ああくだらない、全くくだらない。この数時間、佐藤はその台詞を繰り返す事で、敢えて平静を取り繕っていた。表面で建前を浮かべるのに、内心は本音を吐き出すのが佐藤のやり方だ。
 時刻を改めようと時計を取り出す。すると、家にはまだ決して近いとは言えないこの距離で、すでに今日はあと30分を切ってしまっていた。これでは、今日中に帰るのは無理かもしれない。
 堪らず、苦虫を噛み潰したような顔になり、佐藤はつくづく今日の飲み会に出席してしまった事を後悔した。前に貸しのある相手だからと、気を許したのがいけなかった。
 この手の席に、女性からは勿論、男性からも誘いを受ける佐藤だ。前者はさておき、後者の目的と言えば、大概は佐藤の恋人の情報を聞き出す為なのだ。佐藤はこれ見よがしに左手薬指にリングを嵌め、すでに相手が居る事を小物でアピールしている。が、その存在を明らかにするだけで、どういう人物かは一切打ち明けていない。だから、皆は知りたくて堪らないのである。社内全部の、と言って過言ではないくらいの女性職員を虜にする佐藤が選んだ相手とは如何程のものなのか。
 けれど、その時点でもはや佐藤には説明する気が失せる。佐藤が選んだのではない。選んで貰ったのだ。その辺りの事、どんなに懇々と言ってやっても、相手は聞き入れたりはしないだろう。人が信じるのは単純な事実では無く、自分にとって都合のよい事柄だけなのだから。
 とはいえ、何だかんだで佐藤が吉田の事を言わないのは、単なる独占欲が濃厚であるが。可愛い吉田の事を知っているのは自分だけで良いと、高校から続く佐藤の胸中である。


 今日の飲み会は予定として組み込まれていた事だから、佐藤は今日は自家用車を使わずに出社した。そして帰りはタクシーを捕まえ、自分を含めてそのままカラオケの二次会へと傾れ込もうとする連中の隙を見て帰った。何か喚いていたようだが、全く気にしない佐藤だ。
 つり銭を貰う手間も惜しんで、佐藤は紙幣を置くだけ置いてマンションへと上り込んだ。もどかしい思いでエントランスから部屋の前まで行くと、ようやっと一息つくことが出来た。吉田はもう、寝ているだろうか。こうして、次が休みの日は、夜更かしをする事もあるが。深夜、だらっとした空気の中で見る映画はおつなものだ。こうした些細な事で、改めて一緒に暮らしているのだという事実を実感し、幸せに浸るのである。
 そっとドアを開けると、明かりのついた玄関が佐藤を出迎える。しかし、ここの電灯は人に反応して着くタイプだ。廊下や、その先に続くリビングに明かりがついている様子は無い。寝ちゃったか、と少しだけ残念そうな表情を浮かべ、佐藤は静かに部屋に上がる。以前は、いつもこうだった。明かりの無い部屋と、静寂だけの空気。家と呼ぶにはあまりに生活感の無い場所だった。過去形でそう言えるのは、今はもう、違うからだ。ここは、家。自分と吉田の家なのだから。
 酒臭いだろうか、と佐藤はざっと顔を洗った。アルコールの匂いがこれで飛んだかは解らないが、少なくとも少しすっきりした。今日はもうシャワーじゃなくて風呂だな、と顔を拭きながら佐藤。吉田が起きていれば、すぐさま一緒に浴槽まで連れ込んだのだが。
 そして寝室に向かうと、とても小さな小山が出来ていて、佐藤の表情が知らず綻ぶ。1人で寝てるというのに、横に来る佐藤の為にスペースが空いているのが嬉しかった。そっとベッドに近寄り、覗き込む。今日は寒いからか、口元をすっぽり覆うくらいまで羽毛布団を被っていた。息が苦しくならないか、と佐藤は布団をそっと引き下ろす。途端、露わになった吉田の薄く開いた口に、何か辛抱できなくなって佐藤は気付けば口付ていた。そのまま、深く貪りたくなる欲求を抑え、吉田の寝息を感じながらそっと唇を離した。
 キスをしたのに吉田が起きないのは、これが悪い魔法にかかっているからではな無いのだろう。すやすやと、見ているだけで疲れが飛ぶ寝顔を晒している。本当に、愛しくて愛しくて堪らない。佐藤は余程起こしてはならないと自戒をかけているのだが、それでも手を伸ばし、その髪をそっと梳いてやる。ああ、この髪洗いたかった、なんて思いながら。
と、その時。
「……ん~……」
 軽く声を上げ、吉田が佐藤の方へと寝返る。起こしてしまったか、と佐藤の手が止まる中、目を閉じたままの吉田の口元が笑みを象る。そしてまた、うにゃむにゃと声にならない声を発した後、すーすーと元の呼吸に戻る。覚醒とは程遠い様子だった。
 見ている夢の中で、何かあったんだろうか。佐藤も小さく笑いながら、就寝の為の身支度を整えようと、最後に可愛い額に軽くキスをしてから動いた。


「ん……」
 と、ふと佐藤は横にあの心地よい体温が居ないのに気付く。途端、完全に目を覚ました佐藤はベッドから降りる。少し耳を澄ましてみると、ドアの向こうから調理の音が。
 ガチャリ、とドアを開けると今度は匂いが鼻を擽る。五感が幸せを感じていた。
「あっ、佐藤、おはよ!」
 エプロンをつけた吉田が気配を感じてくるりと振り向く。そのエプロンはこの前佐藤が買ってきたものだ。明るいピンク地に黒猫の模様。吉田によく似合っている。
 丁度呼びに行こうと思ってたんだ~と吉田はそのタイミングの良さに、嬉しそうな声で言う。そんな吉田を見て、佐藤も朝から素敵な気分だ。
 今日の朝は、昨日飲み会だった佐藤を労うような献立になっている。柚子のドレッシングで作った柿のサラダは、まだ残るようなアルコールを吹き飛ばすように、優しく爽やかな香りを感じさせる。
「そういえば、」
 とシジミの味噌汁を味わった後、佐藤が口を開く。
「吉田、昨日どんな夢を見てたの?」
 言われ、え?と柴漬を箸でつまんでいた吉田が首を捻る。
「何か、楽しそうにしてたからさ」
 ちょっと気になった、と佐藤はちょっと意地悪くってやる。すると吉田も、寝顔をじっくり見られた、と頬を微かに赤くした。
「ああ、でも、そう言われてみれば、何か夢は見たなぁって気はする」
 けれど、どんな内容かはまでは覚えてないらしい。アジの開きを突きながら、記憶を呼り起こそうとしたが失敗したらしい。
 夢をはっきり覚えている人の方が、珍しいと言えばそうなのかもしれない。佐藤だって、覚え居たとしてもかなり断片的で靄のかかったあやふやなものだ。
「ま、楽しそうな夢で何よりじゃないか。悪夢より余程良いよ」
 そりゃそうだけど、と吉田。
「あ、でも、悪夢っていうか、もうすぐテストなのに何も勉強してない!!っていう感じの夢はちらほら見るな~」
 思い出してか、吉田が言う。しかしそれは、夢というより掘り返された記憶と言ってやるべきだろうか。しかし言われてみれば、佐藤も夢を見た時に学生時代での光景が多く現れているように思う。つまり、それだけ強烈に印象に残っているからだろう。むしろそこは納得の佐藤だった。吉田と出会った舞台であるあの高校は、何よりも感慨深い。
「夢を自分で選んでみられるようになると良いのにな」
 佐藤はふと思いついた事を口にしてみる。もしそれが可能なら、是非自分の夢の中でも吉田と会いたい所だ。
 吉田の見たい夢はどんなだろう、とそういう回答を待っていた佐藤だったが、そんな佐藤には意表の着く展開となる。
「ん~~~……そうなったら面白いとは思うけど、あんまり……?」
 仮にそんな事になっても、自分は使わないだろう、というような吉田の態度だ。首が軽く傾いたままで止まっている。そう?と佐藤が尋ねるような相槌を打つと、吉田も一回うんと頷いてから自分の考えを述べる。
「どんな夢を見るか解らないから楽しい……みたいな所もちょっとあるかなって」
「あー……びっくり箱みたいな?」
 佐藤が例えてみると、吉田はそう、そう!と頷く。何が出るか解らない。だから、ドキドキワクワクするのだと。
 なるほど、確かに先の解ったストーリー程詰まらないものは無いかもしれない。そしてそんな状態だから、自分が望む事が舞い降りて来た時、本当に嬉しくなる。
 吉田と高校で再会するなんて思いもしなかったから、あの場面は今でも、細部をも思い出せる程鮮明に記憶に焼き付いている。
 でも、自分にとってのびっくり箱は、寝ている時に見る夢なんかではなく、この吉田そのものだろうと佐藤は思う。
 次に吉田が何を言うか、何が起きるか。ドキドキしてワクワクして、そして必ず幸せな気持ちに見舞われる。
 その辺だけ、純粋なびっくり箱とはちょっと違うかな、と若干の訂正も加える佐藤。
 ここで朝食を終わり、昼を迎える今日という日。何が起こるかどうなるか。
 全く分からないけど、吉田が居るから素敵なものには違いないと佐藤は思うのだった。



<END>