はっきりした性格と顔立ちでで可愛いと評されそうなサキちゃんだが、今日は朝からご機嫌斜めだった。
 とにかく誰かに自分の不満をぶちまけたいと、教室に入って一番近い集落――吉田も居たそこ空間に、顔を突っ込む。
「ねえ、ちょっと聞いてよ!朝からマジ最悪!痴漢にあった!」
 その声に、周りの声が「えー!」と驚きの叫びで揃う。
「相手は!?」
 と、早速突っ込んだ質問が飛ぶ。
「ううん。すぐ後ろ見たけど誰か解らなくて……だから、適当に近くにあった足踏んでやった」
 あはは、と軽快に笑うサキだった。それで犯人じゃなかったらただの不幸だな……と吉田は顔を引き攣らす。
 でも、痴漢なんて立派な犯罪じゃないか。そんなのに朝から遭うなんて、さぞかし胸を痛めただろう……と、吉田が慰めの言葉を考えていると。
「何かさぁ、やっぱり制服の時の方がよく遭わなくない?私服の時はそんなでもないもん」
 え、この子も痴漢に遭った事あんの、と吉田が顔をそっちに向ける。
「あー、確かに!それでさ、何か衣替えの時に増えるのよねー。夏でも冬でもさ」
 え、こっちも?とまた顔を変える。
「解る解る!増えるよねー」
 やいのやいのと口々に言い合う。
「ねえ、吉田もそう思わない!?」
「え!?ええ、うーん、そ、そうだねー」
 いきなり同意を求められ、不自然なくらいに首を縦に振る吉田。
「ったくもう、なんでこんな事すんのかしらね!そんなに女の身体に触りたけりゃ、そういう店に行ってしっかり金払えっつーの!」
 それは問題点として合っているのかずれているのか、よく解らない。しかし吉田が口を開かないのはそこを気にしているからではなく。
(……み、皆痴漢に遭ってるんだなぁ……)
 まさか今更、自分は遭った事無いとは言えない吉田だった。


 今日の昼休みは井上と高橋と一緒に取る事は予定になっている。高校に入って暫く経つけど、やっぱり中学から一緒の顔を見るとほっとするし、何よりこの2人は周囲並に佐藤に心酔してないから。高橋は元より、井上はたまに皆と一緒になって騒ぐけど、それは芸能人へのノリと似たようなものだ。
「そういえばさ」
 もぐもぐとサンドイッチを頬張りながら、吉田が言う。
「今日クラスで、痴漢に遭った人が居てさー」
「ええー、マジで?ヤダ、遭わない様に気をつけなきゃ」
 その時の井上の顔は、過去被害に遭ったような感じだった。あのまま、自分は遭った事が無いけど言いだせなくて、2人はどう?と、続く筈だったセリフはその為一旦途切れる。
「……とらちんは遭った事ある?」
「ああ、たまになー」
「えっ!!!」
 その時吉田は、高橋が「いや、遭った事ねぇよ」と言ってくれるのを期待したのだが、返って来た返事は見事それを裏切るものだった。
「前にな、触った手を掴んだってのによ、言いがかりだ冤罪だとかぬかすもんだからその場でぶん殴ってやった」
 いかにも彼女らしい解決法である。
「とらちん、凄いねぇー。私なんて最初は声も出せ無かったよ」
 井上が感嘆のため息と共に言う。
「だって、セコい真似してるのはあっちじゃねぇか。なんでこっちが遠慮して黙ってなけりゃならないんだ?
 なあ、ヨシヨシもそう思うだろ」
「え!?ええ、うーん、そ、そうだねー」
 いきなり同意を求められ、不自然なくらいに首を縦に振る吉田。本日2度目。
「だろ?だから井上も、もっと言ってやれって」
「うん。まあ、遭わないのが一番良いんだけど、仕方ないのかなー 痴漢なんて1人捕まえても別の出て来るしさ」
 暗にゴキブリ扱いの井上だった。
(ふ、2人とも合った事あるんだ……)
 ここだけの話、中学から女性らしかった井上とは違い、喧嘩で明け暮れた高橋は自分と同類だと思っていたのに。
 結局ここでも自分の実情は言えない吉田は、言う筈だったセリフをサンドイッチと共に飲み込んだ。


「吉田、何か落ち込んでない?」
 放課後。佐藤の部屋に立ち寄った――というか連れ込まれたというか――吉田は、紅茶を差し出されると共に隣に位置する佐藤にそう言われた。
「え?別に、大したことじゃないし……」
「大した事じゃないけど、落ち込んでるんだな」
 佐藤に言われ、一瞬前の自分の失言に気付いた吉田だった。こうなると、佐藤はもう何を言っても見逃してはくれない。見逃すつもりなら、そもそも最初から何も聞かないのが佐藤だ。
 あのね、と吉田は手をもじもじさせながら呟く。吉田のそういう小動物っぽい仕草が、佐藤はとっても好きだ。
「……クラスで……いや、校内で1人だけかもしんない」
 ここで言う「1人だけ」というのは、勿論吉田の事を指しているのだろう。
 何が、と佐藤が尋ねる前に言う。
「痴漢に遭った事無いの……」
「………………………………………………………………」
 佐藤は、学年1位の頭をフル回転させ、吉田の発したセリフの正しい意味と汲み取ろうと試みる。
「……吉田。間違ってたら殴ってくれて構わないけど」
 そんな前置きが要るくらい、はじき出した答えはあんまりなもので。
「もしかして、痴漢に遭った事無いからそんな凹んでるの?」
「……………………」
 吉田は無言だったが、ここでのその反応は肯定を意味する。
 佐藤は、たっぷり吉田の顔を眺めた後、あまりに深いため息をついた。
「お前……その、最近何とか赤点を免れるようになった頭で考えてみろよ?そんなもん、遭った事が無い方が良いに決まってるだろ」
「そ、そうだけどさー」
 吉田は言い訳がましく呟き、淹れてくれた紅茶を一口含んだ。
「そんな、痴漢もスルーするような体型なんだって思うと、何て言うか……うぅー」
 真っ赤になって唸った吉田は、そのままゴクゴクとお茶を飲み干してしまった。それから、愚痴るように言う。
「……最近、こういう事気になっちゃうんだもん……仕方ないじゃん」
「最近?」
 またしても佐藤の指摘で自分の失言に気付いた吉田だ。
 以前はそうでなくても、今は気になる。その明確な相違点は、なんだ。
「ねえ、吉田。どうして最近?」
 きっと、その答えに佐藤はもう気付いている。けれど、吉田の口から直接聞きたいからこんな真似をするのだ。吉田もそれを解っているものの、だからと言って上手くはぐらかしたりあしらったりなんて、出来ない。良くも悪くも根が真っすぐなのだ。
「だ、だだだ、だからそれは……っ」
「前は気にしなかったのに、最近気になるって……どうして?」
「!!!!」
 最後の「どうして」の部分を、耳元であえて低く呟く。囁きというよりは愛撫のような声に、吉田の全身が泡立つ。
 これは白状するまであんな事やこんな事をされる流れだ。熱くなったのか悪寒がしたのか、ともかく身体に嫌な予感をひしひしと覚えた吉田は、大人しく観念する事にした。
「〜〜〜、佐藤と付き合ってからッ!」
 聞きたかった言葉を聞き、佐藤はとても嬉しそうに笑う。一方、言いたくない事を言わされた吉田と言えば、顔を顰めるしかない。ただ、その顔はとても真っ赤だから、可愛いとしか言いようが無かった。佐藤には。
「そうかそうか。俺と付き合ってるから、他の男の視線も気になるんだな?」
 つまり、吉田の中で「痴漢に遭わない」→「男にとって魅力的な身体では無い」→「佐藤にとってもそうなのかな?」という考えにシフトチェンジしていった訳だ。全く見当違いも甚だしい懸念だけど、自分に関する事となればこんな悩みすら愛しく思える。カラクリが明らかになった今だからこそだが。
 しかしにこにこする佐藤とは対照的に、吉田は居心地が悪くなる。もう、さっさと帰りたい。恥ずかしくて堪らない。
 そんな吉田の胸中を特に察したという訳でもないが、佐藤はその小さいな肢体を腕に閉じ込めた。はわわわ!と吉田が慌てる。
「バカだな、他のヤツなんて気にするなよ。俺が良いって言ってるんだから、その他なんて目もくれなくていいだろ」
 バカだな、という割には、佐藤の声は蕩け切って酷く甘い。その甘さに酔ったように、吉田はクラクラして来た。
 それから、改めて吉田を膝の上に抱え直し、深く口付けた。吉田が拒む校内でないのを良い事に、狭くて熱い、そして甘いような口内を存分に味わった。終わった後、くたん、と力が入らなくなった吉田を見れば、その度合いが解ると言うものだ。
「吉田、防犯ブザーとかちゃんと持ってる?」
「んぇ?」
 息を整えようとしている時にそんな事を言われ、吉田は呆けた声で返事するしかない。
「今まで被害に遭って無いからって、これからも遭わない保証にはならないしさ……。それに、吉田ってばどんどん可愛くなってるしv」
 にっこり、と笑いながら投下された爆弾に、まんまと吉田は被爆した。顔が爆発したみたに熱い。
「!! そ、そそそ、そんな、そんなんっ……!」
 そんなの言うのは佐藤だけ、と言いたい吉田だが、激しい口付けの後のせいか、上手く口が回らない。そんな吉田を、あやすようにくしゃりと頭を撫でる佐藤。そして、続けて言う。
「痴漢に遭ったら、ちゃんと言えよ?絶対そいつ見つけ出して、法的にも社会的にも生命的にも抹殺してやるからなv」
「…………………………………………うん。」
 社会の秩序と平和の為に、自分は痴漢に遭う訳にはいかないのだな、と、佐藤の笑顔の裏に本気を見つけた吉田は、そっと思った。



<END>