「あっ、」
 という声を上げたのが誰かまでは判らないが、何故そんな声を上げたのかは、その方を向いてみれば一目瞭然だった。畳の上に座り込んだ秋本は、ごそごそと丁寧に包装紙を剥がしているのである。
「何だ、秋本。お土産食べてんのか?」
 おそらくは、その男子こそ先ほどの声を上げた人物だろう。立った姿勢で秋本を覗き込み、揶揄するように言う、それに対し秋本はううん、と首を振った。
「これはお土産じゃなくて、おやつ用に買ったの。皆も食べる?」
 まぁ、確かに、秋本の食欲を満たしてくれる分量のおやつとなると持ち込み分だけではとても賄えないだろう。しかしおやつを現地調達とは、その発想は無かった。
 秋本が差し出してきたのは、京都のとても代表的な銘菓おたべである。三角に折りたたまれた菓子がびっちりと敷き詰められている。
「んー、じゃあ1つ貰おうかな」
 一人が手を付けると、じゃぁ俺も、と秋本の元に人が集まる。全員ではないのは、やはりおたべからただよく独特のニッキ臭が苦手、という人もいるからだろう。あるいはそのまま甘いものが得意ではないとか。
 吉田はどちらかと言えば甘いものを嗜む方なので、どれどれ、と試すようなつもりでおたべを1つ手に取った。これが初めて食べるという訳でもないけれど、最後に口にしたのがいつだったか、ちょっと思い出せないくらいには久しぶりだ。身近の人物が京都土産で買ってくる他、口にする機会は無いと思うし。
 あむあむ、と口にすればそういえばこんな味だったな、と古い記憶が蘇る。昔ほどニッキの香りもキツくないような気がして、やはりどこかしら時代や風潮に合わせて変えている所はあるのだろう。
「あ、佐藤も食べる?」
「っ!?」
 秋本の声に吉田が小さく飛び上がる。ぱっと斜め後ろを見てみれば、いつの間にか佐藤がそこに居た。びっくりして振り向いた吉田が見たのは「あ、バレちゃった」というような面白がった顔をした佐藤だった。居た位置を思えば、どいやら佐藤はおたべを食べている吉田を眺めていたらしい。そんな所見て何が楽しいんだ、と吉田は思うが。
 佐藤は吉田とは違って、甘いものはどちらかと言えば苦手な部類に入るみたいな事を言っていた。しかし調理実習のマドレーヌを受け取るのを拒む口実だったかもしれない。バレンタインにあげたチョコはちゃんと食べてくれていた。
 どうするんだろ、と何となく眺めていた所、佐藤は秋本の差し出したおたべに手を伸ばした。食べるんだ、とやや意外な面持ちでその様子を見つめる。
 佐藤はすぐには食べずに、きっちり三角に折られたおたべにしげしげと視線を向けていた。もしかすると、初めて食べるのかもしれない。
 観察に気が済んだか、角の部分を口に含む。咀嚼する時、吉田には馴染みの、あの「もげもげ」とした表情になった。ヘンな顔ー、と皆の居る手前、声には出さずに心の中でひっそり呟く。
「あはは、佐藤、ニッキ苦手?」
 その表情の原因を、秋本は好き嫌いの大きく別れるニッキにあると思ったらしい。
「いや、うーん……なるほど、」
 秋本への返事だったのか何だったのか、佐藤は何やら納得してた。味の分析でもしていたんだろうか。
「吉田」
「ん、何?――むぐっ!」
 呼ばれ、返事をしたその口に佐藤の食べかけのおたべが突っ込まれた。すでに半分くらいになっていたとはいえ、いきなり口に入れられて吉田は目を白黒させた。
「やっぱり、俺にはちょっと甘すぎたかな」
「………っ、っ、だったら、そう言えよ!」
 もぐもぐごくん!と飲み下した吉田は佐藤に突っ込む。秋本から貰ったものなので、妙な仕込みが無いのが救いだ。しかしいきなり入れるものだから、口の周りに粉がついた。
 袖で拭うとその粉がつくような気がして、吉田は下を伸ばして舐めとる。けれど、舌の届く範囲外にもついていて、吉田はそれでも何とか舐めてしまおうと舌を伸ばす。
 そうしていたら、佐藤の親指がその箇所を拭う。着いた粉を取り除く為、ぐいっとやや力強く親指を滑らしていたが、その手つきはとても優しい。だから吉田もそのままにしてしまったのだが、佐藤の背後やら自分の背後から判じる視線の数々にハッとなった。もしや、今の自分は随分と恥ずかしい醜態を晒したのではないか!?
「何つーか……お前らってちゃんと付き合ってんだなぁ。いや疑ってた訳じゃないけど」
 口火を切ったその意見に、他の男子も賛同を示すようにうんうん、と頷く。
「すっごい自然な流れで触ってたもんなー」
「前から仲良いと思ってたけど、改めてそういう目で見ると確かに恋人同士って感じするわ」
「あーあ、俺も彼女とあんな風にイチャつきたい」
「い、いいい、い、い、イチャついてなんかない!!!!」
 ふぅ、とため息と共に吐き出されたセリフに猛烈に反論を上げてみたが、あいにく誰も聞く耳を持っていないようだった。秋本と牧村に至っては、初日に佐藤の腰に手を回す吉田の姿を見てしまっているため、ますます説得力が感じられない。
 そんなんじゃないのにー!と悶える吉田の横、自分たちの関係が認知されてその上で羨望も集めているというこの状況にとても悦に入っていた。これだけ上機嫌な所を晒すのはこれまでの佐藤からしてみれば結構珍しい事でもあるが、それを気づける唯一だと言っていい吉田は、ある種それどころじゃなかった。
 昨日は全クラスの女子が佐藤の居るこの部屋に訪れてきたが、連日連夜だと佐藤くんも疲れちゃうでしょ、という事で今日は来ない方向で女子の間で取り決められたらしい。やる時はとことんやるが、締める所もきっちし締める女子達だった。そうでなければ学級どころか学校ごと崩壊している。
 どうするトランプでもするかー?とそんな声が上がった時。
 トントン、と控えめな音がした。襖をノックした音だ。前述したように、女子は来ない筈だから、来るとしたら男子である。誰が来たんだろう、と皆の視線が襖に集まる。
 ススス、とスライドした襖から現れたのは、西田だった。風呂上りだからだろうか。普段は後ろに撫で付けられている前髪が降りている。そしてやや頬に赤みがさしているが、これは風呂上りとは関係は無さそうだ。
「あ、吉田居るか?その、菓子を――」
 がさり、とコンビニで買ったと思われる袋が小さな音を立てる。西田は吉田に、菓子を差し入れに、というか贈りに来たようだ。
 途端、吉田のすぐ傍で控えている佐藤から、ぶわりと冷気のような熱気のような、とにかく鋭いオーラが発せられた。至近距離でそれを感じた吉田は「ヒィィィィ!!?」と声にならない悲鳴を上げる。その次に近くにいた牧村と秋本も感じたのか、互いに身を寄せてガクガクと震えていた。
「西田、お前――」
 ゆらり、と佐藤が立ち上がる。まさかこんな所で喧嘩とかするんじゃないだろうな、と慌てて吉田は佐藤を止めに入ろうとするが――
「――ダメだ西田! その菓子は持って帰れ!!」
「おまえと吉田を会わせる訳にはいかない!」
「そうだそうだー!」
 この場に居る男子が、まるでスポーツのディフェンスみたいに吉田と西田の間に割って入って人垣を作る。これには佐藤も意表を突かれたようで、ややポカンと目を見開いていた。そして一番驚愕を浮かべているのは西田である。
「なっ、なんで皆して邪魔をするんだ!?」
 それに関しては吉田も佐藤も同意見だ。するとすぐさま、誰かが声を上げる。
「なんでも何も、お前が横入りして佐藤と吉田の仲が悪くなったらこっちも困るんだよ!」
「佐藤がフリーになったらいよいよ全女子が佐藤の所に押しかけるだろうし!」
「なんだかんだで吉田と付き合ってるからってと付き合ってる事実が歯止めをかけてんのは確かだからな!」
「だから吉田に手を出すのは止めろ!少なくとも卒業するまでは止めろ!!」
「………………」
 見事なまでの、私利私欲に基づいた行動と言動であった。吉田も無言で眺めるしかない。
「いやー。皆にこれ程応援して貰って、幸せだなー」
 そしてそれを判った上でのこの発言である。吉田は軽い眩暈や頭痛がしてきた。
「クッ……! ここは退くしかないようだな……!!」
 心なしか、西田の台詞がちょいちょい悪役みたいに聞こえる。今はさらばだ吉田!と諦める気はあまりなさそうな言葉を捨て台詞に、西田は去って行った。もちろん、きちんと閉めて。
「――よし、西田は撃退したぞ」
 一仕事終えた、という風体で額を拳で拭う。
「これで心置きなくイチャイチャしてくれ!」
「……………」
 さらに別の男子から親指突き立てて言われ、吉田はさっきよりも深い無言に見舞われた。
「いやー、俺、ここの学校に来て本当に良かったな♪」
「……俺はなんだか頭痛がしてきた……」
 いつの間にやらちゃっかり肩に手を回している佐藤に、吉田は力ない声で呟いた。


 小学校の頃は自主的に欠席し、中学ではイギリスに渡っていた。だから、高校でのこの修学旅行が佐藤にとって最初で最後という事になる。そういう事情もあり、吉田としてもこの修学旅行をより良いものにしてやりたいと思う。思うのであるが、具体的にどうすればいいのかはさっぱりだった。とりあえず「普通の」修学旅行を目指してはいるのだが、まず第一に佐藤が普通とは言い難い。
 まぁ、でも、とりあえずは楽しそうには見える。一緒に団子を食べた時も、映画村を見て回った時も。今もさっき西田の乱入未遂で頓挫したトランプが改めて実地され、クラスの男子と一緒に七並べに興じている。もちろん、そのに吉田も加わっているのだが。
「……おい、佐藤」
「ん、何?」
 これまた当然のように隣に座る佐藤に、堪えきれなくなった吉田はじろりと睨みつける。
「お前、絶対わざとだろ!俺ばっかりパス出してんじゃん!」
 そう、何故だか吉田の手札へと続くカードが卓上――というか畳の上に出されないのだ。おかげで、吉田はすでにパス2がついている。ローカルルールはどこにでも存在しうるが、この場では3回でアウトという事になっている。吉田はすでに崖っぷちなのだ。というか、吉田だけこんなにピンチなのである。そう、まるで誰かが狙いすましているかのように。
 そんな事をするのも出来るのも、吉田の横に平然と座るこの男である。おそらく、何かの隙に吉田の手持ちのカードを盗み見たに違いない。
「え~、偶然だろ~?」
 白々しくも佐藤はとても楽しそうだ。鼻歌でも歌いだしかねないくらいに。
「おい、吉田の番だぞ」
 吉田が佐藤に噛みついている間に、またも順が来てしまったらしい。けれど、やはり佐藤がせき止めてりうので、吉田はこう言うしかない。
「パス!!!!! あーもう、負けたー!」
 カードを下に置き、いかにも悔しそうに言う。何せこの七ならべでは、スリルを上げるために負けたらおやつを1つ差し出さなければならないのだ。とは言っても、そこで広げるのだから吉田も一緒に食べる訳だけど。
 吉田の差し出したポテトチップスを啄みながら、次は何のゲームしようかと話し合う。
「あ、俺ちょっとジュース買ってくる」
 塩分の強いポテトチップスを食べたからか、気づけばペットボトルは空になっていた。これまらまだ続く夜の時間を思うと、水分なしはちょっと辛い。
「一緒に行くか?」
 ポテトチップスを一枚一枚もげもげと食べていた佐藤は、立ち上がった吉田にそう声を掛けた。
「え、何で?」
 きょとんとして返す吉田に、佐藤は少し苛立った顔を浮かべた。が、それは吉田に対してではなく。
「また西田が外をうろちょろして遭遇しないとも限らないし」
「……クマじゃないんだから」
 そういう言い方どうかと思う、と吉田が言うと佐藤は鼻を鳴らす。
「クマの方がまだマシだ。冬眠してくれるんだから」
「…………」
 判っているつもりだが、こういった言動を見ては佐藤は本当に西田が嫌いなのだなぁ、と思い知る。しかもその原因、というか理由は吉田にあるので、張本人として色々気まずいというか、居た堪れないというか。
「さっきの今で西田も早々出歩いてないだろうし、見かけてもダッシュで逃げるから大丈夫だって」
 じゃあ行ってくる、と佐藤に一声かけて、財布を握って吉田は部屋を出た。


 自販機はどこのフロアにもあるというものではなかったが、幸い吉田のクラスが泊まる階には設置されていた。ジュースを買いたかったけど、歯を磨いた後なのでお茶にしておく。
 受け取り口から取り出し、さあ部屋に戻ろうかという所で、吉田は廊下の対面で何かが動いたのを目の端に留める。なんだろう、と気になった
「――あ、何だ。東か」
 自分に対し背を向けていたので、顔は見れないのだがその大きな体躯は個人を識別する特徴を言っていい。吉田のその声に、東は大きな体躯をビクッと戦かせた。
「吉田か!驚かすな!!」
「そんなつもりはなかったんだけど……で、何してんの?」
「……………」
 当然の質問に、しかし東は口をつぐんで顔を赤らめるだけだった。
 と、いう事は。
「迷った?」
「失礼な事を言うな。お前じゃあるまいし」
 と、失礼な事を言う東である。
「だったら何で―――あ、もしかして西田に会いに行く途中とか?」
「!!!!」
 問いただす最中、思いついた事を言ってみれば、さっき背後から声を掛けてよりも余程大きな動揺を見せた。当たったらしい。牧村の言う所の修学旅行あるあるといった所だろうか。
「ち、違う、俺はッ―――、戻る!」
 明らかに図星の様子だった癖に、東は踵を返し、再び吉田に背を向けた。その声が若干震えていた事と、ぐすっと鼻を啜るような音が聞こえ、吉田は慌てて引き留めた。そんなつもりは毛頭も無かったのだが、人の恋路を邪魔したなんて目覚めが悪すぎる。
「いやいや、会いに行けばいいだろ!? すぐそこ……なんだよな?」
 吉田は西田がどの間にいるかなんて事は判らないが、東がこの辺りをうろついていたというのは、そういう事だろう。
 そんな辺りを付けた吉田の想像は的中していた。それはこの上ない証明で果たされる。
「吉田!?!?」
 夜分にはふさわしくない音量で呼ばれたのは自分の名前だった。しかも、その声の持ち主は!!
「……西田……!!!」
 まさか本当に遭遇してしまうとは!と「遭遇」という単語を用いている時点で吉田も西田とクマをやや混同している。
 ここで吉田だけであったら、佐藤に言ったようにスタコラ逃げただろうけども、東が気になってそうもいかない。迷っている間に西田はこちらへと来てしまった。
「こっ、こんな所で奇遇だな! どうしたんだ?」
 喜びのせいか、声が昂ぶっている。すぐ近くに東が居るというのに、そんな態度を取られてはますます荒んだ態度を取られてしまう!目の前の西田より余程その方を危惧した吉田は、東の様子を伺う。
 いつもなら険しい顔で歯ぎしりでもしないばかりに自分の方を向いてくるのだが――
(あれ、)
 そもそも視線は吉田の方に向けられておらず、ただひたすら真っ直ぐ西田にのみ注がれていた。むしろ吉田の存在なんて忘れたかのようだ。
 そして、その頬は仄かに赤い。
 一体どうした?と東につられるように西田を向く。この東の態度はどうやっても西田に原因だろうから。そして改めてその姿を認め、ああ、と気づく事があった。さっきも思った事だが、風呂から上がった西田は前髪をいつものように後ろへは撫で付けず、そのままにしてある。
 普段は見られない西田の髪型に見惚れてた訳だ、と吉田は腑に落ちた。けれど、2人は幼馴染だろうし、前髪を下ろした所なんて何度も見てると思うのだが。
 それとこれとはやっぱり別なのかな~とつらつらと吉田が考えていると、ここで西田も東の様子に気づいたらしかった。
「? 東? そんな所で何ぼーっと突っ立ってるんだ?」
 どことなく、東に対して西田の口調は砕けてる。もうそういう好意は持っていないとは西田は言うが、気心知れた仲とは言っても良いと思う。
 西田の声に、東がようやく我に返る。
「えっ、いや、その……っ」
 東の性格からして、素直にそのまま「西田に会いに来た」なんてとてもじゃないが言えないのだろう。煙たがれていると思っては尚更だ。
「……? なんか、やけに赤いけどどうした? 熱でも出したか?」
「~~~~ッ!」
 東の顔色を伺おうと、西田が距離を狭める。近くなった顔に、東はいよいよ赤くなった。本当に熱でも出てるんじゃないだろうか。
 ひとまず、これはチャンスだと吉田は思った。西田の意識は今は東の方に向けられている。この隙に……とそろりそろりと慎重にその場を動く。
 2人の様子にも気を配りながら、吉田は素早く角を曲がった。ここまで来れば一安心だ。ほっと胸を撫で下ろす。まだ会話は続いているようだが、聞き耳を立てるような無粋な真似はしまい。
 お茶も買ったし、部屋に戻ろう。そう思って一歩を踏み出すと、何故だか壁にぶつかる。
「ぅぶっ?」
 思わず、そんな声が出るくらいには勢いよくぶつかった。けれど、痛くは無い。壁かと思ったが、壁ではなかったみたいだ。
 では、何が目の前に立ちはだかっているのか。
 痛くはないが、鼻がつぶれたような感じはある。鼻を摩りながら目の前を確認すると。
「!!!!!!!」
「静かに、」
 大声で叫びそうになった吉田の口を、ぱっと大きな掌が塞ぐ。もう片方の手の人差し指は自分の口元に寄せ、ジェスチャー付きで吉田に告げたのは他でもない佐藤である。
 いつの間に。どうしてここに。ていうか何するんだ。口を塞がれている為、どっちの問いかけも「ムームー!」みたいな発音にならない。吉田の口を押えながら、佐藤はその場から離れた。


 吉田が解放されたのはそれからしばらくの後だった。まさに引きずられるように佐藤と一緒に移動し、たどり着いたのは客室ではない何かの部屋が立ち並ぶ一画だ。
 佐藤の掌が口から離れ、ぶはっ!と吉田は存分に空気を煽る。
「さ、佐藤ついてきたの……?」
 恐る恐る訪ねてしまうのは、西田になんて会わないと高をくくってみせたのにものの見事に遭遇してしまった引け目からである。別に吉田が何かしたという訳では無いのだが、断言した事と現実に食い違いがあるとどうにも気まずい。
「うん、飲み物買うだけにしては遅いな、と思ったから」
 確かに、西田が来る前にも東と話し込んでいたのだから、そこまででも充分時間のロスである。
「だから、これはもしや本当に迷子になってるんじゃないかって……」
「なってないっつーの! 真面目くさった顔して言うな!!」
 もちろん佐藤だって本気で迷子を疑ったとは吉田も思っていないけども。
「……あー、やっぱ怒ってる?」
「なんで?」
「結局西田に会っちゃってるし……」
 佐藤が、自分と西田が顔を合わせるのを凄く嫌がっているのはよく判っている。だからそう言ってみたのだが、佐藤は特に何も思っていないようだ。やはり西田に懸想している東の存在が現れた為、以前に比べれば多少は余裕を持てているのかもしれない。まぁ、出会ったらその場でいがみ合うのは避けられないだろうが。
「怒ってはないけどさ、まぁ、何ていうか、ああいうのもちょっと良よなって思って」
「ああいうのって?」
 どういうの?と吉田は首を傾けた。
「部屋に会いに来るっていうの。吉田が部屋からこそこそ抜け出して俺の所に来てくれるとか、凄く良いなって」 
 同室である以上、想像でしか賄えないのだが、その時点で十分佐藤を楽しませるものとなっているようだ。佐藤の想像上の自分が気になる吉田だ。何かとんでもない珍プレーでもしでかしているような気がする。上手く部屋から抜け出せなかったり、出れても教師に見つかったりと。
 そうだ、もう想像するしかないのだ。佐藤の修学旅行はこの1度きり。次なんて無いのだから。
「部屋に戻るか」
「うん。……って、そもそもここどこだよ?」
 自販機から戻る分には迷子になんてならないと自信を持って言える吉田だが、現在地が不明では本当に迷子になりかねない。
「適当に人気のない方へって突き進んだだけ。大丈夫、帰り道は判るから」
 おそらくは掴めていないだろう吉田に対し、やや余裕を見せるように言う。ちょいちょいからかってくるんだからなー、と吉田は剥れる。
 行こう、と改めて告げて佐藤は歩き出した。そのやや後ろを吉田はついていく。
「………………」
 少し考え、吉田は佐藤の手を取った。いきなり手を握られた事に、佐藤もさすがに驚いて足を止める。
 軽い驚愕を浮かべて自分を見下ろす佐藤に、吉田は言った。
「ちょっとだけな」
 外ではとても手なんて繋げないけど、ここでなら。
 ぱちくり、と切れ長の瞳を大きく瞬かせた後、佐藤は破顔して微笑む。
「うん、ちょっとだけ」
 声だけでも佐藤の上機嫌が窺い知れる。ただ握られていた手で、吉田の手を握り返す。すると吉田の手はすっぽりと佐藤の手に包まれてしまう。指先だけが外気に触れる。
 廊下を歩く時、窓から空が見えた。南の島ほどでもなかったけど、この星空も忘れないだろう。
 ゆらゆらと歩く速度に合わせ、繋がれている手も揺れた。


 そして。
「こらっ佐藤!離せ!離せって!!」
「いいじゃん、あともう少し」
「皆が見てる!皆がー!!」
 部屋の間についた時点で外されると思っていた手は、未だ佐藤にがっちり掴まれたままだ。その状態のまま部屋に戻るものだから、皆から「手ぇ繋いで来たのか!」「ラブラブだな!!」「ずっとその調子でいろよ!」などと口々に賞賛(?)を貰い、戻った傍からまた出たくなった吉田である。
「手ぇ繋がれたままだとお茶が飲めないだろ!?」
「え、そこなの?」
 片手だと蓋が開けられん!と間違ってはいないがずれた事を主張する吉田に、牧村がそっとツッコミを入れた。



<END>