人によってはクリスマスよりも重点を置くかもしれない、2月14日バレンタインデー。
 その日に好きな人へチョコレートを贈るという儀式は、一部の企業が商品を多く売り出す為の戦略だという事実を知っても尚、その日が恋人達の日という認識は強い。
 それまでは傍観者であった吉田も、今年からは当事者として頭を悩ます事になった。佐藤は、一体どんなチョコを喜んでくれるだろう?
 もちろん本人に訊くのが一番失敗は無いのかもしれないが、吉田は喜びに加えて驚きもあげたい。少し掌の上から飛び出す事をしたいのは、プライドの問題だ。ずっと腕の中で守られてるのは性に合わない。自分にだって、佐藤には考えもしない事も出来ると、主張したいのだ。
 佐藤に直接相談できないとなると、佐藤に近い感性の人物に話を持ちかけるのが最も建設的だ。幸い、吉田はそういう人物に心当たりがあった。
「吉田さんからのプレゼントなら、隆彦はどんな物でも喜ぶと思うわ……と、いうのは、吉田さんの求める答えでは、ないのでしょうね」
「う、うん…………」
 あくまでも優雅に言う艶子に、吉田は恐縮そうに身を縮めた。難しい質問をした、というのもあるし、何より雰囲気に飲まれている。
 相談したい事があるんだけど、と艶子にメールを送った所、次に休日、お茶をしがてらにそうしましょv という快い返事を貰えた。そこまではいいのだが、通された店というのが、また前回ばったり遭遇した時、引きずり込まれるように連れていかれたホテルのサロンに負けず劣らず豪奢な雰囲気の店だった。こうして艶子に連れて来られなければ、吉田には一生縁が無いような。
 これもまた前回と同じように、従事者を追い払って2人きりにして貰っているがそれですぐに緊張が解れるかと言えば、勿論そうではない。キョロキョロと見渡すのも失礼なような気がして、しかし目の前の艶子をじろじろ見るのはもっと失礼だし、と吉田は視線の向け所に困っていた。頼んだティーセットが届けば、まだリラックス出来るかも知れないが。
 一方の艶子と言えば、吉田からのメールを貰った時点で浮かれていた。時期がらバレンタイン絡みに吉田が相談に来るかもしれない、という仄かな期待をしていた分、喜びも一入だった。おそらく吉田から聞いたのだろう、佐藤から「吉田に手を出したらこちらにも考えがある」という禍々しいメールを貰ったが、それがなんだというのか。
 ここは、是が非でも吉田の相談を上手にまとめ上げ、信頼と好感度を上げるチャンスだ。これを逃がす艶子では無い!
 秘かに滾る艶子の前で、吉田は出されたスイーツに小さな歓声を上げていた。ホワイトチョコレートのムース。苺のソースが白い皿の上を綺麗に彩っている。艶子が紅茶を入れ、午後のティータイムの始まりだ。美味しいね、と笑う吉田は、それはもう愛らしかった。
 しかしその可愛さにうつつを抜かしている場合でも無い。的確なアドバイスを吉田に送らなければ。幸い、というか隆彦と自分は感性がよく似ている節がある。その辺りを見込んで、吉田も相談したのだろう、というのは艶子にも解る。
「吉田さん、わたくし、ちょっと思いついたのだけど」
 何か閃いた艶子に、吉田がケーキを口に運ぶ手を止める。
 艶子は優雅に、且つ煌びやかな笑みを浮かべた後、その思いついた事を吉田に提言した。
 その内容はあまりに突拍子もなく、聞いただけで吉田を赤面させるものだったが、佐藤を驚かせる、という点で抜群の効果を齎すと吉田も思ったのか、真っ赤な顔のまま、頷いた。
 やってみる、と。

 今年のバレンタインは、日曜日と重なった。はたして休日に被さるのがいいのか、平日になっていた方が良かったのか、とりあえず佐藤としては部屋でまったり出来る休日になってくれてよかったと思っている。何せ今日は愛の日だから。
 普段から勿論佐藤の部屋は片付いているが、吉田が来るとなると前日からちょっと整理を心がけたりしてみる。紅茶の茶葉をチェックしたりとか、可愛い柄のクッションを普段使いのと替えておくとか。
 やがて、来訪を知らせるチャイムの音が室内に鳴り響く。心浮き立つまま、足も浮かせて佐藤は玄関へと赴いた。
「お邪魔しまーす」
 初めて来る訳でもないのに、毎回この手の挨拶を欠かさない吉田が、佐藤はとても可愛いと思う。節分を超えて、温かくなる一方の気温とは言え、まだまだとても寒い。鼻と頬が赤いような吉田に、早速温めておいた室内へと導いた。あったかーいvと吉田の顔が綻ぶ。
 そして、そわそわとする。チョコレートを渡すタイミングを計っているのだろう。判っていて、あえて放置する。吉田がどういう行動に見るか、見守りたくて。
 とりあえずチョコに関しては、艶子に相談したという事だから、味の面での不安はしなくてもいいだろう。何だかんだで、佐藤は艶子の信頼できる所は信頼している。それ以外、というか吉田関連には物凄く心が狭くなるけども。
「あの…………」
 吉田がおずおずと話を切り出した。来た、と佐藤の胸が弾む。
「バレンタインのチョコ……欲しい……よな?」
 欲しいに決まってるのに、何を躊躇っているのだろう。その愚かさすら、愛情を助長させるスパイスだった。
「うん、欲しいよ」
 今から頂戴、というニュアンスを込めて、佐藤が言う。判った、と言って真っ赤になる吉田。
 ごそごそと吉田に見合った可愛いバッグに手を入れ、とり出したのは、素っ気ないほど素っ気ない板チョコレートだった。コンビニとかで、100円で買えそうな。当然、そんなチョコでも吉田からの贈り物となると、佐藤は喜んで受け取るが、艶子に相談した結果がコレとは、少々意表を着くものだった。
 しかし、驚きはここからだ。吉田は、そのチョコを佐藤に渡さずにペリペリとパッケージを剥いでいく。そして、剥き出しになったチョコを、自らの口元へと運んだのだった。何をするんだ? とさしもの佐藤も、疑問を抱かずにはいられない。
 吉田は、そのチョコを口には含まず、唇に押しあてた。体温で溶けたチョコは、そのまま唇の上に乗る。それを、吉田は唇の端から端までやった。そう、まるで口紅を引くみたいに――
 まさか、と佐藤が思った時には、すでに顔前に吉田が控えていた。
 そして、チョコレートの香りを漂わす吉田の唇が、佐藤のそれにぴたりと当てられた。


 吉田の唇が離れた時、佐藤の唇にはまるで色の濃い口紅を塗った相手とキスしたような跡がついていた。まあ、実際にやっている事はほぼ同じだ。ひとつの違いと言えば、真っ赤なルージュではなく、ビターなチョコレートという所。
 むちゅぅぅぅぅ〜!!という音がしそうな程唇を押しつけ、離れると同時に吉田はぷはっと息継ぎをした。とても息なんて出来る状態ではなかった。
 文字通りにチョコレート色に染まった佐藤の唇を直視出来なくて、吉田は紅潮した顔を俯かせた。
 すると、急に体が浮く。
「わわわっ!? わぁっ!」
 気づくと、すぐ近くにあったベッドの上に吉田は横になっていた。起き上がるより先に、佐藤が覆いかぶさる。
「まだ残ってる」
「ふぇ? ―――――!!」
 ぼそり、と何事か呟いた佐藤のセリフを聞きなおす余裕もなく、吉田の唇をなぞる様に佐藤の舌が這う。丁寧に、執拗に。吉田の唇についているチョコレートをすべて舐めつくす。がっちりと顎を掴まれ、吉田は逸らすことも出来なかった。あわあわ、と吉田は目を回す。
(そ、そんな風に舐められたらっ…………!)
 背筋がぞわぞわっとしてきて、腰がじぃんと痺れてくる。佐藤によって確実に変えられたこの体は、刺激を受けてその先を期待するようになっていた。もどかしさに、膝をこすり合わせるような動きをする。
「!」
 チョコをすべて舐め取った佐藤の舌が、するりと口内へと侵入してきた。それに合わせ、衣服の中に掌が。佐藤に合わせてビターを選らんだ為、吉田には甘さが物足りなかった。苦味が先走る。
 それでも佐藤から施された事は、蕩けそうなほどに甘かった。


「やっぱり、艶子の差し金か」
「差し金って、そんな人聞きの悪い…………」
 自分から相談を持ちかけたのだから。なのに、まるで佐藤は艶子をすべての黒幕のように言う。実質的に正しい指摘をしているのは佐藤の方なのだか、お人好しの吉田には一生気付かない事だ。
「でもまあ、さすがと言うか、ばっちり聞いたよ」
「ホント?」
「ああ。久しぶりに理性ぶっ飛んだ」
 あっさり言う佐藤に、吉田は赤面して俯いた。さっきされた事を思い出して。
 さすがに本人が理性が飛んだと言っているくらいだから、もう激しかったなんてものではなかった。さっきのを思うと、いつもはかなり吉田に対して気配りに心を割いているのだと解る。ここで喜ぶべきかどうなのかが、お付き合いというものが初めての吉田には判断が難しかった。
 いつもなら、事後は風呂に入ってさっぱりする所だけど、来て早々こういう事になったからあまり入る気がしない。幸い、そう汗だくになる気温でもないし……おそらく、最低一回は、吉田が帰るまでにするだろうから。別に期待してないやい、と火照る頬を持て余して吉田が思った。
「最高のバレンタインだったよ」
 そう言って、佐藤は軽く触れるキスをする。ちゅっと音をさせて。堪らずふにゃり、と蕩けた吉田だが、まだ果たさなければならない事が残っているから、どうにか踏ん張る。
「あー……でもね、やっぱり、一応渡すチョコも選んだんだ」
 再びカバンをごそごそと漁って、吉田はカラフルな包装紙で包まれた、正方形のプレートのようなチョコレートの束を取り出した。
「これ、産地別のチョコなんだって。多分、表面に書いてるのがそれだと思うんだけど………」
 なんか有名なお店っぽいよ、と吉田が付け加える。この時期には、各デパートの催事場で各国から招き寄せたチョコレート展のようなものを開くが、先日そういう所へ母親と連れだって行ったのだそうだ。誘った当人は配偶者用というより、自分用みたいだった、と同行した吉田が言う。
 佐藤は、渡されたチョコを慎重に受け取った。真っ赤になった吉田は、手をもじもじさせながら言い訳のようにセリフを続ける。
「……ホントは、手作りにしようかなって思ったけど、チョコってなんだか作るの難しいみたいだし……ら、来年は早くから頑張ってみる………」
 その言葉に偽りは無いが、早くから頑張ろうと思っていたのは今年もだった。しかし、親も居る吉田の場合、秘密裏に何かを行うというのは難しい時もある。特に台所を使うのは。
 以前も、佐藤にケーキを焼いてあげた時も「なんか甘い匂いするわね」と母親が何気に言った事に、吉田は飛び跳ねるくらいに動揺した。別に、佐藤との事は何が何でも隠そう、というわけではないが、照れくさくて言いにくいのだ。
 そーいや母ちゃんは父ちゃんにチョコをあげたのかなー、とつらつらと思っていると、頭にぽん、と佐藤の掌が乗っかる。
「じゃ、来年も期待しておく」
「……あ、あまり期待に応えるよーなのは出来るかどうか…………」
 しどろもどろな吉田に、佐藤は小さく噴出した。
(さて、俺もホワイトデーに頑張らないとな)
 吉田に一矢報いられたのだ。ここで反撃しなければ、自分の名が廃る。
 いつだって、相手の頭の中を自分で一杯にしたい。そのためには、余程インパクトのある衝撃を与えなければ。
 とどのつまり、吉田がこの日に佐藤を驚かせようとしたのも、佐藤のこの考えとそう大差のない事かもしれなかった。
「じゃあ、紅茶を入れるから、そのチョコ早速食べようか。吉田も食べたいだろ?」
「え、でも、佐藤にあげたものだし…………」
 そういうこだわりとか、けじめに煩い吉田だ。そんな所も、佐藤にとっては魅力のひとつにしか過ぎないが。
「そんなに物欲しそうな顔されたら、食べれる物も食べにくいって」
「え、そ、そんなに!?」
「嘘だよ、ウ・ソv ――まあ、二人で食べたほうがいいじゃないか。もらった俺が言うんだから、従えよ」
 最後に、やや横柄な事を言って、佐藤は紅茶を入れに部屋を後にした。
 こんな日くらい、意地悪言ってからなわなくてもいいのに! と吉田は少し憤ったが、佐藤の後を追いかけ、吉田も部屋を出る。
 後には、食べられるのを待つチョコだけが残った。



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