極めて一部の間で、実しやかに囁かれている”とある店”がある。
 確かにあった筈なのに、次に行くと何故か見つからない。
 入ろうと思っても、いつも貸切で中に入れた試しが無い。
 そんな風に、まるで都市伝説の様に囁かれているだなんて、その店の実質「主人」も、唯一の「常連」も全く気付いていなかった。


 その日、吉田はてくてくと道を歩いていた。
 やがて、目的の場所を視覚で把握出来る距離までに至ると、小走りで向かって行った。
(ホントに看板が出てる〜)
 話には聞いていたけど、実物を見ると笑みが込み上げて来る。シンプルだけどセンスの良い看板を眺めた後、吉田はそっと扉を開けた。途端、軽やかになるベルの音。店内には、軽いテンポの音楽が流れていた。
 ベルの音に反応して、カウンターの中の主人が吉田を振り向き、蕩けそうな笑みで言う。
「――いらっしゃいませ」
 そんな風に佐藤に言われ、吉田は何だか照れ臭いやら恥ずかしいやら。まだ玄関口に立っただけだというのに熱くなる顔を持てあまし、妙に前途多難な気分になった。
 佐藤の視線だけでエスコートされるように席に座る。カウンター席だから、佐藤との距離は中々近い。
「何、食べたい?」
 畏まった態度は最初だけで、口調だけはすっかり普段通りだ。けれど、その衣装と言えばパリッとしたバーテン服。髪型も、前髪を少し後ろに撫でつけるようなものに変わっていた。前から少しは感じていたけど、佐藤の凝り性的な部分を吉田は改めて思い知った。
「う、う〜ん……こういう所で、何を頼めばいいのかよくわかんないし……」
 変に見栄を張れば、その分恥も上塗りされる。さすがにそれはこれまでの人生で学習し尽くして来た吉田は、素直に「わからない」と口にした。それと、「わかってるだろ」という上手く答えられない質問をした佐藤を、若干責める気持ちも込めて。
 吉田のこの返事は、佐藤にとってむしろ想像通りだ。自分を含め、吉田の周辺の人間関係を思えば、こういった店に行く事も誘われる事もあまり無いだろうと想像は出来る。
「そんなに硬くなるなって。じゃ、吉田の好きなチョコレート出そうか」
「……辛いのとか、変なのだすなよ」
 幾度となく繰り返された悪戯を思いだし、吉田が目を険しくしながら言う。それに毎回引っ掛かってしまう自分も自分だが。
 佐藤は、解ってる、というような笑みを浮かべ、下の冷凍庫からバットを取り出した。そこから掬いあげた物――おそらくはチョコレートだ。それをミキサーに入れ、洋酒を大匙で2杯加えた所で撹拌する。そしてまた、冷凍庫から今度はグラスとをり出し、それを逆さにして何かの液体の入っている小皿に飲み口を軽く押し当てる。
 そしてそのグラスの中に、ミキサーで撹拌させたチョコレートを注ぐ。その上に、ピーラーで削ったチョコレートを散らした。
「どうぞ」
 注がれたチョコレートは、見るからにとろりとしている。明かりを反射する滑らかな表面を眺めつつ、吉田はそっとグラスに口付けた。
「! 美味しい!」
 それまでは店の雰囲気に委縮しきっていた吉田だが、好物を口にした事で途端に緊張は解れたようだ。グラスのチョコレートを、美味しそうに、そして大事そうに飲み干す。濃厚そうに見えたが、後味はさっぱりしていた。
「さっき、何かお酒入れてた?」
「ああ、ラム酒をな」
 口に含めばその中で芳醇に香るのは、まさに洋酒のものだ。佐藤は続ける。
「それと、グラスの周りにアプリコットのリキュールを付けたんだ。スノー・スタイルの要領でさ」
 スノー・スタイルなら本来ならそうして湿らせたグラスの淵に主に塩を、時には砂糖やカラースプレーなどをくっつけるのだがそれは止めておいた。アプリコットのリキュールも、味にアクセントを加えるよいうより、風味を感じる程度で良かったのだし。
 吉田は美味しいを連発し、やがてはグラスを空にした。大さじ2杯のアルコールでは、まだ良いには程遠い。
「ん、美味しかった〜。佐藤、もっとこれ飲みたい!」
「うん、まあ飲ませてあげてもいいけど……折角、沢山用意したんだから他にも頼んでよ」
 ほら、と佐藤はメニューを吉田に差し出す。洋紙にガラスペンで丁寧に書かれたそれは、メニューと言うより恋文のような雰囲気すら湛えている。
 最も、愛するものを思い浮かべたのが恋文であれば、佐藤のこのメニューも全く同義になる。何にしよう、と吉田が真剣にメニューを見て悩むのは、他でも無いそこに書かれてあるのが全て吉田にとって美味しそうなものばかりだ。それもその筈、佐藤は吉田の好きそうなものばかりを選んで決めている。
「まあ、ゆっくり考えろよ」
「うん……う〜、どれも美味そう……!」
 大いに悩む吉田を前に、佐藤は頬杖をついてゆっくり寛ぐ。
 吉田にはきっと、美味しい物を食べるのが至福の時間かもしれないが、佐藤にとっては何より吉田を間近で眺めているのが幸せそのものだった。


 散々の長考の末だが、吉田は結局佐藤のお勧めにする事にした。どれも美味しそうだし、佐藤は自分の好みをしっかり把握している。任せておいて外れないだろう。むしろ、吉田より吉田の好きな事を知っているような佐藤なのだ。その割には愛されている自覚が薄いのは、吉田のやり方ではなく佐藤の受け取り方が拙いのだが。それでも、長年付き合っている分の進歩はある……と、思いたい。
 何をやらせても器用な佐藤は、手元でテキパキと調理をしながら、吉田との会話も欠かさない。適切な大きさに材料を切り、計り、タイミング良くオーブンへと放りこむ。
「あ、あふっ!あふひっっ!!」
 出来たてに手を付けた吉田は、その熱さに悪戦苦闘を強いられていた。
「おいおい、舌、火傷するなよ」
 キスが出来なくなるから、とそういう本音は胸の中で呟く佐藤である。
「んん、でもほいひい……んっ、」
 飲み込むのすら苦労する熱さのようだ。今、吉田に振舞ったものは冷めても美味しいのだが、そうであったとしても出来たてを味わいたくなるのは吉田だけの性なのか、人類全般に及ぶのか。
 舌の火傷は相変わらず心配だけど、熱さと格闘しながら美味しそうに味わう吉田もまた可愛い。結局は見守る、というか見惚れてしまう佐藤だった。
(ああ、幸せだな)
 そんな風に浸っていたのだが、生憎その時間は長くは無かった。
 カランカラン!と扉のベルが鳴る。ベル自体は同じなのだが、吉田が入って来た時とは全く違う大きさとリズムを奏でた。
「おい隆彦! 水臭いじゃねーか! 「店」開ける時は呼べって言っただろー!?
 おっ、ヨシダ! やっぱり来てたな〜。どうだ、元気か?隆彦に苛められてないか?うぉっ、何食ってんだそれ!めちゃくちゃ美味そうじゃねーか!!」
「んーんんん!!」
「言う内容を1つに絞ってから口に開けよ、ジャック」
 まるで機関銃の様な台詞の乱射に、吉田は目を白黒させる。丁度、口に入れたというタイミングもあり。
 佐藤はあまりに不躾な乱入者のジャックに呆れながら、吉田には飲む込む為に水をすっと差し出す。適度な冷たさの水はワイングラスで差し出された。
「吉田が食べるのは、洋ナシの種くりぬいた所にモッツァレラ入れてオーブンで焼いたヤツ」
「へええ……美味そうだな! 俺にもくれよ」
「ヤだ」
 あまりにあっさり告げられ、ジャックもだが吉田も一瞬固まる。
「……何でだよー! 半分に切ったんだからもう半分残ってるだろ! 何で作れねぇんだ!!」
「”作れない”じゃなくて、作りたくないんだよ。折角、2人きりの所邪魔しやがって……」
 根に持つ事はとことん根に持つ佐藤だった。まあ、この執念深さが3年の別離にも関わらず、全く吉田への気持ちが失せなかった要因にもなっているだろうけども。
「さ、佐藤、ジャックにも作ってあげてよ」
 浅からず、ジャックのお預けの原因の一端となってしまった気まずさを覚えた吉田は、なるべく穏便に佐藤にそう言う。佐藤は一瞬渋る様な素振りを見せたが「まあ、吉田が言うなら」というようなスタンスで作り始めた。
 吉田に言われてやっと作り始めた佐藤に、ジャックは疲れた様な顔で言う。
「全く自分の気分でオーダー断るとか……店の主人にあるまじき行為だ」
 ここまでくると、オーブンで焼かれたチーズも洋ナシも口に含んで苦労はしない温度になった。ぱくぱくとスプーンで掬って食べながらも、隣のジャックの台詞に全く同感を示す吉田。
 けれど、言われた当人の佐藤としては。
「当然だろ。形だけの店で商売してる訳じゃないんだし」
「まあなー、金銭のやり取りも無いし……」
「言っとくけど、材料費は搾取するからな」
「……隆彦が搾取とか言われるとホントに物騒だな……」
 げんなりとするジャック。けれど、そのジャックには焼き上がるまでの時間つぶしとしてアイリッシュモルトのロックが差し出された。


 この内装も、カウンターもその内側の機具にしても。普通に営業するにして何の差し当たりも無い充実ぶりだが、しかし佐藤は「ここ」で商売する気はさらさら無かった。
 ならば何故こんな場を設けたのかと言えば、佐藤の原動力なんて説明してやるだけ野暮である。全ては吉田に喜んで貰いたい一心なのだ。
 欠けているものが多過ぎる自分に、吉田にしてやれる事はあまりに少ない。佐藤は、考えた。吉田の為にしてやれる事を。
 吉田は美味しい物を幸せそうに食べる。幸い、感情面では不器用な佐藤は、手先の器用さには恵まれていた。加え、鋭い観察眼と分析力を持ち合わせ、吉田の好みをすっかり把握した味を作り上げる事が出来る。
 自分の作った料理を、吉田が嬉しそうに食べてくれる。それは佐藤にとって、有り余るほどの至福の時だ。しかし吉田の為を思ってしている事なのに、結局自分が一番幸せなようでこれで良いのかとちょっと悩んだりもしたが、自分の幸せは吉田の喜びとして還元されるのだ。さすがに、それが解らない程佐藤も馬鹿では無くなった。自分の手料理を頬張る吉田も、その表情は紛れも無く幸福に満ち溢れている。
 まるで必然の様に腕を上げていく佐藤にとって、家庭用のシステムキッチンでは間に合わない事も出て来た。勿論、装置の都合に合わせてレシピや作り方を変えたり出来るが、出来上がったそれをみて「でも、本当なら……」「もっとこれは……」等とちょっともやもやしてしまう。
 家庭用のキッチンだから手狭になるのだ。あるいは店用のものであったら。何かの折りに、酒でも入ったか。佐藤は艶子にそんな事を言った。そして、艶子はそれに提案した。
「だったらいっそ。お店を作っちゃいましょうv」
 ――基本的に、酒の入った場での口約束だなんて、法的拘束力は何も無い。けれど、艶子という人物は限りなく有言実行であり、佐藤とは違った意味で常識の範囲では括れない。
 結果、佐藤の自宅の程近くに、バー仕様を模った「店舗」が出来上がってしまったのだ。


 最初こそ、さすがの佐藤も驚いたけど、ここまで見事に完成したものを無くせとは言えない。せめて別の人を店主として普通に営業すれば、とも艶子に言ってみたがその意見に艶子が同意する事は無かった。途中から変えるくらいなら最初からしないのが艶子だ。その辺りの頑固さは、佐藤にもある事だが。
 佐藤は艶子を説き伏せるのを諦め、ありがたくこの場を自分で活用させて貰う事を選んだ。そもそも、その為の場所なのだし。
 まあ、普段の食事をここでするだなんていう突飛な考えはしない。家庭料理は、家庭用の調理機で作るのが何よりなのだ。
 だからちょっと、日常から離れて非日常を味わいたい。そんな時、佐藤は「店主」となってこの場に立ち、ここも「開店」するのだった。


 そういった経緯を経た場所であり、いわばここは趣味の空間である。商売をする所では無い。そういう許可も資格も無いのだから、出来る筈も無いのだ。その気になればすぐに開店出来るのだとしても。
 けれど、この場所の事を知った仲間が、ご丁寧に「店なら看板が無いと」と、かなり気合の入った看板を贈ってくれた。それを出すと普通に営業している店と勘違いしてドアを開けるうっかりな連中が出てきた。そういった事態には、佐藤は慌てず「今夜は貸し切りですので」と後腐れなく追い返し、性質の悪い酔っ払いは一発でOKした後交番前のゴミ捨て場に投げておくのだった。まあ、そういう「排除」は佐藤に限らず、その場に居合わせた仲間がいたら、彼らがむしろやってくれる。そんなややこしい事態を招く看板だけども、仕舞いこんだりしないのは吉田が「面白い〜!」と喜ぶからだった。
 この「店」を知っているのは、まず吉田と佐藤の仲間たち。そして彼らが言っても大丈夫、と信頼を得ている知人・友人。そういう者達が、ここに「客」として入れるのだ。だから、ある種完全会員制のバー、と言えなくも無い。決してメディアにさらされる事も無い、正真正銘の隠れ家バーだ。
 佐藤としては、吉田だけに作ってやりたいのだが、そのスキルアップの為には数をこなす事が必要。やいのやいのと押し掛ける仲間たちには、こいつらは練習台、と佐藤は割り切る事にした。
「何か、カクテルを作ってくれないかしら」
 そう言ったのは、艶子だ。ここが開いているとジャックから聞いて、顔を覗かせて来たのだ。アルコールを強請るという事は、どこか外に運転手付きの車でも待たせてあるのだろう。
 佐藤が、実際にここに立つ「店主」としたら、さしずめ艶子はここを作った「オーナー」だろうか。とはいえ、繰り返し言うが営業している訳でも無いので、家賃や利益も収める必要も無い。
「どんなのが良いんだ」
 尋ねる佐藤に、艶子が答える。
「そうね。もう少しここで寛ぎたいから、じっくり飲めるのが良いわ」
 ならば、ロング・スタイルか。佐藤は脳内でレシピを検索する。
 酒豪、なんて言葉じゃ追いつかない程酒の強い艶子だ。ガツンと来るようなものでないと、飲んだ気にもならないだろう。
 アレでいいか、と佐藤は決め、氷を取り出す。そして、それをアイスピックで削って綺麗な球にした。それをオールド・ファッションド・グラス、別名ロックグラスに入れ、ドライジンを注ぐ。その上から、アンゴスチュラビターズを数滴たらす。透明なドライジンの中に落とされた滴は、全体を黄色みが掛った淡いピンク色に変えた。
 このカクテルの名前は、見た目の色をとってで「ピンク・ジン」という。ピンク、という可愛い響きは入っているものの、ほぼジンのストレートなのでアルコール度数は高い。名前の愛らしさとは裏腹に強烈なパンチを与えていくという点は、艶子と同じだろうと佐藤は考えた。
 差し出したグラスを、艶子は「頂くわ」と優雅に微笑んで受け取った。どうやら、お気に召したらしい。まだ佐藤は遭遇した事はないが、気に入らないものなら手も付けないだろう。艶子は。
「なーんだ。シェーカー振らないのかよ」
 そんな詰まらない茶々を入れるのは、ジャックだった。艶子と吉田に挟まれ、さっきは「両手に花だな!」とご機嫌な顔を晒していた。
「なあ、俺にもカクテル頼むわ。シェーカー振る奴が良いな」
「……全くふざけた注文だな」
 本当の店主と客の関係なら今すぐ叩きだしてやる所だ、という意味を込めた冷たい視線を佐藤はジャックに送る。しかし、それをさして気にするでもなくジャックは言い募った。佐藤の剣呑な視線をスルー出来るのは、ジャックが図太いのもあるしかつては一緒に暮らした仲間だからだ。佐藤の恐ろしくない一面だって知っている。最も、しっかり恐ろしい面も知っているので、本気で睨まれたらジャックも怯えるしかないが。つまりは、佐藤はジャックを本気で疎んでいるという意味では無い、という事だ。まあ、艶子なら佐藤の本気の邪険も撥ね退けるだろうけども。
「良いじゃねえか、出来るんだし。吉田だって、シェーカー振る佐藤、格好いいって思うだろ? な?」
「えっ、ええええ、その、えっと、」
 サツマイモのハチミツがけ炒め――つまりは大学芋を食べていた吉田は、喉では無く言葉を詰まらせた。ちなみにこの大学芋で使用したハチミツは、レモングラスを付け込んでいたのでさっぱりとした風味で食べられる。
「ほらほら! 吉田も隆彦がシェーカー振ってる所、見たいってよ!」
「ちょ、そ、そんな事言ってないって!!」
 吉田の返事を全く待たず、ジャックが言う。吉田は否定を試みよう止しているらしいが、その顔の赤さが何より弁舌に吉田の本音を語っていた。
 さて、ジャックには何を作ろうか。シェイクするもの、という以外は特に注文がないらしい。
 なら、定番のものから適当に見繕ってやるか。佐藤はあまり考えずに決めた。そしてシェーカーを手にする。その中に、先ほど艶子のカクテルにも浸かったドライジンそれと、ライムジュースを入れる。そして、シェイク。中の氷が振られる小気味よい音が響いた。
「何作った?」
 ジャックが言う。
「ギムレット」
「早過ぎねぇ?」
 そんな軽口を言い、ジャックはくっ、と一気に飲み干した。そして一言、「美味い」。
 ジャックも、艶子程ではないが舌は肥えている方だ。つまりは、佐藤の腕はそれくらいには達している。
「なー、マジで店やらないの? すっげぇ繁盛すると思うけどなぁ……むしろ繁盛させてやるし」
 サラミを摘みながらジャックは言った。料理だけが佐藤の唯一の才能とは思わないが、折角こんな整った設備もあるのだ。それはちょっと勿体ないと思う。
「やらないよ。利益やら原価率やら考えて料理するのは性に合わない」
 趣味の範囲だからのびのびとやれるのだ。あえて窮屈な場には入りたくない。その見返りで手には居るものは、佐藤には無価値に等しいものばかりだ。
 佐藤が欲しいのはたった1つ。幸せそうに笑う吉田だけ。
「隆彦はだめよ。料理人には最も向かない性格だもの」
 慎ましやかながらも、艶子の声は凛とした力がある。発せられる声がそのまま当人のオーラを漂わせている感じだ。
 佐藤の作ってくれたピンク・ジンを味わいながら艶子は言う。
「料理人は、訪れて来た全ての人に最高のひと時を演出しなければならないわ。けれど、隆彦はいつだってたった一人だけを思い描いて料理をしているもの」
 その気質は料理人に相応しからざるものであると艶子は言う。
 自分の心情をそのまま代弁してくれた艶子に、佐藤が何か意見するでもない。頃合いを見計らい、デザートの仕込みに入っていた。
「そりゃ、そうだけどさ……」
 異論は無いが自分の主張を諦めきれないジャックは、濁ったような言葉で返す。ちなみに、ジャックが佐藤に店をやらないか、と言ったくだりから吉田を除いた3人の会話は英語になっている。吉田は、「何を話してるのかな〜」と気にはしつつも、バーニャカウダに夢中だった。サクサクポリポリとスティック状の野菜を食べる吉田は、小動物っぽい。
「でもよ、隆彦」
 ジャックは不意に、にやりとした笑みを見せた。それはとっておきのワイルドカードを場に晒す時のようなものと同じに思えた。
 ジャックは言う。
「自営業にしたら、吉田とずっと一緒だぜ?」
「………、」
 佐藤は軽く目を見開く。それは全く考えに無い事を言われたからというよりむしろ逆で、心の底で思っている事を相手に言われた為の微かな驚愕だった。
「いいと思うけどな〜。美味い料理に可愛い店員。良い店の条件クリア!!」
 手ごたえを感じたジャックは、畳みかけるように言う。さっきのように、佐藤からの即座な突っ込みは無かった。
「あらジャック。それは最もダメよ」
 しかしまたも、艶子がジャックを嗜める。
「吉田さんを働かせるというの?」
「えー、だってずっと一緒に居るなら一緒に働いて貰わないと」
「自分以外に愛想を振りまく吉田さんを見て、隆彦の精神が持つと思って?」
「………………」
 そういえば、その通りだ。うっかり失念してしまっていた事実に、そっと佐藤を窺ってみれば想像の段階ですでに表情がヤバい。一見無に見えるが、こういうのが本当にヤバイのである。
「……う〜ん、開店は夢のまた夢かな……」
 ジャックは自分で淹れたアイリッシュモルトのロックを口につける。
「あら、そうやって結論するのもまだ早くてよ? 未来は何が起こるか解らないものですもの」
 と、優雅に艶子。
「吉田さんがお店を開きたいと言い出すかもしれませんしね。もしそうなったら、その時には隆彦も心を広くして貰わないと」
「……余計な御世話だ」
 不機嫌を隠しもせず、佐藤が言う。
 そして、そんな佐藤が視線を移した先は、とても嬉しそうに料理に手を付ける吉田。
 この笑顔と一緒に居る為にはどうすれば良いか。吉田と出会ってから、ずっとそればかり考えているような気がする。今も、これからもずっと。
「まあ、本格始動して欲しい反面、身内だけが知ってる名店、ってのも良いかな〜って思うけどよ」
「ジャックってば、我儘ね」
「良いじゃねえか。欲が多いってのは」
 結局選び取れる未来は1つだとしても、その間模索して浮かびあがる可能性の数々は切り捨てられた後でも進んだ道を照らしてくれる。
 ここが身内だけの集いの場に留まったとしても、何も無意味にはならない。まあ、やはり多少は勿体なく思うだろうけど。
「……ちょっと卑怯とは思うけど、吉田にも言ってみようかな。店やらないかって」
 結局はこの店は吉田次第だ。原動力からしてすでに吉田なのだし。
「どうかしら。吉田さんも、あれでいて結構独占欲強くってよ?」
 艶子はむしろ喜ばしい事の様に言う。
 すでに佐藤は自分たちをそっちのけで、吉田と親しげに会話を楽しんでいる。途中、揶揄して怒らせたりもしているが、それはむしろ甘いコミュニケーションの1種だと、とっくに周りは気付いている。
「ま、当分は隠れ家形式って事で」
 この店の未来に乾杯、とジャックは1人、宙にグラスを掲げた。



<END>



*あとがきのような言い訳*
 こういうカフェもの的なパロが書きたかったんですが、佐藤が客商売に向いている性格では無いので足踏みしていたのえお、この度どうにか形にしてみました〜^^
 一応隠れ家バーみたいな感じだったんですが、思いの外料理が溢れていてむしろ夜カフェというかパブ的な店ですね;;ううむ……まあ、仕方ない。そもそも本気の隠れ家になっちゃったし。何故こうなった。

 この設定でちょいちょい話を作って行きたいと思います〜!!!