「義男―――!」
と、ベッドの上でうとうととうたた寝していた吉田は、その声で釣り目の目をぱちりと開かせた。
「お母さんパートに行ってくるからね! いい加減起きなさいよ!」
「お、起きてるって!」
今にも部屋に入ってきそうな母親を警戒し、吉田はあわてて起き上がる。一応くらいまでは目覚めていたのだが、起きるのも億劫でそのままごろごろしていただけだ。なので、寝ていると決められるのはちょっと心外である。もっとも、母親からしてみればどっちにしろ同じ事だと思うが。
「今日、どっか出かける予定ある?」
案の定、ガチャリとドアを開けて顔を覗かせてきた母親だ。その問いかけに、吉田は否と首を横に振って答える。
窓から見える今日の天気は、曇天。しかも、今にも雨が降ってもおかしくないような、不穏な空模様をしている。吉田の寝起きのテンションが良くなかった理由の1つでもあった。やっぱり、晴天の青空が出迎えてくれたなら、目覚めも良くなるというものだ。
「そう、だったら洗濯物見ておいてよ。雨が降ってきたらしまっておいてね」
「えー! だったら最初から家の中で乾燥機かけてれば良いじゃん!」
もとより出かける予定は無かったとはいえ、出かけないと出かけることが出来ないとでは天と地に近い意識の違いがある。
「ダメよ、電気代勿体ないじゃない。日差しは無いけど風はあるから、結構乾くと思うのよね」
エコというなの倹約を掲げ、母親はそれだけを告げてパートへと行ってしまった。不満がいろいろあるものの、出かける母親には「いってらっしゃい」と言う吉田である。
夏休みも残り半月となった。始まる時は1か月以上あったというのに、あっという間である。その辺りも、吉田に気だるげな空気を齎す。
こういう時こそ、何かパーっと遊びに出かければ良いのかもしれないが、里帰りから帰った(ややこしい表現)吉田のスケジュールと入れ違うように、今の頃に遊べそうな友達はそれぞれの両親の実家や、どこか旅行へと行ってしまっている。自分だけが何か残されたような、ぽつんとした寂寞感すら感じられる吉田であった。
いや、あえて取り上げないものの、一番の理由は遊びに行ける友達がいない事ではない。
詳しい話は聞いてはいないものの、生活水準が一般より高そうな佐藤の家は、夏休みの殆どを旅行へと費やしていた。当然、息子である佐藤もついていく事になり、佐藤は現在、家どころか日本にすら不在なのだった。それがどうにも、吉田をやや無気力にさせる。
(メールとか電話とかしても良いよって言われたけどさ……)
時差が気になってどっちも阻まれた。今、佐藤の時刻では夜なのか朝なのかすらも吉田には判らない。もう少し、そのあたりの事詳しく聞いておけばよかったかなぁ、と今更のように思った。
行先は北欧のどこかだと言っていた。口頭で教えてくれた筈だが、あまりに馴染みのない響きで記憶される前に頭から流れてしまった。
お土産はお菓子で良いかな、と言ったからそれに頷いた覚えはある。お菓子と聞いて一瞬いつも仕込まれる激辛味を思ったが、市販だろうからその心配はないだろう。
朝飯代わりの菓子パンを被りつきながら、普段は見れない朝のワイドショーを茶の間に流す。
佐藤、今どうしてるかな。夏休みが始まってから幾度となく胸中で呟いた台詞を、今もまた繰り返した。
それは夏休みに入るちょっと前の事。佐藤から言い出されたのは、休みいっぱい旅行に行くという事だった。
「――で、いつまで行ってるんだ?」
「割とぎりぎりだな。30日には家にいる予定」
本当にギリギリだ、と吉田は佐藤の話を聞いて軽く驚愕した。自分と遊べる日程はほぼないという事だ。
きっと、落胆の表情でも浮かべていたのだろう。佐藤も珍しく申し訳なさそうな顔をして、吉田の頭にぽん、を掌を置いた。
「土産買ってくるからな。お菓子でいいか?」
「あー、うん。……美味しい奴、頼むな!」
くれぐれも悪戯目当てで妙なものを持ってこないよう、釘を刺す。そのパッケージは何語で書かれているか判らないが、自分が読めない事はまず間違いないのだから。そんな吉田の不安を見透かしたように、わかったわかった、と佐藤は茶化すように繰り返した。
「あー、あと、メールも電話もいつも通りに出来るから」
「へえ、そうなんだ」
今まで通話相手が海外にいるというシチュエーションの無かった吉田である。その場合、金額はどうなんだろう、とまずそこを気にした吉田は間違いなくあの母親の息子である。
「いつでもいいから」
待ってる、とは言わずに表情だけで佐藤は告げる。
本当なら、本音を言うなら、旅立ったその時にすら送りたい程だったのだけども。
なんだか、必死に縋って見っとも無いような感じがしてしまって、佐藤に鬱陶しがられたら嫌だなと、最初にそんな事を思ってしまって。
それが柵のようになってしまい、携帯は弄るものの、その先の行動までには移せない。
もっと軽く考えれば良いとは思うけど、軽くなんて扱えない相手だから。
それでも佐藤からのメールや電話が来たら返事はしようと、そう決めたのに中々佐藤からの連絡も無くて。
くれたら返すのに、と半ば八つ当たりみたいにもやもやして。
でもなんだかこんな状況、初めてでもない気がした。
佐藤の事を本当に好きだと思い始めた時、好きだって自分からは言えなくて、いつもみたいに聞いてくれたら答えるのに、と思っていた時と似ている気がする。
あの時、佐藤はもう判ってるから、なんて言ってたけど。
今も判ってるのかな。本当は電話もメールもしたいのに、出来ないって事。
だったら佐藤の方からしてくれたら良いのに。
佐藤みたいに、自分は素直に出来ないんだから。
ぶつぶつ、ぶつぶつ、と取り留めのない事を、声には出さずに胸の内だけで繰り返してた。
カタン、という物音で吉田は目を覚ました。という事は、寝ていたという事だ。
遅い朝飯からほとんど間をおかずに昼飯を取った後、昼のドラマの再放送を見ながらうとうとと寝入ってしまったようだ。こんな時間に睡眠をとってしまったのなら、今日もまた夜更かし決定だ。そろそろ、学校が始まる頃に合わせて早起きの習慣をつけたいとは思うものの。
変な姿勢で寝てしまったものだから、体が不自然にバキバキする。と、家の外からもかすかな物音が。耳を澄まし、それが雨の音だと知った吉田は大慌てで外にある洗濯物を部屋の中へと取り込んだ。
だからやっぱり、最初から乾燥機かければ良かったのに!!未だ仕事中の母親に向かい、改めて恨み言をぶつける。
ちょっとは雨がかかってしまったが、無傷と呼んでも許されるくらいだろう。あのまま起きる事なく寝たままだったら、もっと悲惨な事になっていたに違いない。
そして、吉田の意識を現実に戻してくれた物音の正体を知るべく、洗濯物を乾燥機にかけた後、吉田は玄関の方へと向かった。そこには、さっき母親を見送った時には無かった封筒があった。
明らかにダイレクトメールとは違う装いをしている。誰からだろう、と何気なく手を取った吉田は目を剥いた。全部アルファベットではあったが、さすがの吉田だってローマ字くらいなら読める。そこにあったのは、確かに佐藤の名前だった。
(え―――!え――――!! 何だいきなり!!?)
頼りのないのは元気な証拠とは言ったもので、手紙が来た事に吉田はかなり慌てふためいた。別に居間でも構わないだろうに、自室へ駈け込んでその手紙を開封したのである。
入っていたのは、手紙と一枚の写真。ただの街並みだが、吉田にとってはそうではなかった。その写真は、現在佐藤が居る所の一角を撮っている。
へえ、こんな所にいるんだ。たった1枚の写真ながら、明らかに日本とは違うものを感じる。
手紙の内容は、特に何かが起きたでもなく、こっちから来て過ごした事をざっと書き記したものだった。それこそ、メールで送れよと言いたくなるくらいの。
「………………」
佐藤から連絡が来たら、とは思ってたけど、まさかこんな形で来るとは。相変わらず、自分の予想には倣ってくれない。
手紙も読み、むむぅ、と唸った後、吉田は携帯を手にする。同じように手紙で送り返すという手段は、吉田の知識では出来ない。
言いたいことは山ほどあるけれど、やっぱりメールの代金がどうなってるか判らないから、なるべく短めで。
でも、佐藤のおかげて洗濯物が取り込めて、母親に怒られずに済んだ事は書いておこう。
それを見た佐藤が、ちょっとは笑ってくれると良いな、と思いながら。
<END>