佐藤も吉田も、両方とも会社勤めの身であるのだから、家事は当然分担制である。佐藤としては、別に吉田1人くらい増えても負担にもならないのだし、むしろ自分が一手に引き受けてもいいのだが、根が頑固というか真面目な吉田がそれを由としない。平等、というか、対等でありたいのだろう。
 とは言え、相手より自分の方に余裕があれば、決められた当番も絶対ではない。割と2人とも、尽くすタイプというか、世話焼き気質な所があるからか、頼むまでもなく率先してやっていた。
 そして今日は、佐藤の方が早めに終わる日だった。本来吉田が夕食を作る所であるのを、自分が担う旨をメールにて報せておく。これで報告の義務はこなした。携帯を仕舞い、軽い足取りで佐藤は夕食の買い出しに出かける。今週は何となく2人とも忙しかったからか、夕食にあまり手間をかけられなかった。今日はちょっと凝ったものがいいな、と考えながら商店街を散策していると、鰯が安く売られているのを見て、これでつみれを作って鍋にしようと決めた。鍋の良い所は、水溶性の栄養もちゃんとだし汁として回収できる所だ。
 冷蔵庫にある野菜を思い浮かべながら、足りない食事を補う。ネギが付き出た買い物袋を持って歩くのが、佐藤は何だか嬉しい。もっと正確に言えば、吉田の分も入っている袋の重さが嬉しいのだろう。
 そんな風に、ちょっと浮かれていた佐藤だから、普段は気配に敏感な所、直面するまで全く気付かなかったのだろう。
 ドアを開けた途端、無人の筈の室内から人が飛び出し、佐藤に抱きついて来たのだ。どしんという衝撃が身体に走るが、倒れる程では無い。佐藤は、抱きついて来たこの相手に、瞠目する。それは意外な人物だった。
「え? 吉田?」
 まだ職務中、あるいは帰宅中である彼女が、どうしてか其処に居たのだ。そして、ぎゅうぎゅう抱きついて。
「お帰りなさーいっvvv 早く会いたくて、もう寂しかった〜vvv」
 しかも、何だか凄い甘々な態度で。
 そう言って、自分にしがみ付いている吉田が、佐藤の頬にチュッとキスをした。
「よ、吉田?」
 佐藤は、ちょっとうろたえる。いつにない態度も可笑しいが、どう見ても吉田の顔なのに何だか吉田じゃないような気がする。漠然としたものではなく、確かな違和感。
 そして気付いた。この世に、彼女に良く似た人が、他にも確かに存在しているのを。
「えっ、もしかして、お――」
 しかし、そのセリフを言い終える前、佐藤の横側で何かがどさっと落ちる音がした。
 反射的にその方を振り向くと、カバンを床に落として、怒りで肩をワナワナと震わせている――吉田が居た。
「あ、よ、吉田。これは……」
「ダーリン、お帰りなさいのキスがまだよ〜v」
 まるで娘に見せつけるように、佐藤の肩に手を回し、言う。それが最後の止めだったようだ。肩を大きく戦かせて、吉田が動いた。
 タッタッタッ、タタタタ!と軽快な足音を立てて吉田が駆け寄る。
 その顔を見て、あ、ヤバイ、と佐藤は危機を察知した。しかし、時はすでに遅し。
「佐藤――――!!! このっ……浮気者――――――!!!!!
 バシーン!!と、吉田の平手打ちがキスされた頬に決まった。目から星が舞い散る佐藤。
 あらあら、とそんな光景を呑気に眺めながら、吉田の母は娘そっくりの髪型になるウィッグを外したのだった。


「吉田……」
 どこかの神様よろしく寝室に引きこもってしまった吉田に、佐藤は力ない声で呼びかけた。相手の怒りが臨界点にある今は、タイミング的に説得の時ではないのかもしれないが、それでもやっぱり言わずにはおけなかった。
「その……言い訳にしか聴こえないだろうけど。あの時は相手が吉田だって思っていた訳だから、振りほどかなかった訳で、それを浮気者扱いされるのも俺としてもどうかと……」
『うっさい!佐藤のバカ!あれくらい、見抜けよ!!!』
 そんな無茶な、と佐藤は胸中で突っ込んだ。何せこの親子、トレースしたようにそっくりなのだ。もっともそれは顔だけの話で、性格はまるで違うし、体つきも違うが。そもそも、背丈がかなり違うと言うのに、何故すぐに見抜けなかったのか。あの施設で極限に鍛え上げた筈の動体視力も洞察力も、吉田とその家族の前ではどうにも無防備になりがちだった。それだけ、気を許しているから。
 吉田の叱責が、佐藤に突き刺さる。
『父ちゃんなら、絶対に解る筈だもん!!』
 はっきり言いきる吉田。マジかよ、と佐藤は胸中で戦いた。
 寝室のドアに手を当て、佐藤はふぅ、と溜息をついた。ここは、吉田に頭を冷やす時間を与えた方が良い。今は何を言っても刺激してしまう。吉田自身も、その必然性を感じ、だからこうして部屋に閉じこもっているのだろうし。
 思えば、吉田は佐藤が女性にキャーキャー言われている所はそれはもう長い間見て来たが、具体的に手を出された所を見た事が無かった。その免疫の無さが母親のイタズラ程度で噴火してしまう原因だとしたら……どっちかと言えば、嬉しい気がする。
 まあ、現状としてはこの上なくややこしいのだが。
 佐藤は、相手が吉田であると思っていたからこそ、抱きつくのも軽いキスも許してしまったのだし。結果として別人だったのだから、その辺りは大目に見て貰いたかった。
 と、いうか吉田も、同じ顔の相手なのだから、不機嫌になる事も無いのに……なんて思うが、逆にだからこそ嫌だったのかな、と佐藤は思う。仮に自分に良く似た誰かが、吉田に抱きついたり、キスしたりというのを想像してみると。
(………うん。実に腹立たしいな)
 割と似た所のある佐藤と吉田だった。
 佐藤は最後に、ドアの向こうの吉田に向けて「今日の晩御飯は鍋だよ」と一言告げて、キッチンへと向かった。


「あれくらいでそんなに怒るなんて、我が娘ながら心が狭いわね〜」
 なんて事を、鰯をミンチにしながら言っているのは吉田の母だ。外見は良く似ているが、中身はそれに倣っているとは限らないらしい。度々顔を合わせる仲になり、すぐに解った事だ。
「まあ、そんな所が可愛いんですけどね〜」
「あらあら、隆彦くんてばv」
 うふふ、と愉快そうに笑いながら、同じテンションで返してくれる。吉田の惚気話をする相手として、吉田の母はある種、最適な人物かもしれない。佐藤にとって、だが。
「ところで……今日はいきなりどうしたんです?」
 別に来る事自体に文句は無い。吉田の家族にとっても、この部屋が気軽に立ち寄れる場所であるというのは、むしろ喜ばしい所でもある。だから吉田の家族に合い鍵を渡してあった。
 佐藤が気にしているのは、つまり吉田の父親の事だ。夕飯時だというのに、ほっといていいのだろうか。
 佐藤の質問に、それがね〜、と唇を尖らせて言う。
「お父さん、急に出張が入っちゃって、明日の昼まで帰って来ないのよ〜。
 それで退屈になっちゃって、こうして押し掛けてきちゃったって訳v」
 そしてその道すがら、娘の髪型そっくりなかつらを見つけ、折角不意打ちで押し掛けるなら、と悪戯心が湧いて来てさっきの騒動に繋がる訳だ。なんとも茶目っ気の強い人である。若さの秘訣なのだろうか。2人並ぶと、姉妹というか双子に見える(それは顔が似ているからなのだが)。
 そう言えば、吉田のお化け屋敷嫌いも、幼い頃母親にされた悪戯が原因らしい。まあ、吉田は反応が面白いから佐藤はむしろ納得してしまう。吉田の母とは気が合いそうだ、とそのエピソードを聞いた時から佐藤は思っていた。
 吉田の父は、出張が多い仕事にあるというのは、高校の時からすでに知っている。その時は、吉田と2人だから寂しさを紛らわす事はいっそ簡単だったかもしれないが、今は夫が出掛けてしまうと、彼女は一人なのだ。吉田を奪って行った申し訳なさに、こう言う時チクリと胸が痛む。しかしここで謝るのは、誰も望んで居ない事だろう。だから佐藤は、気軽な調子で会話を続けた。
「へー、奇遇ですね。俺もこの前、急な出張が入ったんですよ」
 おかげで彼女をこの部屋に1人にしてしまった、とようやくボヤく相手を見つけて言う佐藤。
「あら、そうなの?ヤだ、あの子ってば、何も言わないで水臭い」
 不服そうにそう呟いた。自分がこうして押し掛けたように、吉田にも戻って来て欲しかったのかもしれない。
「きっと、寂しがってるのをバレるのが嫌だったんですよ。本当は寂しいくせにv」
「そういう所、素直じゃないのよね〜、昔からv」
「……ちょっと。居るの気付いてんだろ」
 後ろからじっとりした視線を投げ寄越している吉田に、2人は「そんな事ないよーv」と揃ってすっ惚けたのだった。


 そして、親子3人での鍋が始まった。この家の鍋は、奇襲が好きな友人たちを想定した佐藤が、5〜6人用の大きな鍋と、吉田と2人でつつく時を考えて2〜3人用の鍋を買ってある。今日はこっちを出した。
 しかし、今日は3人だからいいが、吉田の父親も来た時はどうするべきか。いっそ、この鍋は破棄して、3〜4人用の鍋を買い直した方がいいのかもしれない。この問題は、後々吉田と相談する事にして、今は1人増えた団欒を楽しんでいる。
 今日のメインはつみれ鍋。そこに副菜として、吉田の母親が作った肉じゃがと大根サラダ。つみれ鍋は、つみれの他にも手羽先を入れてある。そして、酒好きな吉田の母の為、佐藤は日本酒をテーブルに乗せた。明日も仕事があるが、これくらいで明日に響く2人ではないのだ。ただ、そのペースにつられると自分が大変な所にあるから、そこは気をつけたい。身体を鍛える事は出来ても、アルコール分解酵素を増やす事は出来ない。
「さ、お義母さん、どうぞ」
 女子に向けるのとはまた違った、愛想の良い笑顔で佐藤は吉田の母に酒を勧める。
「あら、ありがと。格好いい息子からのお酌だと、一層味が良くなるわね〜v」
 ふん、何言ってんだか、と吉田はその甘ったるい声を気にしないように、鍋を食べるのに集中した。ショウガ風味が効いていて、食べる程に食欲が増すようだ。
「ほら、吉田も」
「えっ……ありがと」
 ドット、というより水玉を呼びたいような可愛い模様のお猪口に、酒を注いでいく。それを、くいっと飲み干す吉田。ビールは苦くて不得手なようだが、日本酒はそうでないようだ。
 飲み干したあと、ほぅ、と息を吐くような仕草が、佐藤には色っぽい。
「佐藤は? 飲む?」
 佐藤は、うーん、と少し考えた後。
「今日はもう止めておくよ。2人と一緒だと、つい飲みすぎちゃいそうだから」
 ちょっと残念そうに佐藤が言う。すでに佐藤は何杯か引っかけた後だった。まだ限界には遠いだろうが、とりあえず用心しておきたい。
 佐藤のセリフを聞いてか、うふふ、と母親が不意に笑う。
「そういや隆彦君、前にウチで潰れちゃったものねー」
「いや、あれは………」
 佐藤も苦笑して、頭をかいた。あれは忘れる筈も無い、吉田との同棲と自分達の関係を吉田の両親に言いに行った日だ。思い立ったが吉日とばかりに、すぐに行動に出たのだ。そして、時間も時間だったからか、初めて訪れた家でいきなり夕食を御馳走される事になった。
 そこで酒を勧められるまま飲んでしまい……敢無く、撃沈。承諾を貰った後とは言え、醜態を見せてしまった事に気が気では無かった。大丈夫?と顔を覗いている吉田と、その向こうでにこにこして自分たちを眺めている2人を見るまでは。
「あれは、母ちゃん達が悪いんだよ!自分たちが酒に強いの忘れてさー」
 吉田が、佐藤を擁護するように言う。しかし、それを気にして再三佐藤に断って良い、という吉田の制止を振り切るように飲んでいた、佐藤の完全なる自業自得なのだが。
 必死になって佐藤を庇う吉田が可愛くて、母親の前でなければ押し倒してキスでもしていたかもしれない。
「いいじゃない。アンタは普段隆彦君からかって楽しんでるんだから、たまに会った時くらいこっちに譲ったってー」
 詰まらなさそうに言うと、吉田がまたギャンギャンと咬みつく。
「そんな事して楽しんでなんかないっつーの!!!」
 むしろからかわれて楽しまれているのは、吉田の方だ。……と、いうか、今もそうだ。母親の狙いが、佐藤を出しに娘をからかいに来たのだと、ちょっと考えを巡らせば解るようなものなのに。
 口喧嘩というよりは、単にあしらわれているだけの吉田を見て、佐藤は笑みを零す。
 そして、あの日の事を思う。吉田はああ言ったが、吉田の両親はその事を知ってて、それでも自分に執拗に酒を勧めたのかもしれない。やっぱり、なんだかんだで大事な1人娘を攫って行く小憎い相手なのだから。少しくらいの悪戯は、許されてしかるべきだろう。だから、佐藤もそれに真っ向から受け入れたのだ。逃げ出さない強さは、吉田から十分すぎる程貰っているし、何せ相手は吉田を今まで大切に育ててくれた、ある種自分にとっても恩のある人物。決して後ろを見せてはいけなかった。
 酔いつぶれてふらふらした頭で起き上がった時、佐藤はやっと、吉田と共に生きる権利を、彼女の両親から譲り受けたような気持ちになったのだった。


「吉田、先に風呂に入りな」
 佐藤が言う。現在は、吉田の母親が風呂に居る。
 えっ、と吉田は目をぱちくりさせた。
「お義母さんの寝床は俺が用意しておくからさ。疲れてるんだろ?ゆっくり入りなよ」
「えー、でも……」
「なんなら、一緒に入るかv」
 この手のセリフは、未だ吉田を黙らせる有力なカードだった。すぐに顔を真っ赤にして、先に入る!と声を上げる。その時、まさに母親が上がって来た。叫んでいた所を目撃され、また1人赤面する吉田。
「……ちょっと、ごちゃごちゃしてますけど、」
「ううん。ありがとね、隆彦君」
 突然の来訪を、ちょっとは気にしていた風に言う。
 時折来日してくる友達を寝泊まらせる時に使う空き部屋に、吉田の母を通す。完全にゲストルームと言う訳ではなく、季節によっては不要になる器具とかも置いてある。
 穏やかに微笑む様子に、吉田とは良く似ているが、確かに違う所を見つける。それは過ごして来た年月と、ここには居ない人物との歩みからだろう。
 佐藤は、前から尋ねてみたかった事を、今が訊くタイミングではないか、と思った。吉田の前では、ちょっと聞き出せない内容なのだ。おそらく、本人は気にしないだろうけど、佐藤の問題として。
「あの……吉田の、目の傷の事なんですが」
 佐藤は、切り出した。
 訪れた時、全てを打ち明けた。自分たちの出会いは小学の時で、吉田の目の傷の原因は自分だと。吉田はその時でも自分が勝手に転んだだけ、と言ったがそれでもやっぱりあの傷は自分のせいだと佐藤は思う。結果論かもしれないけど、佐藤がいなければ、吉田が怪我をする事は無かった。
 吉田本人の態度を見て居る分には、親も大して気にしていない風に思えたが、この事実を言う時が、佐藤は最も緊張した。何せ昔の事だから、娘に傷跡を付けた事実に、両親からの反対で破綻まではいかなくても、この場での承諾は難しいかもしれない、とも思った。
 しかし実際の反応としては、両親揃って「あ〜、あの時の!懐かしい!!」というような反応だったので、佐藤は脱力して座ったままコケそうになった。その後、やいのやいのと小学のアルバムを出して来て、あらっ、隆彦君はどこかしら。えっ!?この子なの?まあ、変わったのねー。でも母さん、ほら目元とか鼻筋はそのままだよ。あらホント!っていうか、この時からホントちっとも変わらないわよね〜この子と来たらv今そんな事言わなくても良いのにー!!!
 そんな親子のやり取りに、佐藤もさっきまでの緊張を忘れ、つい吹きだしてしまった。そして思う。嫁ぐのがこの家で良かった、と(←表現に誤りあり)(ただし故意)。
「……昔の事を蒸し返すのもどうかと思うんですが、その、当時傷跡が残らないよな処置は取らなかったのか、と……
 あ、いや、責めたい訳じゃないんですけど、ちょっとなんていうか………」
 ふ、と柔らかい笑い声が聴こえた様な気がした。吉田の母親から。
「大好きなのね、あの子の事」
 言われて、佐藤はやや顔を赤らめて、しかしはっきりと頷いた。
 吉田が好きだ。彼女を傷つけるものから、守りたい。今もこれからも、そして手の届かない過去にだって。だから、目の傷の事を、こんなにも引きずってしまうのだ。
「そりゃあね、学校からの連絡で吃驚したわ。慌ててすっ飛んで、すぐにでも病院に連れて行こうと思ったけど……」
 そこで、ちょっと困ったような顔になった。自分がこの問題を引きずっているように、彼女の中でも決着のつかない選択をしたのかもしれない。佐藤は知っている。結局、吉田は病院には行かなかったのだから。
「でもねー、連れて行くって時に、あの子が大泣きしちゃって……正確に言えば、傷口を縫うって聞いた時からね。
 顔に注射とかするの嫌だー!って。……そりゃ、確かにね。ついさっき顔に怪我して痛い思いしたばっかりなのに、また顔を弄られるのは、耐えられない事かも、って。傷が治っても、心の方が参っちゃうんじゃないかって……」
「……………」
 その言葉に、佐藤も息をのんだ。これまで、何で治療しなかったのだろう、とい事ばかり捕われていて、何故しなかったのかという理由を考える事を怠っていた。自分の至らなさに、佐藤は顔を顰める。
「それで、お父さんとも相談して、とりあえず消毒はしっかりしておいて、化膿したりしなければ手術とかはそのまま様子見って事にしておいたの。
 痕にはなるだろうけど、そういうのは後になっても治せるってお医者さんからも聞いたし。
 で、本人が全く気にしてないから今もあのまま――って事。だから、隆彦君が気にする事なんて何もないのよ……って、言っても気にしちゃうわよね」
 そう言って、彼女は苦笑を浮かべた。しかし、最後の言葉は、どちらかと言えば自分自身に向けたように思えた。
 吉田が怪我をしたのは佐藤の責任だが、傷跡にしてしまったのは、母親の責任なのだ。すぐにでも適切な処置をしていたら、吉田の左目の下は綺麗な筈だった。
 でも、手術を強行する事は、吉田の訴えを無視するという事だ。無理に手術した場合、あるいは傷跡なんかより、余程厄介な精神的な疾患を抱えていたかもしれない。母親の懸念通りに。
 佐藤はふと思う。似た状況になった時、自分の親はきっと子供の言う事なんて無視して、無理矢理でも手術をさせるのだろう。子供の怪我は親の怠慢だと、周囲に責められるのが嫌で。そういう親たちなのだ。
 それでも、そんな親たちでも、子供の身を案じる気持ちがあったのだと思える日が来るのだろうか。考えれば考える程、答えが見つからない。
「でもまあ、今はあのままで良かったと思ってるわ。だって、あの傷跡は隆彦君との大事な馴れ初めの証ですもんねv」
 これまでの空気を一拭するように、とても明るく言う。佐藤も、自分に纏うものを穏やかにした。
 痩せて、帰国して。自分の周りは以前と何もかもが変わってしまった。そんな中、吉田だけは変わらず、傷跡すらそのままで、佐藤はどれだけ救われただろう。
「それに結局、傷物にした責任は取ってくれるんでしょ?」
 にやにや、と楽しそうに言う。深く勘ぐれば、別の意味での「傷物」も含まれていたかもしれない。
「――ええ、勿論。取りますよ。他の奴になんか、絶対にあげません」
 独りよがりにすら聴こえそうな、佐藤の断言を、しかし相手は笑って聞いている。
 その時、風呂から上がった吉田の、佐藤を探す声が聴こえる。話しこんでいて、時間の感覚を忘れてしまった。
 2人はどちらともなく、今の話は吉田には内緒だと目配せで伝えあった。
 貴方が何よりとても大切なのだと、それを本人知られるには恥ずかしい事もあるのだ。


 色々あった一日だが、就寝の時だ。一日、というよりせいぜい数時間だが、吉田の母の来訪はそれだけの迫力というか、威力があった。佐藤を探していた所、客間から顔を出した佐藤に、また自分をダシに2人が笑い話をしていたのだ、と強ち間違いでも無い予想を立てた吉田は、またプンスカと怒っていた。頭から出ている湯気が、風呂上がりだからなのか判別が難しい程に。
 そんな吉田だったけど、今は同じベッドに潜っている。相変わらず、いかにもへそを曲げて居る表情でだが。
「じゃ、寝ようか」
 佐藤はそう言って、ベッドサイドのランプを落とそうとしたが――
「…………」
 吉田からの視線を感じ、一旦手を止めて彼女の方を見る。
 じぃ、と訴えるような熱いまなざし。ベッドの上というシチュエーションで、その意味する事は必然と導き出されるのだが。
「吉田……?」
 自分の名前を呟いた唇に、吉田は自分のを合わせた。何度も角度を変えて、全部を余す所なく触れて感じる。柔らかい吉田の唇の心地よさに、キスの合間に呼気を零した佐藤の隙を狙って、吉田は舌を指し込んだ。かなり積極的な行動に、佐藤の目が見開く。吃驚した為に、反射的に舌が引っ込んでしまった佐藤に、吉田はキスを止めて睨んだ。上目づかいで。
 そのまなざしが責めて居る。したくないのか、と。
「いや、お義母さんが……」
 佐藤は、自分がすぐに乗れない理由を言う。
 すぐ隣では無いけれど、今日は寝泊まりしているというのに。しかし、吉田は。
「母ちゃん、一度寝たら起きないから大丈夫だよ」
 そう言って、佐藤の上に乗り上げる。何せ体格差のある2人なので、よいしょっという感じだ。いっそ微笑ましかった。
 真正面に来た吉田は、一層ムーッと剥れて居た。
「何だよ!! 佐藤ってば、ずっと母ちゃんと話してて!! 母ちゃんも母ちゃんだ!!父ちゃんが居ないからって、人のモンに手を出すなっつーの!!!!」
 人のモン、と佐藤は感動したように胸中で呟いた。
「キスなんかしちゃってー………!!」
 また思い出したのか、カッカとしている。まだ玄関での一件を引きずっていたのか、と佐藤は喉の奥で笑った。至近距離の為、すぐに吉田が気付き「何笑ってんだよ!」と怒られてしまった。ごめんごめん、と佐藤は吉田の頬にキスをする。
「吉田がしたいなら、勿論するよ。俺は」
 そう言って、細い吉田の腰を引き寄せ、さっき途絶えてしまったキスを続きの様にする。舌で口内をまさぐり、気分や身体を昂らせていく。普段は佐藤から仕掛けてばかりのその行為は、今日は吉田も初めから応えて居る。むしろ、率先するように。
 ヤキモチが手伝って、今日の吉田は積極的で美味しそうだ。
 佐藤は、多分寝て居るだろう彼女の母親に、目を細めて密かに感謝した。


 朝――やや気だるげ、というか熱っぽい感じで2人は目覚めた。熱っぽい、というのは勿論体温の問題では無い。……まあ、身体は熱いかもしれないが。
 起きてみると「おっはよー!」という声と共に、すっかり揃っている朝食があった。用意したのは、勿論現在吉田と佐藤以外の1人。宵っ張りの彼女は、昨日の就寝が早くて、おかげで目が覚めるのも早かったそうだ。
 朝は、パンだった。朝食を作るつもりで居た吉田の母親が持って来ていたのだ。
 朝食にパンは久々だな、と佐藤は思った。吉田が来てからは、ご飯が多かった。
「ちゃんと起きれるようになったのね〜 偉い偉いv」
「なんだよ!子供扱いして!」
「あ、もしかして、今も自分で起きてるんじゃなくて隆彦君に起こして貰ってるんじゃないの?」
「……そっ、それは………」
 吉田は何度も佐藤の方をちらちらと見て、時々は、とだけ言った。笑いを押し殺す佐藤。
 まあ、今に至っては吉田の目覚めがいまいちなのは、彼女だけの責任とも言えないから、この場では沈黙する事で吉田に加担しよう、と佐藤は思った。昨夜も、つい時間を忘れて吉田を堪能してしまったし。
「まあ、吉田を起こすのも好きですからv」
「ちょっ、佐藤―――!!」
 それでは自分で起きて居ないと言われたのと同義だ。吉田のぎゃんぎゃんとした文句を受けながら、結局こうなったなー、と佐藤はそんな自分が嫌いでは無かった。


 吉田の母は、夕飯も作ってくれると言う。作った後に帰ると。
「晩御飯って、何?」
「内緒v でも、アンタの好きなものよ」
 ふーん、と吉田は頷いて、あれこれと予想しているようだった。
「――そうだ、母ちゃん。今度から、来る時は前もって言ってよ」
 2人を見送る為に、玄関先に3人が集まる。いってきます、の前に、吉田が言った。やや、顔を赤らめて。
「……そしたらさ、もっと色々準備出来るっていうか……美味しい物とかさ」
 ぼそぼそと言う。いきなりの来訪で、ちゃんと出迎えられなかったのも、昨日の不機嫌の原因だったようだ。やっぱりこの親子は仲が良いな、と見ていて佐藤は幸せな気持ちになれた。
「うわっ!な、何!!!」
 いきなり母親に抱きしめられ、吉田はばたばたと暴れた。結構な力らしく、苦しい様だ。
「もう、あんたってば。たまに可愛い事言うのよね〜」
「たまにって………」
 何か言いたそうに、吉田は口を動かした。確かに反論も肯定もしづらい事だろう。
 娘を抱きしめたまま、視線を真っすぐ佐藤に向けた。なんとなく、姿勢を正す佐藤。
「こんな子だけど、やっぱり可愛い1人娘なのよね。隆彦君、幸せにしてやってね」
「なっ!ななななな、何言って!!!」
 顔を真っ赤にする吉田。朝からすでに体力を消費しつつある。
 努力します、と佐藤は返事をした。そして続けて言う。
「でも、絶対吉田より俺の方が幸せになっちゃいます」
 それは幸せそうな笑顔で。


 吉田の好物とだけヒントを残した夕食の正体は、カレーライスだった。
 やっぱり子供扱いしてるー!と憤慨しながらも、吉田はしっかりお代りをした。久々の母の手料理は、やはり美味しいようだ。
 初めて食べる筈のそのカレーライスは、なのに佐藤にとって馴染みのあるような、いつも味わってるようなものが根底にあった。
 つまり、吉田の作る料理は、母親の料理が源流なのだ。何だかその事実が、佐藤には酷くくすぐったかった。
 食後に紅茶を飲んで居る時、佐藤の携帯が鳴る。吉田の母親からで、出張帰りの自分の夫と夜のデートを楽しんでる報告だ。吉田の方には送って居ないらしい。つまりは、自分が教えろというお達しだ。
「ん? 今のメール、どうかしたの?」
 携帯の画面を開いたままの佐藤を見て、吉田が訝しそうに言った。しかも佐藤は、凄く楽しそうだ。
「ほら、お義母さんからだよ」
 デート中の画像付きだ。佐藤は、画面を吉田の方に向けて差し出す。
「んー? 一体、何処に居るんだろ」
 吉田が画像をよく見ようと、身を乗り出す。
 そうなる体勢を狙って、佐藤は近くなった吉田の顔に悪戯のようなキスをした。




<END>