関係が秘匿されていた頃と、露見された今。何が違うかと言えば、特に違わないというのがいっそ恐ろしいというかすさまじいというか。
 実際、現在の吉田の頭を煩わせるのは、佐藤と恋人同士という事実がすっかり蔓延した私生活についてではなく、明日提出になっている英語の課題の事である。その中で何よりも致命的な和訳の課題で、吉田は文字通りひーひー言いながら取り組んでいた。そして、それをにこにこしながら眺めるのは佐藤である。今日はまんまと自室へと引き込めたので、心置きなく吉田を独り占め出来た。
 文章として通じるかはさておき、まずは単語を逐一訳して行け、という佐藤の指示のもと、吉田は英語辞書を用いてせっせと単語の訳をノートに書きこんでいく。ちなみに佐藤の方だが、吉田と同じタイミングでやり始めたがとっくの昔に終えている。佐藤は早いというのもあるが、それ以上に吉田の筆の進みが遅かった。
 むぅ、と辞書を片手に吉田は、不意に目の前で優雅に寛いでいる佐藤を恨めし気に眺める。
「良いよな、佐藤は!」
 そして、こんな事を言い始める。
「イギリスで暮らしてたんだし!和訳なんて、すっげー楽に出来るんだろー!」
 終いには不公平だ、なんて言い始める吉田である。
「そりゃ、暮らしてたは暮らしてたけど、それで楽だなんて言われるのは心外だなー」
「何でだよ!!?」
「産まれてこの方ずっと日本語使ってるのに、国語のテストが100点じゃないだろ?」
「…………、う」
 ズバリと決め込まれた反論に、吉田はぐうの音も出なくなった。最終的には言い含められると解ってるくせに、噛み付く吉田が佐藤にはとても可愛い。
「まあ、でも、確かに現地で暮らすのが一番言語は覚えやすいよな。
 吉田も一度海外で暮らしてみるか?」
「……いや、特に日本に不満も無いし」
 完全に腰が引けている吉田が言う。別に不満があるから移住するという訳でもないだろうけども。
 これ以上何か言っても佐藤に遊ばれるだけだと(やっと)気付いた吉田は、再び課題へと向き直る。そんな心境が佐藤には手に取るように解る。特に何をするでもなく、ただ吉田の様子を見ているだけなのだが佐藤はそれでちっとも退屈しなかった。
 吉田には冗談半ばで口ずさんだが、吉田と一緒に海外――イギリスのあの施設に行きたい思いはある。あの場所で佐藤は自分と向き合い、この中に在る気持ちに気付く事が出来たのだから。それに、初めて出来た友達にも、吉田を紹介したいと思うし。
 手紙やら通信手段で伝えても良いかもしれないが、それだと自分達の訪問を待ちきれなくなった向こうが押しかけてきそうだし。
 そんな強引な所も、決して嫌では無いのだが自分のペースを乱されるのは勘弁して貰いたいのだ。佐藤は周りが思うよりもずっと小心者だ。予想外の事はあまり起きて欲しく無い。みっともなく狼狽えるだけだろうから。実際、吉田の前では隠していた筈の素がちょくちょく表に出てしまい、「変な顔」と言われて吉田に指差されてしまっているのだから。いつだって、心が一番乱れるのは吉田の前だ。彼の前でこそ、平静を保っていたいのだが。
「……佐藤~~」
 頭の中で、吉田を引き連れての渡英計画が練り込まれている中、吉田が佐藤の名を呼ぶ。けれど、それはまるでギブアップの合図の様だった。途方に暮れた吉田が言う。
「この単語、辞書に載ってないんだけど」
「え、そんな馬鹿な」
 佐藤の部屋にあるその辞書ならば、およそ高校の教科書に載っている程度の英単語は網羅している。佐藤に至っては、辞書も要らないレベルだった。
 即座に自分の意見を否定された吉田は、少しだけ剥れる。
「だって、無いものは無いんだもん」
 だもんときたか、と佐藤は顎を撫でる。吉田は単語を単語として認識せず、単にアルファベットの羅列にしか見ていないから見つけられないのだろう。
 やれやれ、と佐藤は軽く嘆息した。
 そして、吉田の辞書を手にし――たのではなく、吉田の真横へと滑り込む。
 吉田としても、真向かいから指摘してくれるのだとばかり思っていた所に、いきなり近くなった佐藤に身体がびくりと戦慄いた。そして、点のような目を白黒させて何故に移動したのか、とでも問いたげに佐藤を見やる。
 それでも距離を取らなかったのは、いちいち怯えているようでカッコ悪い、という矜持であり、何より近いこの距離でも嫌悪感を抱かないからだ。これが山中や西田だったら、吉田は相手を突き飛ばすなりしてさっさと距離を空けていたに違いない。実際佐藤は、吉田が機敏な動きで西田を躱す様を幾度となく見て来た。けれど、自分が手を伸ばす分には、吉田が余程機嫌を損ねていなければ容易く腕の中に留まってくれる。
 こんな風に。
「わわわッ!?」
 辞書を見る為に横に来た佐藤に、ぎゅうと腕に抱きしめられて吉田が泡を食ったようにじたばたし出す。けれど、それも抵抗とは呼べない些細なもので。
「ひぇ――――ッ!?」
 動く度に揺れる髪からちらちら覗く耳に、佐藤は不意に沸き起こった衝動のままに軽く食む。普段あまり触る場所ではない個所に加わった刺激に、吉田の身体が硬直した。
 吉田の動きが止まり、施しやすくなったのを良い事に、佐藤は吉田の耳を執拗に舐る。耳たぶや、穴に舌を差し込んだり。
「うわ、ちょ、止め、馬鹿ッッ!!!」
 時折吉田の足が床を蹴るのが、逃れたいからの抵抗からか、感じ入った為の反応なのかは吉田本人にも区別がつかない。
 佐藤の舌先を感じ取る度、腰の奥からじんわりとした疼きが起こる。これはヤバイ、とさすがの吉田も思った。
「しゅ、宿題! 宿題すんじゃなかったのかよ!!」
 吉田の由々しき学力を、一番気に揉んでいるのはおそらく佐藤かも知れなかった。何故なら、うっかり吉田が留年でもしようものなら、少なくとも同じクラスに所属する事は無くなる。まあ学年が違っても接点は持てるだろうが、同クラスという恩恵を知った今となっては、勿論今後もそれが続いてほしいと願う。必ずしも進級して同じクラスになるという確証もないが、学年が違えばその可能性すら皆無なのだ。それに第一、吉田だって佐藤を「先輩」とか呼びたくはない。絶対。
 テストで大幅な得点が期待出来ない吉田にとって、日々の課題提出はかなり重要だ。そんな事、佐藤の方がよく解っているだろうに。
 勿論、佐藤が失念していないのは、吉田がそう口にした事でひたりと止まった動きにある。このまま退いてくれたら、と吉田は祈らずにはいられない。自分が思いのほか、快楽に流されやすいのは南の島で思い知った。今から振り返ると、よくも毎日あんな事を、とその時の自分に突っ込みたいくらいだ。
 とはいえ、その記憶を留めたまま、同じ環境下に置かれたら同じ事を繰り返すのだろうけど。
 吉田だって、気持ち良い事は好きだ。それが好きな人が相手というなら、尚の事。
「……仕方ない」
 吉田が南の島でのあれこれと思い出して沸騰しそうになっている時、ぽつりと佐藤が呟きを零した。
 軽い嘆息が混じったその台詞から鑑みるに、どうやらこの腕の中から解放出来そうだ。良かった、と吉田は胸を撫で下ろす。別に佐藤とするのが嫌いでは無い。嫌いでは無いのだが、むしろそこが困るというか。大体この前の日曜にしたばかりだし、とまた別の事で頭の中をぐるぐると掻き回す。
「続きは、宿題終わってからだな」
「え、」
「さー、さっさと片付けような。さっさとv」
 にこり、と呑気に目を弧の字にして言う佐藤。
 そこには何の躊躇も無くて、なのに自分はこんなにヤキモキしてて。
 仮にも付き合ってるのに、両想いなのに、この差はなんだ!と吉田はよく解らないままに猛り、そして叫んだ。
「そ、そんなにバタバタしてまでしたくない!!!!」

 吉田のその必死な叫びが通じたか、その日には宿題やって、美味しいお菓子を貰って吉田は無事に帰れた。
 ただし、佐藤の大笑いと、後日にはきっちりその分も回収されたのだが。



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