車の免許を取れば、こんな寒空の中を出歩かせる事無く、吉田を迎えに行けるのだろうけど、しかしそうなった時には鼻の頭を赤くして玄関にちょこんと立つ吉田の姿が拝めなくなるという事だ。
 全てを手に入れるのは難しい、というか不可能な事である。新しい何かを手に入れるためには、今持っている物を捨てなければならない。吉田のコートをハンガーに掛けながら、佐藤はそんな事とつらつらと考える。
 部屋は外を歩いて来た吉田に丁度良い温度に合わせてある。ふー、あったかいー、と目を猫のように細めて吉田が寛ぐ。
「ココアを持ってくるよ」
 佐藤が言うと、吉田の表情がぱあっと輝く。チョコレート好きな吉田にとって、ココアは好きな物の1つである。
 そんな吉田の為、佐藤も気合と愛情を入れてココアを入れる。が、これがきっかけで、この後の些細な騒動に繋がったとも言える。
 一刻も吉田の元に向かいたい佐藤としては、後に回せられる作業は全て後にし、淹れたココアとミルクやシュガーポットを乗せたトレイを持ち、部屋へと向かった。自分用に淹れたブラックコーヒーとココアの香りが混ざり、けれどむしろ良い香りになっている。
「お待たせ」
 飲み物との兼ね合いの為、一緒に持って来た菓子はチョコレートでは無く、サブレやフィナンシェの類だ。
「わー、ありがと!」
 淹れたてのココアにもお菓子にも、そして佐藤の姿にも歓喜し、吉田は惜しみない笑みを送る。愛想笑いとは程遠い、本心からの吉田の笑顔は、佐藤の心を何より温めてくれる。
 吉田のマグカップと自分のコーヒーカップをトレイからテーブルに移す。途端、待ち構えていた吉田がすぐにココアを取り上げ、いただきまーす、と言うが早いか、口を付けてしまった。
「あ、吉田!!」
 佐藤が慌ててストップをかけたが、すでに遅かった。吉田はココアをすでに口に含んでいて――固まっていた。
「――――!!! ~~~~~~!!!!!」
 極限まで見開いた目が明らかに助けを求めていた。これに応えなければ男が、というか佐藤隆彦が廃る!!
「吐き出しても良いから。台所行くか?」
 しかし吉田はぶんぶんと首を左右に振るばかりだ。食べ物(飲み物であるが)は粗末にできない、という事なのだろう。
「~~~~~っっ」
 覚悟を決めた吉田は、ぎゅっっっと目を瞑り、ぐっと顔を上向かせた。勢いと重力で辛うじて吉田は、口の中の飲み物を飲み下す事に成功した。そして、第一声。
「~~~~苦い~~~~~~!!!」
 ぷるぷると震えて涙すら零しそうな吉田に、佐藤はほら、と直接砂糖を口に運ぶ。シュガーポットに入っている砂糖は、小さな小石みたいなブロック状に固まっているタイプなのだ。
 ばく、と佐藤の指から直接食べる吉田。むぐむぐ、と口に入れて甘さを補充するが、それでは足りないと両手でフィナンシェを取ってもぐもぐ、と食べ始める。
「佐藤、酷い!! 変なもの飲ませた!!」
 ようやっと一息つけた吉田は、次に佐藤に向かって文句を飛ばした。確かに、今まで散々な物を食べさせてきた前科があるから、すぐに疑うのは仕方ない。が、今回に限っては冤罪だと主張させて貰おう。
「変な物じゃないよ。それは正真正銘、ココア」
「嘘だ!だってこんなに苦いのに!!!」
 威嚇するように肩を怒らせる吉田。そんな様子も佐藤には可愛く見える。
「あのな、吉田」
 怒っていても、話を聞く姿勢は失せていない。だから佐藤は説明した。
「カフェオレがブラックコーヒーみたく苦くないのは何故?」
「へ? だって、牛乳と砂糖が入る、……。…………」
 一見唐突な佐藤の質問に答える中、吉田は事の真相に気付いたようだ。
「え、まさか、ココアって……えー……」
 吉田は感嘆の声と共にまだ湯気の立つカップの中を覗き込む。このココアが苦いのは、ミルクも砂糖も無いからなのか。
 と、言うか。
「ココアって、苦い物なの?」
「前に70%カカオのチョコレート、吉田、苦いって言ってたよな」
 直接の返答ではなく、他の事例を取って佐藤が言ってやる。そうして吉田も、完全に把握したようだ。そういえば前に、ココアはチョコレートから脂肪を取ったようなもの、と佐藤から聞いた事もある。
「市販されてるココアの粉末はその時点でミルクも砂糖も入っているからな。でも、製菓用のココアパウダーには砂糖は入っていないよ」
 そう言われ、吉田はトリュフ――もちろんチョコレートのだ。に振りかけられたココアを思い出した。確かに、あれだけ舐めても全く甘くも何ともなかった。
「いつもそういう既製品だから、今日はちゃんとココア入れてみようかと思ってさ」
 ここに持って来る時、ミルクも砂糖も入れておくべきだった、と少し前を振り返る佐藤である。あの時は、とにかく吉田の顔が早く見たいという事しか頭になかった。
 つまり、このココアはまだ吉田にとっては未完成なのだ。これから、ミルクと砂糖を咥えて完成となる。
 でもどれくらい入れたら良いのかな、とミルクピッチャーとシュガーポットを見ている吉田の前、佐藤がすっと手を伸ばしてマグカップを引き寄せる。そして砂糖を入れ、ミルクも居れる。ミルクはホットミルクで、ココアが温くなることは無い。
 はい、と微笑と共に再び手渡されたカップ。吉田も改めて受け取り、さっきより優しい香りを立ち上らせるココアに口を付けた。
(ん!)
 さっきと同じく、目を見開く吉田だが、その意味するところは勿論逆である。今度は甘さもミルクの量も丁度良くて、何よりココアの味が濃い。なるほど、市販のものとは文字通り一味違う。
 以前飲ませて貰った事のあるホットチョコレートもまた違う味で、やはりココアとチョコレートは原料が同じでも名称を別にするだけあって別物だと解る。
「美味しい!とても美味しい!!」
「そっか。それは良かった」
 喜色を浮かべた吉田が、輝かんばかりの笑みで振り向いてくれる。この一瞬の為に自分の全てがあるのだと、佐藤は言いきってしまいたい。
 教室内、というが学校内だとやはり独り占めは難しい。でも佐藤は独占したい。吉田の可愛さは自分だけが解っていれば良いと思うのに、勿論そんな訳にもいかない。全部が全部ではないが、佐藤が思うような「可愛い」を吉田に感じている輩は決して居ない訳じゃない。
 きっとこれから増えて行くんだろうな、と佐藤は思う。今はビジュアル重視の未熟な価値観しか持たない輩が成長し、人を見る目を見に着けたら吉田の良さが解ってしまう。最も佐藤は、吉田の容姿もとても好きなのだけども。
「佐藤ってどんどん料理が上手になって行くな~~」
 ふくふくとした顔で吉田がそんな事を言いだした。
「そうか?」
「ん。だってこんなココア飲んだの初めてだし」
 今までで飲んだ中で一番おいしいとまで言われ、勿論佐藤は悪い気はしない。というかちょっと舞い上がりたい。
「佐藤、コックさんになれるよ」
 すでに半分のココアを飲み終え、吉田が言う。吉田が言ってくれたものの、佐藤は賛同しかねる。コックさん……ねえ、と頬杖をついて明らかに乗り気では無い様子。
「俺は、吉田にだけ作っていたいからなー」
 そんな毎日、どれだけ素敵だろうと佐藤は少しばかり夢想した。吉田の好きな献立、味付け。勿論栄養の面もちゃんと考えて。それはそれだけでとても幸せな毎日だ。
 とりあえず、これを現実にするためには同居、というか同棲が不可欠だな、とそこに至るまでの経緯がまだ佐藤は建てられていない。吉田の事を好きである自信はあるのだが、吉田と寄り添うのに相応しい自分であるかと言われると返事に窮する現在だ。
 もっと、吉田にとって良い自分になりたい。どうすればそうなれるだろう、とぼんやり思う中、ふと吉田を見てみると。
(え、)
 吉田が目を丸くして、やたら真っ赤な顔になっていた。何か、変な事でも言ってしまっただろうか?
 いやそういえば、と佐藤は直前の自分の台詞を振り返る。吉田の為にだけ作りたいなんて、ある意味毎朝味噌汁作ってくれと同じような意味になるのでは?
 少なくとも、吉田はそう取っていそうだ。
 その顔の赤さを問いつめてやろうかと、意地悪な悪戯を思った矢先、吉田はカップを再び口に着けてぐいーっと全部を飲み干してしまった。
 カップを口から外した時、ああ全部飲んじゃった~と吉田の心の声が、あえて発言せずとも佐藤にははっきり解って、思わず小さく吹き出してしまった。
「おかわり淹れてくるよ」
 名残惜しそうにカップを両手で包んだままの吉田に言う。
 一緒に暮らせる未来が来るかどうかは、まだ解らない。
 でも今は空のマグカップの届く位置にいるのだし、美味しいココアを入れる事をまず考えようと佐藤は思うのだった。



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