劇的に顔つき(と、体型)が変わったからと言って、これまでの関係をがらりと変えて自分の姉とは和気藹々という空気ではまるでなかった。
むしろ佐藤としてはその方がうんとありがたい。というか、だからこそ高校進学の際に同居を申し出る事も、それを受け入れられる事も出来たのだろうけども。姉の方も家事が出来る人間が居てくれたら便利だという打算はあったのだろう。若干家政婦みたいに使われる事もあるが、そんな事はこうして吉田と二人きりで過ごせる時間の対価と思えば、むしろ安いものだ。
今年の姉は大晦日から三が日までかけて友達と旅行に行っている。当然とつけるべきか、その行先は海外だ。
なので、今年の大みそかは吉田と一緒に過ごせる事になった。しかも、正月にかけて、ずっと。
そこで泊まりなのかと言うと、やや微妙になるのだけども。
惰性でテレビに流してた毎年国民放送で流される歌合戦も、最後の歌手になった。そろそろ頃合いだと、佐藤は自分の斜め下に手を伸ばす。そこには、すっかり眠りこけた吉田が居た。
軽く口を開けて、くかー、という呑気な寝息まで聞こえてくる。このまま寝かせつけてやりたいくらいの安らかな寝顔だが、今日のこの予定は随分前から練っていたものだから、そっちを実行させたい。その為には、吉田に目覚めて貰わないと。
「吉田、起きて。ほら」
「ん~~~~~………」
軽く体を揺すってみるが、逃げるように寝返りを打っただけでとても起きる気配がない。
やれやれ、と嘆息し、今度は佐藤は身を屈め、横に寝ころんだ為に横に向いている吉田の耳に直接声を吹き込んだ。
「……起きないと今度教室でキスする」
「んにぇげえええええぇぇぇぇッッ!!!!!……… って、あれ??」
念を込めた甲斐があったか、吉田はすさまじい叫びと共に文字通り飛び起きた。しかしその後の反応を見る辺り、状況をちゃんと把握しているとは言い難いようだ。それならばあの呟きはいっそ夢の中という事にして、今日の予定に移ろう。
「あ、うん。……ふわ~、たっぷり寝たな……」
最後に大あくびをし、んーっと背筋を伸ばす吉田。その横で今年の紅白の勝敗がついたらしいが、そんなものはすっかりBGMと化して頭にはちっとも入ってこなかった。
「初詣行って、初日の出も見るんだろ?そろそろ出かけよう」
「うん」
そして2人は立ち上がり、外に出る為の支度を始めた。
「吉田、ちょっと待って」
身支度を整え、玄関に向かう吉田を佐藤は声を掛けて引き留める。立ち止まったのを丁度いいと、佐藤はその首にマフラーを掛けた。
「今夜から冷え込み凄いらしいからさ」
あとこれ、と耳当てまで被せる。吉田の両耳にすぽっと嵌った。
「ちょっとやり過ぎなんじゃないか?」
すっかり重装備になった吉田が苦言を漏らすように言う。実際、この室内ではちょっと暑く感じられる程なのだ。まぁ、外は佐藤の言う通り、寒いのかもしれないけども。
「風邪になるよりマシだろ」
言いながら、自分もマフラーを巻く。そんな些細な姿すら、佐藤はいちいち決まっている。本人曰くコーディネイトに特に拘りは無いみたいだけど、着ているものはまるで佐藤の為に誂えたかのように似合っている。これという目立った特徴がある訳でもなく、全体的に整った顔立ちの佐藤だからこそだろう。
全身が見える鏡の前に立ち、改めて自分の姿を眺める。そりゃ、佐藤はコートだからいいかもしれないけど、俺はダウンジャケットだし、それなのにマフラーなんて。何かもう首から下全部膨らんでるみたいじゃん。なんて、色々思う事はあるものの、この先風邪になっても詰まらない事ばかりなので、大人しく従う事にした。
外に出て、吉田はまずうっと息をつめた。冷たい。空気が冷たくて、それを吸い込んだ喉から胃にかけて冷気が飛び込んできたような錯覚に見舞われた。佐藤が巻いてくれたマフラーが無かったら、咽ていたかもしれない。
「一応、雪は降らない予報なんだけどな」
そう言って、佐藤は軽く顔を顰めてマフラーを引き上げた。あ、佐藤も寒いんだ、と思ったらちょっと胸の内がほんわかとした。
「雪かー……雪が降ったらちょっと紛れるんだけど」
どこまでも真っ暗な空を見上げて吉田が呟く。可笑しな話とは思うが、実感的には同じ気温でも雪が降っている方が寒くないと感じる。そこはやはり、テンションだとか、そういった事の関係なのだと思う。
「まだ今年は佐藤と雪見てないもんな」
「………ほら、行くぞ」
「あっ、待てよー!」
だから雪が降って欲しい。好きという言葉はいつまで経っても出てこない癖に、そんな事をさらりと言う吉田に佐藤はどう返していいか判らず、まるで無かったことのようにふるまう事しか出来なかった。頬が熱く感じるのも、気のせいにして。
日の出を拝みたいだけならば、もう少し出発時間を遅らせるべきだろうが、今回の場合初詣も含まれている。それだって日の出を見た後でも良いのかもしれないが、そこは除夜の鐘が鳴っている内に、という2人ともがどちらともなく根付いている価値観の為にこの時間から出かける事に相成った。
「結構人多いな」
「そうだね」
もはや真夜中と呼ぶに値する時間ではあるが、ちらほらと人の姿が見える。それもすれ違う者より、同じ方向へと歩いている方が多かった。やはり皆、除夜の鐘をきいて年越しがしたいのだろう。
「なー、佐藤は神様に何祈る?」
何か喋っていないと落ち着かないのか、普段は出歩かない夜間の外出に気が昂ぶっているのか。その両方もあってか、何だか今の吉田は結構弁舌な印象を受けた。部屋に招いた時とか、会話が無くてもお互い読書を進めて数十分経っている事もざらだから、吉田は特に話好きというか、おしゃべりでもないのだと思う。
「そうだなぁ……吉田が赤点取りませんように、とかな?」
にやり、としたり顔で吉田の顔を見ながら言えば、吉田は顔を赤くする。羞恥と怒りが混在した色だ。
「そういうのは神様に祈るもんじゃないだろ!!」
御尤もな吉田の意見だが、実はサンタに向けて願っていたとは佐藤の知らない事実である。
「そうだなー、吉田に頑張ってもらうしかなんだよな」
「う……が、頑張ってる……」
と、思う。寒さとは別の意味で手袋を着けた手をもじもじと弄る。心境がそのまま手の仕草へと現れている吉田は、全く嘘がつけない性格だ。いやもはや、性質と言ってよいだろう。
テスト前に佐藤に勉強を見て貰っている割にはあまり芳しくない成果に、吉田の表情も曇る。俯いた吉田の頭に、佐藤の手がぽんと乗った。
「うん、知ってる」
「…………」
「吉田が頑張ってるのは、俺がちゃーんと知ってるからな」
わしゃわしゃ、と軽くかき混ぜると少し癖の強い吉田の髪が手にくすぐったい。
「だからまぁ、多少結果に反映しなくても落ち込むなって」
「別に落ち込んでなんか……」
「一緒に卒業しような、吉田v」
「……えっ、そこまで!?」
最後に多少吉田の危機感を煽る佐藤だった。実際はそこまで酷くは無いのだが、油断は禁物と言った所である。
「あ、着いたぞ」
こっちこっち、と自分の学力を省みている吉田の腕を軽く引き、一緒に神社の中へと入って行った。
ここでは、除夜の鐘は先着何人かまでは一般人にもつかせて貰えるらしい。その為の列がすでに出来ていて、もはや満員のようだ。もうすぐ日付を超える事もあり、皆どことなくそわそわとした雰囲気を纏っている。
「吉田、ついてみたかった?」
「ん? ううん、別に。あっちで甘酒だってさー」
どうやら本当に興味が無いようで、吉田は神社の中を勝手知ったるという感じで歩き出す。目的の場所にはもうもうと湯気が出ているから、迷う事も無い。
「あー……俺はいいかな」
ほくほくとした顔で甘酒を受け取った吉田の横、佐藤は一歩引いてうっかり渡されないように予防した。
「嫌いか?」
「うーん、なんかこう、そのつぶつぶした感触とか……」
佐藤が甘酒を好まない理由を語っている最中、カウントダウンが始まった。5から始まったそれは実質5秒だというのに、なぜかやけに長く感じられた。話している最中だったからか、そのまま何となく吉田と見つめ合ったままだったかもしれない。吉田の方も、何となく目を逸らすタイミングがつかないのか、佐藤の顔をじっと見たままだ。
3,4.と数が減っていく。2、と周りが叫んだ時、不意に吉田がニカッとした笑みを作った。見つめ合ったままが照れくさくなったかもしれない。
ここが屋外でなければ、カウントがゼロになった時抱きしめてキスが出来るんだけどな。さすがにこんなに人が密集している場所ではおいそれとは出来ない。見せつけるのは良いが、見られるのは嫌だ。それはとても、大切な事だから。
だからせめてと、甘酒を持っていない方の吉田の手をそっと握りしめた。もちろん自分の手が握られた事は、たとえ手袋越しでも伝わるものだ。うひゃ、と繋がれた事に吉田は目を丸くした。皆が除夜の鐘か、はたまたこの時の為に設置された櫓に向かう中、佐藤は身を屈めて吉田に直接声を吹き込んだ。
「あけましておめでとう」
わぁっと新しい年を迎えた事に沸き立つ周囲の完成に掻き消える事無く、そのやや低めの声は吉田の中へしっかりと届いた。
「―――ッッ!!」
この時、どちらかでも手が空いていたら、吉田はとっさに声を吹き込まれた方の耳に手をやっていただろう。けれど、現実には片方には甘酒、もう片方は佐藤に優しく握られたままだ。まさか計算してるんじゃないだろうな、と思わず吉田は佐藤を疑う。けれど半ば睨むように見上げてみても、そこにあるのはただただ優しそうで、そしてとても嬉しそうな笑みを浮かべた佐藤の顔だけだった。悪魔的な知恵を披露してくれる佐藤だけど、こんなにも無垢に笑ってみせたりもする。
こんな顔、自分以外の前ではしないで欲しいなぁ、なんて。
折角煩悩を打ち払ってくれる除夜の鐘だというのに、その音を聴きながらそんな事をつい、思ってしまった。
そこから電車に乗り、移動する事3駅分。駅から降りて目的の場所へと向かう。高台である此処は、きっと朝日がよく見えるとまだ夜の段階でも十分期待出来る場所だった。
置かれてあったベンチに腰掛け、佐藤はショルダーバッグから水筒を取り出した。
「今日はブラックで良いよな?」
「う、うん」
注ぐ傍からふわりと漂うのはコーヒーの豊潤な香りだ。普段は牛乳を入れて貰っている吉田なのだが、この時ばかりは目的が目的な為、ブラックである。飲んで腹が膨れて、眠たくなってしまっては差し支える。
ふうふう、と外気が低いせいで余計に湯気が沸き立ち、熱く見えるコーヒーに息を吹きかけそろそろと口つける。
(うっ、に、苦い……)
牛乳なしだから、その苦みを緩和させてくれるものは何もなかった。砂糖が入れられていて、甘さだけは吉田の好みであったけども、砂糖を入れたからと言って苦みが薄れる訳でもないのだ。
けれどこの苦みが目を冴えさせてくれるのだ、と思えば割と飲み干す事が出来た。食べ物――これは飲み物だけど――は素材の他にもシチュエーションも味に深く関わっていると思う。
「なー、こんな場所どうやって見つけたんだ?」
初日の出を拝む場所に関し、佐藤は自分にまかせて、とだけ告げて実際はどこかというのはサプライズだと言って教えてはくれなかった。佐藤の事だから良い場所を見つけてくれると思ってはいたが、こうやって座って落ち着けるベンチもあるという好条件なのに他に人が居ない、つまりは穴場をどうやって知りえたのか少し気になった。
「ああ、パソコン上で地図を見て、この辺りはいいんじゃないかなって適当に辺りを付けたんだ。で、実際に下見に来てみたら良さそうだったから」
自分達以外に誰も居ないのは嬉しい誤算だったな、と佐藤はちょっと満足そうに言う。日の出が見えそうで見えないという場所も多いらしいが、佐藤がそんな凡ミスを犯すとは思えない。
「へ~……佐藤、凄いな」
素直に感嘆してみせると、そうかな、と割とそっけない佐藤の返事だった。でも、吉田には何となく判る。今のは照れ臭いから、言葉が少なくなったのだ。そういう所がホント可愛いよな、とコーヒーをちびちびと啜り、吉田はへへ、と顔を綻ばせる。
年を越した神社の他にもいくつか初詣を梯子し、時間をつぶしながら最終目的地であるここへとやって来た。日の出までにはあと30分くらいあるらしい。
もうすでに正月ではあるのだが、やはり日付が変わっただけの深夜より、太陽が上がった朝の方に新しい1日が来た、という実感が沸いてくる。
「あっ、」
空の色の変化に気づき、吉田が声を上げる。夜空の闇が見つめる空の端からすぅっと失せて行く。まだ太陽自体は見れないが、明らかにそれが近づいているというサインである。
「佐藤、佐藤! もうすぐだな!」
「ああ」
はしゃぐ吉田が可愛い。だから佐藤は、初日の出ではなくて吉田の方こそをじっと眺めていた。うっわー!という吉田が上げたのだから、日の出が訪れたのだろう。夜の闇に包まれていた吉田が、徐々に明るい陽に照らされていく。めったに見えるようなものじゃないその光景は、ずっと胸に留めて置きたいと感じられた。
テンションの上がった吉田はベンチから立ち上がり、柵に手を置いて身を乗り出す。夜から朝へ。その変化は僅かに終わり、数分前までは夜の帳に落ちいていたとは思えない街並みに吉田はまたも感嘆の声を上げた。
仮眠はたっぷり取ったとはいえ、実質は徹夜に近く、睡魔と多少は戦う事になったが、それを押してでも見に来た甲斐があったというものだ。
そのまま街を眺めていると、佐藤も同じくベンチから立ち上がり、吉田の横へと赴いていた。そういえば、と吉田は言い忘れていた言葉を思い出す。
「佐藤、あけましておめでとう!」
日付を越えた直後、佐藤からは言われたのだが吉田からは返さなかった。ちょっと、普通に返せる状況でもなかったというか。主に心境的に。去年も一杯世話になったけど、今年もよろしく!という意味を込めて言う。
それを優しい眼差しで受けた佐藤は、年越しした神社に居た時と同じく身を屈めた。また耳に直接吹き込むのかなぁ、と身構えていた所。
佐藤の顔は耳を素通りし、さっきは堪えたキスをここでは実行した。挨拶には律儀な吉田の事だから、きっと自分にも新年の挨拶をするだろうと思っていたのだ。そして、タイミング的には初日の出を拝んだ時だろうと。
居たとしてもさっき以上の人込みではないのだから、数人が居た程度ならばしてしまおうと、朝日を待つ間にそんな事を決めていたとは、吉田は夢にも思っていなかっただろう。
触れるだけのキスにしておいたが、初心な吉田にはそれだけで衝撃的だ。キスから離れた後、佐藤の目に映ったのはぽかんとした吉田の顔。それが徐々に赤味を帯びて行くのは、さっき見たばかりの夜明けを髣髴させた。色的には、むしろ夕暮れの方があっているのかもしれないけど。
真っ赤になった吉田は口を何度か開きかけ、結局は何も言わずにふいっと再び視線を目下の街並みへと戻してしまっていた。てっきりまた、「外でこんな事するな!」と怒鳴られると思っていた佐藤には予想外というか、拍子抜けだ。表情から察するに、本気で怒っているとも違うようで、だから思わずつい「いいのか?」なんて訊いてしまった。これでは吉田が怒ると判ってしているという暴露みたいなものだが、その辺は吉田だってさすがにもう感づいているだろう。
佐藤の問いに対し、吉田は。
「うー……まぁ、人も居ないし……正月だし……今日だけ!!」
今だけだからな!とそこを強調した。
「……そうか。て事は来年の正月も外でキスして言い訳だ」
うんうん、なんてわざとらしくしたり顔の佐藤。
「そうじゃないだろ!てか、人が居たらダメだからなッ!!」
そう反論する吉田は、つまり来年の今日も佐藤と一緒だと前提している。気づかない吉田が、面白くて愛しかった。
一年の計はこの日にあるらしいけど、いつも通りの幕開けに近かった。
でも、それこそが佐藤にとっては最上だ。
吉田と過ごす何でもない日こそ、それは紛れもなく佐藤の思う、この上ない幸せな事なのだから。
帰りの電車の中で、日の出を無事拝めたという緊張の解放からか、吉田の眠気がどっとなって襲ってきたようだ。さっきから、しきりにあくびをしている。
「家に戻ったらちょっと寝るか」
「んー、そうする……」
うにゃむにゃ、と吉田は寝言みたいな不明瞭な発音で言った。
そして、数時間前まで寝ていた場所に吉田は再び横たわっている。あのまま、電車内で寝てしまわないかと思ったが、帰るくらいの気力はあったようだ。本当に寝てしまったら堂々と運んでやったのに、と佐藤はやや残念である。
仮眠を取る吉田にベッドを勧めたのだが、本気で寝入ったら夜になってしまう、という吉田の意向によりカーペットの上でごろ寝である。それでも、ブランケットはかけてやった。横になれば吉田はすぐに寝てしまった。寝息だけが佐藤の耳を擽る。
昨日今日と、日付をまたいで吉田と一緒に過ごした訳ではあるが、その時は外出していたからか、どうも泊まったという感覚は薄い。というか、一緒になって寝ていないから余計にそう思うのだと感じる。
(今度は普通の日に泊まりに来て欲しいよなぁ)
もちろんこういう特別な催しの為に来てもらうのも大歓迎なのだけども。
ここで佐藤も一緒になって寝てしまえば良いのかもしれなが、つい寝顔を見るのに夢中になってしまい、腹が減ったと吉田が起き上がる所まで見守り続けてしまった。
その引き換えとばかりに、佐藤の携帯には寝顔の画像がたっぷり記録されているのを、吉田は勿論知らないのだった。
<END>