「とらちん、今日は何の日か知ってる?」
 と、山中が言ったのは5月の23日の事だった。日中はぽかぽかとしてまだ温かく、けれど陽が涼むと直前の季節を引きずるようにややひんやりとした空気も感じる、そんな頃。
 ゴールデンウイークはとうに去ったし、祝日ももう無い筈だ。後は各地域で催される祭事か何かだろうか。そんな事を想い連ねながら「知らねぇ」とそれだけを返事した。
 すると山中は、ちょっと得意そうに話し出す。
「あのね、5月23日は、日本で初めてキスシーンが登場する映画が上映された日で、だからキスの日なんだよ」
「へぇ」
 それが一般常識としてどこまで知れ渡っているのか知らないが、虎之介にとっては今日、この時の山中の口から始めて聞いた。
 人間的には愚かで馬鹿でどうしようもない山中だが、成績としてはどっちかと言えば上の方だし、こうして披露出来る知識も持ち合わせている。けれど、それもどうも女子にモテる為に会得したのでは、と勘繰るのは行き過ぎだろうか。前者はともかく、後者はその線が濃厚な気がする。きっと、女子受けのよさそうな物だけピックアップして、脳内に刻み込んでいるに違いないと。
「……? 何だ?」
 ふと気づけば、並んで歩いていた山中が両者の間の距離をさらに詰めて来た。ぶつかりそうな予感に、虎之介は足を止める。と、同時に山中も。何やらさも意味ありそうな、含みを持たせた表情で山中はその整った顔をどんどん虎之介へと近寄らせる。何だ、と虎之介が同じ質問を、今度はもう少し強めに言おうとした時、山中が口を開く。
「だからさ、今日はとらちんの方からキスして」
「……………は、」
 熱を持たせて囁く声は、まるで愛撫のように耳に響いたが、内容の方に気を取られた虎之介は呆けた顔を向けるだけだった。
「だからって、何がだよ?」
「だからー、キスの日だから」
「キスの日だからつって、どうして俺が!!」
「だって、とらちんの方からキスして貰った覚えないもん」
 そこまではにこにことした笑顔で強請っていた山中が、そこは拗ねたように言う。
「だだだ、だからつってそんな……! それに、オメーの方からアホみたいにしてくるじゃねーか!!」
 山中から距離取り、虎之介が真っ赤になって言う。というか、むしろさっきもされたばかりだ。
 それがいつもよりもしつこかったように思えるのは、あれもキスの日に因んでからのものだったのだろうか。
「回数の問題じゃなくて、俺は!とらちんから!して欲しいの!!」
「バッ……!学校で何言ってんだ!!」
 誰かに見られたらどうすると、虎之介が慌てて周囲を見渡した。幸い、人影もその気配も感じられない。そこはほっとする虎之介。しかし危機というか、山中はまだ目の前である。勿論、虎之介からのキスを諦める素振りも見せていない。
「いいじゃん!吉田だって、佐藤にしてるよ!」
「はァ!? そこでなんでヨシヨシが出てくんだよ!!」
「佐藤に負けたくない―――――!!!」
「……分けわかんねー事、言ってんじゃね―――――!!!」
 唇にキスではなく、拳を貰ってしまった山中だった。


「……そんな訳で、今日一緒に帰っていいか」
「……あー、うん。いいよ……」
 おそらく今日はずっと強請ってくるだろう。まあ、明日になればまた別の理由であれこれ色んな(そしてろくでもない)事を強請ってくるのだろうけども。
 大変だなぁ、とらちん、と行き交う誰よりも疲れてそうな虎之介を見て、吉田は思った。もうホントに、早く見限れば良いものを。目を離してはおけないという気持ちは吉田にも解るのだが、方向性としては真逆だ。 
 昇降口から校門までの道のりで、虎之介が言う。
「佐藤は良かったんか?」
「へ? ……あ、うん!うん!」
 一瞬佐藤が何だ?と思った吉田だが、つまり「付き合ってる相手をほっといて良いのか」という意味だろう。理解した吉田は、顔を赤らめてかくかくと頷いた。まさかとらちんとこんな会話をする事になるのとは……!とついこの前まで続いていた中学時代を思い出し、感慨深いような、やたら照れ臭いような。
「今日は用事があるから先に帰ってて」
「そうか。…………」
「とらちん?」
「いや、なんでも」
 頷いた後、虎之介が妙な表情を浮かべた事に、吉田がちょっと怪訝に思って声を掛ける。やり過ごした虎之介だが、内心「ホントにただの用事なのか」と疑っていたのだ。佐藤は山中じゃないのは百も承知だが、かつての山中と同じく女子に囲まれてるので、つい思考がそっちへと飛んでしまう。とは言え、佐藤は女性にモテても、決して女好きではないのは見て解る事だ。にこやかに応答はしているが、それだけだ。一定以上は踏み込ませないし、その位置に居るのはおそらく吉田だけ。
 2人が恋仲だと知って、そこは勿論驚いたが、だからか、と納得出来た気持ちも持っていた。むしろ意表だったのは、高校に入って佐藤と吉田がよく一緒に居る光景を見た時だ。どういうきっかけで親交が始まったのか、敢えては聞かなかったが気にはなっていた。付き合っていたというなら、そういう事か、と理解は早い。
 それに何より、佐藤と居る時の吉田は嬉しそうと言うか、何だか可愛らしくも見える時があるのだ。同性の友達に対して可愛いなんて印象、持ち合わせる筈もないのだが、語彙も豊富ではない虎之介としてはそう形容するしかなかった。隣に佐藤が居る時の吉田と居ない時の吉田は、明らかに違った。
 あの時は周囲にも人がいたけれど、2人きりとなったらまた違う表情になるんだろう。そう思った時、ふと思い出した。


 ――吉田だって、佐藤としてるよ!!


「……………」
 本当に、やはりしてるんだろうか、と中学からの親友の横顔を、ちょっとまじまじと見詰めてしまう。そうしたら、目が合ってしまった。
「とらちん、やっぱ何かある?」
 度々物言いたげそうな虎之介に、もしや相談事があるのでは、と吉田は思ったのだ。正直言って、どっちかと言えば鈍感寄りな吉田だが、それでも解るものは解る。最も、その解釈は多少ズレていたが。
 虎之介も、さすがに2度目となると上手くは躱せられなかった。気になる所でもあるし、また同じ事を山中に言われた時の反証として、ここは思い切って聞いて見る事にした。幸い、人気の無い道に差し掛かっている。
「……ヨシヨシって……」
 うん、と頷く動作を入れて話し易くさせる吉田。虎之介は、ちょっと吉田の方から顔を逸らし、言った。
「……ヨシヨシの方から佐藤にキスする事とか、あるんか?」
「……………… へっ?」
 おそらく、吉田が思い浮かべたものと何もかもが違ったのだろう。まず、足が止まる。そして台詞を聞き入れるのに時間がかかり、そしてその意味を把握するのにも吉田は時間をかけ、全て理解した時には熱病にでもかかったのかというくらいに顔を赤らめた。
「なっ、なっ、なん!!!」
 なんでそんな事を訊くのか、と言いたいらしいが、とても口が回っていない。虎之介も、すぐさま質問を撤回した所だが、こちらもこちらで良い言い回しが思いつかず、やはり顔を赤くしておろおろと手を右往左往していた。もし佐藤が目撃していたら「何やってんだお前ら」と素朴に突っ込まれていた事だろう。
「や、山中だな!!そういう事言ったの!!!」
 あいつ~~!と羞恥を山中への怒りへと転換する事で収めた吉田。原因の全てが山中という訳でもないが、潔白という訳でもなく、虎之介はちょっと対処に迷った。
 虎之介自身山中との事は常に手探り状態なのだが、吉田だって自分の問題を抱えて精一杯なのだろう。つい頼ってしまい、相談もしてしまうが。いかんいかん、と頭を掻いて反省する虎之助。そして吉田に、悪かった、今のは無かった事にしてくれ、と言おうとしたのだがそれより先に吉田が言う。
「………た、たまになら、する」
 ここで何を、と言ってしまう程虎之介も馬鹿では無かった。これはアレだ、さっきの問いかけに対しての答えた。と、言う事は……言う事は!
「え、えっ! どんな! どんな時に!?!??」
「ど、どんな時って、」
 その形相というより、追求されている事に吉田は慄く。
「……まあ、大体佐藤がしてって言うからだけど……」
 言ってんのかアイツも!!と虎之介は内心瞠目する。虎之介から見る佐藤は、基本澄ましているような雰囲気なので、とてもそんな事を強請るようには見えない。裏と表の顔を使い分けているのか、あるいは吉田にだけ素を見せるのか。佐藤の意外な一面を知ってしまった虎之介である。
「……佐藤が言うからしてるけど……でも、俺も、………~~~~~ッッ!!!!」
 その後に続くべき言葉は、沸騰して蒸気になって吉田から噴出されているみたいだった。今、水を入れたヤカンを吉田の頭上に置いたならたちまち湯になるのではないかというくらいの。
 でも俺も、から来る台詞と言えば、やはり「したいと思ってる」というような感じだろうか。
 ヨシヨシ、佐藤の事好きなんだなぁ、と虎之介まで何故だかここで赤くなってしまう。
「だけどさ、いっつも佐藤は急なんだよなー」
 ある程度の時間が過ぎ、吉田はちょっとだけ普段の調子を取り戻した。
「学校はダメって言ってるのにしてくるし……」
 そこは大いに虎之介も同意出来る。ベタベタ引っ付くなと言っても引っ付いてくるので、もう言うのを諦めてしまったが度を過ぎれば力づくで退かせる。それに、と吉田は続ける。
「するならその前にちゃんと聞いてからするって言った癖に、守ってくんないし」
「…………」
「する前に聞いた試しが無いんだよなぁ~」
 むぅ、と剥れて腕を組む吉田。けれど、虎之介は。
(……何か……その方がよほど恥ずかしい気がすんだけど……)
 そんなやり取りを事前にするくらいなら、不意打ちの方がマシだと思う虎之介だ。
 吉田の方が変なのか、それとも自分の方が変なのか。まあ、恋する者なんてある程度は変かもしれないが。文字が似ている、と言い始めたのは誰かは知らないが、良い着眼点である。
「とらちんも、山中と、その~……してたり、するんだ?」
 キス、という単語はまたも隠された。経験がある為に単純に口に出せない。
「お、おぅ、」
 吉田には答えさせておいて、自分ははぐらかすなんて真似は出来ない。ぎこきなく頷くと、吉田の顔が顰められる。山中と付き合っている事に関し、吉田は良い顔をしない。というか、事情を知る中で歓迎している者は誰一人としていない。そこで虎之介といえば、無理もないと申し訳なく思うしかないのだが。そんな虎之介に、吉田が言う。
「口をくっ付けるだけの事かもしんねーけど、嫌なら殴ってでもちゃんと拒否しないとダメだからな!」
「う、うん……」
 そこなんだよなぁ、と吉田に頷く傍ら、胸中でぼやく。
 頼まれた事は嫌と言えない性格ではあるが、それでも自分にとって嫌な事を強要されたら、それは殴ってでも阻止する。それをしないという事は、されるがままながらに、虎之介だって山中とのキスを、望んでいるとまではいかないが、受け入れいている、嫌だとは思っていないのは確実だ。この調子なら、近い未来に山中に強請られるまま、自分の方からしてしまいそうだ。
 それがバレたら、またヨシヨシに軽く怒られしまうなぁ、とそんな危惧を抱きながら、今は妙な質問をしてしまった詫びにと、見かけた自販機にジュースを買いに行く虎之介だった。



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