かつては薄紅色の儚い衣を纏っていた桜並木だが、今の季節となると真緑の葉が生い茂り、辟易する日差しから少しだけ守ってくれている。
 外で話す吉田との会話も、必然の様にこの気温が取り出させる。きっとあの母親は、これからどんなに暑くなってもエアコンなんて入れてくれないのだろう、と吉田は今から愚痴る。佐藤は、まだ吉田の両親との対面も会話も果たしていないが、こうして吉田の話を聞いているから、なんだか会っていないような気がしない。吉田の家庭は、きっと温かくて賑やかなのだろう。自分の家とは、およそ真逆に。
 衣替えもプール開きも済ましたばかりのこの時期は、気温が上がる前にまず湿度が気になる。蒸し蒸しする〜とシャツの腹部分を引っ張ってぱたぱたと中の換気を良くしようとしている吉田。これで煽って無いのだから、むしろ恐ろしい。
 あんまり服をはだける様な事するのであれば、指導とペナルティを与えねばならないだろうが、幸いにも吉田はその辺りの節度はきちんとしている。母親の躾、というか親子間のコミュニケーションが良いのだろうな、と佐藤は思う。
「じゃあ、次の土曜、水族館行こうか」
 水辺を見れば、気持ち的に涼しくなる筈だ。部屋でごろごろするのも良いが、鬱屈した気分を晴らすには外出した方が気を紛らわすものが沢山あるだろう。その後で、部屋でゆっくりまったりすれば良いのだ。あの姉は週末の夕食を家でとる事の方が珍しいから、夕飯も吉田と一緒だ。
 にこにこ、と早速その日のスケジュールを練る佐藤だったが、吉田が微妙な顔つきになってしまったのを見て、おや、と一旦思考を止める。
「ん〜、その……今度の土曜日、体育の補習だから」
 ごにょごにょ、と吉田はちょっとだけ言いづらそうに、口の中で言う。顔も、少しだけ赤い。
 体育の補習。吉田の口から言われて初めてそれに気付くとは、佐藤は自分の甘さや拙さを省みた。
 今の体育は、当然ながらプールでの水泳である。だがしかし、女子の場合どうしてもそれが出来ない日があるのだ。
 まあ、方法が無いわけでもないのだが、吉田がそれを知っているか怪しい所だし、それに知っていてもやはり気分的に優れないのなら、入らない方が良いと佐藤も思う。例え病気ではないのだとしても。
 その為に補習という措置があるのは良い事だ。だがしかし、気になるのは休日なので部活中の水泳部とプールを同じくするのでは、という点である。そうなると、その部員である彼らは、佐藤がまだ拝んでいない学校指定の水着姿の吉田を見るという訳で、思春期の佐藤は思いっきりもやもやするのであった。
「ご、ごめん。日曜日は空いてるから」
 微かに眉を潜めた佐藤の表情を、微妙に取り違えた吉田がおずおずと口を開く。
 吉田の声に、はっと我に返った佐藤は、さり気なく頬を摩った。吉田の前では、何故か普段は隠しておける素が出てしまうのだ。こう言う時は、本当に参る。
 そうじゃなくて、と佐藤は真相は誤魔化しつつ、表情の件についてはフォローをしておく。
「まあ、水族館はまた今度にしようよ。水泳の後だと、疲れてるだろ?」
 休日は遊ぶのも良いけど、やっぱり休まないと、と佐藤は吉田に言う。
 そうでもないと思うけど、と吉田はちょっと言い返したい様な気もするが、佐藤が自分の事を気遣っているのも解っている。確かに、かつかつに予定を入れるのも自分の性分とは合わない事なので、ここは佐藤の言い分を大人しく受け入れる事にしよう。
 でも、2日も佐藤の顔が見れないのはつまらない。
 そう思っていた所に、補習の後にウチに来る?という誘いはタイミングが良過ぎて、吉田も自然に頷いていた。


 そして、補習の日。吉田にとってちょっと嬉しかったのは、井上と一緒だった事だ。高橋とは体育の授業で合同クラスになるが、井上とは違ってしまうのだ。
 更衣室で、隣り合ったロッカーを使い、会話をしながら着替える。今日は、吉田達を含めて6人の女子が補習を受ける様だ。
「こういう時、女って不便だな〜って思うな」
 水着への着替えを済ませた後、井上がやや気だるげに言う。井上もあるいは、誰かとの予定を断る嵌めになったのかもしれない。
 さっさと終わらそう!と井上は意気込み、長い髪を器用に水泳帽に収めていく。
 吉田も、以前はあっさり被って終わりだったのだが、最近は伸ばすようになった髪を苦労して帽子の中へ詰め込んでいく。
 空手を止め、それまで御法度だったのだけども吉田は何となしに髪を伸ばしてみた。それでも、夏のこの時期は短い方が何かと便利なので、ショートカットくらいには短くしていたのだけど。
「…………」
 けれども、自分の髪を弄る時の、嬉しそうな佐藤を思い出し、吉田の髪は夏を迎えても長いままなのであった。


 中にはかったるい、と等と言って堂々水泳をサボる輩も多いが、吉田は基本スポーツは嫌いでは無いので、水泳をし終わった今は、何となく清々しい気分だ。髪も、井上に手伝って貰ってしっかりばっちり乾かした。
 井上は、プールが終わると彼氏と待ち合わせをしているのだと、嬉しそうに喋って手を振り、去って行った。しっかりものの彼女だけど、ああして恋人の事を語る時は、何とも可憐な表情を浮かべる。それはきっと、2人の中が良好だからなんだろう、と吉田も嬉しく思った。
 校庭では、野球部と陸上部が活動をしている。それを横目に見ながら、吉田は校門に向かう。
 一度水に浸かった肌を、風がスーッと撫でていく。その心地よさに、吉田は目を細めた。
 そして、校門を出た、その時。
 チリン、チリリン、と聞き覚えのあるような、ベルの音。何だっただろう、と思うと同時に、その音の発信源を探して首を動かす。
 正体も、元も、あっさりと見つかる事となった。
「佐藤!」
「お疲れ」
 吉田の視線の先には、自転車に跨った佐藤が居た。チリンというのは自転車のベルを鳴らした音だったのだ。
 なんで?どうして?佐藤がここに??と沢山の疑問を浮かべながら、吉田は佐藤の元に駆け寄る。吉田が疑問だらけの胸中を抱えているのは、顔を見ればこれ以上ない程解った。解り易い吉田に笑みを浮かべ、佐藤が先手を打つように言う。
「そろそろ終わるかな、と思って」
 迎えに来た、と言えば、夏の暑さの為では無く、赤くなる吉田。本当に、可愛くて仕方ない。
 プールの補習が何時から始まり、そして終わるのかはちょっと調べれば解る事だ。吉田にそのまま聞いても良かっただろうが、ちょっとしたサプライズをしたくて、わざと本人への質問は避けたのだった。その甲斐あって、目を丸くする可愛らしい表情が拝めた。
「しっかり捕まれよー」
「う、うん」
 後ろを振り返り、吉田の安全の為にも佐藤は言う。何せこの行為、実は違法なのであるし。
 吉田もそれを解っているだろう。必死にぎゅう、としがみ付く。
 この時も、きっとまた、可愛い表情浮かべているんだろうな。
 位置的に完全に死角なので、見る事は叶わないが、自分のシャツを握りしめる吉田の小さな手を見降ろし、佐藤はふっと口元を穏やかにさせた。


 そして、佐藤の部屋へと着く。自転車で迎えに来てくれたので、吉田の予定よりずっと早く到着する事が出来た。つまりその分、一緒に居る時間が長くなると言う事で。
 夕食を一緒にするのも、勿論約束は取り付けておいた。高橋に負けず劣らず、面倒見の良い吉田は1人で夕食を食べる事になる、とちょっと言えばじゃあ一緒に、と言ってくれるのだ。吉田の人の良さに付け込んでいるとも言えるが、吉田だって無理があれば断る性格なのでこの辺りは許される駆け引きだろう、と佐藤は思っている。それだけ、自分は必死に、吉田と居たいのだ。
 連続で75M、もう少しで泳げそう、と今日の水泳の事を、吉田は部屋に通すと早速楽しそうに話してくれる。井上と一緒だった事も。
 それを聞きながら、俺も吉田と泳ぎたい。今度プールに行こう、と何となしに言ってみると、吉田は驚いた顔をしたけども、いいよ、と頷いてくれた。これには佐藤の方も驚いた。最終的には頷いてくれるだろうと思ったけど、こんなに最初から素直に頷かれるとは。
 実はその背景に、恋人との約束に嬉しそうに向かって行った井上の姿があるのだが、そんな事は知らない佐藤はただただ驚かされるばかりだった。おかげで、またしても吉田にヘンな顔、とからかわれる羽目になった。
 その後。お茶もお菓子も食べた吉田を見て、佐藤は洗濯物を仕舞って来る、と言い残して部屋を後にした。
 そして。
 用を済まし、部屋に戻った佐藤は案の定の光景に、やっぱりな、と胸中で呟いた。
 きっと、佐藤が戻って来るまで、とでも思ったのだろう。クッションを枕代わりにして、吉田はすやすやと眠っていた。
 水泳の補習をした後なのだ。聞けば、沢山泳いだと言うし、きっとこうなると佐藤は半ば確信していた。
 むしろ、吉田がうとうとしているのを見て、佐藤はこの場から一旦去ったのである。自分が一緒だと、吉田は中々寝ようとはしないだろう。それは警戒もあるだろうが、それ以上に佐藤との時間を増やしたいからだろう。
 その気持ちは十分嬉しい。だから、気持ちだけで十分だ。
 きっと目を覚ませば、吉田は何故起こしてくれなかった、と愛らしい顔で怒るのだろう。
 眠る吉田をそっと抱き上げ、固い床では無くスプリングの利いたベッドへと移動させる。良く寝ているのが見て解る吉田は、それでも目を覚ます事は無かった。
 寝かしつけた時に、顔にかかった前髪は慎重な手つきでそっと退かせる。猫の様な吊り眼の吉田は、しかし閉じるととても穏やかで優しい表情になる。慈愛に満ちていると思う。
 佐藤は何をするでもなく、ただただ吉田の寝顔を眺めていた。退屈とも思わない。時々、吉田が身じろぐのが楽しい。どうも夢を見ているらしく、表情が何となく変わる。
 自分を省みて、佐藤は眠り姫の王子様にはなれないな、と思う。
 折角茨の城を乗り越えても、そこに居るお姫様の可愛い寝顔をずっと見ていてしまいたくなるだろうから。
 けれども、それでもやはり、眠っている時にはない表情の移り変わりや、すぐに赤くなる頬。素直じゃない台詞ばかり言う口や、すぐにつり上がる眦の可愛さも知っているから。
 この時間になっても起き無かったら、起こそう、と佐藤は吉田には無断で時間を決め、それまでの間、寝顔をじっくりゆっくり堪能したのだった。
 佐藤の休日として、この上ない最良の過ごし方であった。



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