見上げた空は曇天だった。これが他の日だったら然程感傷に浸る事もないだろうけど、この日ばかりは気になってしまう。何故なら今日は7月7日。星空の中で年に一回の逢瀬が繰り広げられる日である。
 まあ、空は曇りでも地上から見えないっていうだけで、この分厚い雲の上では彦星と織姫は無事に1年ぶりの対面を果たしている事だろう。そんな中で、吉田は一人で昇降口に居た。佐藤は居ない。多分、女子達と居る。
 ――吉田へと打診があったのは6月末。いきなり数人に囲まれ、またかよー!と佐藤との付き合いが明言される前から行われている吊るし上げに泣き出しそうになった所、彼女達の要望は一風変わったものだった。それはつまり、7月7日の七夕に、佐藤とお茶したいから先に帰ってくれ、というものだった。
 彼女達の言い分として、
「アンタは普段佐藤くんと一緒何だから、こういう日くらい譲ってくれても良いでしょ!?」
 という事らしい。おそらくは、自分こそを織姫と重ね合わせているに違いない。
 そりゃまあ、この日は特に予定も無いし、所謂「恋人の日」的なイベントに付き合うのは気恥ずかしいし、自分にとっちゃただの7月7日だし、と頭の中で色んな事をぐるぐるさせながら吉田はそそくさと校門へと向かう。
 あの場で断れなかったのは、女子達の勢いに押されたという事もあるし、元より吉田の意見を求めていなかった彼女達も告げるだけ告げてさっさと行ってしまった事もある。
 けれど、何より吉田が納得してしまったのが大きいだろう。確かに、彼女達より自分の方が、うんと佐藤と一緒に過ごしている――
「………………」
 でもかと言って、分け与えられるものでもない。
 それに気づいたのは、授業後早速とばかりに女子に囲まれた佐藤を見た時だった。


 織姫と彦星にとっては特別な日かも知れないが、吉田にとってはただの平日だ。佐藤も居ないし、寄り道もしないでさっさと帰ってしまおう。まだ梅雨の明けない中、湿度は高く肌がちょっとベタつく。
 機能性は一応考えられている制服だが、制汗性に優れているとまではいかなかった。さっさと着替えたい。いや、寄り道はしないと思ったけど、コンビニくらい行こうかな。
 塀に囲まれた住宅街を歩きながら、吉田がつらつらとそんな事を考えていると――
「――――わわわわぁッ!!!! むぐぅ!!」
「声が大きい。気付かれたらどうする」
 全く死角だった所から、ぐいっと強引に引かれて口から心臓が飛び出るくらい驚いた。その口は大きな手で塞がれたので、心臓が飛び出る心配は無い。
 まるで人さらいそのものの行為だが、相手は誰だか解り切っている。
「佐藤! 何すんだよ!!」
 ばたばたと口に当てられた手を引き剥がし、まず第一声にそう吠える。けれど佐藤は、逆にそんな吉田を窘めるように見下していた。
「何すんだよ、はこっちの台詞。どうして授業が終わるなり逃げるようにして学校から出て行ってるんだ?」
「そ、それは……」
 まさか、女子達にそうしろと言われたから、とは答えられない。
「佐藤こそ……さっきまで女子に囲まれてたじゃん」
 自分へ向けられた矛先をかわす様に、吉田は逆に佐藤に訊いてみる。気になったのも確かだ。吉田に言いつけるくらいなのだから、今日は特に女子達も気合を入れて誘った筈なのだが。
「撒いてきた。だって、この日はどうしても吉田と一緒が良かったから」
「え、」
「七夕なんだしさ。ほら、行こう」
 どうやら、気合を入れた女子以上に、佐藤も根性を出して彼女達を撒いてきたらしい。
 そして佐藤は、吉田のその手を握って歩き出す。いきなりなものだから、あわあわと足を縺れさせながらどうにかこうにか佐藤の歩幅に追いつく。
 返事を待たないのは佐藤も女子も同じだが、佐藤の場合、吉田が意地を張って表に出さない所を掴んで行く。


「……ここ、どこ?」
 佐藤に手を引かれるまま歩き、辿り着いた先は吉田の家から徒歩圏内ながらもまだ入った事の無い地区だった。
「適当に商店街入ってみたんだけど……いつもの場所だったらクラスの女子に見つかりそうだし」
 クラスの女子、という単語に吉田がうぐ、と喉に詰まったような感覚に見舞われた。果たして佐藤は、吉田が女子に言われて佐藤を置いて先に帰ったという事実を知っているのかどうか。こそっと様子を伺ってみるが、それだけではとても判別は出来ない。
 でも佐藤の性格からして、知っていたら絶対言ってくるだろうし……だから大丈夫。うん、大丈夫。自分に言い聞かせている吉田を、佐藤が楽しそうに眺めてみるのを吉田は気付いていない。
「七夕の飾り、沢山あるな」
 どこか喫茶店かカフェでもないかと佐藤が辺りを見渡すと、まずはアーケードで覆われた商店街の天井から七夕に因んだ飾りがぶら下がっているのが目に入る。結構眺めて楽しめた。けれど、それも今日までの事で、明日からはきっと夏休みに向けた飾りつけやポスターが貼られるに違いない。
 夏休みといえば、また家族旅行に付き合わされるんだろう。渡英前ではあり得なかったというのに、いっそ小学生の頃のように熟の合宿にでもぶちこんでくれとすら思う。その方がまだ、吉田とのやり取りは容易そうだ。旅行の行先なんて絶対海外だろうし。
「へー、短冊があるよ」
 多少鬱々とした佐藤に、明るい吉田の声がかかる。何気なく足を進めていたら、広場的な場所へと着いていたらしい。そこには大きな笹の葉があり、いくつもの短冊がぶら下がっていた。
「折角だから、何か書いて行こうか」
「え、い、いいよ俺は。書きたいなら佐藤だけ書いてろよ」
「1人だけなんて恥ずかしいじゃん」
「だったら……」
「短冊書いたら菓子くれるみたいだぞ」
「え、ホント?」
 だったら書かなければ良い、と吉田が言う前に佐藤がそう告げると、吉田は目をキラッとさせて設置されたテーブル台の方へ赴く。単純すぎて心配になるな……と自分で誘導しておきながら勝手な佐藤だ。
 テーブルの上には短冊として輪になった紐が着けられた長方形の紙、願い事を書く為のカラーペン、そしてご自由にお取りくださいという張り紙の元に細々とした菓子が置かれてあった。時期柄チョコレートは避けられたが、1つ1つ袋詰めされたクッキーやあられ、海苔が巻かれた小さな煎餅、と親の実家のテーブルにあったのと同じラインナップだな、と吉田はそんな印象を抱いた。
「うーん、でも何書こう……」
 ペンと短冊を持って悩む吉田には、菓子だけ貰って立ち去るという選択肢は最初から無いようだった。一応、ここの商店街の役員らしき人はいるが、顔見知りと話し込んでいて警備としてはまるで働いていない。
「勉強の事にすれば」
「でも、願い事でも無いような……」
 適当に言ってみる佐藤に、吉田は割としっかりした返答をしてみせた。この姿勢が学力に反映してくれたら何よりなのだが。
「進路とかは?」
「それもな~」
「じゃあ、身長の事とか♪」
「……からかってるだろ、佐藤」
 バレた?と軽く睨む吉田にしゃあしゃあと笑ってみせる佐藤だった。
「佐藤こそ、何書くんだよ」
 そもそも書こうと言い出したのは佐藤である。きっと、短冊に書きたい事があるのだろう、と思っていたのだが。
「うん、吉田からキスしてくれますように、って」
「バッ……! そ、そんな事書いたら怒るぞ!?!??」
「だって、願い事と言ったらそれくらいしかないもん」
 憤慨して真っ赤になる吉田を余所に、佐藤はしれっと言ってみせる。そして、にやり、と意地の悪い笑みを浮かべた後で。
「吉田がしてくれるなら、短冊に書いて吊るす事もないんだけどな~」
「ぐっ!!!!」
 こいつ!これがやりたかったのか!!と佐藤の真意が見えたような吉田だ。っていうか、やっぱり女子の言いつけで先に帰ったのバレてるんじゃ!?
 ここでしないと言えば佐藤は確実に書くだろうし、その場合吉田の背では届かない場所に括りつけるだろうから回収も不可能だ。いっそ、ここなら顔見知りはあまり来ないと決めて放置してしまおうか……けれど事実とはどこから湧き出て来るか解らないものなのだ!!ここの地区に佐藤の事を知っている人が絶対居ないと、どうして言えるのか!!
 佐藤の人気が学校を飛び越えているのはすでに解り切った事でもあるし。いつぞや自分に声を掛けて来た負傷しまくった女子3人を思い出す。そういえば、彼女らはどうなったのか……恐ろしいから佐藤から聞きだせていないけど。
 それよりも、今は目の前の佐藤である。早く返事しないと書いちゃうぞ~、とばかりに短冊をひらひらさせている。
 そう言えば、キスってここでなのか、佐藤の部屋でなのか。佐藤の部屋だったら出来なくもないけど……と吉田も短冊を掴んでぐるぐる考えていると。
「……ねぇ、あれ……」
「……うそ、やっぱり?……」
 吉田の耳には囁き声程度の音量だが、確かに聴こえた声は自分達と同じくらいの女子のもの。何となくその声の方に顔を向けてみれば、どこかの、おそらく高校のであろう制服に身を包んだ女子が4名ほどそこに立っていた。
「……不味いな。行こう」
 ぼそっと吉田にだけ聴こえるように言い、ここへ来た時と同じく吉田の手首を掴んで歩き出す。あぁっと残念そうな声が背後からした。あのまま立って居たら、きっと声を掛けられていたのだろう。
 おそらく、彼女達は佐藤の事をただの「カッコ良い人」ではなく「佐藤隆彦」として認識していたに違いない。
 佐藤の人気を、本当に今更に思い知らされた。


 あ、と吉田が声を上げたのは、商店街をとっくに抜け出した後だった。
「短冊、持ってきちゃった……」
 佐藤に繋がっていない吉田の反対の手には、少しくしゃくしゃになった短冊が握られていた。他校の女子が聴こえた時も、吉田は掴んでいたからそのまま持って来てしまったようだ。
「これ、どうしよう……」
「返すのも何だし、貰っておけば」
 これが無断で持ち出したのがペンの方だったら、さすがに気が引けるから戻るだろうけども、何も書いていないだけの短冊だ。時間を費やして戻るまでも無いと佐藤は思う。吉田も同意したようで、そうだなぁ、と言いつつ鞄の中へ仕舞い込んだ。
「あの店入ろうか」
「うん、いいよ」
 佐藤に促され、個人経営してると思わしき喫茶店へ2人は入って行った。

 さっき、商店街の特設会場から抜け出す時――
 吉田は、屯していた一人の女子と目が合った。
 目が合ったのは気のせいだ。彼女が見ていたのは、真っ直ぐに見つめていたのは吉田のすぐ後ろに居た佐藤の方だからだ。
 その顔を見て、吉田は何となく解ってしまった。あの中で、彼女だけは佐藤の事を、身近で会える芸能人以上にカッコ良い男子としてではなく、一個人として惹かれている事を。
 あの後、彼女達はあの場所で短冊でも書いたのだろうか。
 もしも、その恋の成就を短冊に託したとしても、それは決して叶わない。
 絶対、絶対に叶わないのだ。


 夏至は越えたから、また少しづつ陽は短くなっていくのだろう。けれど、今日の暮れがいつもより早いのは曇り空のせいだ。朝からずっと、今日の空は覆われている。
 喫茶店から佐藤の道案内で(吉田はもう自分がどこに居るのかさっぱり解らなかった)いつもの分岐点まで行った所で分かれた。結局、今日も佐藤と一緒に過ごす事になって、明日の女子がちょっと怖い、と今から思う事で心の準備を始める吉田である。
 吉田に言いつけられていた事は、あくまで佐藤より先に変える事である。交渉の橋渡しまでしろとまでは言われなかったのだから、例え佐藤がここに居たとしてもその役目を全うした自分が咎められる謂れは無いのだが、理不尽に責められる可能性は大いにある。
 そもそも何で俺ばっかり怒られるんだ。実際にぶっちぎって来たのは佐藤じゃん、とやりきれない思いを抱えながら、夕食、風呂、と残りわずかな一日を過ごしている。
 風呂から上がり、自室へ入った吉田は机の上にある短冊を手にした。何も書かれていない。
 思わず持って来てしまった訳だが……けれど、今こそ願い事を書けばそれこそ佐藤には絶対知られないものとなる。ある意味チャンスか?と頭を拭いていたタオルを適当に放り、吉田は机に座る。
(えーと……)
 この短冊に何を書こう。そう考えると、思いが止まってしまう。考え付かないのではなく、まるで気付かないように目を逸らすかのように。
 願い事を書くに辺り、吉田のその対象は決まっているのだ。それは伸び悩んでいる勉強の事でも背の事でも無くて。
(……佐藤……)
 いつだって頭に思い浮かぶのか彼の事。吉田は、短冊にまず「佐藤」と書いた。
 さて、その次。接続詞だろうか。
 に、を、も、が、と……
 紙面に書かれた「佐藤」という文字の後、頭の中でそれらの字を思い浮かべる。
 そして、吉田の手がまた動く。

《佐藤が》

 次に続くのは。

《佐藤が俺》

「……………」
 もう、敢えて何も考えないようにして、一気に書く。

《佐藤が俺の事だけ好きでいますように》

「………、……………~~~~~~~ッッ!!!!!」
 ゴン!と思わず音を立てて机に突っ伏す。
(うわ~、もう、なんて事書いてんだ……!)
 正直、軽く引く。けれど、本音なんて大体そんなものかもしれない。
 こんなの、万一だって佐藤の目に触れてはいけない。机の横にあるゴミ箱が目に入ったが、佐藤への本音を綴った短冊を捨ててしまうにも忍びない。
 困ったものはとりあえず引き出しに仕舞うに限る。散々な結果のテストだって、いくつも眠っているのだ。吉田は一番上の引き出しを開け、その一番奥に二つ折りにした短冊を仕舞いこんだ。
 忘れた頃に見つけて、また憤死しそうだな……とか思っている間はまず忘れないだろう。
 やれやれ、と何だか酷く疲れたような気分になってしまい、吉田は気持ちを切り替えるように窓を開く。どうせ、湿気が入り込んでくるんだろう、と思ったのだが、割と爽快な夜風が吉田の顔を撫でる。
 まさか、と思って窓から少し身を乗り上げて空を見上げてみると、そこには帰宅する時まではあった雲がすっかり掃われ、綺麗な天の川が拝めた。近年まれに見る程の美しさだった。
 わー!と吉田は声を上げ、そして次いで携帯電話を取り出して佐藤へと繋げる。2コールで佐藤は出た。
『どうした?』
「なあ、佐藤! 今、空にめっちゃ星が見える!!」
 早くこの感動を佐藤にも味わってもらいたくて、台詞にもなっていない声で呼びかける。うん、と少し笑ったような声で佐藤が頷いた。
『今、俺も見てる。晴れたよなー』
「え、見てたって、いつから?」
『5分前くらいかな』
 吉田が空を覗いたのはついさっきだ。なんだー、とちょっと不貞腐れる。
「だったら、その時電話してくれても良かったのに」
『いやでも、風呂に入ってるかもしれないって思ってさ』
「それならメールとか……佐藤、風呂は?」
『まだ。吉田はもう入った?』
「うん」
『じゃ、寝冷えしないようにな』
「……うん」
 自分を気遣う佐藤の声が優しい。だから余計に、今ここで佐藤の姿が見れない事に、胸の奥が少しばかり痛いような気がする。数時間前まで会っていたのに、なんでまたこんなにも会いたいんだろう。
 毎日会っているからといって、数時間でも佐藤を取られて平気という訳では無い。  
 もし仮に、彦星と織姫にも、メールや携帯といった現在の機器があったとしても、それで連絡だけは取り合っていたとしてもやはり年に1回の逢瀬はとても特別なものになっただろう。
 数時間前別れた所で、もう明日の朝に会う事を思っている自分が居るのだから。
 いつの間にか心狭くなったかなぁ、と言えば佐藤を喜ばすだけの事を吉田は思った。
「今頃、織姫と彦星会ってるんだよな~」
 真上を見上げ続け、ちょっと首が痛くなってきたがそれでも見ていたい。彦星と織姫にあたるわし座のアルタイルとこと座のベガを探してみるが、生憎どれがどれだかさっぱりだった。佐藤が居ればすぐに教えて貰えるのに。そんな事も残念に思う。
 今は小さな機械から伝わる電子音でしか佐藤を感じられない。とても詰まらなく思う。
『そうだな。
 で、俺たちは明日も学校で会おうな』
「……うん」
 そこで電話は終わり、吉田はくしゃみを1つするまで星空を見上げていた。



<END>