「佐藤、ほら、」
 手を出せ、というような仕草の元、佐藤が素直にそれに応じて見せれば、掌の上にぽとりと飴が1つ乗せられた。
 これがホワイトデーであればロマンチックなのだろうけど、今日は3月ですらないし、佐藤の手に乗る飴もただの飴ではなくてのど飴と分類されるものである。
「……………」
 じっと手を、掌の上の飴玉を見つめる佐藤に、吉田は言う。
「――帰ったら、ちゃんと手洗いうがいしろよ!? この前夕方のニュースで言ってたけど、それでかなり防げるっていうから」
 手を洗うのもちゃんと肘まで……と身振り手振りで教える吉田はとても必死で、その様は可愛いと言いたいのだけど。
「……あのさ、吉田」
 とりあえず、口の中に飴を入れたまま喋るのは煩わしいと、佐藤は飴玉をコートのポケットの中へと入れた。
「そんなにしなくても、ちゃんと風邪の予防くらいしてるから」
「そんな事言って、思いっきり熱出したじゃんか!」
 それこそ、手洗いうがいだって、風邪のシーズンでなくてもちゃんとやっている。けれど吉田は、そんな事をまるで聞き耳も持たないように反論してくる。
 それはそうだけども、あの時の原因は水を被るというイレギュラーな要素が度々重なった、いわば不幸な事故みたいなものだと佐藤は思っている。自分に過失はないと。
「とにかく!」
 と、人差し指を突き付け、吉田が詰め寄る。
「もう絶対に、絶ーっ対に風邪を引くな!いいな!?」
 と、最後にそう問いかけるように呼びかけた割には、吉田は佐藤の返事もまたずにぴゅーっと駆け出して行った。
 小さい背中がより小さく見えるのを、ただ眺める佐藤。
「………………」
 クラス内でカミングアウトしてからこっち、女子の猛攻は相変わらずだが、それでも吉田と付き合っているのだという事は事実としてきちんと認めているらしく、帰りを一緒にしようとしつこく言われる事は少なくなった。もっとも、これは女子の意識改革というより、佐藤がきちんと、本当の理由で断っているからに他ならないのだが。吉田と一緒に帰りたいと。
 今日も、当然のように一緒に帰っていたのだが、道半ばにして終わってしまった。
 さてどうしたものかな、と吉田が居なくなった事もあり、佐藤はのど飴を口の中に放り込んだ。


 以前、思いっきり高熱を出し、しかし発熱の自覚のなかった佐藤はそのまま学校へ行ってしまい、そしてその時何かをしてしまったらしいのだが――
「一体、俺が何をしたっていうんだ?」
 吉田に逃げるように先に帰られてしまったその翌朝、吉田より早く学校に着いた佐藤は適当な男子2人を捕まえ、問いただした。
 あの吉田の様子だと、結構な脅しを掛けた所で口を開いては貰えなさそうだ。そして、本当に酷い事は出来ない。
 吉田といつもつるんでいる秋本や牧村に尋ねるというのも最初は考えたが、2人は吉田寄りの人間だから同じくらいに口を割っては貰えなさそうだ。吉田ではないのだからこっちには存分に拷問しかける事は出来るだろうが、吉田にバレたら厄介なのでそれもなしで。
 そういう事で、クラスメイトの男子を適当に捕まえて尋ねる事にした。あの時クラスに居たものなら全員知っている筈である。
 当然ながら、女子に訊くという選択肢は最初からナシだ。
 2人は曖昧で微妙な表情を浮かべ、互いに目をやってからさらに微妙な顔つきになった。
「……いや~、それはちょっと……」
「吉田の口からきいた方が良いんじゃないかと……」
 お前ら付き合ってるんだろ?と付け足す。
 その台詞は佐藤にとって甘美な言葉ではあるが、それに惑わされて追究を止めてもいけない。
「その吉田が言ってくれないから、こうして聞いてるんじゃないか」
 腕を組み、やや憮然として言う。今までスマートな態度しか見てこなかった2人には、ちょっと意外な様子に移ったようで軽く目を見張っていた。
「あんまり隠し事とか得意じゃない癖に、隠してるのが凄い気になる」
 どうもこの件に絡んだ吉田はいつにない態度を取る。そこがどうも佐藤が引っかかって止まないポイントだ。そういうものなのだろう、と片づける事もままならない。
「そんなよっぽどな事したのか?」
「……うん、まぁ……」
「ある意味な……あ、でも殴ったり蹴ったりとか暴れたりじゃないぞ?」
 気にしてるような佐藤を気遣い、そんなフォローを入れる。佐藤にとってはそれが最も最悪なパターンだったので、それではないと判って少し安心した。まぁそういう類の事件が起きた訳ではない、というのは後日の反応で何となしには掴んでいたが。
「とにかく、自分がした事なのに判らないままっていう以上に、自覚のない事で吉田が右往左往してるのだけ判るってのがどうも座りが悪いっていうか……
 風邪にならないようにあれこれしてくれるのは嬉しんだけど、理由や原因が判らないから素直に喜べない」
 それが一番嫌だ、と佐藤。
 本音を言ってみれば、2人もまた改めて考え出したようだ。
「うーん、それもそうだよなぁ……」
 隠し事があって2人の間に亀裂があって困る。何せ佐藤が吉田と付き合っているのなら、自分達にもこの学校の女子と付き合えるチャンスがまだあるかもしれないのだから。 
 その意思を2人は確認しあってから、 自分の打算と佐藤への同情を交え、そして吉田を心の中で謝罪してから話し始めた。


 佐藤が機嫌良い。
 嘘やごまかしがへたくそな吉田だが、佐藤の心の機敏は掴めるのである。例え表面上はにこやかにしていても、それが本音じゃないと吉田には見抜ける。
 ただ吉田が困るのは、佐藤の現状が判ってもその理由が掴めない所だ。今だって、何をそんなに上機嫌なのかがさっぱりである。
 昨日、佐藤を振り払うように帰ってしまったのだから、今日の佐藤はさぞかし面倒な事になっているだろう……と多少の覚悟を決めて学校に来たというのに、着いてみれば佐藤はとてもにこやかな笑顔で朝の挨拶をしてくれた。ちょっと戸惑いながらも吉田の方から返してみれば、またも満面の笑み。
 一体なんだ?と軽く首を傾げると何やら視線を感じ、そっちを見てみれば2名ほどの男子が吉田から顔を逸らしていた。ますます訳が判らない。
 吉田が訳判らないままでも、授業は始まるし日常は進んでいく。けれど、その間もずっと佐藤がにこにこしているので、昼休み、今となっては周りから(主に男子から)勧められてオチケンの部室で2人きりだ。ここでもやっぱり佐藤は笑顔を絶やさず、鼻歌でも歌いそうな空気すら漂わせている。
「……なー、佐藤、」
 パンの袋を開けながら、吉田はそっと声を掛ける。
「うん、何?」
 そう返事した佐藤は、吉田が軽くビクっと戦くくらいには眩しかった。女子にするような愛想笑いという訳でもないのだが、普段ふとした拍子に見せるごく自然な微笑みとも違った。
 何やら、今更聞くのが怖いような気がした。けれど、ここできちんと確かめなければもっととんでもない事態になってしまいそうな気もして、吉田はごくり、とまだ一口もパンに口をつけないまま喉を鳴らし、意を決した。
「なんか、やたら機嫌良さそうだけど……何かいい事あった?」
「んー、」
 吉田のそんな質問に、佐藤はまず思わせぶりな態度。何だよ、と吉田が質問を重ねようとした時だ。
「その前に、俺からも聞いていい?」
 まさかの質問返しである。これはいよいよ嫌な予感が濃厚だが、吉田が迷っている間に佐藤は言ってしまう。
「色気をまき散らしてる俺ってどんなだった?」
「……………はっ?」
 一瞬、言われた事の意味がよく掴めなかった。あるいは、事実を把握してしまうのが恐ろしくて脳が無意識にシャットアウトしたのかもしれない。
 点のような目をぱちくりさせる吉田に、佐藤はさらに続ける。
「あんまり色気とか意識した事なかったけどなー。色気なら吉田の方があると思うんだけど」
「ちょ……ちょっと佐藤何言ってんだ!?」
「えー、何って、」
 思わず待ったをかける吉田に対し、佐藤はまるで留めのように言った。
「熱出してた時の俺の話♪」
 と、自分に向けて指を指す佐藤。
 それを見て、吉田は。
「……………
 ……………………
 ――――――――――――!!!!!!」
 ずさーと顔色を青ざめ、まず思う。
(バレた!!!!)
 次いで。
(誰だ佐藤に言ったの――――――!!!)
 あの時の事に対して物的証拠なんて残っているはずもなく、だったらもう証言に頼るしかない訳だ。
 まず真っ先に牧村を疑ってしまったが、牧村は牧村であの時の事をとても恐れておいそれとは口にしないだろう。そんな牧村の口を無理やり割らすより、他の男子に尋ねた方がずっと早い。何故なら、「佐藤と吉田が別れるのは困る」という考え方の持ち主ならばもれなく佐藤の方の肩を持つだろうから。
 そりゃぁ、吉田だって絶対他言無用と口止めをした訳では無いけれど、それでも自主的に噤んでいて欲しかった。正直、あまり掘り起こしたい記憶ではないし、意味合いの差異はあれどその思いは全員共通だと思っていたというのに! あうあう、と頭を抱える吉田。
「それでさぁ、吉田」
 思考回路が右往左往している吉田に声を掛ける。
「吉田としてはどんなだったの?」
「ど、どんな、って??」
 いつの間にやら、やたら近くにまで迫っていた佐藤に、やや怯えながらマナーモードのように震える。すると佐藤はにこー、っと今日一番の笑顔を見せた。
「さっきも聞いたろ? 色気まき散らしてる俺ってどんなだった、――って」
「!!!!!!」
 台詞の最後にふぅ、と耳元に息を吹きかけられ、声も出せないくらいに戦く。ぎゃっ、みたいな声が出たような気がするが、もはや吉田には知覚出来ない。
「なっ、なんっ、な、な、なっ!! べ、別に!!!」
 かろうじて何とか返事らしいことを良い、ぷいっと顔を逸らされてしまう。そんな吉田の態度に、佐藤はくすくすと笑みを漏らす。
「えー、教えてよ。そっちの方が良かったっていうなら、俺も考えるからさ」
 何を考えるっていうんだ、とツッコミが浮かぶよりも先に、吉田は半ば反射的に言っていた。
「全ッ然良くない! いつもの方が良い!!!!」
 決して広くない部室内で吉田の声が響く。最後の一言まで言い切ってしまった後、吉田は自分の発言についてはた、とようやく気付いたような顔をした。
「え、ええええ、ええええっと、その、それは!今のは!そういう意味じゃなくて!!!」
「じゃあどういう意味?」
 畜生、余裕綽綽な態度浮かべやがって!と悠然とした佐藤に吉田は歯ぎしりしたい思いで一杯だ。けれど、その反面でそんな佐藤の事をカッコいい、と感じているのも事実であった。何だかんだで、吉田だって好きなのだから。佐藤の事が。
 むぅー、と吉田が剥れていると、不意ににゅっと伸びてきた腕で抱きしめられる。頭の位置が丁度良い、とかつて佐藤が言っていたように、まるで互いの隙間を埋め尽くすようにすっぽりと収まる。
「吉田がいつもの俺が好きっていうなら、健康に気を付けようか」
 ふふ、と零れた吐息が頬に掛かってくすぐったい。
「そんなん当たり前……って、まさか逆の事言ってたらわざと熱出そうとしてたのか!?」
「まぁ、それが一番手っ取り早いよなー」
 呑気に間延びした佐藤の声である。どこまでが本気が冗談か判らない佐藤なのだが、それはきっとどっちも含まれているからだろう。やれない事は判っていてもやりたいという気持ちはあるような。
 佐藤の何ともふざけた発言に、吉田は抱きとめられたままの姿勢で顔を上げる。
「バカっ! ンな事したら怒るぞ!?!?」
 ここで絶交とか言えないのが吉田の可愛い所だった。
 うん、しないよ、と存外素直な佐藤に逆に嫌疑を抱いたような吉田だったが、しばし佐藤の顔を見て嘘は無いと判断したのか、元の顔に戻る。
 佐藤が嘘が上手い自負がある。それは処世術でもあった。自分にとって煩わしい事を避ける為の。
 だからこそ、吉田には通用しないのかもしれない。吉田は避ける対象ではない。むしろ自分を受け入れて欲しい存在だった。
「なー、熱出した時の事判ったから、そんなに機嫌良いのか?」
 そもそもの事の発端はそこだった。ようやっと思い出したらしく、吉田は改めて尋ねる。
「いや、そういうんじゃないけど、………」
 佐藤は不自然に台詞を途切れされ、何か考えるように視線を宙に彷徨わせた。それから、少々意地の悪い顔をして。
「秘密、って事で」
 えぇ!と至近距離から抗議の声が上がる。
「なんでだよ!すっごい気になるし!!」
「ダメー、吉田だって教えてくれなかったじゃん」
「そっ、それはそうだけど……」
 そこを突かれると痛い吉田だった。
 けれど、だとしたら本当に佐藤はどうしてこんなにも機嫌が良いのだろう。もっとも、記憶の無かった時の事が知れただけにしては、やたら上機嫌過ぎるな、とも思っていたが。
 じゃあこの件は関係ないのか?いやでも秘密というからにはやはりそこには何かありそうで……
 うーん、と頭から湯気でも出るんじゃないかというくらい、思い悩む吉田。大人しくなったのを良い事に、佐藤は吉田の髪に頬を埋めた。
 今朝捕まえた男子達が打ち明けてくれたのは、高熱で怠かったせいか物憂げな態度でやたら色気を醸し出していた事と。
 そして、誰も気づけなかった佐藤の異変に、吉田がいの一番に気づいたという事だ。
 吉田は佐藤の元まで様子を伺いに行って、何かやり取りがあったらしいが、離れていたは2人はそこまでは聞き取れなかったらしい。聞き込みを続ければ、そのやり取りを耳にした者もあぶりだせるかもしれないが、そこはもう良いかな、と佐藤にとっては蛇足のようなものだった。
 誰も気づかない中で、吉田だけが判ってくれた。
 それだけでもう、天にも昇れそうな心地なのだから。


「――って、俺の事も良いけど、吉田もちゃんと風邪には気をつけろよ?」
 当然ながら、病気になればその間は会えないし遊びにも聞けないのだ。
「判ってるって! 佐藤に伝染ったら困るからな!」
 そうじゃないけど……まあ、そういう事でも良いか。
 とりあえず、今日の帰りにのど飴でも買って、明日は自分から吉田にあげよう。
 口移しであげたら面白い事になるかも♪と、とっても楽しみになった佐藤だった。



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