その朝、一歩外に出ただけでうっ、と顔を顰めた。それくらい、寒い。いや冷たいと言うべきか。
 流すように見ていた朝のニュースで今日はとても乾燥するし気温も低いので、マスクを着けて出かけた方が良いだとか言っていたような気がするが、やっぱり流し見だったので然程重要にも気を留めていなかった。
 そのコメントを素直に聞いていれば良かったかもしれない。一歩一歩踏み出す毎に吉田にそんな軽い後悔が襲う。
 けれど、今から家に引き返ってマスクを付けてくるのは億劫だし、かと言ってコンビニで買うのも勿体ない。
 せめてもの抵抗と、マフラーの中に口元まで顔を埋めていた。

 そんな、些細な抵抗は試みたのだが――


「……おはよ、」
「おはよー、って、吉田、声どうしたの?」
 登校してきた吉田を出迎えた秋本だが、その声の酷さに心配そうに言う。
 吉田の声は酷く擦れていた。いかにも喉が腫れて、声が出すのが辛いのが解る。勿論というか、ばっちりマスクは着用だ。
「い~ん、どうも昨日ので喉痛めたみたい……」
「あぁ、寒かったもんねぇ。風邪とかじゃないの?」
「うん、熱は無いっぽい」
 おかげで、こうして学校に来ている訳だが。
 熱はなくてもこんな声で行きたくない、と吉田は母親に言ってはみたのだが、いいから行きなさいと吉田の主張は封じられてしまった。生憎高校では本人連絡での欠席は認められないので、保護者にその連絡を断れてはもはや行くしかない。
 変に体調を拗らせて悪化させないよう、今日は大人しく過ごそう。やれやれ、と席に着くと近くに立つ男子達がなんだかソワソワしている。
「? 何?」
 どうもそれが自分に向けられているような気がして、吉田はなんとなしに声を掛けた。2人は目くばせをし、発言をする役割をどっちが担うかを決めたようだ。そういう事をするという事は、おいそれとは中々言い出しにくい事らしい。
「あのー、な、吉田?」
「うん?」
 やっぱり自分に用があったんだ、と吉田は訊く体勢を整える。
「その、声って、何がった?」
「ああ、ほら。昨日凄く寒かったから」
 秋本と同じく、自分の体調を気にしていてくれたんだな、と吉田は答える。しかし、返答を得た割には、2人の態度はあまり優れない。
「ホントか?」
「へ?」
 一体何を疑われているのかすら判らなく、吉田は擦れた声できょとんとした。
「いや、だからな、ほら」
「うん、お前、佐藤と付き合ってるんだろ?」
 何でここでその事実が出てくるのか。しかし、違わないのだから吉田は律儀に「うん……」と頷いてやる。
「付き合ってるって事はそういう……―――――ッ!?」
 突然、教室内にとてつもない冷気が雪崩れ込んだ。ただ単に窓を全開したからという寒さではない。もっと、体を通り越して心の底から冷えさせるような、そんな強烈な悪寒だ。そして、吉田にはこの悪寒に心当たり(?)がある。
「佐藤!!止めろよ、ただえさえ寒いだから――――――!!!」
 冷気の特に強い方を向けば、案の定そこには佐藤が居た。
 朝っぱらからいきなり不機嫌そうである。まぁ、にこやかな顔でこんな冷気を発せられた方が怖いのだが。
 どうも吉田と付き合っている事を明かしてから、佐藤は素を出す事をあまり惜しまないようになった。それはそれで良い事だと思いたかったのだが、こういうマイナス面もあるのであった。今までは水面下で行っていた牽制や威嚇が表に出てあからさまになる。
 吉田に話しかけていた2人はドア付近に立っている佐藤の表情を目の当たりにし、そそくさとその場から立ち去った。吉田はまだその事実には気づかず、2人と立ち替わるように傍に来た佐藤に文句を言う。
「あぁ、ごめんごめん……」
 一応はそう言っているが、謝罪の気持ちはさっぱり見えないし、何より佐藤の顔は立ち去った例の2人に向けられたままだ。
 俺、喉が痛いのに、と腕をさすりながらぶつぶつと文句を言う。
「あしらい方とか、覚えるべきなのかな」
「ん?」
 まるで独り言のような佐藤の声だったが、吉田は自分に向けられているような気がした。こういう予感は、割とよく当たるのだ。
「でもなー、このままのちょっと馬鹿な吉田のままでいて欲しいというか、言った所で出来るのかと言うか……」
「誰が馬鹿だっ!ゲホッ!ゲホゲホッ!!」
 何を言われたのかは判らないが、馬鹿にされたのは判った。すかさず抗議してみるが、痛めた喉では一声言い返すのが精一杯だ。せき込む吉田の背中を、佐藤が優しく撫でる。
「まぁ、今日は大人しくしてろよ」
「……そのつもりだよ」
 佐藤が変な事を言わなければ、だけど。
 そう皮肉を込めて睨みつけてみるが、佐藤は涼しそうな顔をしたままだ。
 そのまま、朝礼の開始のチャイムが鳴り、佐藤も自分の席へと戻って行った。


「吉田!喉を傷めたって!?」
「……………」
 昼休み、トイレ帰りに廊下を歩いていたら自分を探し回っていたらしき西田に吉田は見つかってしまった。
 しかし、そんな事、一体誰に聞いたのか。というか、何故西田に言ってしまったのか。心配だと全身で語る西田を目の前にして、吉田には「面倒だな」という感想しか浮かんで来ない。しかも最近はに東も居て、2重というか2倍というか2乗して面倒くさい。
「あー、でも、ほっとけば治ると思うし」
 喉はヒリヒリするが、それだけだ。はっきり言って、病気とも呼べないだろう。
 けれど、そういう吉田を、西田は痛ましい目でもって見つめている。え、何だよその目、と吉田は若干引く。
「吉田……佐藤を庇ってなんて健気な……」
「え?なんでそこで佐藤??」
 確かに、今まで自分の身に降りかかった事で佐藤が原因ではと疑うような事もあったが、この件に関しては佐藤は潔白だと思う。さすがの佐藤も天候や気温までは操作できまい。……と、思う。
 吉田が不思議そうに、というか怪訝に首を傾けると、何故か西田が顔を赤らめた。さっきから西田の行動言動の全てが謎だ。
「だ、だから……ほら、何と言うか……」
 しかし西田のこの態度には既視感があった。というか、朝自分に何か言おうとした男子達とそっくりである。だから何なんだよ、と朝の分も含めていい加減焦れてきた。
 けれど、朝の男子達とは違って、西田は言いかけた事を最後まで続ける誠意はあったし、何よりこの場には佐藤は居なかった。
「その声、佐藤のせいだろ?」
「は?―――、―――――――、………………!!!!」
 また一瞬呆けた吉田だが、その続いた西田の台詞に、自分の喉の調子も忘れ、吉田は思い切り叫んでいた。顔を真っ赤にして。
「そんな訳、あるかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――ッッッッ!!!!!!!!」
 その絶叫は校舎をちょっと揺らした。


「人の噂って怖いよなぁ。俺たちまだ最後までしてないってのにさ」
「~~~~~~ッッ!ゲホッ!ゲホガホゴフッ!!!」
「ほらほら、無理しない」
「……!!…………!!!」
 元から具合の良くない吉田の喉は、西田の前で上げた絶叫で完全に潰れてしまった。今日はもう、使い物にならないだろう。
 声が出ない代わりに、吉田は涙目になって佐藤をべしべしと叩く。誰のせいだと言いたい気持ちはあるが、多分佐藤のせいではないのだろう。
 まぁ、要するにアレだ。
 西田と一部の男子は、吉田の声が擦れているのは昨日、佐藤と激しくしたのが原因だったと思ったらしい。
 勿論そんな事実は無い。全くない。これっぽっちも無い。
 無いっていうのに、どうしてそんな勘違いが起きるんだよ!!!!
 ぷんすかと怒る事でこの冬の寒さが気にはならないが、喉は痛いままだ。
 やっぱり今日、休めば良かった!!咽こんだ事もあり、涙目の吉田である。
「ホント、酷いよな」
 腕を組み、何やらしたり顔で佐藤が呟く。こういう顔を浮かべている時は、大抵ろくな事を言わないものなのだが。
「それじゃあ、俺が吉田の声が枯れるまで責め立てる酷い奴みたいじゃないか」
「………………」
 どう返せば良いか判らない台詞だったから、吉田は沈黙しておく事にした。
 最後まではした事は無い。
 した事は無いが、その一歩前くらいの事ならすでにしている。
 その時の佐藤は、確かにちょっと意地の悪い事を言うけれど、でも基本的にはいつだって吉田を優先して行っているような気がする。
 佐藤の手は、優しい。
 まぁ、手だけじゃないけれど――
「……………」
 何やら、頭がぽーっとしてきた。熱が出てきたんじゃないだろうな、と吉田は自分の体に呼びかける。
「ほら、はい、アーン」
「?」
 やおら、吉田に向けて佐藤が何か突き出す。指に詰まんでいるのは、透明な琥珀色をした何か。
「のど飴。さっき購買で買ってきたから」
 のど飴、と聞いて吉田はマスクをずり下げてぱか、と口を開けた。その中にちょん、と入れる佐藤。
 口で転がすとはちみつ味なのが解った。のど飴だから痛めた喉がスースーする。
「早く治せよ」
 吉田の声が聴けないとちょっとつまらないからな。そう言って、吉田の頭を撫でる。
「…………」
 何か言いたいような、でも相応しい言葉が見つからないような。
 ころころと口の中で飴が転がる。
 言葉もこれくらい簡単に転がってくれたらなぁ、と口の中を優しい甘さで満たしながら、吉田はそんな事を思う。


 佐藤のくれたのど飴が効いたのか、翌日も吉田は登校する事が出来た。
 まだ喉は本調子ではないけれど、喋るくらいなら問題は無い。
「佐藤、おはよ!」
「おはよう、吉田。だいぶ喉良くなったな」
「うん」
 のど飴サンキューな、とあの後口に放り込まれた1つだけではなく、残りも全部貰ったのだ。
「明日、また寒くなりそうだから気をつけろよ」
「えっ、マジかー」
 それは確かに気を付けなければ。筆記具を机の中にしまいながら、吉田は明日に向けて意識を備える。
「まぁ、また変な噂が立ったら俺がきちんと対処しておくから。そこは安心しろよ」
「安心、て……」
 そもそもそんな妙な噂、立たない方が良いのだが。
 そういえば、昨日自分に向けてまさにそんな誤解をしてきた男子2名の姿が今の所見かけない。
 朝出るの遅かったのかな。そう思っていた時、まさにギリギリのタイミングで2人が雪崩れ込む。
 そして彼らは吉田を見るなり、「ヒエェ~!」と声にならない悲鳴を上げて、慌てて自分の席へと逃げるように駆け込んだ。
 どことなく山中を髣髴させる。
 そして、ついさっき佐藤の言った事。きちんと「対処」しておくと。
 佐藤!まさか!と昨日とはまた違う意味で冷えた吉田だった。



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