ここ最近、佐藤の様子が妙な事に、多分吉田だけが気付いていた。他の誰も、そんな事を口にしない。「佐藤君は今日も格好良かったわv」というセリフが出る程に。
(なんか……落ち込んでる……のかな? 悩み事とか出来たのかなぁ……)
 まさかとは思うけども、この前の英語の小テストがあまりに残念な結果で、学習指導の能力について思い悩んでいたりするのだろうか。ここで言う残念な結果のテストとは、勿論というか吉田の答案を指す。佐藤のは、息をするより自然に満点だった。解りやすい模範解答として、佐藤のを例に教師が取り上げたくらいなのだ。
(つ、次のテストは頑張ってみよう!)
 何度目か解らない決意を胸に、吉田は拳を握ったのだった。


 ここ最近の、何かの流行りのようになってしまった悪質な悪戯行為は、時の経過によって鎮静化していったようだ。あんまりやると、警察も本腰を入れて来る、というのはさすがに解っているらしい。便乗する輩も、多分もう出ない。
 まあ、佐藤としてはそれが依然続こうが、あるいはエスカレートしようがどうでもいいと言えばどうでもいい。要は、その矛先が吉田にさえ向かわなければいい。そして、もし巻き込まれそうならば、その相手を徹底的に叩き潰す。先日のように。
 実名と住所を控えたから、懲りない真似をしたら社会的に抹殺出来る。しかし、男の顔を見た限りでは、そんな事も無いだろうけど。
 あの手の卑劣な輩とは、出来れば関わりたくは無い。
 人と付き合うのが下手くそで、鬱積した感情を上手に吐き出す術が見つからず、そして挙句の果てには罪を犯す。そんな彼らと自分は、どこが違うんだろう――佐藤は、そう思ってしまうのだった。
 最初の頃は、再会の感動と自覚による高揚感で突っ走れたけど、こうしてある程度形が出来初めてきたら、その仕上がりが気になった。この関係は、本当に正しいものだったのだろうか。
 あるいは、会うべきでは無かったのかもしれない。知らないふりを決め込むべきだったのかも。
 自分が尾行しているのに、全く気付かない吉田。
 このまま、攫って閉じ込めて、自分だけにしてしまえば。
 吉田を手にかけようとしていた、あの手。別の誰かのものだから、捕まえられた。
 自分のだったら――多分、止められない。
「…………」
 ベッドの上で膝を抱えた姿勢で、いつまでそうやって物思いに更けていただろうか。電気もつけないで居たのを、佐藤は今、気付く。
 こんな時でも腹は空いた。佐藤にとって食事は、喜びを感じる行為というより生きる為に仕方ない慣習みたいなものだった。ただ、吉田と居る時はその限りでは無い。どうしでも出来てしまう眉間に皺を、他の人であれば、殺意すら枠かもしれない苛立ちも、彼女からの指摘だとじゃれ合いの延長のように思う。最近の、その出来事を思い出し、佐藤は口元を微かに緩める。それは自嘲の意味も込められていた。


 あくる日。
 食事中に顔を顰めるのは自分だけだと思っていた佐藤は、その考えを撤廃しなければならない、と思えて来た。まあ、吉田の眉間に皺が寄って居るのは、口にした食事が原因では無く、手にした英語の教科書なのだろうけども。片手では焼きそばパンを口に運び、もう片手は机の上に開かれた教科書に置かれている。ぺらり、ぺらりと何ページか進んでは、また戻る。本日の英語の授業はすでに終えているから、復習をしているのだろうか。顔を見て判断すると、あまり芳しくないようではあるが。
「吉田。食事中に読書は行儀悪いよ」
 こんな事を言う柄じゃないけど、と自分に突っ込みながら佐藤は一応言ってみた。しかし。
「……いい。読書じゃなくて勉強だし」
 ちゃんと受け答えているのかもしれないが、どこかボケているような返事だった。どうした、吉田。というか、何があった吉田?
(英語なんて……一番苦手な科目なのに)
 だからこそのこの態度なら、ある意味正しいのかもしれないけど。
 まあ、とにかく。
 教室に居る時はどうあっても互いの顔をじっくり見れないのだ。折角、こうして昼の休み時間はオチケンの部室で2人きりなのだから、こっちを見て欲しい。あと、楽しい顔で食事をして貰いたい。
 と、言う事で、佐藤は強制阻止に出る。吉田の教科書を取り上げた。
「あああ!何すんだよ!」
「そんな難しい顔して食べたって、美味くないだろ」
「佐藤に言われたくないやいッ!」
 まあ、そうだな。と否定はしない佐藤だった。その後、吉田の教科書を巡り、机の上で激しい争奪戦が繰り広げられている……と思うのは吉田だけで、佐藤はいかにも容易く、取り返そうとする手から逃げていた。
「……もー!」
 それまで向かい側に坐っていた吉田はついに立ち上がり、真横に来て佐藤と対峙する。実は、これを待っていた佐藤だ。
「わ!」
 教科書を取り返す筈だった腕は、佐藤に捕まってしまい、そのまま膝の上にぽすん、と乗せられてしまう。自分の体重が、相手にとって微塵の重さもない事が、吉田には逆に恥ずかしかった。ある意味、贅沢である。
「はいはい。今は食事の時間だろ。ちゃんと食べなきゃ」
「だ、だって……むぐッ!!!」
 文句を言おうとした吉田の口に、佐藤の総菜パンが詰められていた。いきなり口に突っ込まれ、あぐあぐ、と眼を白黒させながら、何とか食べる体制に口の中を整える。
 佐藤が今日買ったパンは、ちょっと見た目が変わっていた。なんというか、手巻き風のパンというか、具を丸くて平たいパンがぐるりと巻いている。柔らかい方のワッフルみたいだと吉田は見て思った。
(えーと、何て言う名前だったかな。確か魚みたいな名前だったぞ。イワシ…じゃなくて、あ、そうだ、タコがついていて……)
 タコス、という正解を導きだすのは、吉田は出来なかった。記憶力の問題では無く、別方向からの妨害に遭ったのである。
「!!!! か、辛い!! 辛い―――――――!!!!!」
 最初は普通だったのに、何回か噛み締めると途端に辛さがヒリヒリと舌を、いや口全体を攻撃して来た。
「ああ、やっぱり? チリソースだから、吉田には辛いと思ったんだー。青トウガラシが入ってるんだってv」
 トウガラシって、赤いのより青い方が辛いんだよなー、と、吹き抜ける春風のように爽やかに笑って言う佐藤だった。吉田の口の中は、いっそ暴力的なまでに辛い。
「ううううう―――! 水! お茶お茶――――!!!」
 口の中を沈める為に、吉田はお茶を欲した。が、いかんせん、自分の飲み物は真向かいだ。手をばたばたさせるものの、佐藤の膝の上という位置からでは届かない。
「ホラ」
 と、言われ、差し出されたペットボトルを、吉田は口にする。佐藤の与えるものは基本的に危険と思って良いが、差し出されたのは佐藤もさっきまで飲んでいたミネラルウォーターだから、細工はしてないと睨んだ。ごっぎゅごっきゅ!と吉田は半分くらいを空にした。
 まだヒリヒリするものの、当面の危機は去った様に思う。ふぅ、と溜息をつく吉田。
「もう!何てもん食わせんだよ!!!」
 辛いの知ってるくせに!と吉田は眼を吊り上げて怒る。
「言っても本を読むのを止めないからだよ」
 しれっと佐藤が言う。
 出来ればやはり、佐藤も好きな人とは甘いひと時を過ごしたいが、とりあえず怒りとはいえ、自分に意識が注がれているのが解り、気分が良い。ペットボトルを返して貰い、一口水を含む。
 その顔を見て、何笑ってんだ!!と吉田の怒りが爆発する前、それは突然ぷしゅ〜、と萎える。
「?」
 吉田が怒るのを承知で、緩む口元をあえて引き締めないでいたのだというのに、この反応はなんだろう。しかも、真っ赤になっていて、とても可愛い様子になっている。何かした覚えは無いのに。しかし、吉田の視線の先に気付き、すぐにピンと来た。
「……ああ、間接キス?」
「!!!」
「今更気にするなんて。吉田可愛いv」
 今更。そう、今更なのだろう。だから吉田も、口に出せずただ赤面していたのだ。むぅ、と照れるあまり少し怒ったような顔になった吉田に、佐藤はちゅっvと軽い音を立てて額にキスをした。
「何、今日、解らない所でもあったか?だったら、帰りに俺の部屋で教えてやるよ」
 佐藤としては何でも無い日でも、ごく当たり前に吉田に自分の部屋に来て欲しいのだが、いかんせん吉田の方がそれを由としない。折角出来た口実を、佐藤は逃がすものかと食い付いた。昼休みに勉強するまで行き詰っているのだから、この誘いは乗ってくれるだろう。しかし、佐藤のそんな予想とは裏腹に、吉田は快い返事をすぐには出さなかった。いつもなら、縋るように頷いてくれるのに。英語が絡んだ事に関しては。
「ん〜……ちょっと、自分だけで頑張ってみようかなって……」
「? どうして?」
 もしかして、また母親と賭けのような約束でもしたのかと佐藤は勘ぐってみる。今までにも何度かあった事だ。
 そんないっそ友達みたいな吉田の母子関係が、佐藤にはちょっと羨ましい。それも自分も母親とそうなりたい、というよりは、むしろ吉田達の関係に自分も混ぜて貰いたい、というような具合で。
 だって、と吉田は続ける。
「いつも佐藤に教えて貰ってるのに、いい結果残せないし……」
「だったら、尚の事自分だけでやっても良い結果にならないんじゃないか?」
「………そうだけど……でも、やってみないと解んないじゃん!」
 吉田は言う。
 やってみないと、というか自分と会う以前、赤点&再々追試の歴史ばかり辿っていただろうに。まさかその事をすっかり忘れている訳でもない筈だが。
 吉田が頑なな姿勢を取る原因が、佐藤には解らなかった。軽く首を傾げる。
 だって、と吉田はもう一度言った。
「佐藤だって、折角教えてる相手が全然出来ないとなんていうか……嫌だっていうか、落ち込むだろ?だから最近、元気無いんじゃないの?」
「………は?」
「この前、英語の小テスト戻った頃くらいから、佐藤、ちょっと可笑しかったもん……」
 しょぼん、と佐藤の膝に乗ったまま、吉田は肩を落とす。小さい吉田がますます小さくなった。
(英語の小テストって……ああ、)
 吉田はそれを原因と思ったらしいが、タイミングがその時だったのは全く偶然だ。佐藤が気に取られていたのは、吉田を狙おうとしていた犯人を取り押さえた事なのだから。そう言えば、テストがあったような気がするなぁ、と佐藤はちょっと前の記憶を掘り返す。酷い点数だったかもしれないけど、佐藤は半ば受け流すように「ま、次頑張れ」くらいにしか突っ込まなかったと思う。吉田はそれもあり、佐藤が吉田の英語力向上について見限ったのだと思ったらしい。
(何ていうか…全く……)
 自分の感情を読み取るのは鋭いくせに、その考察がまるで見当違い。あまりに吉田らしくて、微笑ましく思えてしまう。
 それにしても、だ。
 赤点取って追試になるまで、自主的な勉強なんて率先しない吉田なのに。
(俺の為にならするんだ……v)
 何て愛しい。思えば自分の為に何かをしてくれる人なんて、吉田以外に居ただろうか。家族は面子と世間体の為、生んで育ててくれた恩はあるけれども、そこに無償の愛があったのかは甚だ疑問だ。罪の意識の無い苛めから、助けてくれたのは吉田だけ。文字通り、身体を張ってまで。
(大好き)
 佐藤がその気持ちを抱く度、思い出す顔は吉田なのだと思う。例え、将来隣には別の誰かが居たとしても。
 今は腕の中に居る吉田を確かめるように、佐藤はぎゅ、と軽く抱きしめた。あわわ、と他愛ない抱擁だけでドキマギしているような吉田が、本当に愛しい。
「まあ、確かにその頃色々考えてたけど……別に、吉田の頭が悪いからじゃないよ」
「え……そう、なの?」
 吉田は眼を瞬かせる。だったら、何を悩んでいたのか気になるが、言わない相手から聞き出すようなマナー違反は吉田はしないのだった。とりあえず今の佐藤には、特に異変も感じられないし。抱きしめる腕は、いつものように温かくて、少し熱くて。でもまさに包み込むように優しい。
「そうそう。っていうか、賢くなったら逆に困るくらいかなー。だって、教えてやれなくなるし」
「うー……教えがいもないと思うけど……」
「そうでもないよ。吉田を見てると色々楽しいしv」
「……どう楽しいかは聞かないから。絶対」
 自分の訳した答えに、佐藤が声も無く肩を震わせていたのを思い出し、吉田はむっつりと答えた。そんな吉田に佐藤は眼を細め、自分の顔を吉田の頭に乗せるよう、より密着し、さっき胸中で呟いた事を、今度は声にして出した。
 大好き、と。
 ただの呟きに、しかし吉田は真っ赤になりながら自分もだと返事をした。
 なんだか泣きたいような幸福感に包まれ、佐藤は次は小さい唇へと口付けたのだった。
 


 自分達は会ってはいけなかったのかもしれない。もし、そんな間だとして、辿る結末が最悪を迎えるのだとあらかじめ解っていたとしても。
 何度も何度も繰り返す事が出来ても、出会う度自分は吉田に惹かれ、想いを伝えて彼女の気持ちもこちらへと引っ張ってしまうのだろう。
 最悪の結末を迎える予感より、この予想の方が、ずっと強かった。




<END>

*佐藤と吉田はお互い、好きな人の為なら何でも出来る!って感じだと思う。
 吉田の場合だとそれがプラスに働くけど、佐藤はマイナスに向かうのかなーって。別れたくないのに別れちゃったりとか。