吉田はこの、魚の形をしたスポンジを気に入っている。見た目が可愛いばかりかと思ったのだが、口に当たる先端部分はコップの内側を底まで洗うのに都合が、側面の部分は皿を広く一気に洗うのに適している。が、しかし、それを購入してきた佐藤本人の胸中では、これを持って居る吉田が可愛いからという完全に見た目だけで選ばれているのを、吉田は知らない。
 洗った食器をちゃんと拭いて棚に仕舞い、エプロンを外すと佐藤が風呂から上がって来た。
「ごめんな」
 少しだけ申し訳さ無そうに言う佐藤に、そんな気遣いしなくて良いのに、と吉田はちょっと苦笑してしまう。佐藤の勤める会社では、今が繁忙期なのか、今日も午前様ではないが今日の終わりが見える頃に佐藤は帰宅した。体力には自身が、というより勝手に能力が高まったような佐藤だが、それとは別に疲れを感じる。
 こんな時、外で食事を摂ってくれば良いのだろうが、佐藤は忙しい時ほど家の味が恋しくなる。味の濃淡というより、気持ちの問題の方が近い。心が疲れている時だからこそ、癒しを求めるのである。そして佐藤の癒しとは、吉田の存在他ならなかった。
 すでに本来の夕飯時に食事を終えている吉田には二度手間だが、予め解っていれば苦にはならない。そんな佐藤の為に、滋養のありそうなメニューを考えるのもちょっと楽しかったりするのだ。今日は滋養のある野菜を集めてオムライスを作ってみた。普段は一汁三菜の組み立てなのだが、疲れた時だとあれこれと箸をつけるのが億劫になると思ったのだ。けれど、スープは付けた。勿論、佐藤は綺麗に平らげた。
 疲労を回復する次なる方法は心身ともに解す入浴だ。この習慣は日本人くらいと佐藤に聞かされた時、吉田は日本に生まれて良かったと思ったものだ。風呂に浸かる心地よさは何にも替え難い。
 贅沢を言えば、吉田と一緒に入りたかった所だが、吉田も自分もまだ明日の仕事はあるし、これは週末の楽しみだな、と佐藤は楽しみは取っておく事にした。
「んじゃ、風呂入ってくる」
「うん……」
 と、佐藤は曖昧な発音で頷き、そして、目の前を通り過ぎようとする吉田の身体を抱きしめた。
 いきなり抱きとめられ、吉田は目をぱちくりとさせる。
「え、何??」
 いつまで経ってもスキンシップの慣れる事の無い吉田は、すでに顔が赤く染まりつつある。その頬に軽く唇で触れてから、佐藤は言う。
「癒され中」
「は?」
「あ~、ストレスが消えていく……」
 吉田のくせっ毛に顔を埋め、うっとりとした口調で言う佐藤に吉田は固まる。
「ちょ、んなっ! そういうのはお風呂入ってからに!!」
「積極的だな」
「そーじゃないー!!」
 綺麗になってからなら、いくらでも触っても良いというのに。しかし佐藤からしてみれば、風呂上がりだと石鹸の香りが先立ち、吉田の香りが薄れてしまうのが難点なのである。そう言うと吉田はきっと嫌がる、というか恥ずかしがるだろうから。そしてその恥ずかしさの為、しばしの間触れ合う事が出来なくなってしまうかもしれない。それは佐藤にとって回避すべき事だ。なので、言わない。
 そんな事をつらつらと思っている間でも、佐藤は吉田を抱きしめているし、吉田はそれにじたばたしている。吉田は抵抗のつもりなのだが、佐藤にとってはそれすらスキンシップの内である。まあ、あんまりやると拗ねて怒らせてしまうし、何より就寝の時間も迫る中でこれ以上入浴の時間を削っても行けない。
 最後にまた、頬にちゅ、とキスをした後、「いってらっしゃ~いv」と佐藤は送り出した。快い佐藤の態度ではあったが、吉田がそれに準じたかどうかは別の話しである。

 浴室と脱衣所を隔てるドアは引き戸になっている。がらら、とその独特の音を聴いて、吉田がもうすぐ出る事を知る。実際、そう思って何分もしない内から吉田がひょっこり現れた。上気した頬や濡れた髪は、ちょっと佐藤には目に毒だ。吉田の事を思えば深く交わる事は出来ないが、疲労の溜まる体は性欲を焚き付ける。
「あ、まだ起きてたんだ!」
 意外そうに言う吉田に、今度は佐藤が苦笑する。
「起きてるよ」
 そうして吉田を自分の方へと招き入れる。どうせ吉田は準備なんてしないだろうと、横に置いてあったドライヤーで吉田の髪を乾かす。自分が寝ていたら、きっと吉田はタオルで拭く程度だっただろう。
 温風に耐える為か、佐藤に撫でられるのを堪える為か、ぎゅうと目を瞑る吉田は猫みたいで本当に可愛い。本当に猫だったら喉でも鳴らすだろうが、勿論そんな事は無い。けれど、吉田の良いように佐藤は髪を撫でる。ふにゃあ、と吉田が解れるのが手の平を通じてまさに手に取るようだった。
「寝ようか」
 最後にふわりと髪をまとめ、佐藤が言う。うん、と素直に頷いた吉田だが、次の瞬間には驚愕に変わる。ソファに座り、自分の足の上に吉田を乗せていた佐藤が、そのまま吉田を横抱きにして持ち上げたからだ。
「もーっ! 自分で歩くー!!」
「だめ。吉田にたっぷり癒されたいから」
 それは取りも直さず、沢山触れていたい、という事で。
 当たり前ながら、吉田は佐藤の仕事を手伝う事は出来ない。せめて他の形で助けになるのならと、吉田はこの扱いを甘んじで受ける事にした。顔は少しだけ、自分のこの状況には不満があります、のような意思を張り付けて。
 でも、それだけで終わらすのが、結局は人の良い吉田なのだった。


 忙しさも佳境になる中、他のデスクには栄養ドリンクや気晴らしのガムが置かれている中、佐藤のデスクは相変わらずシンプルなものだ。佐藤の独占欲がもう少し弱く、そして誇示欲が強ければ吉田の写真の1つや2つも置いただろうが。
 残業続きの中、そういったアイテムも無しに乗り切る佐藤に、同僚の何人かはその秘訣を問い質そうとした。それに対し、佐藤は「自分に合った方法を見つける事だな」と嘘ではないにしろ明確とも程遠い返答を寄越す。だって、教えられる訳がないし、知った所で相手が実践出来る事はまず無いだろう。
 昼休みの些細な時間、佐藤は早速「自分に合った方法」でリクラゼーションの最中だ。
 佐藤が片手で操るスマホには、以前にドライブで出かけた時、ヤキソバを口一杯の頬張っている吉田の画像が出されていた。いかにも美味しそうに食べている表情に、佐藤の顔が綻ぶ。午後の業務も、これで乗り切られそうだ。
 佐藤は携帯を仕舞い、気を引き締めて仕事場へと戻った。




<END>