「いってらっしゃい」
「うん! いってきまーす!」
手を振り、実に可愛らしく出掛けて行った吉田を見届け、佐藤も自分の支度を始めた。
とはいえ、仕事に行くのではない。行き先は勤め場所ではなく、近くの警察署だ。断っておくが、何かの犯罪に関わったり加担していたりする訳ではない。
今日は自動車免許の更新に行くのだ。
更新の期間は、誕生日の前後一カ月と解っている。なので佐藤は早い段階からこの日を休みと決めていた。警察署は休日は開いてくれない。
とはいえ、郊外の教習所は日曜でも受け付けているが、何せあそこは広範囲から受講者が集まって来る。つまり、人が多い。
免許発行の時はそこに行くしか無いから行ったのだが、皆何が原因なのかやたらテンションが高い。どうも免許が取れた事に浮かれているように見えるが、たかがこんな資格を取ったくらいで何をはしゃぐか。佐藤は理解が出来なかった。
個々で勝手に騒ぐのなら良いが、そのノリでナンパをしてくる女性の多い事多い事。佐藤は教習所を抜けるまで、何度愛想笑いを浮かべながらその誘いを断った事か。あと1メートル距離が長ければ、その場で暴れていたかもしれない。
いっそナンパ対策に恋人と一緒に来れば良かったかと思ったが、女性に声を掛けられた所にへそを曲げられたら困るので、やはり止めておいて良かったと思う。吉田のヤキモチは可愛いのだが、この怒涛のナンパの嵐を避けきった後、それを満喫できる気力があるか疑問である。
とにかく、だ。前回のそういった教訓を生かし、今回は煩わしさを排除する方向に出た。
近くの警察署、しかも平日の昼なら、そんなに人も居ないだろうと。
その佐藤の読みは正しく、講習所のドアを開けると、そこには3名程しか席についていなかった。しかも、男性。2人は定年後らしい風貌で、残りの1人は佐藤より若い男だ。大学生か、でなければフリーターだろうか。
その後は、母親の年代の女性が1人。佐藤を興味深そうに見たが、声をかける素振りは無かった。それ以上は人は訪れず、ビデオを見て聞くだけの授業が続く。佐藤は違反も何も起こしていないので、軽く講義を受けるだけなのだ。
暗幕で仕切られた室内、無機質なナレーションと共に流れる映像を見ながら、佐藤は周りの景色に触発されたように昔を思い出す。高校生の時の事だ。吉田と一緒に過ごした学校生活は、高校と小学もあるけれど、交流らしい交流があったのは高校の時なので思い出としてはそっちの方が濃厚だ。最も、小学の出会いが一番意味が重いのだろうが。
佐藤が思い出したのは、金環日食を控え、それに準じた内容のテープを流した時だ。こんな授業の時、教師は楽をしているのか、しかし後から提出のプリントを見る手間は中々の膨大だと思える、と佐藤は全くどうでも良い事を思っていた。映像なんて右から左に流れている様なものだ。プリントには、自分の知識の中から書けばいい。それよりも、佐藤は見ておきたいものがある。
右斜め上、そこに吉田が座っている。隣に座る事も思ったが、話せない状況だとその至近距離が辛くなる。なので、こうして悠々と後ろから眺めていると言う訳だ。
小さい吉田は、座っても小さい。ちょこん、という効果音が、これほど相応しい事があるだろうか、という感じだ。
暗幕で日光は遮られているが、画面からの光で書きとる事は出来る。吉田は聞きながら、重要だと思った場所をルーズリーフへメモしているようだ。テストの点数が芳しくない吉田は、こうした提出物に力を入れるのである。
がんばれがんばれ吉田、と後ろからひっそりと自分で楽しむだけの応援をしてると、開始からおよそ20分、吉田に変化が見られる。
変化、というが何をしたでも無い。というか何もしなくなったのだ。
さっきまでは、映像から語られる全てではないにしても、それでも一定間隔で何かしら文字を書き留めていたのに、それが全く無くなってしまった。
まさか、と佐藤が嫌疑を抱く。その時、かくん、と吉田の頭が下がったのを見、確信に変えた。
(寝ているな……)
締め切られ、暗い室内。単調な映像とナレーション。眠気を引き寄越すのに全く相応しいシチュエーションだった。
けれども、吉田はまだ真面目な方だ。中には、最初から視聴を放棄して机の上に組んだ腕に頭を乗せ、完全居眠り姿勢の生徒だって居るのだから。
起こされないのを良い事に居眠りを満喫しているようだが、内申はしっかり引かれている事だろう。この教師はそういう所を見ているのだ。つまりは、吉田も内申点の危機である。
つまらない自重しないで、隣に座れば良かった、と佐藤は軽く公開してルーズリーフを折り始めた。
完成したのは、紙飛行機。これをぐらぐらと船を漕いでいる吉田の後頭部に当てるつもりである。
と、言うと簡単のようだが、佐藤から見える吉田の背中は2列先の光景なのだ。隣の人のと間隔は、大体3,40センチ。その間を縫って2列先の人物の頭に当てると言うのは、中々の技である。しかも、決して見晴らしが良いとも取れない場所で。身動きだって、満足には効かない。
けれども佐藤は、まるで原っぱにでも投げ出すような気楽さで、紙飛行機を飛ばした。
即席で作られたその飛行体は、すーっと静かにまっすぐ飛んで行き、無事に吉田の後頭部にコツン、と先っぽが命中した。後はぽとん、と床に落ちる。
後頭部に何かが当たった吉田は、はっとなったように頭を上げた。後ろから見るだけでも、まどろみから一気に覚醒したのが窺える。笑みを押し殺してそれを眺める佐藤。
吉田はしばしきょろきょろしていたが、やがて床の落下物に気付いたか、身を屈めてそれを取り上げる。そうして見つけた物が、自分の頭にぶつかった物であると吉田も解ったのだろう。
がさこそ、と吉田はその紙飛行機を広げる。佐藤は勿論、吉田はそうするだろうな、と踏んでいた。
だから、ちょっとだけ悪戯をしておいた。
「ぅわっ……!! あ、ごめん……」
抑えた声ながらも、映像のみが音声のこの場では全員の耳に届いた。吉田は何やら、言い訳をした後、またも謝り、肩を竦めて身を縮こませた。小さい身体が、ますます小さくなる。
他の生徒には退屈極まりない授業だっただろうが、佐藤にはとても楽しいひと時だった。
吉田が居れば、どんなに詰まらない事でもキラキラと輝くように楽しい。
まるで魔法の様だ、と、佐藤は何度思っただろう。
そして、何度思うのだろう。
そこまで思い出した時、現実のテープも終了した。後は発行し直した免許を貰えば完了である。
佐藤は無事故なのでゴールド免許であった。その事には特に感慨も見せず、佐藤は財布の定位置に免許を収め、午後の街へと繰り出した。
大型スーパーに寄り、夕食の食材を買うと共に雑貨店のテナントも冷やさすように流し見していく。吉田が好きそうな物があればそれとなくチェックをする。値が張るものなら、記念日の時へ。そうでないなら、どさくさに買って、日用品の中に紛らせてしまうのだ。そうし易いように、と必然の様に佐藤のチェックはキッチン用品の方へ目が向く。この前買った、羊の形をしたスポンジは良かった。調理は当番制だが、食器洗い等の後片付けは大抵一緒にやるので、羊のスポンジで一生懸命食器を洗う吉田を眺める事が出来た。良い光景だった。昨日も和んでしまったが、今日も和むに違いない(断言)。
しかし今日は目ぼしい物は見当たらなかったので、後は軽く本屋を除き、食材を買って家に戻った。
引きこもりとまでは行かないが、家に入ると、落ち着く。幼い頃染みついた印象は離れない。他人は、恐ろしい。
やりようによっては、人と会わずにすむ職種についたり、はたまた自分で起業しても良いのだけど、自分に楽な方ばかり転がると、とことん自堕落な性格になりそうで、佐藤は会えてそこに歯止めを聞かせている。
自分一人だけなら、あるいはとっくにそういう生活に投じていたかもしれない。
だけど、吉田と、一緒だから。
吉田と共に歩むのに、そんな排他的な事ではだめだと思うのだ。
でもいつか、心身ともに自分が一人前だと自覚できる程に成長出来たなら。
その時は、在宅ワークに転身して、日常の殆どを吉田の為に過ごせる生活にしたい。
そんな佐藤の些細な夢は、叶うようにとジンクスで、誰にも打明けていない秘密である。
帰宅した吉田は、マンションを見上げた時点で笑みを押さえる事が出来なかった。今日は絶対、美味しい食事が待っている。
吉田は特に、外食だの自炊だのの拘りはない。要は、美味しければ良いという味覚主義である。
でも、佐藤の作ってくれる食事は、美味しいだけじゃなくて、心まで満足する。それは、外食では得られない感覚だった。
早く、早く、と中々降りて来ないエレベーターすらじれったくて、吉田はいっそ階段でかけ昇ってしまおうかとすら思った。実行に移す前、エレベーターは降りて来てくれたけど。
ただいまー!と、美味しい食事が待っている分、出掛けた時以上の笑みでドアを開けた。おかえり、と足音でも聴こえたか、佐藤がすでに立っていた。
「すぐご飯にする?」
佐藤が尋ねると、その台詞を聞き終えるまでに吉田は頷いていた。
そのままの姿で席に着こうとする吉田に、部屋着に着替えてきなよ、と勧める。吉田は快く返事をし、一旦寝室へと入った。通勤着をちゃんとハンガーにかけ、ラフな服に身を包み、吉田は部屋を飛び出した。
佐藤はキッチンで、汁物を温めている。良い香りを伴った湯気に包まれた佐藤を見て、吉田の胸にはほっこりとした温かみが広がった。
「美味しい!!」
吉田は歓喜半分、感心半分に声を上げた。
「この豆腐、ホントに佐藤が作ったの?」
少々季節を先取りながら、ガラスの器に涼しげに入った冷奴は、佐藤の手作りだと言う。吉田は説明に驚き、実際口にして改めて驚いた。
「2人分だからね。そんなに難しくは無いよ」
凄いな〜と尊敬の念を乗せてキラキラとした吉田の目をこそばゆく受けながら、佐藤がそう言う。
材料は大豆とにがりだけだし、大豆を砕くのはミキサーで十分なのである。
今日はたっぷり時間があるので、手間がかかるものを作ろうと佐藤は考えた。パンも候補に挙がっていたのだが、美味しいパン屋が近くにあるし、それよりは普段出来たてを口に出来ないようなもの、という事で豆腐にしたのだ。
吉田は凄いと美味しいを繰り返しながら、豆腐ばかり口にして居る。豆腐は、あえて細かくは切らず、そのまま大きな器に入れ、食卓の真ん中にどんと置いた。それを、大きな匙で小皿に取って、各調味料で楽しんで貰うという趣向だ。
七味を掛けても美味しいよ、と幾度となく勧めてみるが、辛いのは嫌という吉田は試した事は無い。美味しいのにな、と佐藤はしつこく言うのである。
何せ作るのが初めてで、大豆の量の加減が上手く出来ずに2人分にしては少々多めの量が出来てしまったが、残す事無く平らげてしまった。満足!と吉田がほくほくした表情で後片付けを一緒に取りかかる。
「佐藤の豆腐、すっごく美味しかった!何か、ちょっと甘かったかな」
吉田が言う甘いというのは、砂糖等でつけたものではなく、穀物の持つほんのりとした甘味だ。市販のものでは感じられない、些細な感覚。
「そんなに美味しかったなら、また作るよ」
そんなに喜んで貰えたら何よりだ、と佐藤は微笑みながら言う。優しい佐藤の発言に、喜色を浮かべる吉田だったが、あ、と何かを思い至った顔になる。
「でも、作るの手間なんじゃない?」
大変ではないけど時間はかかるのだろう、と吉田は言う。まあ、実際その通りなのだ。
「そうだな……なら、週末にでも」
佐藤は少し考えを巡らせ、改めてそう微笑みかける。
だったらさ、と吉田はさらに楽しい提案を佐藤に告げる。
「今度は、母ちゃんたちにも持って行ってあげよう」
良い日本酒のつまみになるだろうし、と吉田。
なるほど、それは素晴らしい提案だ、と佐藤も頷く。やはり吉田は、自分の生活に彩りを添えてくれる。
勿論、それ以外も。
あまりに大事な存在だから、時折打ちのめされる事もあるけれど、でもそれ以上に幸せな事が多い。
無機質な日常に明かりを灯らせてくれたり、温かさや華やかさ、煌めきも吉田から貰っている。
そして、何より、たっぷりの愛情を。
「あ、お風呂」
片付け後、ソファに座ってのんびりしていると、風呂の支度が完了したアラームが室内に響く。
吉田は呟く様に言った後、何かを待つように佐藤を見ている。きっとこれは、無意識の仕草だ。
佐藤は、求められている事を確実に受け取り、大事に言う。
「一緒に入る?」
普段なら、とんでもない!とばかりに断られてしまう台詞だが、今日みたいな日は違う。
愛情たっぷりな料理の後、吉田は結構素直になってくれる。人は口にしたもので身体が出来ているというが、栄養素以外でも通ずるのだろうか。
吉田は、はにかむようにした後、うん、と頷く。それがあまりに可愛くて、佐藤は堪らず抱き上げていた。急だった為、さすがに吉田から抗議の声が上がる。
「もー!いきなりはやめろってば!」
「ごめん。でも、可愛いのがいけない」
謝りながらも開き直る佐藤に、吉田は不貞腐れたように頬を膨らましたが、所詮は照れ隠しのポーズである。
今日は週末じゃないから、ちゃんと加減しないと。
そうは思うけど、今から逸る気持ちを抑えられない佐藤だった。
<END>