*もし高校入学前に会っていたら…みたいなパロです。
 くれぐれもあんまり難しく考えずに!!!



 迷子なんて、なりたいものじゃないし、なろうと思ってなれるものでもない。
 だから吉田も、その一瞬前までは自分がまさか迷子になるなんて思いもしなかった。見た目は小学生だけど、この春休みを過ぎたら晴れて中学2年にもなるというのに、迷子だなんて! 
 きっと、季節が変わるまでこの件について母親から口やかましく小言を食らうことだろう。最も……無事再会出来たら、の話であるが。
「どこなんだよぅ……ここは………」
 ぐすん、と鼻を啜る。
 胸中で渦巻く言葉を吐きだしてみても、その言葉を理解してくれる人も居ない。
 日本から約12時間、9時間のマイナスの時差のある異国の地で、吉田は思いっきり迷子だった。
 そろそろ日も暮れ、夜になろうとしている。まだロンドン等の大都市であれば、吉田みたいな目に見えての迷子を保護したりという働きもあったかもしれないが、ここはあくまで目的地に向かう途中に休憩代わりに立ちよった田舎町。観光客の見込み無しに、住人のみで成り立つような場所柄だった。それでも、交番くらいはあると思うが、どういう建物がその役割を担っているのか、吉田にはそれすら解らない。ここが日本なら、通行人に声でもかけられようが、それも出来ない。一人ぼっちで心細い時は、周りの手助けが欲しいと同時に周囲が全て犯罪者のようにも見えてしまう。だから逆に「なんでもありませんよ、迷子なんかじゃありませんよ!」と胸を張って歩いてしまい、それが余計に保護の手を遠ざけているのかもしれなかった。
 せめて、明確に、目に見えて良い人だと解る人が居ればいいのに。
 しかし見た目で人の全てが判断出来ない、というのは中学で出会った親友でしっかり経験を積んでいる吉田だった。
(とらちん…井上さん…どうしてるかなぁ……)
 日本でお土産を待っている友達を思い、吉田の目に涙が浮かび、見える光景が滲む。
 目に見える全てが今までに無いもので、何だか異国というより異世界に見える。
 ぐすん、ともう一度鼻を啜る。今ここで寿命を半分使ってもいいから、あの時に戻って余所見していた自分を殴ってやりたい。
 と、その時だった。
 吉田の耳に、悲痛そうな叫びが聴こえたのは。


 困った人が居たら助けてあげるんだよ、というのは優しい父の教えだった。それが小さい頃から染みついている吉田は、険しい顔付きの為に誤解を受けまくってる高橋を放っておけなかったし、小学校の頃は他に味方が居なくても1人で苛めに立ち向かっていた。
 どうやら現場であるらしい、建物と建物の間の狭いスペースで、3,4名の屈強でガラの悪い男が小さい少年に寄ってたかっている。雰囲気からして、尋常では無かった。
「だっ、だっ……誰か!警察―――――!!!」
 1人で立ち向かう無茶をする前に、吉田はまず人を呼んだ。わあわあ騒いでみるものの、パブの並ぶこの軒先ではそんな吉田の必死の声も、音楽に消し飛んでしまうらしく、誰も見向きもしなかった。
 いや、反応はあった。それは他でも無い、現在カツアゲを行っているガラの悪い男だった。一番気付いてほしくない人物に気付かれた。
 彼は吉田に向かってのしのしと歩いてくる。あわわわ、と相手が近付くにつれ、吉田の恐慌もピークに達しようとしていた。
 そしてその時思い出したのは母親の言葉だった。彼女は武道の覚えは無いが、喧嘩の心得はある。
「いい?相手が男なら、いざって時は股間を狙いなさい。ここを打たれて平気なヤツは居ないわ!」
 吉田の横には、イスでもばらしたのか角材があった。
 手に取り、硬く握る。
 そして吉田は母親の教えを忠実に実行に移したのだった。


 吉田の攻撃は男にとってあまりにダイレクト過ぎるもので、その場に居た誰もが、被害者である少年も顔を青ざめて無意識に自分の下肢を庇った。その攻撃を受た当人と言えば、これ以上無いというくらい蹲りの姿勢を吉田の足元でしている。彼の今後が気になる所だ。夜的に。
「は、早く――――!」
 吉田のその声にはっとなったか、少年が転がるように吉田の元へ赴く。しかしコケる。ずべしゃぁ。
 ああああ、もう!とじれったくなった吉田は、渦中と解って飛び込んだ。
「ほら、立って!」
 身体を極限にまで庇う為か、しゃがみ込んでいた少年を立たせ、吉田は腕を引いてこの場から一刻も早く立ち去ろうとする。
 しかしあんまりな攻撃に一度は呆気にとられたが、早々見逃してくれる気はなさそうで、この小さい乱入者を捉えようと腕が伸ばされる。吉田にとって背後のその動きは、少年の声が教えてくれた。言語すら解らないが、危機が迫っている事を報せるのには十分だった。
「えっ、わ、わわわわ、わぁぁぁぁぁぁぁ―――――!!!」
 ゴパギャッ!
 半分経験、半分ラッキーで吉田の繰り出したアッパーが見事相手のあご下に決まり、頭と体のデリケートな連結部に衝撃を食らった相手は、ずん、と地響きを残すように倒れた。
「おおお……凄いかもしんない……!」
 こんな時に自分に感心する吉田は、基本器がデカい。
 だが、状況はむしろヤバさを増しただろう。今の出来事で、相手を本気にさせてしまった。そういう空気を、ぴりぴりと感じる。絶体絶命の四文字熟語が、吉田の脳裏を過ぎた。
 その時――ピューィ、とそれこそ楽器で奏でたような、とても綺麗な口笛が響いた。その直後、男達と吉田達を隔てるように、数名の人影が落ちてきた。そう、真上から。まるでスパイダーマンみたいな動きに、吉田は驚きに目をぱちくりさせた。
 多分口笛の主だろうタンクトップの男は、吉田にウィンクを送った。まるでさっきのアッパーを讃えたかのように。
 少年が吉田の腕を引き、自分と舞い降りた青年を交互に指差す。そのジェスチャーは、彼は自分の味方だ、友達だ、と伝えているように思えた。
「あっ、危ない――――!!!」
 さっきとは違い、今度は彼の頭を狙って拳が繰り出される。しかし青年は全く動じず、逆にその拳を受け止め――投げた。投げられた男の体は、その先にあった木箱を砕き威力の程を改めて思い知らされる。しかし砕かれた木箱の破片が吉田の額に直撃し、思わぬ余波を食らった吉田はそれどころでは無かった。
「ううぅ〜、痛いよぉ……」
 血は出て無さそうだが、ゴツンとなった。ゴツンと。痛そうな顔をする吉田に、少年が、心配そうに窺う。
「ヨハン?」
 バキッとかドカッとか、背後の乱闘に似つかわしくない、綺麗な声がした。額を押さえている吉田は、その腕が邪魔で綺麗な声の主がよく見れない。
「艶子!」
 少年が答える。きっと人名だろうそれは――吉田の耳に、和名に聴こえた。日本人らしい名前。
「に、日本人!?」
 もしかしたら、窮地から逃げ出したい自分の錯覚かも知れない。それでも、と思って尋ねてみる。暗闇の中、あまりに煌びやかな美少女がそこに居た。
「ええ、そうよ。貴方も?」
 相手は日本人離れした、美麗な顔と体型だったが、その発音は吉田が望んで堪らなかったものだ。
 ぶわわっと安堵に涙が怒涛のように溢れる。
「う……うわぁぁぁん!!良かったぁ〜良かったぁぁ〜〜〜〜!!!!」
 日本語の解らない少年――ヨハンは急に泣きだした吉田をおろおろと眺めるしかない。同じく、相手を目出度く全滅させたジャックも、おとしまえとして盗ったサイフを手の中で遊ばせながら、吉田達の元へと赴く。他のメンバーは倒れた相手の「後始末」をつけている。
「一体、どうしたんだ?」
「どうやら、迷子になったみたいね」
 日本人を見つけるなり泣きだした相手に、まだ大した説明も受けてないが、ある程度の予想はつく。
 サドの気質が十分の艶子にとって、吉田の見事な泣きっぷりは観賞に値するものだった。慰める事をひとまず置いて、優雅な笑みでその泣き顔を堪能している。
「何だって、迷子?あんな見事なアッパー決めてかかってたもんだから、てっきり流れのストリートファイターとか思ったんだがな」
 半分以上がジョークで構成された賛辞を、ジャックは肩を竦めさせながら言った。


「スカボローに行く途中だったんだってさ」
「そこってノースヨークシャーだろ?何でまたこんな場所に……」
「方向音痴以前の問題だな……」
 不意に舞い込んだ訪問者の事で、今夜の施設の話題が持ちきりだった。朝から何も食べていない、という侘しさが言葉を介さず伝える吉田の為、まずは食堂に通された。すでに皆の食事は終わっているが、艶子達に持ち帰られた異邦人見たさに、野次馬根性のあるモノ好きは再び集まって来たのだった。
 本来なら警察に身を寄せるべきだろう吉田は、しかし仲間を助けてくれた礼がしたいというジャックと、吉田(の泣いた顔)をとても気に入った艶子の為に施設にまで連れて来られた。吉田はそれに為すがままに連れて来られた訳だが、国家権力があっても言葉の通じない警察より、何の権威も無い一般市民だけど同じ日本人の傍に今は居たい。道すがら、ずっとぐずっていた吉田の涙は、椅子に座ってやっと落ち着いた。泣きはらした顔の為、艶子は冷やしたタオルを――用意させて、持って来させた(←自分ではやらない)。
「ふぅん、そう。デパートのくじ引きでお母さんがイギリス旅行を当てたのね。お父さんも一緒なの?
 まあ、美味しそうなお菓子が見えたら、仕方ないわね、注意はそっちに行っちゃうわね。それで気付いたら、誰も居なかったのね」
 吉田の為の食事を待つ間、艶子は吉田との会話を楽しんだ。食べ物にもだが、日本語にも餓えていた吉田は話していてじんわりと心が安定していくのが解る。
 まずはすぐに出来るサンドイッチが差しだされ、ミートパイが温められている。そしてフルーツサラダとマスのムニエルの調理がジャックにより進められていた。
 しかしその間、まるで捨て猫のように舞い込んだ吉田が気がかりなのか、各自部屋に貯めている菓子――ショートブレットやプチマフィンを持ち寄り、吉田の前に差し出していた。
「食べるか?食べるか?」
「おお、食べた食べた」
「ミルク飲むか。ハチミツ入れたけど」
 捨て猫のようなというか、完全に捨て猫みたいな扱いの吉田だった。ちなみにミルクはカップで出されてある。念の為。
 やがて皿に乗って料理がやって来る。吉田はそれを手で持てれるだけ持ち、口に含めるだけ含んで大いに食べた。今更に、流離い続けた彼女のひもじさが周りに伝わる。
「って言うか、よく食べるなぁ」
「あんな小さい身体でどうして入るんだ?」
「おお、ミートパイをおかわりしたぞ」
「これが東洋の神秘ってヤツか……」
 神秘呼ばわりの吉田の胃袋だった。
 はぐはぐと夢中になって料理を平らげる吉田を眺める艶子の目は、この時ばかりは慈愛に満ちていた。普段はドSで染まっている目だが。
 にこにこと満悦した笑みで眺めていると、声が掛った。
「艶子。ヨシダのお母さんに繋がってるよ、って渡して」
 鞄も何もない文字通り身一つの吉田だったが、運よくパンフレットの一部がポケットに入っていたのだ。そこから旅行会社を辿り、本来吉田の行く筈だったルートを追いかけ、そして今連絡が着いたようだ。差し出された子機を、艶子は通話口を押さえて受け取る。
「解ったわ。……吉田さん、お母さんと繋がったって」
「えっ!! 本当!」
 吉田はフォークに刺さっていたマスのムニエルを口に入れて飲み込んでから(←余裕が出来たようだ)ヨハンに礼を言って電話に出た。
「おーい、母ちゃん、今ねぇ………」
おーい、母ちゃんじゃないでしょアンタは―――――――!!!!!!!!
 吉田の付近どころか、食堂付近の通路を通る者の耳すら、その声は響いた。鼓膜を直撃した吉田なんて、少し意識が途切れたくらいだ。
『全くなにしてんの!こんな所でも迷子になるなんて、全くバカじゃないの!?どんだけ心配したと思ってんの、大体いっつもアンタは昔から……!!!』
 母親が過去の事例を引きだし始めた所で、父親がさっと電話を変わった。吉田はそれに胸を撫で下ろす。物凄く心配してくれる母親には悪いが、今はちゃんとまず自分の状況を報せたい。
 とりあえず吉田は、喧嘩云々の描写は控えめに、ヨハンを助けてその友達である彼らの寮みたいな所(と、艶子は吉田に説明した)に居ると伝えた。吉田の説明が終わるまで、父親は相槌だけを返した。
『……それで、怪我はしてないね?病気にはなってないね?』
 別れて1日も経ってないのに、いきなり病気になる筈も無いと思うが、その辺りは吉田は苦笑だけでそっとしておいた。
「うん、全然大丈夫!今もご飯ごちそうになっちゃって、凄い美味しいんだv」
 相手の不安を消し飛ばすように、殊更明るく言うと、ようやく笑い声らしきものが聴こえた。……その奥で、母親による、その場には居ないというのに吉田への小言の声も聞こえるが。
『じゃあ、皆にお礼を言って、よく眠るんだよ。あと、明日はお母さんに怒られるのを覚悟しておいて』
 最後に言われたセリフに、う、と固まる吉田だった。この言い分だと、父からのフォローもぎりぎりまで無いだろう。まあ、そのくらいの粗相はしてしまったのだから、今回は謹んで受け取るしかない。
 その後父親は、この場所について精通している日本語が通じる人物――つまり艶子に代わり、吉田の身元引き受けについて詳細なやり取りを交わした。本来の目的はこっちだったと思える。
 向こうで同行しているツーリストも交え、話し合いの結果、落ち合う場所も無事に決まった。明日の今時分には、親と一緒に居るだろう。
「わぁぁ〜、ありがとう!本当に何から何までお世話になっちゃって……」
 全部を平らげた吉田が言う。その脇で吉田の摂取量を冷静に計算していた面々が、その量に感嘆と畏敬を漏らした。エキゾチックジャパン!と。
 返す物が何もない吉田が、申し訳なさそうに言う。しょんぼりした吉田の顔が可愛くて、艶子は何だかウキウキしてきた。
「いいのよ、これも何かの縁でしょ?そうだ、デザートはどう?チョコレート・ボンボンなんてどうかしら」
「チョコ? うん、大好き!」
 満面の笑みに、艶子の心も暖かくなる。笑顔は笑顔でまた別の味があるわ、と思いつつ。
「ふふ、なら決まりね。……ねえ、今から買ってきてくださらない?」
 艶子が近くに立っていた青年に言う。
「え?でも、今からだと店仕舞ってるだろ」
「なら開けさせたらいいわ。30分以内にお願いね」
「えええええ、ちょっとそれは色々……」
お願いね
「ででで、でも!」
「もし買ってきてくれたら……ね?」
 と、含みを持たせた声で艶子は良い、細い指先でつぃ、と相手の顎を撫でた。その途端、相手は熱病にかかったようにぽ〜となり、凄い勢いで部屋を飛び出した。なんだろ?と英語に不自由でそっちの方面にあまりに無邪気な吉田は、今の一連の行動はよく解らなかった。ただ、いきなり男の人が部屋を飛び出しだけで。
「今から買って来るから、少し待っててね」
「えっ、今の買いに行ってくれたの!?」
 なんか悪いなぁ、と吉田が呟く。
「いいのよ。私が頼めば何でもしてくれるんだからv」
「そうなんだー。艶子さんって凄いね」
「うふふふふふふv」
 凄い艶子さんは優雅に微笑む。
 そこテーブルから少し離れた所で。
「今、何て言ったんだ?」
「艶子が凄いってさ」
「……まあ、うん、凄いな」
 日本語の解る者を介して、2人の会話を聞いていた。
「吉田さん、今日は私の部屋で寝ましょうねv」
「うん」
 頷く吉田を、さり気ない手つきで艶子は髪を撫でる。
「……どうやら一緒の部屋で寝るらしいぞ」
「いいのかなぁ、色々と」
「そういう事、言うなよ。艶子だっていきなり飛び込んで来た子に、あんまりな事はしないだろうさ」
「そうだな、ここは艶子を信じよう」
「そうだ、信じようぜ。確証が無い分も」
「そういう事、言うなよ……」
 彼らの吉田を見る目つきが、捨て猫から生贄の子羊に変わる。何も知らない彼女に、彼らは再び菓子を差し出し、どれもこれも美味しく吉田が頂いた。


 チョコレートは無事に吉田達の元に届いた。それをご機嫌に口に運ぶ吉田を見る艶子もご機嫌で、早速使命を果たしてくれた彼に傍目ご褒美だかおしきだか判別に難しいものが艶子の自室で贈られる。
 その間、吉田の身は別室へと移動させなければならない。
 いや当の艶子は「吉田さんも一緒にやればいいと思うのv」とこれも冗談だか本気だか判別が難しいというか突き詰めて考えたくない返事をし、国籍はバラバラではあるがメンバーの中で「それは止めれ」という意思が統一された。ジョン・レノンが見たら感動するかもしれない団結ぷりだ。
 吉田はそのやり取りに、言葉は解らなくても艶子の部屋にはすぐには入れないような事は感じ取れた。このまま食堂に居続けるのかな、と思っていた所に、全体的に色の白い少年に自分の部屋に来ないか、という感じで誘われた。さすがの吉田も、初対面の男性の部屋にいきなり行くのにはちょっと躊躇したが、その彼が手にしていた本が吉田も知っている日本のコミックスだったので、すぐに部屋に向かった。その背後で艶子が残念そうにしていたのを、吉田は知らない。
 部屋に着くと、漫画の他にパソコンで日本のアニメをネット動画で見せてもらい、潰さなければならない時間はあっという間に過ぎて行った。日本語は言えないが読み書きはある程度出来る、という相手で筆談でやり取りをしていると、ドアがノックされる。その用件と言えば、風呂が空いたから入るといい、との事だった。
 しかしここで吉田はちょっと困った。鞄も無い状態で逸れたので、文字通りの無一文、身一つである。勿論、着替えなんて無い。まあ、別に同じ服着ても死ぬわけじゃないし、と母親や井上が聞いたら怒られそうな事を思っていると、新品のシャツとスラックスが渡された。
 吉田はぺこぺこと何度もお礼を――日本語だったけど――言って、風呂に向かった。
 大浴場ではないが、広い浴槽だった。良く解らないけど、何かハーブでも入っているのだろう。花のような良い香りがした。ふにゃり、と緊張が解れる。シャンプーとリンスを山勘で見極め、風呂から上がっても良い匂いに包まれる。
(……そろそろ、行ってもいいかなぁ)
 艶子に何の用事があるか解らないが、結構時間も過ぎている。一体艶子が現在自室で何をしているのか、さっきの部屋の彼にも聞いてみたが、俯いて返事にかなり困っていたのでそれ以上は止めておいた。
 時間が時間なだけに、皆は自分の部屋に戻っているみたいだ。誰も居ない廊下に、吉田が歩くスリッパの音がヒタヒタと響く。誰も居ない中を歩くと、数時間前の迷子の状態を思い出す。
 それがいけなかったのか、吉田は再び迷子になってしまった。正確に言えば教えて貰った筈の艶子の部屋の位置が解らない。
(う〜ん、どうしよ)
 それでもここは施設内だから、そこにあるドアを叩けば誰かが顔を出してくれる。とは言え、さすがにこれ以上の迷惑をかけるのも考えものだ。ついさっき、たっぷりごちそうになったというのに。そしてまだ消費していない菓子の袋を片手にぶらさげているというのに。これは明日のおやつにするのだ!
 片手にお菓子の袋を持った吉田は、その脇にスラックスを抱えている。折角渡してくれたものだが、やっぱりサイズが致命的に合わなかった。殿中みたいになってしまう。なので、吉田は現在上のシャツだけという、見てるとニヤニヤしたくなる格好をしていた。
 とりあえず、食堂で待っていようかな、と吉田は閃いた。そこまでの道筋なら、頭に入っている。程なく、吉田は食堂へと辿りついた。
「………あれ」
 そこには先客というか、さっきは見なかった顔が居た。ここに居るくらいだから、艶子の同胞なのだろうが。しかし、吉田が目を見張ったのは初めてみる顔だから、という訳でも無かった。
「あ、ねえ、もしかして、日本人?艶子さんに、もう1人居るって聞いたんだけど」
 ここでは珍しい黒髪を見て、吉田はそう言った。少年から青年の過渡期に差し掛かろうとしているのか、服から伸びた二の腕は多少筋張って筋肉質になっていた。背が高く、髪も首を覆うくらいに長い。長い前髪から覗く双眸は、何だか全てが詰まらないものを見ているように無機質な色を湛えていた。
 ――この色を、どこかで見た事がある。吉田は、ふとそんな事を思った。
 しかしそんな些細な取っ掛かりより、返事の無い相手に、吉田は日本人であるという見込みが間違っていたんじゃないか、と事の方が気になった。日本人は黒髪だが、黒髪である全てが日本人であるという訳でもない。そう、例えば中国人とか。
「に、ニーハオ?」
 なのでそう言ってみた。
「…………」
 無反応だった。悲しい。
 せめて初めから言語が違うか、発音が不味かったか解るといいのに、相手はヒントすらくれない。だというのに、何故だか立ち去らない。物凄く、平坦な視線の癖に、意識を一心に吉田へと向けてずっとその姿を眺めてみるのだ。立ち去っていいのかすら、判断に困る。
「……あのー、それじゃ、艶子さんの部屋に案内してくれないかなぁ。女子の部屋は嫌だっていうなら、男の日本人の人、えっと、佐藤――って人の所とか」
 佐藤、という単語を持ち出した時、相手の目が見開いたように見えた。やっと反応が出た事に、吉田はちょっと安堵する。
「ここにも佐藤って居るんだなー。あのね、佐藤って、日本だと1位だか2位くらい多い名字なんだ、狩られるくらい。
 昔のクラスメイトにも佐藤って居てさー」
 でも、と吉田は続けた。
「小学校卒業したら、引っ越しちゃった。その前から先生から聞いてたんだけど、それまで周りで転校とか無かったから、あんまり実感出来てなくてさ。中学に入る時、姿が無いの見て、ようやく、ああもう居ないんだなって」
 中学の制服に着替えた、初めての日。通りかかるかつてのクラスメイトに散々スカート似合わないという野次を飛ばされて、憤慨しながら過ごした一日に何か違和感を感じた。その違和感が、佐藤の姿の無い事だと気付いたのは、もう少し後だった。
 今まで居た誰かが、もう居ない。それは吉田にとって初めての経験だった。
「もっとちゃんと、さよなら言ってあげればよかった……」
 最後の日も、いつものように別れを言ったのだと思う。だから次の日に会えないで居る事に、違和感を覚えたのだ。
 遠くに行くのだと担任はそれだけ言った。元気にしてるといい、と思う。いつも自分は1人だという顔をしていたけど、それでも周りにはクラスメイトが居たのだから、手を伸ばしてみればいいのに。そうしたら、掴んでくれる相手も見つかったかもしれないのに。
 静かな室内で、吉田はぼぅっとそんな事を考えた。
 そんな中、相手が1歩、2歩、と近づいて来た。もしかしてこの人は、もう一人の日本人である佐藤さんの友達なのかな、と吉田は思った。だから佐藤という単語に反応してるのかと。
 手が届く距離まで近づいたかと思えば、本当に手が伸ばされた。湯上りで顔に張り付く髪をそっと避ける彼の指先の目的は、右目の下で主張する傷跡にあるようだ。湯上りだから、普段以上にそこが目立っていたのかもしれない。
「ああ、これ?ずっと前に出来たヤツだから、もう全然痛くないよ」
「……………」
 痛くないのは事実で、吉田は身ぶり手ぶりも使って伝える。しかし相手は、その痛みを知っているとでも言うように、そして慰めるように微かに、そっと傷跡を撫でた。そんな、壊れ物のように扱われた事の無い吉田は、繊細過ぎる指先に何だかドギマギとしてきた。その慎重な動きに、こうする事が相手にとって酷く重要にすら思えて止めさせる事すら、阻まれた。
 このまま触られ続けていたら、何か始まるかもしれない――そんな予感だけ残し、手はあっさり離れた。
(な、何だったんだ、一体……)
 顔が熱いのは、湯上りのせいばかりではないのかもしれない。
 不意に吉田は腕を引っ張られ、入口付近に立っていたのを食堂内に引き込まれる。どうやら少し待ってて欲しいという意思を感じ取り、吉田は手を離された場所で立っていた。やがて、相手が戻って来る。また何かお菓子でもくれるのかな?と思っていたが、実際はくれるどころか、何かを頭に刺された。刺された、とは言うが、例えれば簪でもつけられたような感じだ。
「え、な、何、何?」
 何を乗せられたのか、と吉田は頭に手を伸ばして確かめようとしたが、その手を掴まれ止めさせられる。
「と、取っちゃダメなの?」
 相手はしっかり頷く。そして、吉田から取ろうとする意志が無いのを見ると、手を離した。相変わらず無表情で――しかし、何だか不機嫌そうにも見えてきた。
 と、その時。
「吉田さん?」
 入口に、艶子が立っていた。
 まず吉田は艶子の方を見て、次いで彼の方に向き直った。もう行ってもいいのか、と。しかし彼の視線は艶子に注がれ、その視線を辿る様に再び艶子を見ると、似たような表情で見つめ返していた。
(な、何か目と目で密約っぽいの交わしてない?)
 自分の頭上で何かやり取りがなされているようで、吉田は落ちつかない。
 何かしら意思の疎通があったらしい後、艶子はころりと輝かしい笑顔で吉田を招いた。
「吉田さん、行きましょ。暫く待たせちゃって、ごめんなさいね」
「ううん、全然!マンガも一杯見させて貰ったし、お風呂にも入ったし」
「そういえば、何て素敵な格好……私の為かしら?」
「へ?」
 艶子が、吉田の理解の範疇を超えたような事を言った時、背後から咳ばらいが聴こえた。それに艶子は面白そうに笑い、吉田の手を取り、改めて自室に向かったのだった。


「こうして誰かと並んで寝るのって、私初めてよ」
 枕を並べ、ベッドに横になると艶子が嬉しそうにそう言った。
「ごめんね、狭くない?」
「いいえ、全く」
 この時ばかりは吉田は成長の止まったような自分の身体を感謝した。
「ふふ、吉田さん、本当に可愛いわ。このまま、私のお人形になってくれないかしらv」
「?」
 艶子のセリフはよく解らなかったが、まあ要するに可愛いって事なのだろうと吉田は判断した。強ち間違いでもないが、合っているとも程遠い。
 横たわった事で髪が吉田の顔に掛っているのを、艶子は細い指先で整えてやる。と、この時吉田の頭に何か刺さっているのに気付いた。
「あら、これは何?」
「えー、これ? なんか、さっきの人につけられて、それで取っちゃダメって言われて……」
「……さっき、食堂に居た彼が着けたのね?」
「うん」
 艶子の確認に、吉田は返事した。
 艶子は、寝てる間に潰れてしまうから、と言ってそれを取った。そこでようやく、吉田は自分の頭に着いていたものの正体を知る。
「何だろう、これ」
 それは何かの葉っぱに見えた。
「これはね、ローズマリーよ」
 主に肉料理に使われるハーブなのだ、と説明を加える艶子。
「へぇー。でも、何でそんなの頭に着けたんだろ?」
「さあ、どうしてかしらね」
 艶子も疑問で答えたが、何だかその顔は正解を知ってるようにも見えた。


 次の日、艶子を付き添いとして、吉田は親の待つ場所へと旅立って行った。施設のドアから出る時、全員ではないがあの時食堂に集まっていた者は吉田の出発に改めて餞別を送った。昨日貰った菓子もまだあったのに、そんなに頼りなさげに見えるのかなぁ、と吉田はちょっと自分を省みてみるのだった。
 そして、吉田は姿を消した。
「すぐに行っちゃう事はなかったんじゃないか?もう少しここに居てくれてもよ」
「ジャックはすっかりあの子がお気に入りなんだな」
 あからさまにつまらなそうに言うジャックに、そんな野次が飛ぶ。
「だって凄かったんだぜ、彼女のアッパー!まあ確かにビギナーズラックな部分も多いけど、それでもちゃんと何か習ってたような感じだったな。型が出来てたっていうか、芯が通ってたっていうか」
 その後暫く、ジャックは昨夜の出来事を演出も加えて語った。時折、一番の当事者であるヨハンに「だよな」と同意を求めつつ。
 しかしヨハンは、勢いのついたようなジャックより、少し離れて座っている彼の方が気がかりだった。
 いつも顰めてるような表情だが、今日のは特に酷い。元から表情を浮かべる事も少なかったが、あからさまに不機嫌さを滲みだしている。それに――手にしている本は、全く頁が進んで居なかった。
 こんな彼にとって奇怪が現象が出始めたのは、そう――ジャックが吉田の事を話し始めた時だ。ヨハンの頭の隅に、とある仮説が立てられる。
 一通り語り終えたジャックは、再び退屈そうな顔で椅子の背もたれに身体を預けた。
「あー、今から追いかけちゃおうかな………イッテェェ――――――!!!!!」
 ジャックが痛みに叫んだのは他でも無い、彼の足を誰かが思いっきり踏んだからだ。
「オイ、痛いぞ隆彦!!!!」
 涙目になりつつ、その犯人を告発する。しかし名指しされながらも、ちっとも動じなかった。
「あー、ごめんごめん」
 棒読みの発言で謝りながら、ラウンジを後にする。
「チクショウ、何だってんだ隆彦のヤツ……おー、痛」
 ジャックは踏まれた足を抱え、甲を摩る。
 そんな光景を見て――ヨハンは抱いたばかりの仮説を、半ば確信へと変えたのだった。しかしだとしたら、彼の行動は矛盾だらけだ。名乗らず、顔も出さず、彼女の記憶に留まる事の無いよう、必死に存在を隠していたようにも見える。
 しかし気付いているのだろうか。そうやって懸命に隠れようとしている事こそ、深く心に根付いている証である事は。


 ヨークシャーに向かう列車の中、吉田の胸には両親に会える期待と、確実に迫る艶子の別離に寂しさを覚えた。
「……結局、もう一人の日本人の人には会えなかったな」
 流れる車窓の景色を眺めながら、吉田はぽつりと呟く。
「どこに居たのかな」
「本当にね……どこに居たのかしらね」
 半ば溜息と一緒に艶子も呟く。
 本当に、バカな男だ。偶然と奇跡に助けられ、こうして訪れたというのに正体を明かさず、それなのに牽制にもならないまじないだけかけていった。
 揺れる車内の中、それと一緒に、髪飾りのようにつけられたローズマリーも同じく揺れる。吉田は、つけられた意味すら知らないのだ。



「……もぉぉぉぉぉぉ!全くバカ!この子ってば!本当にバカ!バカバカバカ!!!」
「ご、ごめんよぅ、母ちゃん〜……」
 バシバシと叩かれる手を、吉田は止める事も出来ずに堪えていた。出会えた母親の目は赤く、それは夜通し我が子を心配してろくに眠れていない事を示唆していた。基本豪傑なくらいまであっけらかんとした母親の姿しか見ていない吉田は、その姿に酷く胸を打たれた。
 その横で、父親は家族を代表として改めて自分から艶子に礼を述べていた。
 そうして艶子も戻り行き、この吉田の大きなイレギュラーな出来事は、幕を下ろした。こうして終わると、見知らぬ街で迷子になったのも良い思い出……になるのはまだ早いけど。
「あら?アンタ、頭に何着けてるの?」
 ここでようやく、母親も髪飾りの存在に気付いたようだ。
「あー、これ。お世話になった所で貰ったっていうか、勝手につけられたっていうか……
 ローズマリーなんだって」
「え、まさか、男の子に貰ったんじゃないでしょうね?」
「ん?男だったけど?」
 なんでそこで性別が関係するのか。きょとんとなる吉田に、母が言ってやる。
「なんかね、この辺りとかだと、ローズマリーを花嫁の髪飾りにする風習があるんですってよ」
「へぇ、花嫁……花嫁――――!?」
 思っても無い単語に、吉田の声が裏返る。
「いやぁ、あんたも、旅先で男引っかけるなんて、中々やるじゃない♪」
「どうしたどうした? 誰が男引っかけるって?」
 聞き捨てならないセイフに、父親が会話に割り込んで来た。これ以上被害を拡大してはならない、と吉田はあわわ、となりながら言い返す。
「ち、違うって!そんなじゃないよ、相手は中国人ぽかったし!」
 すっかり中国人で片付けてる吉田だった。
「きっと何て言うか、虫よけとかそんな感じだよ。多分」
「――それで、相手の子はどんなだった?格好いいの?ん?」
 吉田の必死の弁論をさらりと無視して、母親は興味津々に尋ねる。吉田も半ばあきらめ、質問に答えてやる。
「まあ、格好良かったけど………」
 吉田は、ちょっと考えて言う。
「でも、父ちゃん程じゃなかった」


「イッテェ―――――!! だから何で足を踏むんだよ!」
「あー、ごめんごめん。なんか無性にイラッとしたから」
「何だそりゃ――――!!!」
 吉田が上のセリフを言った同刻、某所でこんなやり取りがあったが、もちろん吉田は知らない。



<END>




*ちょっとリクエストがあったのでやってみました!
なんか要望に応えれたかビミョーな仕上がりに……;;;
とりあえず施設内の吉田が書いてて楽しかったです。捨て猫扱いな所がw