☆佐藤→画商 吉田→助手 みたいなパロです^^



 平日なのだから人も空いて居るだろうと思っていた吉田の目論見は、だがしかしそんなには当て嵌まらなかった。
「うわー、結構人が居るなぁ」
 入口の扉に立ち、吉田はその場から見える人ごみに堪らず呟いていた。
 確かに、平日に予定の入る会社員や学生などはその姿を見せていないが、代わりと言っては何だが主婦や会社勤めの定年を迎えた様な年代が目立つ。とは言え、若い年齢層が居ない訳でも無い。彼らは大学生か、フリーターだろうか。
 とにかく、老若男女が居る。それだけの魅力が、勿論あるのだろう。
 そう、「彼女」には。

 吉田が「彼女」の存在を知ったのは、いつだっただろうか。確かなのは、佐藤の所で働き始める以前から知って居た、という事だ。
 吉田は美術商に勤めて居ながら、その知識は一般教養にようやっと手が届くか、という程度である。それなのにこの職に就いているのは、それはちょっと一言では言えない色々な経緯を経ていた。
 ともあれ、そんな吉田ではあるが、綺麗な絵を見て心を奪われるというような、経験がまるでは無い訳ではない。敏感とも言いづらいが、けれど見る目はあり、吉田が良いと思ったものに贋作はまずないというのが、吉田の雇い主である佐藤の言葉だった。
 世界中の人々を魅了して止まないその「彼女」が、西田が在籍する美術館に来ると知ったのは、その決定がなされてすぐの事だ。西田とは個人的な関わりがあるので、広告として打ちだされるより先に知る事が出来た。西田は以前、吉田が「彼女」に会いたがっている素振りを見せていたのを、勿論忘れてはいなかったのだ。
 そこで招待を受けたのだが、閉館時間後に入ってゆっくり見れば、という西田の誘いを断り、吉田はちゃんとチケットを買い、正規の客として行く事を決めた。まるで独り占めの様に会える環境には心引かれるものはあったが、そこまで特別扱いされるのもどうかと思ったので、遠慮したのである。西田とは良い友達で、しかしそれ以上にはなってはいけないのだ。
 吉田としては、1人で行っても良かったのかもしれない。けれど、是非とも佐藤と一緒に行きたかった。西田の美術館という事で厄介な事情になってしまったものの、恐る恐る佐藤に言ってみれば、そこは意外な程呆気なく承諾を得る事が出来た。何の事はない、佐藤も「彼女」に会いたかったのだ。西田の居る美術館というのが多少引っ掛かるかもしれないが、それを押してでも行く価値があるのだと。
 佐藤が、極力西田と顔を合いたがらせないのを知っている吉田は、この時ばかりはそれをさせてしまう「彼女」に、ちょっぴり焼いたのだった。


 大概展覧会というのは、大きな目玉を作り、それに倣う年代やジャンルを並べて催すものである。この美術館は特に後者に絞った様で、光と影の使い方が秀逸な作品が目立った。
 どれもこれも、皆素晴らしい絵である。こういう絵を描ける人というのは、どんな手と頭をしているのだろうと、吉田はいつも考える。そして過去、学校の美術の授業で作成した自分の作品を思い、何だか凹んでしまうのである。まあ、別に美術面で活躍しようとは、最初から思って無かったから良いのだけども。
 「彼女」の所までは、まだまだ距離がある。少しの緊張を抱きながらも、吉田は壁に飾ってある絵にぽつぽつと説明してくれる、佐藤の囁くような声を聞いて気を落ち着かせていた。
 そして、とうとう。
 まだ、前に並ぶ人の頭しか見えない状態でも、そこに特別なものがあると解る。そんな空気を感じた。
 ゆっくりゆっくりと、自分の番が近づく。ああ、とうとう、とやっと来たこの瞬間が、焦がれるようであり、惜しくもあった。
 やがてついに、吉田の目前に「彼女」が姿を現す。
 背景が一切ない、真っ暗やみの中、「彼女」の耳飾りも、そして「彼女」自身が温かくも明瞭な光を放っているかのようだ。照明として当たっているのではない、この絵の中にこそ光を感じる。
 何だか、ずっとその存在を知って居たのに、吉田は初めまして、という気持ちになった。
 吉田は今日、初めて対面したのだ。真珠の首飾りの少女に――


 極論を言ってしまえば、有名な画家なんて全部がキワモノみたいなものだが、フェルメールはその中でも特に異彩を放っている様に思う。何せ、作品数が少ないのだ。最もこれは、現在彼が描いた物だと確認されている数、という意味であり、決して絶対数ではない。
 おまけにフェルメールには専門家でも真贋が難しいとされる贋作家の存在も居た。認められている作品の中でもこの容疑が抜けきらないものも多く、ただえさえ少ない数がもっと少なくなってしまっている。
 そんな目立つエピソードを抱えているからか、吉田はフェルメールの事を特に覚えていた。何より、この「真珠の耳飾りの少女」。どこか能面のような冷たさすらも漂わせ、なのにしっかりと温かみを含むこの絵は特に吉田の感性に響いた。実物は作者の出身地であるオランダの美術館に飾られている。
 それが、今回やって来るのだと言う。しかも、近場の美術館に。これはもう、是非にでも行かなくては!と拳を固めた吉田だった。
「あー、凄い良かった! 綺麗だったな〜」
 ほわ〜ん、と夢心地の様に言う吉田。今は展示室を抜け、通路兼休憩所のような場所に腰を降ろしていた。
「まだ展示期間は長いし、また来ような」
 名画にひたすら感動している吉田を微笑ましく見ながら言う佐藤の提案に、吉田も一も二も無く賛同した。折角近場なのだから、もう後2,3回は見たいくらいだ。
 飲み物でも買って来ようかと、一度吉田から離れようとした佐藤だが、すぐにそれは止めた。そうもいかない状況になったからである。
「吉田!」
 と、声を上げながら、いそいそと西田がこちらへとやって来る。その目的は疑うまでもなく、吉田である。
 相手にその気がないと解っても、中々拭いきれないのが懸想というものだ。佐藤も同じ想いを持つ者として、共感くらいはしてやるが、しかし納得は出来ない。してやらない。
 西田の方も、佐藤の姿を確認した時、前回だった笑みも2割くらいが削がれたものとなった。
「あ、あー、西田!」
 そんな微妙な雰囲気を蹴散らすように、吉田が殊更明るい声を出す。座って休んでいた所を、ぴょんと立ちあがって西田を出迎えた。そんな小動物みたいな可愛い仕草に、西田はやっぱり、胸がときめいてしまう。
「平日なのに凄い人だなー。いつもこうなの?」
 なるべく平穏無事に済みそうな話題を吉田は選んだ。西田は、吉田に微笑みかけながら言った。
「いやいや。さすがにここまでは無いよ。「彼女」の人気は凄いな。改めて感じたよ」
「で、何しに来たお前」
 吉田の心掛けた平穏は、佐藤によってあっさり打ち砕かれてしまった。敵意を持っているのは仕方ないにしても、もっと上手に隠してくれたら良いのに!
 実際、訪れる客に対しては上手くあしらう佐藤なのだけども、西田にだけは出来ないらしい。佐藤の心境を思うと、吉田もそう強くは言えないのだが。
「今から昼だからさ。一緒にランチでもどうかなって」
 西田は佐藤と吉田と、両方に向ける様に行った。
 朝一で来たのだけど、中をじっくり練り歩く様に進んでいた為、思いの外時間が立っていた。確かに、昼食の時間帯である。
「今の時期、併設のカフェやランチはフェルメールに則ってオランダ料理を揃えてるんだ。オランダは食に大ざっぱな国とか言われて居るけど、美味しいって評判だよ」
 美味しい、という単語に吉田のアンテナが反応する。オランダ料理という、イタリア料理やフランス料理とは違い、馴染みの薄いレアな感じも、興味をそそられるポイントだろう。
 ちょっと行ってみたい、とそわそわした面持ちで、吉田は佐藤をそっと窺ってみる。
「…………」
 そんな風に見られて、吉田が好きな佐藤としては。
「……いいよ。行こう」
 そう言う他、無いのだった。


 西田は食事を終えると早々に立ち去って行ってしまった。奢ろうとしたのだが、佐藤がそれを頑なに拒んだ。西田もそれなりに粘ったのだが、時間切れでその小競り合いは終わりを迎える。
 どうも西田は、空いた時間にたまたま自分達を見つけた、というよりは時間を捻出して会いに来てくれたようだ。一目みたい、というやつなのだろう。
 いい人なんだけどな、と吉田は西田を持って思う。良い人だけど、良い人だけなのだ。好きにはなれない。好かれていると思っても。
 全部の想いに応えてやる事は無いよ、と佐藤は言う。認めて受け止めるだけで、それはもう十分なのだと。むしろそれ以上はしようもないので、吉田は佐藤の言葉にありがたく従う事にした。
 ランチを終え、自分達も帰る事にした。西田の登場というイレギュラーはあったが、フェルメールの絵は素晴らしかったし、真珠の耳飾りの少女は写真以上に神秘的だった。オランダ料理で構成されたランチもとても美味しかった。ちょっとしたコースを頼み、スープからデザートまで、すっかり堪能してしまった。最初出されたマスタードのスープは、辛いばかりかと思えばそうではなく、生クリームが入って居るだけマイルドな味であるし、辛いというよりはさっぱりとした酸味の方を感じた。
 吉田は牡蠣のシチューが美味しかった、とにこにこしていたが、佐藤はその胸中、かなり荒んでいる。吉田には気付く由もないだろうが、牡蠣というのは「秘められた恋」という意味を持っており、絵画の中にも暗喩として度々登場している。
 吉田の知識がそこまで及ばないのは西田にも解っている事だから、自分の想いを乗せたとしても伝えるつもりでの注文では無いのだろうが、やはり好きな人に自分以外の者が想いを寄せている場面を直で見てしまうのは、精神衛生上、あまりに良く無かった。折角のフェルメールを見た帰りにしては、ちっとも相応しくない心境を抱いてしまっている。
 西田の勤める美術館から佐藤の画商兼住居のビルまで、歩いて30分という所だ。散歩には良い距離とコースをしているので、2人は徒歩で帰路についている。
「……あれ、あんな所にお店あったんだ?」
 てくてく、と西田の事もあったが、楽しく並んで歩いて居る時だった。吉田が、不意に声を上げる。商店街を歩いている最中、その小さな脇道の先に、おそらく油絵だろう、それらが外にそっけなく置かれているのを、吉田が見つけた。とても個人がコレクションを何かの理由で外に出している、というよりは、売りものとして展示されている、といった具合だろう。
 いってみよう、と吉田は佐藤に声をかけ、その店目指して細い路地に入る。後ろから見たその様子は、まさに気まぐれな散歩中の猫そのもので、佐藤はちょっとだけ、笑った。


 辿りついた先は、佐藤と同じく絵を売る画商で、しかし本日が店じまいなのだという。その為、店内の絵は半額、あるいは70%オフという風に、まさに叩き売りされていた。いつからやっていたセールかは知らないが、大分品物は整理され尽くしている。店内の様子を見ると、大分長く開いていたようだ。どういう事情で店をしまうのかは知らないが、やはり同業者の店じまいというのは、見ていて決して喜ばれるものではないと思う。
 吉田は店内を見渡した。美術館の様に計算された照明も、目の高さに合わせた設置も無いが、その分気軽な感じで絵を楽しめる。
 綺麗で整理され尽くしたあの空間も悪いもので無いが、とっつきにくいものにしている要因ではあるかも、と吉田は思った。佐藤が美術館勤めに意欲的ではないのは、この辺りが関わっているのかも、とも。絵は施設に置かれるのでは無くて、家庭に置かれてこそ意義がある、というのが佐藤の方針だ。美術品を人類の遺産として、厳重に保存・継承したいと思う西田の理想とは、ちょっとずれる。そこも2人の溝を深くする理由である。最も、一番の問題は吉田、なのだろうけども。
「何か、良い絵ある?」
 買って行くか、というニュアンスを込めた佐藤の台詞。んー、と吉田は考える様に首を傾けさせて。
「あ、」
 小さい声を上げ、自分の意識が向かっている先に歩く。てくてく、と短い距離の先、吉田が絵を手にした――が、それは退かす為であり、本当の目的はその下の絵だったようだ。
「何かこれ……良いかも」
 丁寧に持ち上げた絵は、しかしとても状態が良いとは言えないものだった。風化されたか、色の劣化がすすみ、全体的にぼんやりとした感じになってしまっている。日に焼けた写真の様だ。
 とはいえ、どういう絵なのかは解る。長い髪の少女が、部屋の中で花を抱いている。その口元で、微笑んでいると解る。そんな絵だった。
 これ欲しい、と思った吉田だが、その絵には値札がついていなかった。絵に埋もれるように座って居た店主らしき老人に尋ねてみると、彼は慌ててそれは売り物では無いのだと吉田に言う。佐藤も、こんな劣化した絵を売りだしているのか可笑しい、と思ったのだ。
 けれど、吉田はそこで諦めなかった。それでも良いから欲しい、と。しかし相手も、今日で終えるとは言え画商としての矜持がある。見れた物では無い絵を売るのは阻まれるだろう。
 膠着するかと思われたその事態を、打ち破ったのは佐藤である。自分には修復出来る腕を持っているから、譲って欲しいと店主に言い募った。
 どっちに転ぶか解らない佐藤の申し出だったが、この場合は効を奏した。そう言う事なら、と店主は快く吉田に、無償であげようとしたが、それも吉田は由としない。これでも自分も、絵の仕事に携わる身だから、その受け渡しには筋を通したいのだ。ここで代金を払わないでなあなあで受け取ってしまうと、この絵がここまで来た奇跡を無くしてしまう様な気がして。
 そんな吉田の気持ちが、店主に通じたのだろう。値札が無いので、口頭で告げたれた値段は、きっとかなり安いものだ。けれど、これ以上は野暮なのだろう。吉田は身銭を切って、絵を買った。
「絵を買うのなんて、初めてだー」
 若干の興奮からか、頬を紅潮させて吉田が言う。買ったその絵は、吉田か抱えるにはちょと大きいのだが、佐藤に渡す事無く、吉田は自分で持って歩く。
「で、絵の修理頼んじゃうけど、良い?」
「何だよ、そんな事気にしてるのか? 俺はすっかりそのつもりだよ」
 ごめん、と多少気まずく吉田が頷く。正直言えば、吉田も直してくれる佐藤の存在が居なかったら、買ったかどうか怪しい所だ。いや、買わなかったに違いない。
「……なーんかさ、気になったんだよな」
 吉田から見えたのは、花を持つ肘から下の部分だ。そこだけだったのに、妙に気を引いた。隠されたその箇所に、きっともっと良いものが待っていると、そんな予感をさせた。
 まだとても絵として鑑賞出来るものじゃないが、佐藤がちゃんと綺麗にしてくれたら、いっと素敵な絵になるに違いない。
「あのさ、ホントに開いた時にしてくれれば良いから。仕事の方、ちゃんと優先しろよ!」
「はいはい」
 あくまでこれはついでで良いのだ、再三に渡り言い聞かす吉田に、しかし佐藤は何を置いても、超特急で直してやろうとすでに決めていた。


 吉田も眠った丑三つ時。しかし佐藤は起きていて、吉田の買った絵の修復に取りかかって居た。状態が悪いのは保存の仕方もあるだろうが、そもそもが大分古いものだ。逆に言えば、よくあの店にあったな、と言えるくらいに。
(18世紀……いや、17世紀かも)
 17世紀、といえば大航海時代。そして敢えて言いかえればフェルメールの時代でもある。奇遇なものだな、と1人きりの空間、佐藤はそう胸中で呟く。
 吉田が好きだと言った絵。自分の中で、これ以上の大仕事があるだろうか。疲れなんて、全く感じる事が無い。
 実はこういう状態が一番危ないのだ。身体の疲れをそっちのけで精神が突っ走るから、気付かずにバッタリ、なんて事もある。そうなったときの吉田の大目玉は、きっと今までの雷の比ではないだろう。激怒した吉田を思い浮かべ、けれど佐藤はむしろ笑ってしまう。自分を怒るなんて、吉田くらいなものだ。いや、吉田の場合は叱る、というべきだろうか。吉田がそんな風に声を荒げるのは、佐藤が心配だからだ。
 佐藤は自分の中で区切りを決め、今日はそこで終えよう、と決めた。
 が。
「……………」
 手をつけ始めた時から、感じる違和感、というか引っ掛かりのようなものが、作業が進むにつれ、どんどん大きく、膨らんでいく。
 けれど、そこで立てられた仮説は、とてもじゃないが言えるものではない。言った所で、その飛躍を嘘に決まって居ると嘲笑されるだけだろう。
 やはり深夜の作業で疲れているのだろうか。頭を軽く振って、打ち払おうとする。
 けれども、やはり。


『――はぁぁぁ? ヨシダの買った絵がフェルメールの絵かもしれない、だと?』
 電話の向こう、大体佐藤の想像通りのリアクションをしたのはジャックである。遠い海外にて、アンティークの買い付けをするバイヤーのような仕事ではあるが、ちょっとやばい世界に片足だけ突っ込んでいるような男だ。おかげで、正規ルート以外で手に入れる事が出来るのは、まあ法律的や倫理的はさておき、佐藤としては大変良い事なのだか。
「俺だって凄い馬鹿げた事を言っているのは知ってるよ。でも、どうしてもそれが拭えない」
 自分の中で堂々巡りさせているのがいけないのだ。いっそ、本当に笑い飛ばしてくれた方が、まだ打ち消しやすい。
 はー、でもなー、そんな、と台詞になっているようでなっていない声を発しながら、しかしジャックは佐藤の望んだ思い切りのよい嘲笑はしてはくれなかった。
 フェルメールの絵は少ない。けれど、それは表に出ている数の話で、未だ見つかって居ない絵の存在は決して否定できない。だから、極論すればフェルメールの絵が流れ流れて、日本の片隅にある画商の在庫一掃セールに並べられているなんていう現実も、馬鹿げては居るかもしれないが、絶対あり得ないとも断言は出来ないのだ。作品数のその少なさが逆にそう思わせる。実際、二束三文で売られていた絵が見事フェルメールのものだと認定された物もあるのだから。
 その時の決め手となったのは、カンヴァスの布地である。そして実は、佐藤が疑いを持ったのもそこだった。
「あの頃の時代は自分で布を切って作ってただろ? 吉田の買った絵も、そうやって出来ている」
『はあ、なるほどな……でも、そこでフェルメールの絵だって決めつけるのはいくらなんでも早計し過ぎじゃねーか?』
 まあ確かに、この作り方は何もフェルメール独特の手法でもない。決め手には著しく掛ける。
「そこなんだけどな。この絵に描いてる少女なんだが――」
 佐藤は言うべきか否かを、少しだけ迷って、言った。ここまで言っておいて、今更取り繕っていても仕方ない。
「真珠の耳飾りの少女と、同一人物なんじゃないか、って」
『……………』
 沈黙 
『……オイ、オイオイオイ……それこそ、凄い事だぜ? ただえさえ、フェルメールの絵だっつーのに』
 真珠の耳飾りの少女のモデルは、目下不明である。モナ・リザは確定に等しいモデルの存在が居るが、そこが解らない辺り、真珠の耳飾りの少女は一層神秘的なのだろう。
 一説では多く居る彼の子供の内の誰かとも言われているが、あるいはモデルなんて者はいなくて居なくて、フェルメールの脳内で描かれたものだという意見も少なくは無い。それだとしたら、このいかにも物を言いそうな薄く開いた唇は何なのだろうか。そこもまた、人々が彼女に夢中になってしまう所だろう。
『根拠とかは?』
 と、ジャック。
「無いな。全くの勘。というか感覚、みたいなものかな」
 見た時に感じた雰囲気が似ている、と佐藤はさしたる証拠も無しに、印象だけでそう思った。真珠の耳飾りの少女として描かれてている彼女は、眉毛もターバン内に隠してしまい、緩んだ口元を隠せば全くの無表情だ。しかし、吉田の買った絵の少女は、あきらかに視線をこちらへと向けていて、抱きしめた花に頬を寄せるよう、首を傾けていた。浮かべる表情は、室内に入る陽光よりも、柔らかく光る様な微笑み。そしてその口元。絵の中でも尚瑞々しいあの唇と印象が被るのだ。
 ううん、と電話の先で、ジャックが何とも難しい声をしているのが聴こえた。
『……もし、本当にそうだっていうなら、美術史に新たな一石が投じされるな。お前、時の人になれるぜ』
「止めろよ。そんな事言うの」
 佐藤は記録に名を乗せる為にこの生業に就いた訳ではないのだ。それだからを知っている、ジャックなりの皮肉というか、ブラックなジョークだ。
『でも、マジで検証したいなら、手はあるぜ? 艶子とかヨハンにも連絡すりゃ、近いうちに出来るだろうな』
 まるで悪戯を企む様な、ジャックの少しだけ弾んだ声。
 先述したように、フェルメールの時代はカンヴァスを作る時、大きな布を自分で裁断して作って居た。つまり、切ったもう片方、切り口が合致するのが存在する筈なのだ。それにより、フェルメールの作だと認められた。確かに彼の作品だと認められた絵の切れ端が、見事合致したとなれば、これは完全な証拠に他ならない。
 とはいえ、作成したカンヴァス全てが使われた訳でもないだろうし、この絵と同じ布で作られた絵画が、未だに時代や歴史の隅に埋もれているのかもしれない。
 見つけられたら確たる証拠だが、見つかるという確証は、無い。
「……いや、良いよ。そんな無粋な事はしたくない」
 吉田が良い絵だと言った。欲しいと思った。それだけで良い。むしろ、それ以外に何が必要だろうか。
 仮に真物だったとして、その事実が漏れたら色んな箇所から寄付や贈呈の誘いが押し寄せるだろう。その手元に置くより、余程良い環境で保存してやると。それが絵の為だと。
 佐藤はそんな考えを最も卑下している。絵の為だなんて、詭弁も良い所だ。結局は自分の思うままに、絵を扱っていくでしかない。
 絵画の立場を、自分に置き換えて考える。空調管理がきちんと整った美術館より、温かい家庭の中に飾られていた方が何倍も良い。風に晒され湿度に中てられ、ボロボロになってしまったとして、そこで何を不満に思うだろうか。
『で、結局、俺は何のために話相手になったの?』 
 ふーん、と素っ気ない返事の後、ジャックの声。
「今日の吉田とのデートが楽しかったと、俺が惚気る為だ」
 しれっと佐藤が言うと、表情の見えないジャックがガッデム!!と叫んだのが聴こえた。


 それから程なくして、吉田は吊り眼をこれ以上なくまんまるにし、頬は興奮の為紅潮していた。可愛いなぁ、とその顔を見て佐藤がしばしの鑑賞に浸って居ると、吉田がくるりん、と佐藤を向いた。
「すっっごーい! もうこんなに綺麗になってるなんて!!」
 そのまま、大好き!と言って飛びついてくれないかな、とそれなりに待機をして居た佐藤だが、生憎吉田はそういう事をする性質では無かった。ちょっと残念に思う佐藤である。
「凄い……凄いなぁ。こんな絵だったんだ」
 改めて、吉田は自分の買った絵を見る。室内の中で、白く大振りの花を抱く少女。肩にかかる髪に掛る光が、綺麗な曲線を描いている。絵の中の少女は、きっとこの先幸せになる。そんな予感をさせて、眺めている自分にもその幸せが振りかかる様な気持ちだ。
「それで、その絵。どこに飾る?」
 にこにこ、と絵を眺めていた吉田に、ある意味根本的な質問が佐藤から飛ばされる。え、と吉田の目がさっきとは違う意味で丸くなった。
「そ、そっか。飾らないとダメだもんな。絵だもんな」
 考えて無かったー、と右往左往する吉田に、佐藤はちょっとほっこりした気分になる。完全に一致とまではいかないが、吉田も佐藤と同じく、絵は保存なんてしないで飾ってなんぼ、みたいな主張を持っている。西田の事は学芸員としては尊敬しているようだが、吉田もどこか一線を引いていた。それはやはり、主張の食い違い故なのだろう。
「自分の部屋に飾れば?」
 打倒に考えてみれば、持ち主の部屋が一番である。けれど、その持ち主である吉田は、ううん、と賛同しかねるように、腕を組んで唸る。
「そうなんだけど……あんまり、絵とか飾る様な部屋じゃないかも」
 それに、自分の部屋とは言うが、滞在時間は決して長い物では無い。食事は佐藤の部屋で取るし、他の時間は大体ギャラリーで待機している。そこには佐藤の集めた豊富な画集や資料があって、吉田は自分の知識の向上の為、時間があればそこでそれらを目に通しているのだ。
 エレベーターの無いこのビル内で、大きな画集を持って部屋に戻るよりは、その部屋で遅くまで読みふけっていた方が良い。だから、ぶっちゃけて言ってしまえば、あの部屋は寝床みたいなものである。
 まあ、寝室にも絵は飾るけど、と吉田。けれど、やはり部屋によって飾って相応しいというのはあると思うのだ。少なくとも、吉田にとってはあの絵は寝室に飾る類のものではないと思っている。
 うんうん唸る吉田を見て、佐藤は吉田が答えを見つけ出せないと判断出来るまでそれを傍観した後、そっと提言する。
「なあ、吉田。ちょっと思ったんだけど、その絵、お義母さん達に送ったらどうかな」
 割と突拍子の無い佐藤の意見に、吉田はえ?ときょとんとなった。
「吉田がどういう仕事しているのか知りたいって言ってるんだろ? だったら手っ取り早く、実物を見せてあげたら、って」
 吉田の仕事、引いては佐藤の仕事は一言で言ってしまえば「絵を売って居る」という感じだが、だからこそピンとは来ない所も多いだろう。せめて扱っている商品だけでも見せられたら、と。
 人には好みはあるが、一人娘の吉田を大事に育ててきた両親なのだ。この絵の少女も、きっと大事に扱ってくれるに違いない。
 そう言った事を、佐藤はつらつらと吉田に言ってみせた。自分が大事に育てられたかは怪しい所だけど、と吉田は照れ隠しに、まずはそう言ってから。
「……うん、そうだな。そういや、もうすぐ結婚記念日だった筈だし」
 毎年2人で旅行に行くんだー、と吉田。その時の吉田は、家で似非1人暮らしをして、それなりに楽しんでいたらしい。
「なら丁度良い。プレゼントにしよう」
 佐藤の提案に、素直に頷く吉田。その後、不意にはにかんだ。
「絵なんて贈ったら、母ちゃん吃驚するだろうなー」
 今からその時を思って、わくわくしているような吉田だった。その喜びように、一体どっちが贈られる側なのか、解った物では無い。
 自分とは違い、仲睦まじい吉田の家の事を思うと、佐藤も幸せな気分に浸れる。
 そして佐藤は、修復したてのその絵を見る。絵の中の少女は、髪を降ろしたままだ。
 これがフェルメールの時代の絵だとして、その当時は女性は常に髪をアップにして居て、それを降ろすのは婚礼の時だけなのだ。
 だから、つまり。この絵は、婚礼の儀式の前の、ほんの空き時間の隙間を捉えた絵なのではないだろうか、と。
 伴侶と歩む先の未来を思い、この少女はこんなに穏やかに微笑んでいるのかもしれない。
 そういう絵かもしれない、と思った時、佐藤は吉田の両親にこの絵を贈りたい、と思ったのだ。
 吉田の手を取る時は、それはとりもなおさず彼女の両親から吉田を授かると言う事だ。勿論縁が切れる訳ではないが、その先の人生における比重は違ってくる。だから、吉田を奪う代わりに、なんていう訳ではないけども、婚礼の儀式を心待ちにしているようなこの少女の絵を、彼女の両親に贈りたかった。自分は、吉田に、こんな微笑みを浮かばせたいのだと。そういう決意なのだと。
「今日の予定、どうなってる?」
 吉田の両親に贈る事が決まったその絵を、丁寧に仕舞うと佐藤は吉田に訊く。吉田のこの画商での役割は、助手兼受付嬢兼秘書である。なのでスケジュールを訊くのだが、実は1週間分の予定くらい、軽く佐藤の頭には入って居る。
 ええと、と吉田は自分の手帖をぺらぺら捲る。チョコレートを模した表紙が可愛い、吉田らしい手帳だ。そこに、自分の仕事の予定が書かれているのかと思うと、何とも嬉しくなる。
「午前は予定は無いよ。午後からは……」
 言い洩らしが無い様にと、手帳に顔を埋めるように声を上げる吉田。
 可愛いなぁ、と思わず抱きしめたくなるが、吉田は今、誇りを持った自分の仕事をしているのだ。それを邪魔してはいけない。
 だから、言い終わった後に抱きしめよう。
 それでも、懸命に予定を言って行く吉田の声をいつまでも訊いて居たい様な、そんな矛盾に満ちた想いすら抱いてしまう佐藤なのだった。



*表でのパロでもやった画商×助手のおにゃのこバージョンです^▽^
せっかくなので(?)ここぞとばかりいフェルメールを取り上げてみました〜
とは言え、きちんと学んだ訳でも無いですので、時代考証や絵の知識に関してはなんちゃってくらいな感じて受け取ってやってください^^;
このシリーズも続けたいな〜と思ってますです。