携帯から着信のメロディーが流れる。
 それだけで嬉しくなるのは、その相手が佐藤だからだ。
 電話を取ってみると、佐藤から「店」に来ないかという誘い。艶子から、とても珍しくて貴重な物を貰ったのだと言う。
 それは何?と吉田は訊いてみるが、内緒としか答えてはくれなかった。
 佐藤に騙し打ちの形で辛い物を食べさせられた、苦い思い出は付き合い始めてからこっち、つい最近まである。
 ちょっと警戒しながらも、吉田は足取り軽く佐藤の店へと向かった。


 佐藤の店は完全非公開。私用でのみ開かれる、まさに知る人ぞ知る店である。
 もしここが、正式に開店すれば、その味と何より店主の美貌で取材の申し込みや客が殺到する事間違いなしだ。
 けれども、少なくとも今の所の佐藤には、そのつもりは全くない。商売するとなると、色々制約も生れるだろうから。佐藤はその辺りをすでに倦厭している。
 吉田はそんな密やかに存在する店の、数少ない常連の1つだ。
 いやむしろ、吉田の為に作られたと言っても良い。佐藤がカウンター内に立つ、この店は。


 限られた人しか知らないのが勿体ない程、この店の内装や雰囲気はとても良い。勿論、出される料理の味も。
 いらっしゃい、と店主になった佐藤が吉田を出迎える。バーテン服でオールバック調の佐藤には、ここだけしか会えない。それだけでも、吉田はこの店に足を運ぶ価値があると思っている。
 普段は見れない佐藤の姿に、アルコールを摂る前からちょっと頬を染めながら吉田はカウンター席に着く。
「で、珍しい物って何?」
 ここまで来たのだから、もう教えてくれるだろう。でも佐藤だから、まだ答えを出し渋るかもしれない。
 佐藤は、吉田の質問に言葉では答えず、こっちにおいで、とカウンターの中で手招きした。なんだろう、と頭上にハテナマークを飛ばしながら、カウンターの一部を開いて吉田はその中へと身を滑らせた。
 佐藤は更に手招きする。しゃがみ込んだその前には、冷凍庫の扉。冷蔵庫、冷凍庫はカウンター側の下に取り付けられているのだ。
 その態度から察するに、佐藤が電話してまで見せたかった「珍しい物」とやらは冷凍庫の中にあるようだ。吉田も、佐藤と同じ位置にしゃがみ込む。
 佐藤は満を持したかのように、冷凍庫の扉を開けた。
 そこにあったのは――氷の塊、であった。
 だがしかし、何故か単なる氷の塊にも見えなかった。銀のトレイに乗せられて、吉田達の目の前で鎮座する氷は、大きさは佐藤が両手で抱えるくらい、見た目は岩のように不格好で、けれどとても綺麗だ。
 まじまじと見た吉田は、綺麗と思った理由に気付けた。気泡が入っていないのである。この氷には。
 無論、家庭で作ったのとは違い、コンビニなどでも売られているロック用の氷も気泡が入って白くならないものが売られている。しかし、この氷はとてもそれと同じとも思えなかった。単に、大きさの違いだけでは留まらない。
「これ、北極の氷だってさ」
 北極の!と驚きで声の出なかった吉田は、目を見開く事で表した。
 土地であって土地で無い、極寒の地。足を踏み入れた事のない物が、こんなすぐ目の前にある。そう思うと吉田の心がうずうずと騒ぎだす。それは、小さい頃は全ての最前線で働いていた好奇心や冒険心といったものだろう。
「で、どうする?」
 氷に見入っている吉田に、今度は佐藤が訊く。どうするって?とまたも吉田がきょとんとすると、佐藤は。
「どうやって食べる?かき氷にしちゃう?」
 その佐藤の台詞に、吉田はまたも目を見開いた。
「えっ! た、食べちゃうの!?」
「そりゃそうだ。だからこの店に持って来たんだし」
 冷凍庫の中だと言っても、扉をあけっぱなしでは意味は無い。佐藤はそう言いながら、ぱたん、と扉を閉める。
 その発想は無かったとばかりに吉田はうろたえる。まあ、確かに氷だし。食べるだけが目的じゃないけど、食べる事も出来るものだし。
「で、でもかき氷はちょっと……」
 はるばる運ばれて来た末路がそれだと、この氷もちょっと浮かばれないかもしれない。もう少し、格好いい(?)使い方をしてあげたい。
「じゃあ、ロックみたいにしようか」
 ぐるぐると考えている吉田に、佐藤がそっと助け船を出す。その提案は吉田も気に入るものだったらしく、すぐに頷き喜色を浮かべる。
「佐藤も、一緒に飲もうね」
 こんな感動、自分一人ではあまりに勿体ないし、荷が思い。何より美味しさを共感したくて。
 佐藤は笑みを浮かべて頷く。これが「勤務中」であれば飲酒なんて以ての外だろう。
 やっぱり、ただの趣味の場で良いと思う佐藤なのだった。


 吉田は酒に強い。が、ストレートで飲むよりもカクテルの方が好きなようだ。やはり、酒でも甘い方が好みなのだ。
 オン・ザ・ロックスタイルで、吉田の好きそうな味。
 普段は即興で作ってしまう佐藤だが、やはり折角北極の氷なる、滅多に手に入らない品があるのだ。ちゃんとしたレシピで作りたい。
 脳内検索をした佐藤は、カカオ・フィズを作る事にした。カカオ・リキュールとレモンジュースをシェイクし、グラスに入れた後ソーダで割る。甘くて、さっぱりとする後味のカクテルである。
 レモンジュースを手にし、佐藤は少し考えオレンジジュースに変えた。この方が吉田の口に合うだろうし。
 佐藤は氷を完璧な球形に削る事も出来たが、ここは北極を連想するような形のをごろごろ淹れてやった方が雰囲気出るだろう。
 シェーカーを振り、氷の入ったグラスに注ぐ。ソーダを入れ、最後はチェリーで飾った。
「はい、どうぞ」
 吉田に手渡す。それをとても大事に、両手で抱える吉田。
 グラスの中では、すでに氷は溶け始めている。カラン、と氷が動いた軽い音が響いた。
 吉田は両手で抱えたグラスをじっと見て、考える。このカクテルが自分の手に届くまでに辿っただろう道筋。それを佐藤から貰う巡り合い。
 考えれば考える程、途方もなくて溜息が出そうだ。
 ドキドキと、普段にない緊張を伴いながら、吉田はグラスに口を付ける。まずは、カカオの芳醇な香り。けれど、炭酸のシュワシュワした泡立ちとシェイクしたオレンジジュースが後口を爽やかにさせる。次の一口が重くならないのだ。
「……美味しい」
 口に出すプレッシャーも感じながら、吉田は素直な感想を漏らした。北極の氷のおかげだろうか。普段よりすっきりとした味になっている。
 目の前の佐藤も、同じグラスを傾けている。自分には丁度良い味だけど、だからこそ佐藤には甘過ぎるのでは。
 そう思ったけど、吉田を見て佐藤は、優しい笑みを浮かべる。そして、カクテルを一口。
 吉田も、つられるようにまたカクテルを口に含む。
 カカオ・フィズは長い間楽しむ為の、ロング・スタイルカクテルだ。
 今日は、長くなるだろう。
 そんな予感を感じながら、2人は談笑した。


 と、いう静かな2人だけの時間も、今となっては儚く淡い幻想のようだった、とオーブンに手を掛けた佐藤は思う。
 肉の表面を見て判断する。うん、良いだろう。
「オイ! 子羊のロースト出来たぞー!」
「おっ! サンキュー! 今取りに行く!」
 そういって、ジャックは駆け寄る。
 そこには、ブロックのままでこんがりと焼かれた羊肉が出迎えていた。周りには、適度に温野菜も並んで彩りも栄養も同時に得られている。
 ジャックは佐藤の顔を見て、苦笑を浮かべた。なんだ?と佐藤が訝しむと、気付いてないのかよ、と苦笑を解いて溜息を突くジャック。
「だからさ、2人の時間邪魔してるって自覚あるんだから、そんな視線で責めるなよ。埋め合わせはするからさ〜」
「…………」
 いつになく低姿勢で謝るジャックに、しかし佐藤は口を開けば八つ当たりしかしてしまいそうで噤んでいた。それが精いっぱいの誠意である。
 BGMも無く、取りとめのない会話を吉田と楽しんでいた時。いきなり店のドアが開いたのだ。そこにはジャック、とその後ろに旅行者らしき一個団体。この再会は佐藤はともかく、ジャックにとっても予想外で2人は同時に相手の存在に驚愕をした。
 ここは佐藤が料理の腕を振るう場だ。しかし、所持しているのは艶子なのだ。他の誰かが使いたい(もちろん、営業目的以外で)と申し出て、艶子が良しと判断したのなら、合いカギは手渡される。
 ジャックは、佐藤と吉田の2人きりが居たのなら今日は来なかっただろうし、逆にしても同じ事。けれども、肝心な艶子が今が海外で、その辺りの連絡が上手く連結してくれなかったのだろう。そうして起こった悲劇だった。主に佐藤にとって。
 よほど、ジャックはこのまま回れ右をしたかったのだが、吉田がその前に「わー、ジャック久しぶり!」と偶然の再会を喜んだ為、店内へと上がる事になった。佐藤には悪いが、もはや吉田もジャックにとっては大事な友人だ。あまり会える状況じゃないし、折角の機会はあまり譲りたくない。何より、吉田が歓迎しているのだし。
 悪いな〜と何度も何度も目やジェスチャーでその旨を佐藤へ向ける。佐藤は、理解を示した様な態度で、不貞腐れた表情で居る。解り易いヤツだな、とジャックは胸中で突っ込んだ。
 この店の設立のきっかけは、佐藤が本格的な設備で料理を作りたいと漏らした事。ジャックも、今夜料理を振舞いたい理由が出来て、ここに訪れたのだ。その理由こそ、ジャックが引き攣れて来た一団である。
 ジャックと、店内で賑やかにしている一団は知り合いではあるが、来日した理由はそれぞれだった。気兼ねなく、料理を楽しめて騒げる場所は無いか、と尋ねられた時、ジャックは真っ先にこの店を思い浮かべた。店では無いから、他の客を気にする事も無いし、料理なら自分で作れば良い。幸い、料理の腕の立つ者が多いメンバーであるし。
 出国ギリギリ前の艶子から合いカギを貰い受け、意気揚々と店に訪れ――佐藤達と遭遇した訳だ。
 この店は、7人がけのカウンターに丸いテーブルが4つ。テーブルを繋げ、その上には所せましと料理が埋まっている。その周りで、ジャックの連れて来た者達は、酒を飲み、料理を味わい、話に花を咲かせ、始終笑い合っていた。楽しそうで何よりだ、とやけくその様な佐藤の胸中。
 と、その時。
「さ、佐藤! どうしよう!!」
 あわあわ、と慌てて佐藤の居るカウンターへ駆け寄る吉田。どうした?と出迎えるその顔の、自分の時との雲泥の差に、佐藤がいかに吉田を好きかが解るものだ。
「お金貰っちゃった! お店じゃないから、って言ってるのに……」
 どうしよう、と困った顔で吉田はコインを見た。外国の貨幣である。きっと、歴史上の偉大な人物の横顔に違いない。
「いいんじゃないか、貰っとけば」
 あまりに深刻な吉田とは裏腹に、佐藤の態度は素っ気ない。というか、薄い。
「で、でも〜〜……」
 この店は商売じゃない、という佐藤の台詞を知っているからだろうか。吉田は尚もチップを受け取る事を躊躇っている。
 と、その時、距離がありながらも、吉田にチップを渡した人物と会話をしていたジャックが、吉田に向けて言う。
「自分たちが旅行先でとても楽しい時間を過ごせたから、吉田達が自分たちの国に来た時に、楽しいひと時を過ごせるように使ってくれ、だって」
 ある意味、等価交換、といった所だろうか。代金としての金じゃない、と吉田も判断したのか、チップを大事そうに受け取った。
 ジャックの一団が押し掛け、吉田にはそれまで通り座って寛いで貰いたかったのだが、この前凝ってバーで働く為の衣装を用意したのが不味かったのか、それを着て佐藤の手伝いをしたい、と吉田が言い出したのだ。
 吉田としてみれば、こんな場で座っているだけの方が、余程仲間はずれの様な気持ちになるのだろう。それがよく解るから、佐藤も吉田の申し出を受けれてしまったのだ。その服があるのは佐藤の自宅だが、生憎と言って良いかかなり近い。服を持って来て、ここで着替える事にした。奥にはそういう事の出来る部屋もあるし。
 パリっとしたギャルソンエプロンまでしっかり身に着けた吉田は、ちょっとはにかむようにジャック達の前に出て来た。すかさず、ジャックが持ち前の陽気さで吉田を褒め千切る。佐藤は少し憮然としたが、吉田を褒めるという事は、つまりは2人がとてもお似合いだという事だ。佐藤を前に大事に至らずに済むのは、旧友ならではの手腕である。
 それから、酒と美味しいつまみの宴が始まった。オーブンやコンロはカウンターの内側しかないが、逆に火を使わない物は道具をジャック達に寄越して向こうのテーブルで勝手にやってもらう。佐藤は貰った大きなブロック状の肉を前に、ハーブやスパイスを数種表面に擦り込みよく味を馴染ませた。魚もある。アクア・パッツアのように仕立てても良いし、タタキも良い感じになるだろう。ミンチにしてなめろうのようにするのも良さそうだ。
 佐藤は浮かんだ中から、吉田の好きそうな物を選んで作っていく。自分に手渡したと言う事は、もれなくそういう仕上がりになるのだと、ジャックも承知の上だろうし。
 佐藤は、小皿やナイフやフォークなどをテーブルへと運んで行く。この店に一番訪れるのは佐藤で、佐藤は吉田の為に開くので訪れる回数は2人はほぼ同じだ。吉田は佐藤の次に、この店に何がどこにあるのかを、把握出来ているのである。
 とは言え、棚から皿を出し終え、さあ運ぼうという時には、気の利いた誰かが吉田が手に取る前に運んで行ってしまう。別に食器落としたりしないのに、と吉田はやや拗ね気味だが、そういう不安を余所にしても小さい吉田の手を煩わすのは、何だか気が引けてしまうのだろう。佐藤はその気持ちがよく解った。
 ジャックの連れて来た人達だから、余程の間違いは無いと思いたいが、それでも吉田に酒を勧めた時はさすがにこめかみがヒクついた。今にもその酒を勧めた人物に向かい、アイスピックを真っすぐ投げそうな佐藤に、ジャックは佐藤と吉田は付き合っていて、佐藤がどれだけ嫉妬深いか言い含めてある、と強く説得した。今日一番の、ジャックの大役であった。
 まあ、吉田には悪いが、彼らの可愛がり方は女性としてのそれではない。小さい子が小さいなりに頑張っていて、頭を撫でてやりたい、という気持ちだろうか。最も、それだけでも佐藤には嫉妬の対象なのだが。
 終わりの方は、佐藤もカウンターの中から引っ張り出されて、賑やかな店内の一部と化した。こういった騒ぎも艶子は想定していたのか、この店は思いの外防音が良い。楽器を弾いて歌って踊っても、外には大した音も漏れていないだろう。
「戸締りまでは俺らがするから」
 すっかり輪の中心に入ってしまった吉田を、佐藤は遠くから眺めている。そんな佐藤の元にグラス片手のジャックが近寄り、言う。
 吉田は、ダンスのステップを習っていた。幸いというか、佐藤の、というよりジャックの脅しでも聴いているのか、ダンスを教えるのに抱きあう形ではなく、横に並んでステップを見せる方法を取っている。
「いやでも、ホントごめんな〜2人きりだったら、来て無かったって!絶対!」
「お前の絶対は信じない事にしている」
「おい佐藤、そりゃないだろ〜」
 形だけ、情けない様に言うジャックである。表情と言えば満面の笑みだ。
 不意にジャックも、佐藤と同じ方向へ視線を移す。ステップをマスターしたらしく、ハイタッチを交わしている吉田。
「良い眺めだよな」
 と、ジャック。
 吉田にもだが、彼らにとっても、ここで過ごした事は良い思い出になるだろう。そう思わせる光景だ。
「俺ら旅行者の為にもさ、安心して楽しめる店があると嬉しんだけどな〜?」
 いかにも勿体ぶってジャックは言う。言わんとする事を察した、むしろこれ見よがしなジャックの意図に佐藤は溜息を洩らす。
「だったら、お前が店主になれば良いだろ。俺は嫌だ」
「相変わらずガード固いなぁ。ヨシダだって、楽しそうだぞ?」
 ほれ、と指差すジャック。
 そんなジャックに、解ってないな、と佐藤は見下した笑みを浮かべる。あまりに侮辱した様子に、さすがのジャックもどういう事だよ、と詰め寄った。
「お前の知り合いだから、精一杯もてなししてるんだろ。吉田は」
「……えっ、………あ、え」
 佐藤がジャックに寄越した真実は、予想以上の衝撃を齎したようだ。普段、「お前はいかにヨシダに愛されているかが解ってない!」と揶揄と忠告をするジャックに、今こそ一矢報いた感じだ。
 戸惑ったように、いや照れ臭くて頭を掻くジャックを余所に、佐藤はそろそろデザートの頃だと判断し、冷蔵庫を開く。そこには、表面の艶やかなチョコレートタルトが鎮座している。
 これを見て、吉田の喜ぶ顔を想像し、佐藤も自然と顔を綻ばせた。



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