しなければならないのは重々判っているし、やらなかった場合にかなり不味い事になるのかも想像出来る。
 だというのに、さっぱりやる気が湧いてこない。
「……、…………、あ~~~~~」
 普段は決して大きな独り言なんて発しないが、この時ばかりは鬱憤を吐き出すように声を漏らした。
 結果、少しはスッキリしたが、本当に微々たる量であり何より目下の問題は何一つとして片付いていない。
 この、ほとんど手付かずの問題集は。
「……………」
 夏休みもほぼ終盤。最後の31日が間近に迫りつつある中、吉田の課題の消費量は多く見積もって半分だった。なのせ、正確に割り出せば半分も達していないだろう。
 この辺で本気を出して片づけなければ、とても最終日までに間に合わない。それは判ってる。そんな事は判ってる。でも、やる気はどうしても起きてこない。
 ちらり、と時計を見れば机に向かってからまだ1時間も経ってない。吉田の感覚では、すでに数時間過ぎているものだったが、思いのほか短くて良かったのか悪かったのか。時計の針はかちこちと夕方6時を回っている。
 うーん、としばらく机の上に突っ伏していたが、やおら吉田は立ち上がった。
(散歩行こ)
 まずはこの気持ちを切り替えなければ、とても宿題に取り掛かれそうも無かった。

 散歩として出た吉田には目的地がない。強いて言えば最終的に家に戻るくらいしか決まってはいなかった。
 まあ、適当に、ぶらぶら歩いてその辺のコンビにでも入って、週刊誌でも立ち読みすればいくらかはリフレッシュ出来るかもしれない。そんな思いで足を進める。遠くに行くつもりもなかった吉田は、玄関に転がっていた突っ掛けに足を入れた。カラコロと少し下駄に似た音が響く。
 外に出てみれば、すでに外は夜空と言って差し支えない程度には暮れていた。日が暮れるのがちょっと早くなったと思う。夏休みに入ったばかりの頃は、この時間帯まだ明るかった筈だ。昼間はまだまだ暑くて、夏真っ盛りといった具合だが、秋は確実に近づいている。日暮れにはこうして、外に出てみようと思えるくらいだ。これも少し前までは、夕方の時間ではまだ外は暑くて、出歩こうという気にもなれなかった。
 みんな、今頃何してるかなぁ、とクラスメイトや親友の事を思い浮かべる。思うのはみんな、宿題は終わったのかな、とかだが。牧村は、現在の恋の相手が生徒会長なので、勉学を怠る事はしていないかもしれない。秋本も、可愛い幼馴染の手前、宿題をしていないなんていう醜態は晒さないだろう。虎之介はあの外見でいて(失礼)真面目なので9月1日には全部きっちり揃えて提出すると思う。今年は山中の分も一緒になって面倒見ていそうだ。吉田からしてみれば、そんなのほっとけと言いたいけども。
(――あ、)
 そんな風にあれこれ考えていたせいか。友達の近況を想像するのに頭を使ってしまい、行先を考えることを怠っていた。どこか近くのコンビニで、と向かっていた筈なのに、吉田が気づいた時にはまるで違う方向へと進んでいた。
 ここへ来るつもりではなかった。
 けれど、ここを思って外に出たのかもしれない。
 吉田が今、立っているのは佐藤との帰路の分岐点だ。吉田の見ている先の道を行けば、佐藤が姉と二人暮らしをしているマンションに辿りつく。
 けれどそこには、今は佐藤は居ない、夏休みいっぱいを使って、家族共々海外へ旅行している。吉田にとって旅行なんて、まだまだ国内で2泊3日程度なので、話を聞いた時はただただ凄いなぁ、なんて思ったものだが、佐藤が旅行に行くという事は、しかも海外という事は日本にすら居ないという事だ。そんな当たり前の事実に気づいたのは、佐藤が発ってしまって少ししてからだ。何の拍子かは忘れたが、それくらい些細な事で「ああ佐藤は今日本に居ないんだっけ」と何気なくよぎった事実がそのまま胸の中に重く伸し掛かった。
 しかし、もし仮に、佐藤が旅行に行かなかったとしても、しょっちゅう顔を合わせる事も無いとは思う。
 それでも、「会わない」と「会えない」のでは天地ほどの差がある。
 ――佐藤、帰ってくるかな
 ふとそんな事が思い浮かび、吉田は慌てて頭を振った。確かに長期ではあるが、たかが旅行だ。帰ってくるに決まってる。佐藤だって時折するメールや電話では、必ずと言っていいほど「早く帰りたい」と零していたではないか。ついでに、早く帰りたいと言った後にはもれなくキスとか色々したい、なんて言って吉田を「ギャー!」と真っ赤にさせているのだが。
 恋人がいる夏休み。まさか、こんなにも離れ離れになってしまうなんて。
 経験の無い吉田の情報ツールは専ら漫画からだ。対象は可愛い女子ではあるが、佐藤と一緒に祭りや海に行ってみたかった。花火も一緒に見たかった。いや、そんなイベントが無くても、クーラーの効いた部屋でDVDを見るだけでも良い。いや、佐藤がどさくさに怖いのを流しそうだからそれはいいか、と吉田。
 もう、たとえ遠出したって祭りも花火大会もどこでもやっていない。
 今年の夏が暑くても、どこか拍子抜けするように感じられるのは、そういった事を全部スルーしてしまったかだろうか。これでは案外ベタな事好きだな、と佐藤も笑えない。
 その流れで、宿題にも手が付けられないのかもしれない。楽しい思い出が無いのに、宿題ばかりあるなんて。
 いや、そんな事はただの逃げだと判ってるし、自分の宿題なのだから佐藤の有無も関係ない。そりゃ教えてもらった方が捗るに違いないけど。
 それにもう、宿題とかどうでも良くて、今はただ、もう。

「……会いたいよー……」

 夏の夜風に吹かれるまま、その風に乗って飛ぶようにそっと口遊んでみた。
 それだけの呟きだった。
 その筈だった。

「吉田?」

 まさか、応える声があるなんて。


「―――え、えっ、……えええええええッ!? 佐藤―――――!?!?」
「なんだよ、まるで幽霊でも見てるみたいに」
 苦笑というよりは、ただただ吉田の反応を楽しみ、可笑しそうに佐藤が笑う。パクパク、と吉田は陸に上がった魚のように、口を開閉させていたが、ようやっと声が出せるようになった。
「なっ!!!!何でここに!!!!!」
 まだ数メートル先にたたずむ佐藤を不躾に指さし、吉田が混乱しつつもどうにかそれだけを言う。
「何でって、俺の家、この先だし」
 言って、顔だけをそちらへと向ける。
 なるほどそりゃそうだ……と、納得している場合では無くて。
「だって!帰ってくるのってまだ先の筈だろ!?!??」
 出発前に聞いた帰国日にはまだ日がある。だというのに、ここで平然と立っている。その謎の答えなんて佐藤が帰国を早めたからに違いないのだが。
「メールにも電話も何もなかったのに!!!!!」
 吉田が思い切り異議を飛ばしたいのはそこであった。さっきまで感じていた哀愁みたいなものを返せと言いたい。返された所でどうするのか判らないしそもそもどう返して貰うかも判らないけど。
「行く前に吉田に行った日程は嘘じゃないよ」
 と、佐藤。
「今日帰ってこれたのは旅行中でも根回ししたからだし、それが上手く行くとも限らなかったし……」
 事前にも早く戻れる可能性を言わなかったのはそこらしい。だとしても、戻れると決まった時点で連絡すれば良い事だ。自分の方に近づきながら言う佐藤に、吉田は決して気を抜かない。
「それに、吉田の驚く顔が見たくて♪」
 やっぱりそんな事か!と久しぶりに見た佐藤は相変わらずだった。
 会いたがっている相手が現れたのだから、吉田だって嬉しいに決まっている。けれど、あまりに突然すぎて心の準備も何も出来ていない状況で、当初の混乱も手伝って何やら喧嘩腰になってしまう。
「―――驚いたよ!あーもう驚いたよ!!これで満足か!!!」
「……うーん、いや、まだまだ」
 まるで全身で威嚇しているような吉田をじっと見下ろした後、佐藤はやおらぎゅっと抱きしめた。今度は感触を味わおう、という事らしい。やや乱暴に閉じ込めた為、吉田の顔面が佐藤の胸にボスッと強く当たる。鼻が、と元から低い鼻が圧縮された心配をする吉田。
 そしてその鼻から色んな匂いを感じる。自分の家とは違う洗剤の香りがする衣服。それだけではない別の香りは、きっと佐藤の体臭だろう。
 ――あー、佐藤だ
 鼻腔一杯に匂いを感じ、目を閉じて吉田は思った。
 佐藤が居る。
 ここに居る。
 まだまだ会えないと思っていたのに、ここに居るのだ。
 しばしその事実に浸っていると、急に佐藤がくすくすと笑いだした。声は出ていなかったが、密着している状態なので佐藤の体が小刻みに揺れているのが吉田にもダイレクトに伝わる。
 何を笑ってるんだろう、と佐藤の腕の中でよいしょと動いて顔だけ上向かせると、佐藤が笑みを作ったまま吉田の方を向いていた。ばちっと目が合ってしまい、ちょっと居た堪れない。
「いや、外だからって抵抗するかと思ってたから」
 佐藤に言われ、はっとなった。そうだここは全くの路上。言ってみれば通学路の内である!!
「は、離せ、コラ――――!!」
「ダメ。吉田だってこうしたかったんだろ?」
「そっ……、外は、ダメッ!!!」
 ついいつものように「そんな事はない」と言おうとしたが、実際その通りなのでちょっと思い直して言い換えた。へぇ、外はダメなのかぁ、なんて間延びしたように白々しく言い返す佐藤にちょっとむかっ腹も立ったが、今はそんな事すらも、夢でも幻でもなく佐藤が居る事実として吉田の胸に沁み渡る。
 最後にまたぎゅっと抱きしめ、佐藤は吉田を離した。キスもされるかとちょっと警戒したが、そんな素振りは見られなかった。
「佐藤、もう家に帰ったのか? 荷物は?」
 吉田は他にも思った疑問を聞いてみた。現れた時から佐藤は手ぶらだったのだ。
「ああ、空港で宅配で出した」
 当面の着替えなら自室のタンスにもある、と佐藤は重い荷物を運ぶ手間を省いたようだ。そういうやり方もあるのかー、と一つ学んだ吉田である。
「――で、吉田はどうしてここに?」
 ある意味、佐藤には言って欲しくない質問でもあった。うっ、と軽く詰まった後、吉田は言う。
「え、えーと、ちょっと散歩に……」
「……へぇ」
 聊か声のトーンを落として佐藤が返事をする。その言葉自体は疑っても居ない。突っ掛けにハーフパンツにTシャツという、身軽すぎる装いは確かに近所を徘徊する程度のコーディネイトだ。佐藤が気にした所とは。
「って事は、宿題はもう終わったんだな?」
「……、…………」
 そらした目と沈黙がその答えだった。どうせそんな事になってるだろう、とは思っていたが、いざ直面すると佐藤でも肩を落としてしまう。
「どれくらいやっていない?」
「……………、…………」
「まさか全部?」
「は、半分くらいは終わってる!!!」
「そっか、半分か」
 言ってしまった後にはっと口を押えるが、後の祭りである。
「じゃあ、明日、出来てない分持って俺の家な。午前中から来いよ」
 さくさくと予定を立てる佐藤に、吉田がえっ、と顔を上げる。
「佐藤、荷物の片づけとかあるんじゃ……」
 それに長距離移動したすぐ明日である。無理をしてまで宿題を見て貰いたくはない。
「それくらい、パッパと終るって。もとから着替え以外あまり持って言って無いし……
 それに、俺の事を気遣うより、自分の宿題気にしろよな。あと何日しか残ってないと思ってるんだ」
「……それは~……」
 全くもってその通りなので、吉田はぐうの音も出ない。佐藤を気遣うのであれば、さっさと宿題を終わらせておけば良かったのだ。
 もしきちんと終えていれば、今頃、というか明日以降に佐藤と遊べたのかもしれないのに。
 いやでも佐藤が早く戻ってくるなんて聞いてないし聞いてたら俺だってもっと頑張ってたし、とぐるぐると言い訳を考えている頭に、佐藤の手が乗る。
「最終日くらいは遊びに行けるよう、頑張るぞ」
「う、うんっ!」
 この夏、恋人が出来ても一緒に祭りも花火にも行けなかった。
 それでも、それらを超えるくらいの思い出は作れそうだ。
 じゃあ明日な!と吉田はいつもの分かれ道で佐藤を見送りつつ、自分も帰路へと戻っていった。


 その後、佐藤の厳しい監視の元、必死になって問題集をやっつけた記憶は、まさに吉田の中で忘れられない思い出となった。
「来年からはちゃんとやる……!!」
「はいはい」
 頭を酷使した吉田に、佐藤はアイスココアを差し出した。



<END>