きっと吉田の事は、小学の入学式で顔を見たのだと思うが、佐藤の記憶に潜りこんだのは小学の高学年に入ってから、もっと言えば苛められるようになってからだ。
 囲まれて蹴られて、何も考えない様にしていた頭に突然響いた怒鳴り声。
「コラ――――!! 何してんだお前ら―――――!!!」
 それが佐藤の中で一番古い、吉田の記憶。


 吉田は足が重かった。それよりもまず、気が重かった。
 これから、自分の学園生活の平穏を大いに脅かす障害と2人きりで話をしなければならないのだ。しかも、その目的と言えば彼の好きな人――本命を探り当てる事で。
 簡単には行かない事は解りきっているが、それでも頼まれて引き受けた以上は、遂行せねばならない。正義感と義務感に背を押され、吉田は自分が指定した中庭に向かって行った。


 吉田の計画としては、小池の意思を尊重し、彼女の名前は決して出さずにおこうと決めていたのだが、佐藤の開口一番、呼び出した目的とその発端をズバリ言い当てられてしまった。その衝撃と驚愕と屈辱で、きっと今の自分は壮絶な顔をしているに違いない、と吉田も思わずには居られなかった。
 バレたとなったら遠まわしな言い方は性に合わない。こちらも負けじとズバリと決め込むと――本命は誰なんだ、と問い詰めると、一瞬だけ佐藤の顔からあの笑みが消える。しかし気のせいなくらい一瞬で、吉田は気づいたものの、あまり深くは取らなかった。
 佐藤はまた笑顔を浮かべ、タダで教えたくないなー、なんて茶化して吉田を翻弄する。苛立った吉田から、インケン野郎との称号まで貰った。直な吉田の感情を一身に浴びて、佐藤はとても楽しそうだ。
 すっかり憤慨しきった吉田に、佐藤は言った。
「じゃあさ、俺とデートしたら、教えてあげる」
「…………………は?」
 吉田が気の抜けた声で返事する間に、上空を飛行機が通過して行った。
「デートだから、勿論全部俺の奢りで。どう?悪い話じゃないだろ?」
「……えと、あの、一体何を言ってるんだか……」
「まあ、誤解されて困る人が居るっていうなら、そこまで俺も鬼じゃないけど?」
「……いや、そんな人は居ないけど……」
 吉田がうわ言のように返事をすると、佐藤は上機嫌になった。
「へぇー、吉田、好きな人居ないんだ♪」
「………あ! 何、逆に聞き出してんだッ!」
 急に宇宙語(吉田にとって)を話し始めた佐藤に、一瞬ポカンとなってしまって吹っ飛んだ怒りが、再び湧き起こる。この時点で吉田は佐藤の本当の素姓や胸の内を知る筈も無いから、その笑みは単純にバカにされていると思う。だから、怒る。
「も――! 聞いてるんだから、ちゃんと答えろよ――!」
「解った解った」
 困り果てた自棄で喚く吉田を、その声ごと抱き込むように、肩に手を回す。そのまま、ぐぃ、と自分の胸の中へと連れ込んだ。
「ちょっと、何す――」
 力づくで出るなら、こちらにも出方あると、睨むように佐藤の顔を見上げる。
 するとそこには、今までに見た事ないような、柔和な表情を浮かべる佐藤が居て――真っすぐな眼差しに、吉田の胸がドクンと弾んだ。
(え、な、何………)
 不意に雰囲気を変えた佐藤にも驚きだが、それにうろたえている自分が不思議だ。この胸の騒ぎようは、まるでときめいているみたいではないか。こんなヤツ相手に。
 確かに顔こそいいけど、自分の学校生活をめちゃくちゃにしている張本人なのだ。そんなヤツ相手に、誰がときめいたりするものか。
 しかし否定する吉田をあざ笑うように、胸の鼓動はドンドン上がって行く。ドキドキと血流を早くし、顔が紅潮する。
(って言うか、佐藤もなんで……)
 こんな優しい目で見て来るんだろう。自分の事なんて、暇つぶしのいいオモチャくらいにしか思ってないだろうと思っていたのに。
 何だか落ちつかない――
「吉田」
「ふえ?」
「デートがダメなら、キスでもいいよ」
「!!!!!!」
 キスしてくれたら教えてあげる――耳元で囁かれ、吉田は体内が爆発したように熱くなった。風呂で逆上せた時だって、こんなに熱くなった事は無い。その熱で脳が沸騰でもしてしまったかのように、「そんな事出来る訳ない」というセリフすらままらなかった。でも、何とか言えたのは、佐藤が「そっか」と頷いた事で解った。
 そしてその直後。
 ちゅっという軽やかな音と、唇に触れた感触。沸騰していた頭はパン!となって弾け、真っ白になった。
 完全に呆けた顔で、吉田は佐藤を見上げる。
 佐藤は、とても大事な事のように、吉田の耳に顔を寄せて囁く。
 自分からしたから、半分しか言わないと、名前は教えずに、本命の所存だけを明らかにした。


 遊ばれた。
 完全に遊ばれた。
 これ以上無いくらい遊ばれた――――!!!!
 完全にすっ飛んだ吉田の機能が戻ったのは、すでに目の前に相手が居ない状態で、八つ当たり対象が居ない状態で鬱屈した気分を上昇させるのにひと苦労だった。
「吉田、昨日より目つき悪くなってない?」
「えっ、ウソ!」
「うっそーv」
 そして今日も遊ばれるのだった。そんな様子を見て、秋本達が「楽しそうだね」と呑気に言う。
 吉田の胸中は稼働中の洗濯機みたいにグルグルしていた。あんな事――キスをしてきた癖に、次の日からまるっきりそれまでどおりだし、相変わらずちょっかいは出すし。こんな自分をからかって何が楽しいんだろう。意識したくないのに、考えるのは佐藤の事ばかりだった。ぐぬぬ、と図らずも佐藤の目つきが佐藤の出まかせのように、悪くなる。
 通りがけに吉田をからかっていった佐藤は、隣に可愛い女子を控えていた。彼女は休日に佐藤と過ごそうとしたらしいが、やんわりと断られたのはその表情で解る。あんな可愛い子の誘うに応じないなんて、やはり本命が居るというのは事実らしい。それを看破した小池を、ちょっと尊敬した。
 そうやって佐藤を見ているせいか、吉田も段々と佐藤の本命が気になって来た。
 それはあくまで興味本位で、それ以上の意味は無いのだと思う。……多分。


 オチケンの部室は今や吉田にとっての憩いの場だ。校舎から離れているせいか、足を向けようという生徒も少なく、そういう点では最も落ちつけれる場所だ。吉田は今日の昼休みも、ここで過ごす事に決めた。教室に居ると、どうしたって頭の中に佐藤が浮かんでしまうから。例え当人は居なくても、周囲の女子の話題はそればかりで。
 ふぅ、と吉田は溜息をついた。こんな、佐藤に翻弄されっぱなしの生活がいつまで続くんだろう。まさか卒業までずっと、なんて事は無いだろうな、と吉田は誰にともなく、問い詰めたくなる。最悪はそれとして、進学の際のクラス替えにでも期待をかけよう。クラスが離れたら、佐藤もまさか教室を飛び越えてまでちょっかいをかけには来ないだろうし。
「……………」
 その生活を思い描いて、ちょっと寂しいなんて思うのは、きっとお腹が空いているからなのだ。
 早く、ご飯にしよう。


 すっかり慣れたドアノブを捻る。
 そこには素っ気ない長椅子とパイプ椅子、空のロッカーと何かが入って居る段ボールだけがある空間で――
「よお、吉田。遅いぞ」
「…………」
 バタン(←吉田が閉めた)
 ガチャ(←佐藤が開けた)
「どうしたんだよ、中に入るんじゃないのか?」
 開いたドアから、ひょっこり身を乗り出す佐藤に、「夢じゃなかった…!」といっそ白昼夢で済まそうと思っていた吉田は、現実の残酷さに嘆いた。
「ほら、何してんだよ。早く入れって」
 ドアの前で立ちすくむ吉田の腕を取り、佐藤は部室へと引き込む。バタン、と再びドアの綴じる音を聞いて、吉田は今、決して入ってはならない魔窟に踏み込んでしまったのではないか、という危惧を抱く。佐藤と2人きりになった場で、とんでもない目にあった記憶は真新しい。
「……なあ、佐藤。さっき、教室で女子に沢山囲まれて無かった?」
 だから吉田も安心してここに向かったというのに。
「ああ、適当に巻いてきた」
 適当で巻ける数でも無いと思う。吉田は胸中で突っ込む。
「それにさ」
 と、言って、対面に坐った吉田を見やる。
「吉田が居ないと、つまらないし」
「はぁ―――?」
 どういう意味だとその発言の真意を探るより、その時に向けられた笑顔に胸がざわめいた。いつもの意地が悪そうなものとは違う、優しさすら漂わしている微笑。こんな顔を浮かべる佐藤を、吉田は初めて見た。――いや、先日本命を聞きだす一見で、ちょっとだけ垣間見たか。その後されたとてつもない事――キスのせいで、ちょっと思い出すのに遅れる。
(なんで、そんな事、そんな顔で言うんだろう……)
 ここに来て、佐藤と言う男が全く解らなくなってきた。大体、本命がいるくせに、自分ばかり構う佐藤の気が知れない。例え恋愛感情無しにしても、相手にしては面白くないんじゃないだろうか。いや、もしかして、この学校の生徒ではないのかも?
 吉田がそんな風につらつらと考えていると、佐藤の方は勝手に食事を取り始めた。ハンバーガー型の惣菜パンを出し、もそり、と一口食べる。その食べ方が本当に不味そうな、嫌で嫌で仕方ないけど食べてる、というような顔だった。相手が手を着け始めた事で、吉田も自分の食事を始める。けれど、やっぱり目の前でもげもげ食べる佐藤が気になる訳で。
(あのパン、嫌いなのかなー。でも、嫌いだったら買わないよなー。だったら、あんな顔して食べるのが癖なのかも…………)
「………………………………」
 そこまで思った時、ぽと、と手づかずの吉田のおにぎりが机に落ちた。
 その音に、佐藤が顔を上げる。
「吉田、どうかしたか?」
 しかし、そんな声は吉田には届かない。それ以上の事に、頭が一杯だからだ。
「さ、さ、佐藤! 佐藤隆彦!」
 絶叫に近い響きで吉田が名を呼ぶ。吉田は気付いてしまった――のかもしれない。この佐藤について、とんでもない事実を。
 あまりに突拍子もない事だが、改まったように名前を呼ばれた事で、佐藤はその裏に気付き――ふっ、と不敵に笑った。
 それが正解の合図だった。


「確か、遠くに引っ越すって言ってたっけ……戻って来たんだ………」
 呆けたように、吉田は自分の記憶を引っ張り出して呟く。
 俺の事忘れるなんて、と非難されるような事を佐藤から言われたが、すぐに思い出せという方が無理だという。仮にずっと忘れないで居ても、あの時の苛められっこであった根暗デブの佐藤が、この校内の女子を殆ど虜にしている佐藤と誰が同一出来るだろうか。
 右目の下は、自分を庇って出来たと佐藤は言う。しかし、吉田の記憶の中にそういう出来事は当て嵌まらない。大きな怪我をした記憶はあるが、それの原因が佐藤にあったかどうかまでは、覚えていないのだ。
 それはそれとして、実は自分達に過去の面識があったとなると、これまでの不可解な一連の佐藤の行動も説明が着く。きっと忘れられていたのが不満で、ちょっかいをかけてきたのだろう。抱えていた蟠りが、解けたような心地だ。強ちスッキリとしたと言えない事が難だけども。そういう不満があったならさっさと言えばいいのだ。詰まらないイタズラばかりしないで。
 しかし、そんな吉田の予想が当たって居たのは、どうやら半分くらいのようで。
 吉田がその事を言うと、佐藤はやたら物騒な笑みで吉田に詰め寄る。別に憤怒して睨んでいる訳じゃなく、笑顔であるにも関わらず、吉田には悪寒が走った。
 それもあるけどちょっと違う、と言いながら。物騒な笑みを湛える佐藤に、吉田が未知の恐怖に本能的に怯える。その様子を可愛い、と讃えてから佐藤は果たして告白した。
「俺の本命は、ずっと吉田だけだよ」
「!…………」
 そのセリフは、まるで凶器で吉田の頭の中をぐわんと揺さぶった。まるで脳震盪でも起こしたみたいに。何も考えられ無くて、吉田はクラクラとした。
 すでに吉田の手首は佐藤の手によって拘束されている。そのまま、机の上の押し倒されて――
 この前のような、過るようなキスではなく、今度はしっかりされていると認識されながらの口付けを受けた。
 ――あまりにもこの強烈な出来事は後日。授業中の居眠りの際の夢の中にまで出てきて、溜まらず飛び上がった吉田は、クラスの注目と教師の小言を貰った。


 吉田は思う。多分、これは恋じゃない。それとは違うと思う。
 様子の可笑しい自分を指して、牧村が「さては恋してんだろ!」とか言ってくれたが、断じて違うと言い張りたい。
 ただ、何かと衝撃的な事に見舞われて、狼狽しているだけなのだ。だから、これは恋じゃない。
 恋ってものは、もっとふわふわしていて甘くて、例えればそう、綿あめみたいな感じで。しかし佐藤ときたら、まるで無色にも関わらず色取り取りのドロップ缶の中でしっかり存在し、甘味を期待する口の中をスースーさせる薄荷のような存在ではないか!
 あれから佐藤をずっと意識していても、夢に何度もあの光景が出てきても、それでバタバタと身悶えしてしまっても、恋じゃないったら恋じゃないのだ!
 大体あんなの(←あんなの呼ばわり)に恋したなんて、自分の性質が疑われそうで嫌だ。だって、Mじゃないもの!
 SとくっつくのはMしかないと、思い込んでいる吉田だった。
「なあなあ、吉田。女子ってデートにどんな所に行きたいって思うんだ〜?」
 ぽわわ〜ん、と頭の周囲に花弁を撒き散らしたような牧村が、吉田にそう尋ねてきた。
 現在ハッピーターンよりハッピーで塗れている牧村が言うには、別クラスの可愛い子ちゃんをダメ元でデートに誘ってみたら、何とOKを貰ったという事らしい。
 秋本と一緒になって生ぬるく笑いながら、上手く行くといいな、と吉田は言った。……そうならない事が何となく目に見えてしまったから。
 しかし当の牧村はそんな可能性は微塵にも思わないのか、キスくらいは!と意欲に燃えている。まあ、何にせよ目標があるには言い事だよね、と吉田は思い――ふと、とある事実を改める。
(ファーストキッスって……佐藤!??)
 そしてセカンドまで奪われていた事を、その直後に気付いた。


 恋愛には縁遠い容姿と自覚していたけど、それでも一応願望のようなものは抱いていたのだ。それこそ、ファーストキスなんて、こういうのがいいなあ〜、っていう理想くらいはちらほらあった。なのに実際はそれら全てを吹き飛ばしたようなものだった。しかも、された時はそんな事を思う余裕すら無いもので。
 佐藤は全く、自分の日常を色々と打ち砕いてくれる。
 そうして出来た穴から、ぐいぐいと捻じ込むように、入りこんでで来るのだった。


 諦めるのは好きではない。
 けれど、この場では逃げられないと思うしかなかった。10人未満程の女子に囲まれ、吉田は言い知れない彼女達の迫力に、じわじわと怯えを持ち始めていた。
「やっと捕まえたわ」
 吉田を壁際に追い詰めた女子達は、まずはそう切り出す。そしてまた一歩、吉田に詰め寄った。あわわ、と吉田は戦くばかりだ。
「さあ―――、教えてくれるかしら! 佐藤君の事!」
 彼女達の目的はただ1つ。最も一番佐藤と会話をしている吉田から、彼に関する情報全てを聞きだす為なのであった。
「中学は何処に居たの!? 家族構成は!?」
「今は何処に住んでいるの!?」
「ペットは居るの!?!?」
 ペット?と首を傾げながら、吉田は何とか彼女達を宥めようとする。でないと、永久に此処からは出られそうにない。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 別に佐藤とそういう事とか話してないし……」
「じゃあ、どんな事話してんのよ!?」
 言われて、吉田は思い出してみる。今まで佐藤に言われた事と言えば――

――俺の本命は、吉田だけだよ――

 言 え な い 。
 言ったらそこで全てが終わってしまいそうな気がひしひしとする。主に自分の人生的な何かが。
「ちょっと! 黙ってないで教えてよ!」
「わたし達、真剣なんだからね!」
 吉田も真剣だ。真剣に困っている。それはもう凄まじい程に。
 彼女らの声がセリフとして聞けたのは、そこまでだ。後は各々のヒートアップに任せ、会話の疎通を無視した自分の意見だけを吉田にぶつけている。そんな物を、複数浴びている吉田は、溜まったものじゃなかった。まだ暴力だったら対応出来るかもしれないが、この手の攻撃はもうどうしていいか解らない。
(っていうか、なんでこんな目に……)
 現状に対し、処理容量を超えた吉田の目に、じわりと涙が浮かぶ。これがまだ、自分に原因があれば、埋め止める事も出来たのだけど、そうじゃないからいよいよ参る。
 あとちょっとで溜まった涙がこぼれる、という時に。
「皆で何してるの」
 それは決して大きな声では無かったのに、怒鳴りが渦を巻いていたようなこの場を、ぴたりと止めた。
 この声の持ち主こそ、吉田の現状の原因である人物だ。
「佐藤……」
 この時、ほっとしてしまった自分が後で悔しくなるのだが、それでも縋るようにその名前を呼んでしまったのも事実だ。
 まるでモーゼの十戒のように、女子達を綺麗に左右にかき分け、吉田の前へと佐藤は赴く。
「何してるんだよ、こんな所で。先生に呼ばれてただろ?」
「………え?」
「呼ばれてたろ?」
 そんな事は言われていない。しかし、そんな吉田の態度を封じるように、佐藤が再度「呼ばれてただろ」と繰り返した事で、抜け出す言い訳を提示してくれている、と解った。うん、と頷く吉田。
 そのまま佐藤と連れだって行く吉田を、誰も止めなかった。ただ、嫉妬と羨望の眼差しは思いっきり向けられたけど。


 図らずとも、佐藤に助けられる羽目になってしまった。それだけでも悔しいのに、当人の口から「助かっただろ?」なんて言われると、余計に腹が立って来た。しれっと言ってのけた佐藤に、吉田は感謝をすっ飛ばしてふざけんな!と怒鳴り返した。廊下だから、その声はよく響いた。
 しかし佐藤は、意外な程素直に自分の非を認めた。やり過ぎた、ごめん。と言ってしおらしい態度を取る。……そういうセリフが出ると言う事は、意図的にああいう態度を取って居たという証明なのだが、それより普段の傲慢さがなりを潜めたような佐藤の違った表情に、吉田はちょっとドキっとなった。
 そして、はっとなった。佐藤と2人きりで歩いている所を見られたら、またややこしい事になる!
 それに気付いた吉田は、適当に言葉をかけ、佐藤の近くからそそくさと立ち去った。


 佐藤は自分を好きだという。いつから?何時の間に?
 一応、本人の口からは「小学生の頃から」というセリフが出てきたけども。
(小学生の頃っていっても……)
 何とか引っ張り出す事に成功したアルバムを見て、吉田は胸中で呟く。生徒一覧の頁で、佐藤は枠内ギリギリの面積の体型をしていた。今の細身の筋肉質とは大違いだ。
 苛められるのは庇っていた。けれど、それ以外での接点は何も無かった。友達と呼べる間柄でも無かったと思える。
(それなのに……)
 大体、現在の佐藤にしても、告白したというのに、する事は以前と全く態度は変わっていない。
 キスまでした癖に。
(キスくらい、大した事じゃないのかな……)
 あんなにモテているのだから、経験があっても可笑しく無い。むしろ無い方が変と言うべきだろう。
「……………」
 こっちは、初めてだったのに。
 遣り切れない思いを色々抱え、母親から「好きな子でも居るの?」と揶揄された事で何一つ気持ちの整理されないまま、吉田はとりあえずアルバムを仕舞った。


 吉田が校内で全く孤立無縁かと言えば、そうでもない。さすがに皆が皆佐藤に夢中、という訳でもないし、中学からの親友も居る。高橋は素直に大変だな、と吉田を気遣い、井上は周りと同じく佐藤のファンだが、それは恋愛対象抜きでアイドルに寄せるような好感であるし、吉田の境遇を高橋と一緒になって同情する。でもやっぱり、どんな形であれ、あの佐藤にしょっちゅう構われて少し羨ましいとは思っているようだ。
 そんな井上だが、しっかり彼氏を持っている。そして今日は、その彼と放課後にデートの約束を交わしているそうで、今日は別行動だ。
「ああ、そうだ。井上からこんなん貰ったんだけどよ」
 と、言って高橋がスカートのポケットから少し皺になった何かの券を取りだす。
 高橋と帰ると、吉田は女子達からの質問攻めの魔の手から逃れられる。解りやすい高橋の迫力に、あえて挑もうよいう女子はさすがに居ないからだ。ありがとう、とらちん、とこの日も吉田はひっそりと高橋に感謝する。
 高橋が取りだしたのは、とあるファーストフード店のクーポン券だった。この券を添えて注文すると、ドリンクが無料サービスになるそうだ。何十パーセントオフにするより、ドリンク一杯無料の方が客は寄る、という理に沿ったサービスだ。
「どうする? 今日寄ってくか?」
「うん! 行こう行こう!」
 高橋の提案に、吉田はすぐ乗った。最近、主に佐藤絡みでちっとも気が休まらなかった。ここらで気のおける友人と放課後に楽しまなければ、やっていけない。
 飲み物に当てる予算が省けた分、食べ物に回せるな、と吉田は校庭を歩く段階でウキウキとしていた。


 パニーニとアップルパイから立ち上る湯気を浴びながら、吉田は2階へ続くちょっと急勾配な階段を上がって行く。すぐ後ろには高橋が控えているから、スカートの中を気にする必要は無かった。
 4人掛けのボックス席が空いていたから、そこに席を取り、ゆったりとして会話を楽しむ。まずは授業やテストの事。そして面白かったテレビや漫画、美味しいお菓子について。高橋はクラスが違うし、何より学校だと佐藤の事で手一杯だから、こんなに高橋と話をしたのは、結構久しぶりかもしれなかった。
 不意に話題は、ここに同席していない友達の事に移った。
「今頃、彼氏とデートしてるのかなー。……いいなぁ」
 無意識に、吉田からそんなセリフが零れる。
「ん?ヨシヨシ、彼氏が欲しいんか?」
 照り焼きチキンを挟んだピタパンを齧りつつ、高橋が吉田のセリフに反応する。
「え、あ、いや、何となく……」
 適当に誤魔化した後、無料サービスでゲットしたオレンジジュースをじゅーっと一気に啜る。嘘をつく時飲み物を欲するのは喉が渇くと同時に本音を飲み込みたいという現れなのだそうだ。吉田がまさにそんな感じだ。
 吉田の正確な本音としては、そんな普通にデート出来る相手と付き合えれていいな、というものだ。もっと言えば、そういう普通の人に告白されたのなら、吉田も素直に受け入れるのに、実際は苛める事が愛情の表現というかなりのドS。それ以上に、モテてモテて仕方のない最強の魅力を持つ男子。むしろドSよりこっちの方が問題かもしれない。佐藤だけならまだしも、不特定多数を相手にしなければならないという所で。
「とらちんは、好きな人とか居ないの?」
 話題を逸らす為、吉田はそんなセリフをぶつけてみる。高橋はちょっと顔を赤らめ、いねぇよ、と呟いた。
 吉田は密かに知っている。そして井上も。この本物より強面を持った高橋が、結構なメンクイという事を。それも、高倉健みたいなシブ系じゃなくて、もっと可愛いジャニーズみたいなのに弱いのだ。佐藤の他にも、あの学校には見栄えのいいのが割と居るから、高橋は結構毎日ドキドキしてるんだろうな、と吉田は高橋の赤面を見、微笑ましく思えた。
「ねえ、空いてる所いい?」
 と、そんな声が2人にかかった。店内はドリンクサービスの為に盛況で、席が無かったのかな、と吉田達はまず思った。ナンパと思わないのが2人らしい。
 しかし、声をかけてきた人物は思っても無い相手だった。もっと言えば思いたくない相手だった。
「さ、佐藤!?」
 見れば、トレイを持って、その場に居るのが当然のように佐藤が立っていた。
「ほら、吉田。詰めて詰めて」
 壁と同化しているソファーと椅子で形成される4人掛けのボックス席で、吉田はソファー側に坐っていた。当然のように、吉田の横に佐藤が居座る。
「な、なんで来たの!?」
「なんでって……俺だって放課後に買い食いしたりするよ。吉田ポテト要る? あげる」
「あ、ありがとう。……じゃなくて!」
 実はポテトも頼もうか迷った吉田だ。止めたのはカロリーではなく金額の都合で。
「クラスの女子は?一杯居たじゃん周りに」
「ああ、適当に巻いて来た」
 だから適当にまけないって!と吉田は胸中で突っ込んだ。
「そーいや、最近ヨシヨシが女子に絡まれってっけど……まさかお前が原因か?」
 今日の放課後も、まるで非難を求めるように自分の所へ駆けこんだ友達の姿を思い出し、丁度いいとばかりに高橋は佐藤に詰め寄る。何もしなくとも迫力のある彼女の顔は、意図して凄んだ為さらに威力を増していた。普通の人ならこの場ですいません!とジャンピング土下座するかもしれないが、ここに居たのは普通じゃない佐藤だった。
「うーん、結局そうなってるかな。まあ、これからは気をつけてちゃんと俺が守るから」
「えっ、守っ………え!?」
「ならいいんだけどよ」
 暗に吉田に対する思慕と独占欲を仄めかす佐藤のセリフだったが、ここには恋愛にさほど敏く無い高橋だった為か、恙無く会話が終わってしまった。ドキドキしているのが自分だけで、吉田は酷くみっともない様に思える。
「どうした、ヨシヨシ。顔赤いぞ」
「ふえ?え、そ、そっかな?暑いのかなー、あははは……」
「吉田、ヨシヨシって呼ばれてんの?可愛いなぁ、俺もそう呼んでいい?」
「だ、ダメッ!」
 感情に翻弄されっぱなしの吉田だったが、この突っ込みは早かった。


「じゃあな、ヨシヨシ」
「うん、とらちんバイバイ」
 出始めは色々とモヤモヤしていたが、高橋が同席しているからか、その後の会話は比較的まとも……というか普通の友達でも交わすようなものだった。そういう話し方も出来るのだ。いや女子や他クラスメイトを見れば解る事だけど、吉田の中の佐藤はいっつも意地悪な事しか言っていない。
 店を出て、どうしてかついてくる佐藤はとりあえずほっといて、高橋との別れ道で今日の別れを告げる。
 このまま、この何事も無く終わればいい。そう思っていたのに、ゴールはまだ遠かった。
「何か甘いの食べたいよな。コンビニでアイス買わない?」
「え、えーと……」
「ほらほら、そこのコンビニでベルギーチョコアイスだって。美味しそうだな。期間限定だって」
「チョコ………」
 気を取られた隙に、吉田は佐藤に手を取られてコンビニへと連れて行かれた。


(ん〜、美味しい〜〜〜vv)
 濃厚でとろりとしているチョコレートは、アイスだから舌の上で冷たく溶ける。その心地に、吉田も蕩けるようだった。
「美味しい?」
 公園のベンチに座り、アイスを堪能する吉田に佐藤が言う。
「う、うん。ありがと、お金……」
「いいって。別に」
 佐藤は飄々と言って、自分の分のアイスを齧っている。レジの清算の時、一緒に支払われてしまったのだ。なんだか、奢られるのがやけに恥ずかしく思えた。
 まるで恋人同士みたいで。
「…………」
 突き詰めると、とんでもない事になりそうで、吉田はアイスに集中した。プラスティックの小さいスプーンが付随されたが、吉田はそれを使わず直接口を付けている。
 そんな吉田を、佐藤は黙って、優しく見つめている。ふとその視線を感じ取ってしまった吉田は、色々と居たたまれない気持ちになってしまった。アイスを食べる手も止まる。
「……あの………」
「ん?」
「さ、佐藤は……その………あの、」
 真っ赤になって言い淀む吉田が、何を言いたいのか佐藤はすぐに察した。
「好きだよ」
「!!」
「吉田の事、好きだよ」
「〜〜〜〜ッ!!!」
 すでに半分以上食べたとは言え、まだ残っているアイスが溶けるにも関わらず、吉田はさっき以上に顔を赤らめ、膠着した。どうしていいか解らない、といった具合だ。
 全く可愛いな、とほこほこした気分で居た佐藤だが、次の吉田の発言に表情が変わる。
「その……す、好きって、どうなのかな」
「どう、って?」
 佐藤から不穏な空気が立ちこめているのに気付かず、吉田は言葉を続ける。
「だからさ、昔、庇ってたから……その時の感謝みたいな気持ちと勘違いしてるんじゃ………っっ!!!!」
 さすがに吉田も、真横で膨れ上がりつつある物騒な雰囲気に気付いた。しかし、その時ではもう手遅れだった。
「勘違い?」
 そういう佐藤はやっぱり笑顔だけど、やっぱり物騒だった。しかしそのレベルは告白された時の比では無い。視線で脆弱なカナリアくらいなら失神させられそうだ。
「あ、あ、ぅ、さ、佐藤……?」
「吉田は俺が勘違いで好きだと言ったり、キスしたりするような人間だと思ってんだ?」
「そ、そう、いう、意味じゃなく……ひっ!」
 がし、と肩を掴まれ、その力に吉田は竦んだ。肩を掴まれた拍子に食べかけのアイスが落ちてしまったが、そんな事に構ってられない。
(さ、佐藤、すごく怖い!!!)
 あんまり怖いと、人は声を上げる事も泣く事も出来ないのだと、吉田は学んだ。あまり学びたくなかったけど。
「んっ―――!」
 暫く見据えられた後、丁寧だけど乱暴な、有無を言わせないような強引な口付けをされた。最も、唇を合わせるだけでは済まなくて。
(し、し、し、舌がぁぁ〜〜〜〜ッ!!!)
 噂にはよく聞くキスだが、逆に噂でしか聞いたことが無い。この年でまさかされるとも思っておらず、心の準備が全く出来て無い状態で吉田はただひたすら混乱する。目が回る。
 唇が離れたのも、すぐには気付かない程だった。
「……?…………、…………わっ!な、何!?」
 暫く、初めての深い口付けにぼーっとなっていた吉田だが、首元に感じた感触に我に返る。ざらざらとしたものが首筋を這う。佐藤の舌だった。
「な、な、何し……てっ!!」
「ん? 言葉とキスだけじゃ、吉田解ってくれないみたいだから、それ以上の事しようかなって」
「そそそそ、それ以上!!?」
 ひたすら戸惑う吉田の胸のリボンが、しゅるりと解かれる。涼しくなった胸元に、それ以上に背筋が冷やりとなった。それ以上、の言わんとしている意味が解ったのだ。
「ちょっ……こ、此処、公園!」
 抵抗しようにも、すでに両手は佐藤によって捉えられていた。足をばたつかせた所で、無駄な抵抗だった。
「へー、室内ならいいんだ?」
「ち、ちがっ……ちが!!」
 今までにない危険なシチュエーションに、口も上手く回らない。ここは公園で、屋外で、誰が来るのか解らないけど、誰かは来るかもしれないのに!
(こ、こんな所見られたらっ………!)
 止めて、と吉田はうわ言のように呟いた。
「だって、仕方ないだろ?吉田、信じてくれないんだもん……」
「!!!!」
 キスというより、まるで捕食のように唇を舐められ、何かが吉田の限界を超えた。
「……わ……かった………」
「ん?」
「解った……し、信じるからぁ……っ……」
 ひっく、と喉を引き攣らせ、吉田は佐藤に訴える。
 相手は本気だ。どうしようもなく、本気だ。自分の手には及ばないくらい本気だ。
 本気で……好きだと言っている。無下にされた事に静かに怒るくらいに。
 吉田がきちんと理解した上での呟きだと見た佐藤は、ふっと息を洩らし周囲を凍て付かせるくらいの気迫を緩めた。
「信じる?本当に?」
 なるべく優しい声で言い、こつん、と額を合わせる。そのままの姿勢で、吉田は何度も頷いた。もう、声も出ない。
「ひゃっ!」
 目元から溢れそうな涙を、佐藤はそっと唇で拭う。その感触に吃驚した吉田だが、柔らかい唇の感触を頬に感じ、次第に気持ちが落ち着いて行くのが解った。
 似たような事なのに、さっきは怯え、今は安堵している。変なの、と吉田は思う。自分の事なのに。
 解かれたリボンもきちんと結ばれる。自分でした時より、かなり整っていた。それを眺めると何とも言えない気持ちになる。
 そろそろ時間も時間なので、帰る運びになった。ちなみに落としてしまったアイスも、きちんと片づけた。
「吉田大丈夫?立てる?」
「え?別に……」
 平気、と言いながら立とうとして、少し膝が震えているのに気付いた。それでも踏ん張って歩こうとすると、足を着いた先からガクガクと力が抜けて行く。辛うじて倒れずにすんだのは、吉田の気力の賜物だった。
(え、な、ナニコレ!?)
 吉田は今までにない現象に戦く。よく漫画で、ディープキスの後腰が砕けたとかいう描写が出るけど、それなのだろうか。次の一歩を踏み出す準備を整えていると、そんな吉田の肩を横から佐藤が抱いて支えた。
「おんぶしてやろうか?」
 何故だか嬉しそうに、佐藤が言う。
「いいっ!いらないっ!」
「そう言わないで」
「やだ――――!!!!」
 吉田が徹底に反抗を見せると、半ば強制的にされる事も覚悟していたというのに、佐藤はちょっと残念そうな素振りを見せるだけだった。あれ、と予想外の対応に吉田が拍子抜けする。
(って、これじゃまるでおぶわれたかったみたいな……)
 違う違う、そんなんじゃない!と佐藤に肩を抱かれた姿勢のままも忘れ、吉田は赤くなってぶんぶんと首を振った。至近距離からそれを眺め、満悦に顔を染める佐藤。
「まあ、せめて腕組んでいけよ。倒れた方がみっともないぞ?」
「う。うー………」
 佐藤が原因のくせに、という意味を込めて睨んでみたが、通じてないようだった。無念。
 まあ、ふらついてしまうのは事実だし、今にも足がもつれそうなのも事実。腕を組んでるくらいなら、いざという時素早く離れられるし……と吉田はあれこれと自分を納得させた。吉田の決意が固まった頃、肩にあった佐藤の手も離れる。その腕に、吉田は自分の腕をまわした。
 別に男子とのスキンシップがこれが人生初という訳ではないが、こんな風に腕を組んだりするのは初めてだった。そういう意味合いの上で触れあうのも。何だかドキドキしてしまって、普通に歩けない……と、言うより。
「……なんか、凄く歩きにくいんだけど」
「そりゃまあ、俺と吉田だと40センチくらい身長違うからなー」
 はっきり言って腕を組むというより腕を吊るような感じだった。チクショウ、すくすくでっかくなりやがって!と小学生以来背の伸びない吉田はそんな恨み事を発する。
 結局その後、もういい、という申し出を何度も断られ家の前まで来てしまった。これで家の位置が明らかになってしまった訳だが、今更だろう。住所くらい、調べればすぐに解る。
「お母さんは?」
「この時間ならまだパートかな」
 だから吉田も、何だかんだで同行を許したのだった。でなければ公園から出た時点で佐藤を振り切って帰っている(出来るかどうかはさておいて)。
「なんだ、残念」
 佐藤は本当に残念そうに呟く。一体居たら何をするつもりだったのか……怖い考えになりそうだったから、それ以上の詮索はストップした吉田だ。
 しかし吉田は、母親が居なくて本当に良かったと思う。格好いい男子にはミーハー的な意味で興味があるのだ。あの母は。それでいて結局は「お父さんが一番v」になるのだからなんというか。
「じゃあな、吉田。また、明日」
「う、うん………。っ、」
 そっと佐藤の顔が降りて来る。反射的に目を瞑ると、軽く佐藤の唇が自分のに触れる。
 さっきからキスしてばかりの記憶しかない吉田は、また真っ赤になり、佐藤はそんな吉田の頭をくしゃりと撫でてから、その手を軽く上げて改めて別れの挨拶にした。
 吉田はすぐには家に入らず、去って行く佐藤の背中を何となく眺めた。
「…………」
 しかし、いつまでもこうしていても仕方ない。とりあえず、今日は終わった。
 明日になればなったで、また色々あるだろうけど、それはその時考えよう。
 ――その明日に、佐藤が本命と付き合い始めたというとんでもない噂が広がっていたるするのだが、この時点での吉田はまだ知らないのだった。



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