「可愛いですね」
 と、同僚から声がかかったが、その対象は決して佐藤では無い。正しくは佐藤の使っている付箋に、だ。
 デスクの傍らにある小冊子から、黒猫がちょんと顔を出している。女子高校生が使う様なファンシーな柄ではないが、それでも有り体に仕事の出来る男、という佐藤が使うには目に付くアイテムだ。
 実は付箋以外にも、ふとした時に佐藤の私物には黒猫がモチーフになっている物がそれとなく含まれている事は、付き合いの長い者から割と知られている。
 その為、佐藤は猫好きという一部で歪曲された認識を抱かれているが、勿論真実はそこから離れている。
 佐藤は猫が好きなのでは無くて、たまたま好きな人のイメージが黒ネコと被るという、たったそれだけの事だ。


 そんな風に、やんわりと誤解されているという事に、佐藤は勿論気付いていたが、けれど特に正すような事でも無いのでほっとく事にした。うっかり恋人の存在を明らかにし、詳しく問い質せられたらそれこそ迷惑だ。受け答えが面倒なのではなく、吉田の可愛い所は自分だけが知って居れば良いという、全く拙い独占欲からだった。
 どうも、自分の情緒面は高校生の時から――いや。吉田と初めて会った時からあまり成長していないように思える。
 何とかせねば、と思う事は度々あったが、しかしそういう方面は何でどう鍛えれば良いのか。いくら調べても全く答えの無いそれを引きずりながら、佐藤は今日まで来ている。
 さて、今日は吉田が夕飯の当番だ。吉田の喜ぶ顔を思い浮かべながら献立を決める自分の番の時も至福だが、当然吉田の手料理が味わえる事にも幸せを感じる。
 吉田の方は、佐藤の方が上手だけど、とやや気後れしたような感じではあるが、吉田だって料理の腕は確実に上がっていると思う。まだ一緒に暮らす前の、時折自分の部屋に招いて部屋デートの時に吉田が作ってくれた時。その前の訪問の時より確かに手際も味も良くなっていたのを、佐藤は勿論覚えている。
 ただえさえ愛情たっぷりなのに、そこに技術向上の努力も加わるのだ。もう無敵だな、と鼻歌でも歌いたい気分で、佐藤は残り僅かな帰路を足早に歩く。


 おかえり〜〜と玄関で出迎えてくれた吉田はとても可愛かった。最も、佐藤にしてみれば吉田の可愛くない所なんて、無いと言ってしまえるのだけれども。
 ああ、でも、好きという気持ちに対して意地を張ってしまう所は……可愛いな、うん。可愛い。認識を改めつつ、上着を掛け、部屋で寛げる体勢を整えてから食卓に上がる。
「今日、冬瓜煮てみた」
「へー、そりゃ良いな」
 佐藤が快くそう言うと、吉田もだろ?と笑って返す。冬瓜は熱を逃がしてくれる食べ物だから、蒸し暑この頃にはまさにぴったりだ。
 一応、母ちゃんに煮方とか教わったけど、と言いながら吉田は冬瓜を佐藤に手渡す。熱いそれではなく、冷やしおでんのように冷ましてあった。
 箸からの感触で、すでにとろりとした食感が期待出来た。口の中に入れれば、それは無事に叶う。
「うん、美味いよ」
 噛むまでもなく、口の中に広がる味と食感に、佐藤は今日の疲れが一気に吹き飛んだ。まあ、半分くらいは玄関で吉田の顔を見た時点で癒されていたのだが。
 よかったー、と吉田はちょっとほっとしたような面持ちではにかむ。不味いなんて言う訳ないのにな、と佐藤が胸中でひっそり思う。きっと、そういう事では無いのだろうけど。
 3年間、イギリスで暮らす事になった佐藤だが、やはり日本の和食が一番自分に馴染むような気がした。だからだろうか。1人きりだった時はともあれ、吉田と暮らすようになってからは佐藤の作る食事は和食のメニューが多い。
 あえて口にして確認する事も無かったが、それで吉田も佐藤が和食が好きだと、何となく感じ取ったのか、やはりそっちの献立がどちらかと言えば多い様な気がする。けれど、佐藤は吉田の作る洋食系のものも好きだ。専門書で学んだ現地のメニューのアレンジ等では無く、母親から教えて貰ったというカレーとかハンバーグは、本当に美味しいのだ。
 作るのは当番制だが、後片付けは他に用が無ければ2人でこなしている。食器を洗っている最中、今日のどうだったとか、次は何食べたい、とか他愛ない会話が交わされる。毎日話している内容だが、飽きた事も煩わしく思う事も一度も無い。会社だと、多少気心の知れた相手でも、長い事話していると軽く中ったかのように、軽い疲労も感じるのだが。
 吉田の隣は、本当に寛げる。こんなに小さな体なのに、全部を受け入れてくれているのだ。
 大事に、大切に。そして愛していかないと、と佐藤は毎日、祈る様に思っている。


 デザートにブドウもあるよ!と吉田は言っている自分が一番嬉しそうな笑顔で佐藤に言う。聞けばさっきの冬瓜もこのブドウも、勤め先のパートの人から貰ったのだと言う。その人の親戚筋で、仕事というよりも自分達の為に半分くらい趣味の様に作物を育てているのだそうだ。
 佐藤だって、ベランダを利用してちょっとしたハーブ菜園みたいなのがあったりするが、さすがにブドウはな……と宝石の様に丸く艶やかな、冷蔵庫の中で冷やされたブドウを1つ摘み、思う。
「ん! うまー!!」
 ソファに坐った佐藤の隣り。吉田も早速1粒摘んで口に頬張っていた。吉田は食べる前に皮を剥くタイプで、その親指の爪の間に紫の皮が入りこんでいる。果汁も存分に指についてしまい、口の中を飲み込んだ吉田は、ぺろり、とその指を舐め取る。
 吉田の口が小さな指を食むとその瞬間を、佐藤はつい見つめてしまう。
「……………」
「すっごいなー、コレ、家の庭で作ってるって言うんだもん」
 十分売っていけるレベル!と吉田が太鼓判を押している。
 佐藤は、さっきから摘んでいたブドウを、丁寧に皮を剥いて行く。
「ほら、吉田。アーン」
 皮をはぎとり、甘い汁を湛えた透明な果肉を突きだすと、吉田が目を丸くした。
 こういう時、それまでに余程その気になっていないか、あとは酒でも入っていなければ、素直に応じてくれる事は少ない。今も、一度顰めてみせてから、付き合ってやる、みたいな顔を作って佐藤からのブドウを受け入れる。
「……ん、」
 それでも、ブドウの甘さに口に入れた瞬間、吉田の目が嬉しそうに細まる。
 そういう顔を見ると、佐藤は身体の芯から、ゾクリとさせる熱が湧き起こって来てしまう。こんな気持ちになるのは、吉田だけだ。
 ブドウを口の中に入れた指は、その役割を果たしても離れる事は無く、逆に吉田の唇に直に触れて来た。
 元からの初心さと、何より経験の不足で、吉田に自分の熱を感じ取ってもらうには、以前はそれなりに手順を踏んでいたのだが、今はこれくらいで解って貰える。ただ、唇に指を当てているだけなのに、吉田の顔はどんどん赤くなっていく。
「ダメ?」
 我ながらずるいと思いながらも、訊いてしまう。それに吉田が首を振ると解って居るから。
「ダ、ダメじゃないけど……」
 きゅ、と指を当てているのとは反対の腕を、吉田がその袖を軽く摘む。
 うん、と軽く頷くだけで、佐藤は吉田の言いたい事を全て浚う。世の中には場所を変えて楽しむ輩も居るらしいが、吉田はやっぱり、ベッドじゃないと落ちつけないらしい。最初の内はそれ以外にシャワー浴びてないとヤだ!と突っぱねられていたのだが、それは大分緩くなっていった。
 形だけの承諾が終わった後、佐藤は吉田の頬へと掌を添え、そっと、深く、口付けた。


 すぐに眠りに落ちてしまった吉田の髪を、佐藤はそっと労る様に撫でた。今日はまだ平日で、明日に響いてはいけないとセーブをかけたつもりなのだが、つもりで終わっただけかもしれない。
 まあ、でも、風呂に入るだけの力を残せられたのは進歩だな、と佐藤はそんな自己評価だ。
 手を出したのは割と早い佐藤だったが、最後の一線は中々越えられなかった。吉田の全てを奪う、そのプレッシャーがどうしても重く圧し掛かる。それを打ち払ってくれたのは、やはり他ならぬ吉田で。
 佐藤の苦労は、ある意味そこから始まったと言って良いのかもしれない。吉田と深い所で交わえるようになった後、今度はその手加減に困った。自分の欲の赴くままに抱いてしまえば、壊れるに決まっている。けれど、抑え過ぎて逆に欲を貯め込んでしまえば、懸念した事が倍以上となって吉田に襲いかかるだろう。決して我を見失わず、鬱積する事も無いくらいで。そのバランスは、実を言えば今も模索中だ。だって、離れてしまえば、もう足りないと自分の中が騒ぐ。
 今だって。
「…………」
 本気の恋をした事が無く、そういう相手を抱いて来た経験しか無い佐藤は、ある意味吉田と同じだ。決定的な経験不足。吉田以外の相手は、やる事だけやって、後は一緒に寝る事すら無かった。今でも最低だと思う。最後までを躊躇さえたのは、多分この事も関わっている。
 それでも佐藤が気付けたのは、本当に好きな相手には欲以外の感情を持ち合わせられる事。それは慈しみだったり、真心であったり。
 それが凶悪な欲を包んでくれる。吉田を守って居るのが吉田への想いである事に、佐藤はとても嬉しく思う。あまり褒められた態度で生きて来れなかった自分だけど、吉田を好きになれた所だけは、本当に誇れるから。
 その為に生れたのだと言われたいくらい。
 いやむしろ、その為にだけ生きている。特に今は。
 弄る様に髪を撫でていると、吉田はふにゃりと口元を緩めた。現実での感触が、夢の中で何か齎したのだろうか。
 大好きで大事な吉田。夢の中でも幸せでありますようにと、額にキスを落としてから、佐藤も同じく眠りに就いた。
 自分も、夢の中で幸せに。吉田と一緒にいられますように、と。




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