまり面白くないし。
 しかし実は今回、この別荘でのパーティーに誘ってくれた艶子には、佐藤は密かに感謝している。自宅では、クリスマスには姉が友人を招くのだと言った。自宅とはつまり、佐藤と2人きりで住んでいるあの部屋である。いきなり場所を無くしたも同然の佐藤に、行く宛の道標を示したのは艶子だったのだ。
「そんな隆彦に、私からのプレゼントよ」
 そう言って、艶子は佐藤に手渡す。それは、鍵だった。この別荘(と、呼んで良い規模のものなのか……)の鍵だ。
 一件普通の鍵のようだが、さまざまな電子部品で成り立っていて、コピーは不可能。艶子の依頼無しに、合い鍵が生まれる事はない。
「好きに使ってくれて構わないわ。なんなら、吉田さんとの新居にしてしまえばvv」
「馬鹿、町から遠すぎるだろ……っていうか、そもそも鍵だけ貰って、此処にくればどうすればいいんだよ!」
 定期便も寄る事も無い、事実上の孤島となっている場所に立っている此処へ付くには、ヘリやモーターボート無しに行き来は出来ない。
 そして勿論、現段階において佐藤はヘリもボートも持っていないのだった。
「その辺りは自分で頑張って貰うしかないわねv」
 ちっとも悪びれずに答える艶子。失念していた訳では無く、承知の上だったようだ。軽く舌打ちしたい佐藤だ。
「ん?何だなんだ?隆彦とヨシダがここを新居にするだって?」
 かなり偏った聞き間違いをしたジャックが、口を挟む。佐藤は容赦なくその耳を引っ張ってやった。いででででで!と悲痛なジャックの叫びが、佐藤の手が離れるまで続いた。
「いってえなー!これでも、俺達はお前らを祝福してるんだぜ!?早く子供の顔が見たいなーってさぁ」
「明らかに途中を色々吹っ飛ばしてるな」
 苦虫を1億匹程噛み潰したような佐藤が言う。
「そもそも、最初すら乗り越えていないんじゃなくてv」
「……艶子………」
 ある種禁句と言うか、タブーな事を言う艶子に、佐藤のみならずジャックもやや引き攣り気味だった。
「……ところでさ、お前、昔の事ヨシダに言ったのか?」
 ここでジャックの指す佐藤の「昔」とは、勿論施設内の女を食いまくって挙句早々に飽きた事である。
 言葉としての返事を待つまでも無く、壮絶な顔を浮かべた事でジャックは察してやった。
(言える訳無い……か)
 佐藤が最後の一線を踏み越えられないのは、この辺りが原因ではないだろうか……とジャックは何気に思っているが、まあ、ここではそれはさておき。
「だったら、せめて居た施設くらい見せてやればいいんじゃないか?こういうの、百聞は一見に如かずとか言うんだろ?」
「……そのようなそうではないような……」
 諺のニュアンスは説明するのも難しい、と佐藤は思った。
 見せてやればいい、とジャックは言ってくれるが、そこは吉田に話せない事ばかりが充満した場所なのだ。はっきり言って、見せるのも躊躇う。
「そうだよ、一度イギリスに顔出せよな。今回来れなかった皆も居るし」
 ふと思い出したように、ジャックが言う。そもそもからして、この別荘はイギリスに顔見せにこない佐藤への意趣返しの為に拵えたようなものだった。
「でも吉田、英語がさっぱりだからなー……」
「そんなの、お前が居れば良いだろ!」
 吉田が嫌がるかも、と遠まわしな遠慮を、ジャックが豪快に笑って打ち消した。
「……まあ、今すぐに来いとは言わないけど、でもいつかは来てくれよ。
 ヨシダもちゃんと連れて」
 「…………」
 ジャックの言わんとしている事を今一度噛み締め、佐藤は、そうだな、とそれだけを答え――ジャックはそんな佐藤を見て、満足そうに笑った。


「あれっ、ヨシダは?」
 最初に誰かが気付き、皆して辺りを見渡した。何せ吉田は小さいし、ここには日本人以上の体格を持った者ばかりだ。まあ、日本人ではないし、日本人にしても背が高いし(←佐藤)。
 すでにディナーパーティーも終盤。デザートの皿も空になっていて、皆は飲み物を携えて談笑を楽しんでいた。しかし、一時それを中断して、吉田の姿を探す。どうやらこの広間には居ないらしい、という結論が程なく吐き出された。次に、現在の吉田の居る場所について、憶測が飛び交う。
「トイレか?」
「あ、ツリー見に行ったのかも。さっき窓から見ていたし」
「ツリー? こんな寒い中だってのに、あいつ……」
 苦言するような声は佐藤だった。ちょっと行って来る、と誰に言うでも無く告げて外に出る。
 風は強くないが、とにかく身を切る程に寒い。小さい吉田の身体が芯から凍えるのを心配して、佐藤はツリーの元に駆けて赴いた。そして、誰かの想像通りに吉田はツリーの木の元に立っていた。
「吉田」
 空気が冷えているからだろうか。発した声の割には、よく通った気がする。吉田も、すぐに声に反応した。
「ツリーなら、部屋の中から見て居ればいいじゃないか……全く」
 部屋から取って来たトールを、コートを着ている吉田の上に更に被せた。吉田も、勿論外に出る為に防寒はしっかりしていたが、やっぱり不安になるのだ。
「うん……でも、中からだと上の方とかよく見えないし……」
 確かに、室内からだと肝心と言って良い天辺の星が拝められないだろう。
「なら、もういいか?早く部屋に入った方がいい」
 風邪をひいてもつまらないだろ?と佐藤は吉田を室内に招くが、吉田の足は固定されたままだった。
「まだ、もうちょっと見ていたいから。大丈夫だって、ほら、カイロも持ってるし!」
 だから佐藤は先に入ってて、と吉田は言うが、勿論「うん、じゃあ先に行ってる」なんて佐藤が言う筈も無い。
 そして段々佐藤も疑ってくる。最初こそ純粋に吉田はツリーを見て居たいものばかりだと思っていたが、あまりに誘いに従わない所を見ると、本当の理由は別にありそうな気がする。
「……吉田?なにか、あったか?」
「………………」
 今でこそ、ヤキモキしてしまうくらい仲のいい吉田と友人達だが、全くの最初の頃、自分だけが皆と初対面という状況に、吉田は疎外感に見舞われてしまい、皆との場を避けるような真似までしていた。しかし、周りの誰もかもが吉田の事を歓迎しているのだから、吉田がそれを感じ取るのも早かった。そして今の現状が出来上がっている。
 とは言え、そんな思いは油断だったのだろうか。それでもやっぱり、吉田だけが違うという点は拭い去れないのだから。
 それに、そう。ここに居る誰もが、佐藤の昔を知っている。吉田の知らない佐藤を。
 最もそれを言うなら、吉田だって皆の知らない佐藤を、それこそその倍くらいは知っているのだろうけども。
「吉田」
 もう一度、呼んでみる。すると、吉田の眼が揺らいだように思えた。
「……あのね、」
 吉田としても、この寒い中立っているのは辛かったのかもしれない。割合早く、口を開いた。
 こんな場所に立っていたのも、佐藤が来るのを無意識に期待していたのかもしれない。もっと早く気付けば、と佐藤は臍を噛む。
「……聞き間違えだったらアホみたいだけど……佐藤、さっき艶子さんとジャックと……」
 吉田は一瞬言葉を詰まらし、それでも言った。
「イギリスに帰る……みたいな話、してなかった?」
「………………」
 佐藤が黙り込んだのは、聞かれていた気まずさでは無く、あの時は吉田にとって理解不能な英語で話していたのに、という点だ。真の交流に言葉は要らない、というのは嘘や幻想では無いらしい。
 否定しない佐藤の沈黙を肯定と受け取った吉田は、「そうなんだ」とちょっと項垂れていた。
「…ん…吉田は、どうする?」
「えっ?」
「ホントに帰るっていったら、どうする?止める?」
 聞いた言葉に間違いはなくても、その内容を思いっきり誤解している。しかし佐藤は訂正しないで、吉田の気持ちを尋ねた。
「……止めは……しないと思う」
 吉田はよく考えて、本当によく考えて言う。
「学校で周りに笑いかけてる時よりも、ここで皆と居る佐藤の方が、ずっと伸び伸びしていて、何ていうかな、佐藤らしいっていうか」
 そんな風に過ごせているのは、実は吉田あっての事なのだが、とりあえず吉田のセリフを全て聞いてからだ。
「佐藤がそっちの方が言っていうなら、勿論その方がいいんだろうし……でも………だから……」
 吉田は言い淀む。佐藤がイギリスに行くと言うのは、日本を離れるという事。むしろ、吉田と離れるという事。そこが、この話の焦点なのだ。佐藤も、緊張したような面持ちで、吉田の次のセリフを待つ。
「…………。
 追いかける」
 イギリスに。吉田は、そう言った。
 追いかける――佐藤は、胸中で、もう一度そのセリフを反芻する。染みいるように。
「……英語も出来無いのに?」
 意地悪く、佐藤は言う。
「……出来なくても、追いかける!
 だって……だって、佐藤と一緒に……居たいし……」
「……うん………」
 吉田の顔が赤いのも、眼が潤んでいるのも。絶対、寒さの為ではないと、佐藤には断言できる。
「……うーん、でも、まず交通費だな……イギリスまで、どうやっていくんだろ。直通便なのかな……」
 ぶつぶつと、本格的に悩み始めた吉田を、佐藤はもう、何だか泣きたいくらいの気持ちになって愛しく思う。その想いのまま、吉田をぎゅぅ、と強く抱きしめた。あわわわ!と吉田が慌てる。
「い、いきなりすんなっ!って言ってるのにっ!」
 いきなりじゃなければいい、と言っている辺り、吉田の愛情が窺える。
「行かないよ。行く訳ないじゃないか」
「――へっ?そうなの?」
 月々のお小遣い何カ月分になるんだろー、と換算までしていた吉田は、いっそ拍子抜けのように言った。
「そうだよ。お前を置いて、行く訳ないだろ……!」
 くしゃくしゃの笑顔で佐藤は懸命に言う。想いが胸に詰まって、言葉が上手く言えない。吉田を前にすると、佐藤にはこんな症状が度々見られる。それも、こんな大事な場面で、だ。
「えっ?あ、何、連れて行ってくれるの?」
 泡食ったように、眼をしきりに瞬かせて吉田が言う。
「そうだよ。勿論。吉田にしては察しが早いな」
「……にしては、って何。しては、って」
 文句の1つでも言いたさそうな吉田だが、きつく抱きしめられていては無駄だと思ったのか、それ以上は言わなかった。
「連れて行くよ。いつか、ね」
 自分の中にある、さまざまな過去の傷跡の全てに、真っ向から向き合って昇華しきった時に。
 その時まで傍に居てくれた吉田を連れて、かつて過ごした場所に連れて行こう。ジャックも艶子も、皆それを思ってくれている。必ず訪れる未来の様に。
「いつかって……本当に?」
 おそらく母親辺りからか、そうやってはぐらかされた経験でもあるのか、かなり疑わしい目つきで佐藤を見る吉田。
「本当本当。俺が嘘言った事あった?」
「結構あったと思うー」
 美味しいチョコって言ったのに激辛だったりしたし、と吉田は実例を取って言う。そういうのとは別、としれっと佐藤が言うと、ますます眼付を吊り上げる。
「――とりあえず、中に入ろうか」
 吉田が何時ごろから居たか解らないが、むしろ解らないからこそ気になる。今はこうして、抱きしめているから、まだ大丈夫とは思うが。
「………ん。そうする」
 佐藤の腕に埋もれるような吉田が言う。そんな吉田に、微笑みかける佐藤。
「部屋に着いたら、ホットチョコレート淹れてやるよ」
「えっ!本当!?……あ、まさか辛いのじゃ……」
「ああ、その方が温かくなれていいかもな」
「ちょ、佐藤―――!?」
 慌てる吉田の声を、可笑しく受け取りながら。
 佐藤は冬の冷えから吉田を守る様に、腕を華奢な身体に回したまま歩き出した。




*もちっと続く…すいません;;