昔、佐藤を助けてくれた勇敢な王子様は、思い出の中で天使と化し、再会してみれば控えめなお姫様だった。
 出来ればそこに恋人の称号も加えたい。
 高校の入学式、吉田の姿を目に留めてから、佐藤の頭の中にはそれしかなかった。


 普通、女の子ともなれば習い事はピアノかバレエか、そんな所だろうに吉田の場合は何故か空手だった。何故彼女がそれを習おうと思った経緯や決意は佐藤が知る所ではないが、ともかく吉田は定期的に放課後、近所の道場で拳を振るっていた。苛めっ子達に1人で猛然と立ち向かうその精神はそこで鍛えたれたのだろう。最も、本人の資質が大きい所だと思うが。
 腕力的な事はさておき、心が最も強いのは間違いなく吉田だろう。
 だからと言って、苛めの現場を目撃してわざわざ吉田を連れて来るのはどうなんだろう。その苛めの被害者の立場の、佐藤が思った。
「またお前らこんな事して――! 止めろって言ってるのに何で止めないんだよ!」
 何が楽しいんだよ! と、吉田は逃げて行く苛めっ子達の背中に向かって叫ぶ。
 そして、佐藤に向き直る。
「おい、怪我とかしてない?」
 空手を習っている為か、吉田の髪は佐藤より短い。その髪型のせいで、口調も何となく男の子っぽく聴こえてしまう。だからだろうか、小6だというのに、吉田に対して男子達もあまり気を使わない。いや、全然そんな事も考えてないのかもしれない。
 ――吉田は女の子なのに。
「……吉田、女の子なんだから、乱暴な事は止めた方がいいよ」
 女子に庇われている事に、佐藤の深く仕舞われた自尊心も耐えきれなくなったのか、あるいは周囲を巻き込む程に無頓着な吉田の身を案じたのか。佐藤の口から、そんなセリフがぽろりと落ちた。
 なんとも失礼なセリフだ。思わず言ってしまった事だが、これで吉田が自分に愛想を尽かせばむしろ結果オーライかもしれない。
 しかしつくづく吉田と言う人間は、佐藤の予想の別を行く。
「はあ? 何それ。男子でも女子でも関係ないじゃん、そんな事」
「……………」
 吉田が凄く当然に言うから、佐藤も何も言えなくなる。確かに吉田の言う事も最もで、でも伝えたいのは、吉田に自覚して欲しいのはそういう事じゃないのだ。
 本を沢山読んでいる癖に、何も言えない自分がとても格好悪い。苛められている時はどうでもいい、と全てを投げ出すのに、吉田に対しては感情が揺れる。
 乱闘になった時に備えて、吉田はランドセルを降ろしておいたみたいだ。地面にあったそれを掴み上げる。
「じゃ、帰るか。佐藤も、………、…………」
 吉田が言いかけた所で、顔を顰めた。今日は何にも取っ組み合いにもならなかったのに、どうしたと言うのだろう。
「う〜〜、腹痛ぇ……トイレ入って来る」
 何も律儀に自分に言ってくれなくてもいいだろうに。返答に困った佐藤は沈黙を守った。
 そういえば、今日の吉田は少し様子が違っていた。いつもする給食もおかわりをしていなかったのだ。別に吉田だけ見ていた訳じゃない、女子なのに男子と給食の奪い合いをするからよく目に着くだけだ、と佐藤は自分に言い聞かす。
 吉田は具合が悪いのだろうか。何だか歩く姿がフラついているようにも見える。
 何となくその様子を見守るように眺め、やがて佐藤は驚愕に顔を染め、目を見張った。
 半ズボンから覗く、吉田の足に伝わる一筋の、赤い――…………


 記号みたいな家族と、まるで出来の悪いホームドラマのようなやり取りを一通りこなした夜、佐藤はベッドに横になっていた。
 しかし全く寝付けなかった。その理由は勿論、今日の放課後の出来事に起因している。 
 何も可笑しい事では無い。年齢を重ねれば訪れる当たり前の生理現象だ。驚く方がどうかしている――こんなにも動揺している自分を佐藤は滑稽だと叱咤し、諌めようとして、その都度失敗していた。どんなに勇ましくても吉田は女子だと、周囲の誰よりそれを把握していると思いながら、いざ女性的な部分を垣間見て、未だ心臓が落ち着かない程うろたえている。
 ほぼ眠れない夜を過ごし、次の日吉田は登校していたが、体育の授業は見学していた。女子はその理由に何となく気付いたようで、吉田に密やかに気づかい言葉をかけている――のだと思う。昨日の出来事を知っている佐藤だから、そんな風に見えているのかもしれないが。
 女子に心配されて、吉田はちょっと恥ずかしそうにしている。
 その顔は、凄く可愛く見えた。


 吉田の年齢を考えて、昨日が初めてという訳でもないだろう。しかしなってからの数年は不定期だというから、その辺り吉田が把握しきれていなかったと思う。
 一緒に居る内に、吉田は知らずに成長していた。きっとこれから、どんどん大人になっていくのだろう。佐藤がそれを知る事も無く。何故なら、もうすぐ遠くへ行ってしまうからだ。両親に言われた時より、吉田に言われた方が実感が強かった。遠くに行くのだ。ここではない、吉田も居ない場所へ――
 これから吉田がどんな道を歩むのか、佐藤が見る事は叶わない。でも、大雑把に言って生理の訪れと共に背の成長は止まるというから、吉田がどんな女性になろうとも、身長だけは自分の知っている吉田と同じだ。それを思うと、パサパサに乾いた心の中に、雫が一滴、落ちたような心地になった。


(――だからと言って、そのまま過ぎるだろ)
 誰に突っ込みを入れるともなく、しかし言わずにはいれなくて佐藤は胸中で呟いてた。そんな佐藤の目の前、小さい背丈にあった歩幅でちょこちょこ歩く吉田が居る。ああ、今すぐ捕まえて抱きしめたい。そして攫いたい!!
 とは言え、入学式からいきなりそんな犯罪紛いのアプローチをする訳にはいかず(入学式以外でもいかんわい)その日は平静のスタンスを守った。再会に驚き過ぎた事が、出会えた喜びを上手く抑えてくれた事が幸いした。
 全く変わらない印象だが、外見を完全に保っていた訳でもない。まず、スポーツ刈りかとまで短かった髪は長く肩にかかる程だった。もしかして髪を伸ばしたのは、目の下の傷を誤魔化す為なのだろうか、と佐藤は勘ぐってしまう。佐藤だからしてしまう。その傷があるだろう箇所には、絆創膏が貼られていた。傷全部を覆い隠す為、結構な大きさだ。
 けれども、吉田はそれを欠点と思う事も無く、平然としている。それで赦されるとは思って無いが、顔の傷のせいであの眩しい程真っすぐな気質が捩れていなくて、佐藤は本当に良かったと思う。それと同時に吉田の強さを改めて実感した。
 吉田のコンプレックスは、むしろ顔の作り全体に及んでいるようだった。確かに吉田は、雑誌の表紙を飾るような、大勢の人が好むような最大公約数的な可愛さではないと思うが、その分ツボにはまった人には堪らない魅力の持ち主だと思う。他でもない佐藤がその虜の一人だ。
 あと単純に、胸が小さい事も気にしているようだ。佐藤としてはむしろ過去の経験で、やたら豊満な乳房には辟易していた所なので、そこはむしろ好都合というか、まあ仮に吉田が巨乳でもそれはそれで揉みたいなぁ、と思うのだと思う。と、いうか今から思っている。
 ともあれ、吉田はすっかり自分を非モテ系を自覚しきっているせいか、恋愛方面のアプローチにはなんだかこそこそとした感じだ。興味はあるけど、率先は出来ない、というような。
 そして、最も重要な事――吉田には、現在付き合っている彼氏というか恋人は存在しない。もしかしたら心密かに思っている本命がいるかもしれないが。
 しかし問題なのは、やはり吉田もこの見違えた容姿に、自分があの佐藤だと気付いていないようだった。これまでに数回顔を合わすような機会が訪れたが、どれも初対面に接するような態度で少し余所余所しい。胸がチクリと傷んだが、周りの女子のようにキャーキャーと吉田は騒がなかった。180度変わった周囲の態度の中、やっぱり吉田は吉田だった。改めて佐藤は思う。吉田を離したらいけない。自分らしく居られるのは、その傍だけなのだから――
 さて、これからどうでる。
 今はまだ、ろくな思い出の無い昔の同級生だ。ここでいきなり告白しても、吉田は「実にすみません」といかにも日本人らしい回答で断ってしまうかもしれない。
 もう少し、時間をかけよう。自分が意識してると相手にも自覚させ、それと同時に向こうも自分を気にするようにする。
 それで完全に上手くいくとは思っていない。結果は吉田次第。
 さてどうしよう。自分があの佐藤だと言う事は、もう教えておく? まだ隠しておく?
 どんな風にちょっかいをかけよう。あまり怒らせてはいけない。でも、怒った顔も可愛くて好きだ。庇われている時、その顔が苛めっ子達ばかりに向けられていて、少しばかり悔しい様な思いだった。だから、今度は自分に向けてみようか――
 なんだか凄くワクワクする。相手を先回って次の手を考えるのが、こんなに楽しいのは初めてだ。いつものは身を守る為に、したくなくてもしなければならない事だから。
 皆が明日が待ちきれないという、遠足の前夜の気持ちは、多分こういうものなんだろう。高校1年生にして、佐藤は初めてその気持ちを味わった。


 空手を習っていた事と、短い髪のせいでイメージが先立ってしまっていたが、吉田は昔から男勝りな性格でも無い。
 甘いものが好きだし、お化けは怖いし、辛いのもダメだし。
 最も少女漫画より少年週刊誌を読んでいたり、余った給食のデザートは必ずジャンケンに参戦したりと、まあワンパクな所も目立ってたけど。
 だから今見ても、特に女らしくなったとは思えないが、拳を振るってコラー!と叫ぶ事が無くなったせいか、ちょっと大人しく見える。前述した、非モテの容姿を気にしているからかもしれない。
 でもやっぱり中身はほぼそのままみたいで、話が合うのは専ら男子のようだ。と、言うよりクラスの女子は皆佐藤に夢中の為、話相手が男子になってしまうのだろう。全く由々しき事態である。せめてもの救いは、吉田も話相手の男子も、互いを異性ではなくクラスメイトとして接している所だろうか。出なければ今ここで吉田独占宣言をしている所だろう。
 入学し、新しい校舎にもクラスにも少し慣れて来た頃だ。そろそろ、モーションをかけても良い頃合いだと思うが、さてどういう形で繰り出そうか。
「ねー、駅前のクレープ屋知ってる? 雑誌に載ってたんだけど」
「あっ、知ってる!ワゴン車のヤツね」
「そうそう、今日の帰り行こうと思って……ねえ、佐藤くんも、どうかな」
 帰りの号令も終わった全くの放課後の時間。帰り支度をそこらかしこで始める中、佐藤の近くに居た女子グループが声を掛けて来た。
「ん? 俺もいいの?」
 暗に場違いじゃないか、と言ってみるが、相手はそれを押しのける。
「うん。これから1年同じクラスなんだし、仲良くしていこうよ」
 と、その中のリーダー格のような女子が言う。にっこり、と愛想が過剰の笑顔を向けられるのは、何時の頃か佐藤の中でデフォルトになっている。
 正直、人前で物を食べるのは中々の苦行なのだが。
(……ま。クレープならそんなに拘束されないし)
 最初から誘いを拒んでいては、人付き合いが悪いと思われてしまう。最初はある程度引き受けておいて、今後断る時には相手がそれは已む無しなのだ、と思ってくれるよう、差し向けなければならない。こんな風に考えるのは、疲れる。でも、しないと過去の傷跡で魘される。
 果たしてこんな自分にも安息の地はあるのだろうか、と考える時もある。
 まあ、候補だけはあるのだけど。


 その候補である吉田は、昇降口で靴に履き替えていた。手に持つ小さい靴に何となく微笑んでしまう。
 いや、ここはそんな小さい事(物理的に)注目している場合ではない。いつもなら、やたら雄々しい女子(多分とらちん)や見た目からしっかりてそうな女子(きっと井上さん)と一緒に帰って居るというのに、今日は1人で居るという所だ。それぞれに、別に予定があったのだろうか。
 それはともかく、これはきっかけを作るチャンスだ。現在、単なるクラスメイトでしかない距離を、今日縮めよう。佐藤は逸る気持ちを抑え、しかしいそいそと吉田に向かって足を運んだ。連れ立っている女子達は、佐藤の行く先が解らないままにも、その後を着いて行く。
「――ねえ、これからクレープ屋に行くんだけど、一緒にどう?」
「へ?」
 履き換えたスリッパを入れようとした所で声をかけられ、そのままの姿勢で吉田は止まった。まさか自分に声がかけられるとは、思ってもなかったのだろう。物凄くきょとんとした顔を向けている。
 吊り目が大きくなって、何だかコネコみたいで可愛い。
(――可愛い)
 佐藤は芽生えた感情を噛み締めた。
 乾いた喉に、冷たい水が流し込まれたような、感覚。満たされる気持ちがある。
「え、でも、そんな、いきなり」
 吉田が、佐藤よりもその背後に視線を向け、顔をひきつらせる。大方「アンタは来るんじゃない」みたいなオーラを察したんだろう。吉田も、さっさとこの場から立ち去りたい、と全身で訴えている。
(残念、逃がしてあげられないんだ)
 とりあえず今は非難の気持ちでも良い。自分の事で頭を一杯にして欲しい。
 佐藤は、今にも逃げ出そうとじりじりと後退している吉田の腕を掴んだ。ひえっ、と声の無い悲鳴を吉田が上げた気がした。驚愕に少し飛び上がった体躯を抱きしめたい衝動に駆られる。
 佐藤は、とびきりの笑顔で吉田に言う。
「いいからいいから。これから1年同じクラスなんだし、仲良くしていこうよ――ね?」
 最後の佐藤の「ね?」は吉田ではなく、背後に控える女子に向けられたものだ。
 自分のセリフを引用されて、否定は出来ない。「そ、そうね」と作り笑いに盛大に失敗したような表情で彼女は頷いた。
 その返事が、吉田の同行を許す意味を持っていると、気付いているからだ。


(うーん、何でこんな事に……)
 美味しいと評判のクレープ屋がある駅前へ向かうグループに誘われ、吉田は一人困惑していた。
 今日は中学からの親友たちが居るクラスのHRが長引いている事を、その最中でこっそり貰ったメールで知った吉田は先に帰る事を決めていたのに、何故か足は家に向かっていない。
 そもそも、どうして自分が誘われたのかが解らない。しかも、誘ったのがクラス一どころか、校内一キラキラとした女子に大人気の男子。入学式からその周囲には自分よりもうんと可愛い子に囲まれていて、きっと話す事もあまりないだろうな、と思っていたというのに。何でなの?と吉田は何度か解らない疑問を自分にぶつける。しかし、勿論答えは帰って来なかった。
 本当はクレープ屋になんて行きたくなかった。甘いものは好きだけど、なんだか明らかに余分と思われてるようだし、それに何より今は財布の中が寂しい。何せ次の小遣い日にたっぷり余裕のあるというのに現在、一番大きな金額が500円玉なのだ。
 今月は欲しい漫画の単行本が重なったからなぁ……と過去を振り返る吉田だった。
 目的のクレープ屋は移動販売店舗で、西欧の車のようなワゴン車を改造したものだった。作りたてのレンガのような赤い色が可愛い、と吉田は思った。
 吉田はメニューを見て、一番安い部類のチョコスプレーに決めた。文字通り、生地にチョコスプレーを塗しただけのものだ。それと、この店の売りであるふんわりとしたクリームが着く。これに更に50円を払うとバナナが着く訳だが、吉田は自重した。こうした些細な引き締めが全体の節約につながるのだ、と母親がいつも言ってるし。
 買っている時、あまりに侘しい財布の中身が知れたら嫌だな、と思っていたが、皆佐藤に意識が集中しているらしくてそんな不安は払しょくされた。買ったのは吉田が一番最後で、他の皆はオプションにアイスやスティックケーキがついたりと見た目華やかだ。中には甘くないタイプの、サラダを巻いたクレープを頼んでいる子も居る。
 出来あがった吉田のクレープは、クリームを巻いただけのシンプルなもの。チョコスプレーは生地とほぼ同化している。皆みたいに見た目の楽しみには欠けるが、口に含めばミルクの優しい味が広がるし、チョコスプレーがぷちぷちと良い食感を醸し出している。うん、これでも美味しいじゃないか、と乗り気では無かった最初の気分を吹き飛ばし、吉田はほくほくとした顔でクレープを頬張る。
「吉田って、チョコ好きなんだ?」
 突然、自分に向けられた声に、吉田は事の始まりを忘れかけていた。そうだ、この男に声をかえられたせいで、少ない小遣いをさらに少なくする羽目になったのだ。
 普通に佐藤に名前を呼ばれた事に、ちょっと、あれ、と吉田は思ったが、同じクラスなのだ。知っていて別に可笑しくない。
「ん、うん、好きだけど」
「甘いのが好きなの?」
「うん、」
 たっぷりのクリームと格闘しながら食べていた所に話かけられたので、口の中を整えるのに少し手間取った。
「そう。なら、チーズケーキも好き? 頼んでみたんだけど、ちょっと甘くってさ」
「え?え?」
 吉田が返事に戸惑っている間に、佐藤は自分のクレープに添えられていたスティック状のチーズケーキを、吉田のクレープの上に乗せた。
 何度か、吉田は戸惑うようにチーズケーキと佐藤を交互に眺めていたが、どうやら本当にくれたのだと判断し、はぐはぐと口をつける。
「あっ、これ美味しいよ」
「まあいいよ、全部食べちゃって」
 美味しかった事に引け目を感じたのか、返そうとする吉田にそのまま食べて良いと先に言う。吉田はまだちょっと気にした風だったが「じゃ、食べるから」と一言だけ言った。相変わらずそういう所が残ってるんだな、と佐藤は嬉しくなってしまう。
 両手でクレープを持ち、落とさない様に真剣に食べている吉田は、本当に小動物みたいで可愛い。咀嚼する事に少し揺れる頭を、とても撫でたいと思う。撫でてしまおうか。撫でていいだろうか――そんな風に思いを巡らしていた佐藤だが、掛けられた声に中断を余儀なくされる。
「――って、あれ、佐藤くん、吉田さんと何話してるの?」
 何だか、その言い方だと佐藤はグループの中をそっと抜け出たようだ。女子達も何か夢中になって話合っていたみたいだけど、何を話してたのかはその輪に入っていなかった吉田には解らない。
 ただえさえ、着いて来たのを快く思って無いみたいだし、その上佐藤から施しを貰ったら、余計に睨まれる。何でも無いと流してしまおうと、吉田は思ったのだが。
 佐藤は声をかけられた方に向き直り、にっこりと笑って言う。
「ああ、吉田が何だかお金が無くてひもじそうだったから、ちょっとお裾わけをね」
「んなっ!!!!!!」
 あっさり言われた佐藤の内容に、吉田はクレープを食べたまま瞠目する。
 よりによって、言われたくない事を全部言われてしまった!! と、言うか何時財布の中を知った!!!!
(酷い!! ケーキくれて、いいヤツだと思ってたのに!!!)
 最初はゼロに始まり、さっきまでは上の方に登っていた吉田の中の佐藤の株は、ここにきて一気に大暴落だ。「何となく近寄りがたい人物」からめでたく(?)「出来れば近寄りたくない人物」へと佐藤は昇格したという。
 吉田が抱く印象が一瞬で変わったのに、佐藤は気付いたか気付いてないか、とにかく吉田を眺めてにこにこしていた。なんだその笑顔は!!と吉田はキレる寸前だ。
「あー、あたしも今月ピンチだし。ちょっとコスメで冒険したしー」
 別に金欠の子に佐藤が食いつくとは思ってないだろうが、中の一人がそう言って佐藤の気を引こうとする。ふーん、と呟いてから佐藤はまた吉田に向き直る。さっきまでとは違い、その顔にはありありと「あっち行けコイツ!」みたいな感情が滲んでいる。その表情は、明らかに、自分にだけ向けられたものなのだ。佐藤がずっと欲しかったもの。
「吉田は何買ったの?」
 にこっと佐藤が訊く。
 そんな質問に何で言わなくちゃなんないんだ! 
 吉田は余程そう言いたかったけど、佐藤のファン達の渦中に居て、彼を否定する発言はきっと身の破滅に繋がる。相手が自分の話す事にこれ以上興味を持ちませんように、と吉田は祈りながら、素直に答えた。曰く、ゲームとお菓子と漫画で消えた、と。
 ……何故だか、女子達からどよよよとどよめきが起きた。女子高校生でその内容はあり得ない、みたいな。
(いーじゃん。ほっといてよ)
 年の割に子供っぽいとは、母親からも井上からも言われた事だ。でも、背伸びしても窮屈だし、似合わない事も解ってる。
 この顔にメイクなんて、その方が滑稽じゃないか。
「あのさ、もう高校生なんだから。お菓子以外でも支出考えなくちゃダメだよ?」
 1人の女子が吉田に声をかける。何だか小さい子に言われるように言われてしまった。大体、お菓子が全部ではないというのに。ゲームと漫画が無視された。
「肌の手入れとか、早ければ早い程いいんだし、化粧水くらいは……」
 と、吉田の肌の様子を眺めている女子が、何かに気付いたように目を止めた。何だ?と吉田も怪訝に思う。
「ねえ、そこの………」
「――あっ、ねえ、そういえばさ、」
 女子が何かを指そうとした。しかしその前に、佐藤がふと思いついたように声を上げる。彼女の興味は途端に佐藤の発言に移り、吉田にはあっさり背を向けてしまった。
 何なんだ、ともう一度吉田は訝しんだ。
(何だか、急に割り込んで来たみたい)
 佐藤の声はそれくらい唐突だったけど、そう思ってるのは自分だけのようだ。
 吉田は来た時と同じように、集団の後ろをテクテク歩きながらクレープを頬張った。佐藤のおかげで、ちょっと充実したクレープを。


 家に着き、自室で財布を覗いた吉田は、いよいよ乏しくなった全財産に、ぐぬぬと顔を顰めた。まあ、クレープは確かに美味しかったけど。
 小遣いの前借を請求すべきか否か、吉田は入浴の時間をそれに当てて考えてみる。とりあえず何か物入りが無ければ現状維持、という結論になったのは考え過ぎて少し逆上せたからだ。ちょっとぼーっとする。
 ちょっと慣れ親しんだ長い髪を乾かしながら、浴室の鏡を見ていると上気した肌のせいで、目の下の傷跡がいつもよりはっきり浮かび上がっている。
 もしかして、クレープ屋で女子が自分の肌について何か指摘しようとした時、顔の絆創膏の事を言おうとしていたのだろうか。鏡を見てようやく気付く吉田なので、その場では気付かなかった。
 小学生の時はそのまま晒していた傷跡だけど、中学に上がって絆創膏を貼る様になった。傷の理由を勝手に詮索されるのを避ける為だ。酷いのなんて、高橋がつけたと噂する連中まで居た。あの時は憤慨して、久しぶりに拳が燃えたものだ。
 ――あの時、佐藤が声を上げなければ、傷の説明をする事になったのかな
 吉田はそんな事をふと思った。


 何だか気まぐれを起こした佐藤に、クレープ屋なんかに誘われてしまったが、もうこんな事も無いだろう。
 そう思っていたのに、佐藤が吉田に構うのはむしろそれをきっかけにとても増えた。
 全く関係ない所に居るのにいきなり話を振られたり、廊下ですれ違う時は必ず髪をくしゃくしゃっと撫でられたり。
 別に吉田だけが佐藤と話す訳じゃないが、そんな構い方をするのは佐藤だけだ。
 納得いかないのは、佐藤のファン達で。
「何で吉田があんなに佐藤くんと仲がいいのよ!」
「そうよ、あんなにツリ目ザルなのに!」
「っていうかそこ? ペット的な可愛さって事なの?」
「佐藤くんって、動物好き?」
「それより、ペット飼ってるのかしら?」
「誰か知ってる?」
「吉田が知ってるんじゃない? あんなによく話してるし」
「そうね、吉田に訊いてみましょ」
 ――と、言う事で、佐藤の情報目当てで吉田は女子に追われる境遇に追い込まれた。
 求めるものなんて、何も持っていないというのに……
「うぅ……いつまでこんな生活続くんだろ……」
 ズドーン、と落ち込んだ吉田が、それに見合う声で呟く。
「吉田、しっかりしろよ」
「そうだよ、明日は、明るい日と書くんだよ」
 牧村の励ましと秋本の優しいセリフに、吉田は何とか気を持ち直した。
 イケてない男子どもの憩いの場になっているオチケンの部室に、女子に追われる吉田を気の毒に思った2人が招いたのは少し以前の事。すっかり、ここの住人として定着しそうな吉田だった。
(こんな筈じゃなかったのに)
 パイプ椅子に腰かけて、吉田は溜息を吐く。思い描いていた高校生ライフは、決してこんなものじゃなかった。
 憧れの先輩とか、登校中に見かける格好いい男子とか、そんな存在にちょっとした恋心を抱いて、でも多分付き合うのはクラスメイトの中で親切で優しい人になるのかな、なんて甘酸っぱい恋愛シミュレーションをあれこれ思っていたのに、実際はとんでもなくモテまくる男子の体の良いオモチャだ。色々泣けて来る。
「でも佐藤も、なんでそんなに吉田に構いたがるのかな」
 誰もが抱く、それこそ吉田も抱く疑問を、ここでは秋本が言った。
「知らないよ。中学だって違うし、こっちからは何もしてないし」
 確かに格好いい人だ、とは思ったけど、とてもファンの女子達のような猛烈なアピールはしていない。それらを押しのけるように、自分にちょっかいを出す佐藤が本当に不可解だ。正直な所、自分と言う存在を、佐藤が目に入れた所から吉田は不思議だった。他に可愛い子なんて、山ほど居るのに。そして彼女らこそ、佐藤に相手して貰いたい人たちだろう。自分とは違い。
「――なあ、でも、実際どーなんだよ、吉田?」
 何だか牧村がそわそわしたような顔で尋ねて来る。
「どう、って、どう?」
 何だか言葉遊びみたいな返事になってしまったが、そう言うしかない。
「だからー、本当は佐藤と付き合ってんじゃないかって」
 俺は口が堅いぞ言ってみ?という牧村に、吉田は全力の呆れ顔を送ってあげた。
「んな訳無いってー。牧村までそんな事言うなよ。色々有り得ないってば」
「でも……確かに、仲良く見えるけどね。傍から見てると」
「秋本まで……」
 嘆息する吉田の前で、2人が「だよな」と頷きあっている。
「まあ、あれだよ。今まで近くに居なかったタイプだから、弄って楽しいんだよ」
 そう、自分を評する吉田。そうかなぁ、と秋本は首を捻り――
 その時。
「吉田――――――――ッ!!!」
 バーンッ!! とドアが開かれる。
 そこには、クラスで一番可愛いと言われる小池の姿があった。


 そんな訳で、何でか佐藤の本命を聞きだす任務を仰せつかってしまった。何でだ!
 吉田は断った。全身、全力で断ったが「どうして訊けないのよ! それともやっぱり、吉田が付き合ってるの!?」と嫌疑をかけられては晴らす為に引き受けるしかない。何でこんな目に、と何で何でが止まらない吉田だった。
 それにしても、あの佐藤に告白したという小池にも驚かされるが、それを断ったという佐藤の方が信じされない。小池は吉田から見てもとても可愛い女の子で、自分が男なら告白されようものならその場で即頷いていると思う。勿論、他に好きな子が居ないという前提だが。
 と、なると、自分の告白を断ったのは、他に好きな人が居るからだ、という小池の推理も強ち間違ってなくもないかもしれない。しかし合っていたとは言え、それを自分が訊くのは色々腑に落ちないのだが。
 まあ、告白して玉砕し、傷心しているのも確かだし、本命を聞きだしてそれが慰められるというなら、最も聴きやすい立場に立っている者として、少しは手を貸してやらない事も無い。全く気が進まないけど。
 とりあえず、女子に囲まれてるだろう佐藤を誘いだして、どこか人目に着かない所に2人きりになって、上手い具合に会話をリードして好きな人を聞きだして――
「……………」
 どれもこれも果たすのに気が思い事ばかりだな、と吉田は改めて自分の境遇に溜息をついた。


 最近、毎日が楽しい。
 だから何だと言われればそれまでだが、佐藤の中ではあまりに劇的な事だ。
 学校では苛められ、家の中では無視され、ただ何もかもに自分を乱されない為、全てを受け流していた頃に比べ、今はどうだろう。吉田が浮かべる表情や取る行動、発せられる言動がどれもいちいち可愛くて、機能停止になったかと思った自分の心が毎日毎日疼いて仕方ない。
 あんまり吉田が可愛くて、こっそり数枚隠し撮りしてしまった。多分これからも増えるだろう。
 やっぱり、あの時クレープ屋に誘って良かった。あれを皮切りに吉田に色々ちょっかいが出せれたし。チャンスは大事だ。
 自分の正体を知らない吉田は、何故こんなに構われるのか、不思議で堪らない、という顔をよく浮かべている。その顔を見るのも楽しいけど、そろそろ素姓を打ち明けたくなってきた。やはり、告白するからには、全てを打ち明ける必要があると思う。いっそここが初対面のスタンスでずっと付き通そうかとも思ったけど、嘘の上で成り立つ関係にはしたくない。
「…………」
 佐藤は、再会した時から仄かに期待をしている。吉田から、気付いてくれないだろうか。お前の顔の傷の原因を作ったヤツだと、思い出してはくれないだろうか。
 その為には、もっともっと自分を意識して貰う必要があると思う。と、なると告白だけ先にするべきか?だとしたら、そのきっかけは?どうする?
「……。佐藤」
 ちょっと睨むような、そんな声。吉田が自分を呼ぶ声は、どんなに物思いに更けたって聴きとる事が出来る。
「吉田? 何?」
 この、他の子がぽーっとなる笑顔で、顔を顰めるのは吉田だけだ。とは言え、美意識は周りと同じなので、造形の美しさに頬を染めたりもするが。
「あの、ちょっと話したい事があるから……昼休み、中庭に来て欲しいんだけど」
 いい? ちゃんと来いよっ、と吉田は告げて、そそくさと去って行った。
 中庭と言えば、人が来ない事で認識されている場所だ。そんな場所に呼び出して、まさか吉田の方から……?! なんて思う程佐藤も楽天ではなく。
 ここ最近、身の周りで起きた事を思い出してみる。そういえば、さっき小池の告白をフッた所だ。咥え、吉田が女子に追いかけまわされている事実。
(――なるほど、吉田を使って俺に聞き出そう事か)
 佐藤は告白を断った時、意中の存在を仄めかしてはいない。けれど、所謂女のカンと言うヤツで小池は感付いたのだろう。
 数時間後に、好きな子から「好きな人は誰?」と訊かれる事になる訳か。あまり嬉しい事態とは言えない。
 しかし、まあ――
 これから吉田に告白でもしようとした時に、これは良い流れだ。渡りに船と言っていいかもしれない。これに乗じて吉田をもっと翻弄しよう。今度はそういう意味も含ませて、もっと自分に意識させる。
 本当の想いを告げるタイミングはまだ決めかねている。
 でも今度は、4年前のように手から零れるのをただ黙って見てるような真似はしない。
 その決意だけは、もう決めている。
 とりあえずは昼休み。そこから、自分と吉田の今後が大きく動くはずだ。
 今はそんな事を知らず、どうやって聞き出すかに頭を悩ませてるだろう吉田を思って、そっと口元を緩めた。



<END>