これまでずっと詰襟だったから、ブレザーやワイシャツの首回りの感じにまだ少し慣れない。けれど、着続ければいずれは慣れるだろう。そんな制服の違和感なんかより、東にはずっと大きな問題を抱えている。
 思わず転校してまで追い駆けてしまったが、西田がそんな自分の事を快く感じていないのは解っている。それこそ、転校する前から。
 それでも近くに居たくて顔が見たくて。けれどやはり、自分以外に熱を上げている彼を見るのは辛い。なまじ吉田が良い奴なものだから、恨むにも恨みきれない。かと言って勿論、西田に怒りをぶつけたりなんて出来る筈もなく。だって興味を無くした理由を、東はよく解っているから。西田が好きなのはちょっと一般よりも逸れた顔立ちで、何より小さな体躯。今となっては西田よりも大きくなり、どうしてか女子に黄色い声援まで貰うようになってしまった自分は、どうやっても西田の好みの範疇からは外れてしまっていた。
 それでも、好きだと言われた事もあるのに。
 熱の籠った目で、見つめられた事だってあるのに。
 西田の気持ちは変わってしまっても、東の気持ちは未だあの時のままだ。いや、むしろずっと好きになっているのかもしれない。
 繰り返して思い出す事しか出来ない記憶を思い浮かべ、今日もまた人知れずに涙ぐむ東だった。
 これが自室で一人きりならば心置きなく泣けるのだが、今はまだ学校の渡り廊下、というかむしろまだ午前中の休み時間である。今からこんなナイーブになっては、下校まで持たない。ぐしぐし、と東は制服の袖で涙が零れる前に拭いた。
 と、その前に吉田を見かける。
 けれどその吉田の様子が何だか可笑しい。ちょっと、歩き方がふらふらしているように見えるのだ。
 吉田は悪くないと思いつつ、やはりどうしても当たりがキツくなってしまう。だから今となってはなるべく、用も無いのなら率先して声を掛けまいと思っているのだが、異変があるのを見過ごせない東は吉田を呼んだ。
「おい、吉田義男!」
「…………、え?」
 普段からぼけた所もある吉田だが、今日はいつに増して酷い。おそろしく緩慢な動きで振り返ったかと思えば、軽く一声発した後、何故呼んだとも問いかけずにぼーっと立っている。苛立ち紛れに足を荒げ、東が近寄っても吉田は無反応だ。普段なら「何?」とか「どうした?」と言うのだが。
「おい、お前何か変だぞ」
 あきらかに平常では無さそうな吉田に、しかし何処が可笑しいのかはっきりと掴めない東は、まずそう言った。吉田はくてん、と首を傾ける。言われた内容が解らないのだろうか。
「佐藤は? 一緒じゃないのか」
 東は軽く辺りを見渡して言う。にわかには信じられない事だが、あの美しいという形容の似合う佐藤と、この吉田は恋人同士だという。それが冗談でも揶揄でも無いのは、2人を見れば東にも解る。だから、自分にはおぼろげな異変だが、しかし自分にも感じ取れる違和感を佐藤がほっとく筈がない。
「あー、佐藤なー」
 自分の事を尋ねられた時は首を傾げただけの吉田だったが、佐藤の事を尋ねられたらすぐに反応を返した。やはり、なんだかいつもより間延びした口調で吉田は言う。
「何かなー、風呂場かどっかの水道壊れて、業者の人が来るから、午前中はおやすみだってー」
 午後からは来るみたいー、と吉田。
「……? 親はどうしたんだ?」
 理由としては真っ当かもしれないが、それを佐藤が担っているのが東には解せない。例えば自分の家ならば、母親が修理に来た業者の相手をするだろうし。
「佐藤、お姉さんと二人暮らしだから、」
「ああ、なるほど……って、お前、本当に大丈夫か?」
 佐藤が居ない疑問は解消されたが、吉田の異変についてはそのままだ。しかも「なんだかふらついているように見える」、が「明らかにふらついている」に変って来た。
 もしかして、熱でもあるのだろうか。顔を見れば解るかもしれないが、何せこの身長差で、東から見えるのは殆ど吉田の頭部だった。2人が視線を合わせるには、吉田は顔をほぼ真上にしなければならない。
 そうだ、いつもなら首が痛いと文句を言いながらも、吉田は自分と顔を合わせてくれるのに、今日はそれもない。東が感じた一番の違和感は、これかもしれない。
「えー? そうか?そうでも、…………」
「え、オイ!?」
 一層激しく吉田の身体が傾き、重心を外れて身体がぐらりと傾く。それを東は、慌てて支えた。
 そうして、ようやく拝めた吉田の顔はやはり赤かった。今はきゅ~と目を回している。
 手を当てて計るまでも無い。明らかに発熱していた。
(――全く!!!)
 馬鹿は風を引かないというか、風邪を引いた事に気付かないのか!!しかもなんだこの軽さは!腕一本で余裕だぞ!?!??
 内心で激しい舌打ちをし、保健室へ連れて行こうとした所で、東はとんでもない事に気付いた。
 保健室の場所が解らない!!
 初日、おそらく吉田に案内して貰ったような気がするが、あの時はとても素直に耳を傾けられる心情でも無かったし。しかもこんな時に限って、多くいる筈の生とが何故か1人もここを通らない。尋ねる相手は、ぐったりしている吉田のみ、ということか。吉田には悪いが、少し頑張って貰おう。ぺちぺち、と東は軽く頬を叩いた。
「吉田、おい、吉田!」
「ん~~~~????」
 よし、辛うじてだけど、意識はあるみたいだ。
「保健室に行きたいんだが、場所が解らない。どこにあるのか………」
 そう、東が尋ねている最中の事だ。
「……東? ―――って、吉田!!」
 最初は怪訝そうに、そして驚愕した声を上げたのは。
「……に、西田、」
 誰か通らないかとさっき思った東であったが、何故ここに来たのが彼なのか、と詰れずにはいられない。西田は東の腕の中に吉田がいると知ると、慌てて駆けよった。
「なんで、吉田……」
 西田は途中で台詞を遮り、東の方を向く。
 自分を見る西田の目つきが険しくて、東はびくりと肩を竦ませた。
「吉田、どうしたんだ? まさかお前が何かしたのか?」
「――え……」
 そんな訳ない。そんな事、する訳ない。
 そう反論したいのに、疑われたショックで東の口は思うように動かなくて。
 結果無言になってしまった東に、西田は苛立ち混じりに詰め寄る。
「聞いてるんだからちゃんと答えろ!東、お前――――ッ!?」
 西田の台詞がまたも途中で途切れる。けれど、それは本人の意思からでは無かった。軽くバキッとした軽い破壊音。それは西田の頬に打ちつけられた拳の為だ。それは、吉田が繰り出したもの。
 殴られた、といっても大した威力でも無かったが、吉田の拳が当たった頬を抑え、西田は呆然と吉田を見る。東もまた、驚いて吉田を見た。
 吉田は東の腕を掴み、何とか体を起き上がらせて西田と対峙する。元から目つきの悪い双眸を、さらに吊り上げ、西田に向かって怒鳴った。
「――あ、……東は、な、……俺の、心配、してくれたんだッ!!」
 2人のやり取りを吉田は聞いていたようだ。東に支えられながらも、尚も体をぐらつかせ、それでも吉田は言う。
「そんな、酷い事、言うな―――――ッ!!」
 そして吉田は、今度は完全に意識を失ったようでばったりと東の腕の中で倒れ込む。残っていた力を使い果たしたみたいだ。
「……………………」
「……………………」
 気まずい沈黙が2人の間に流れる。しかし、いつまでもここでこうしている訳にはいかない。
「……保健室、」
 まず口を開いたのは東だ。その声で、西田はようやく我に戻ったらしい。
「あ、ああ。そうだな」
 きっと、吉田は西田が運ぶのだろう。その姿を思って、東はちくりと胸が痛くなる。例え、自分の具合が悪くて倒れた所で、到底抱き上げられての移動なんて出来っこないのだし。
「……東、」
 と呼ばれた声で東は西田を向く。
「その、吉田はお前が運んでくれないか?」
「え?」
「俺が運ぶと……あとで佐藤が煩いだろうし……」
「……………」
 佐藤は午前中は来ない。そう言おうとしたのだが、きっと西田の本意はそこじゃないのだろう。
「う、うん」
 東は吉田を抱え上げ、西田の案内で保健室へと向かった。


 保健室は無人だったが、開放されていた。風邪薬を貰いたかったが、保健医が不在では勝手に薬類を取り出す訳にはいかないだろう。幸いベッドは空いていた。吉田を休ませる為にまずは横たわらせた。冷えピタやアイスノンがあれば良いんだけど、と東はハンカチを濡らし、吉田の額へと乗せた。乗せた瞬間、吉田は軽く呻いたが、目を覚ます素振りは無い。
 保健医に吉田の事を言っておかねばと、東は保健医が戻るまでここに居るつもりだったが、西田も何故か離れようとしない。それはやはり吉田が心配だからか。自分が吉田に何かしないか、見張っているからか。カーテンで仕切られた中で、東は身を縮こませた。
「……悪かった」
 ぽつり、と西田から発せられたのは謝罪の言葉だった。東が軽く目を見張り、隣の西田を見る。西田は、沈痛な表情をしていた。いつもの、迷惑そうな顔とは違う。
「……お前が、そんな事をする奴じゃないのは解っている。解っているけど、、そんなお前がそうしてしまったのなら、そうさせたのは俺なんだって、思ったら、何か……」
 そこで、西田ははーっと重い息を吐く。
「そんな自分が許せなくて、つい八つ当たりしたんだ。……本当に、すまなかった」
「え、や、べ、別に、そんな、」
 西田に謝れ、東は慌ててあたふたと手を意味も無く動かす。そんな仕草に、西田がふっと口元を緩めた。
「!!!!」
 最近の、自分と接する西田は主に困惑するか戸惑うしかなくて、そんな柔らかい表情を間近で見れたのはもうかなり久しぶりだ。やっぱり好き、と西田の顔も見れなくなった東は、吉田よりも余程顔を赤らめてぎゅう、と目を瞑った。東は目を瞑ってしまって解らないが、東のそんな様子を見て、西田は一層表情を綻ばせた。図体は大分大きくなったのに、中身はそのままなのだ、東は。こんな顔、前にも見た事がある。それは小学生の頃、登校中で好きだと告げた時だっただろうか。
 あの時は本当に東が可愛くて、大好きで大好きで。
 でも小学上級生くらいになった時から、東の成長が著しくいつの間にか背丈を追い越されて――
 東の白目がちの目で見上げられるのが好きだった。東が自分よりも大きくなってしまったのなら、それはもう叶わないのだろうと。
 一緒には居たけれど、東が遠くに感じられた。中学で越す時、これで身も心も離れられて、すっきり出来ると思ったのだが。
 東は追い駆けて、また、こうして一緒に居て。
 やっぱり東は大きいままたけど。
 自分を好きなのもそのままで。
 ――だったら自分はどうかのか。
「…………」
 確かに離れようとした。離れようとしたしたけれど……
(――嫌いじゃないんだよな、決して)
 居なくなれば良いなんて、欠片も思った事もない。
「西田?」
 羞恥にぎゅうと目を瞑っていた東だったが、いつまでもしている筈も無い。ようやっと目を開けるまでになったら、すぐ横の西田は自分をじっと見つめていて。また何か、自分の知らない内にやらかしてしまったか、と畏縮する東は身長こそ高いが首を竦めた分だけ軽い上目遣いになった。自分の好きな角度に、西田がう、と詰まる。
「西田……?」
 若干表情を強張らせ、硬直したような西田に、やはり自分が何かしてしまったかと不安になる。
 と、いうか――
(……近い)
 カーテンに囲われた中で、大した広さも無いのだが、それを踏まえたとしてこの間隔はやけに近いような。少し身を引いた方が良いんだろうか。だってこんなに近いと――
「…………」
 触れてしまう――
 それを意識した途端、またも東の顔がぼっと赤くなる。けれど今度は、目を瞑ったりしなかった。西田が自分を覗きこんでいて、それに縫い取られたみたいに瞼すらも動かせない。ど、どうしよう!と激しくなる動悸で身体全体が鼓動しているみたいだ。そうこうしている間、心なしか西田が距離をまた詰めて来たような――
「…………………」
 自分達の間にある空間が、あと何センチという所まで縮まる。
 そして。
 ―――バゴン!!!!!!
「ぐっふっ!?」
 西田の顔が吹っ飛んだ。
「……………………」
 その代わりとばかりに東の視界に飛び込んだのは、大きな握り拳である。さっきの吉田のとは比べ物にならない。何より威力が段違いで、西田は保健室の床に横転していた。
「―――ああああ、西田!!」
 東が慌ててしゃがみ込み、西田を介抱する。そして、西田を吹っ飛ばした張本人に向けて、言う。
「さ、佐藤!何するんだ!?」
 いきなり現れた拳の持ち主は佐藤だった。佐藤は不敵な態度で自分達を見下ろしている。まだ午後ではないのだが、予定が早めに終わったのだろうか。
「俺としてはお前らが素直にくっ付いてくれるのは万々歳なんだが――」
 と、そこで佐藤の視線は床の2人を越え、吉田の方へと注がれる。
「寝込む吉田の前で、妙な事するなよな」
「みょ、妙な事って、」
 あうあう、と陸に上がった金魚みたいに顔を赤くして口をパクつかせる東。
 その東と西田の襟首引っ掴み、佐藤はカーテンの外へぽいっと放り出した。
「俺は吉田を見てるから、お前はそいつの治療でもしてやれ」
 情けも容赦も手加減もしない佐藤の拳は、西田の頬をすでに腫れさせていた。
「―-おい佐藤! お前こそ寝込む吉田に何かを……!っつつ!!」
「ああ、ほら、叫ぶと痛むだろ」
 佐藤に対して敵意を剥きだす西田を宥めながら、近くの椅子に座るように促す。医薬品の類は棚に入れられて鍵もかかっているが、軽い怪我に使うガーゼやテープくらいは紙に申告すれば生徒だけでも使えるようになっている。ここに転校する前は体育会系の学校に進んだのだから、この手の治療はお手の物だ。
「冷やせるものがあれば良かったんだけど――」
 滲んだ血を拭き取った東が零す。ハンカチがあれば代用できたが、それは吉田に使ってしまった。するとその時、東に向かって何かが飛んできた。思わず掴めば、それは自分のハンカチだ。吉田の額に乗せていた。おそらくは絶対、佐藤が投げたのだろう。おそらく東に返したというより、吉田の額にあるのが嫌で投げ返したのだろう。東の気遣いを何だと思ってるんだ、とカーテンの向こうに居るだろう佐藤を、西田は軽く睨む。
「あの、これ、」
 と、新たに水に濡らして絞って来たハンカチを東は西田に手渡す。
 当てられた箇所に、西田はそっと押し当てる。チリッとした痛みを感じ、顔を顰める。全く佐藤め、こんなにひどく殴らなくても……そんな風に佐藤に恨みをぶつけていた西田は、気づくのが遅れてしまった。
「――悪い! 血が付いた!」
 慌ててハンカチを離すが、すでに血がついた後だった。東はさっきしっかり拭ってくれたが、さっきの今だからまだしっかり収まってなかったのだ。それは小さな滲みだったのだが、なまじ白い為にその赤い色はとても目立った。血の滲み抜きってどうやるんだっけ……!と頭を悩ます西田に、東がああ、と何でも無いように言う。
「良い。ハンカチくらい」
「良いって、お前……」
「それより、西田の怪我の方が心配だ」
 余程痛むのであれば、今すぐにで校内を駆けまわって保健医を連れて来なければ。それくらい思っている東に、西田はまた何とも言えない気持ちになってしまった。これは心変わりしてしまった事に対するただの贖罪だろうか。それとも、あるいは。
「――ハンカチ……」
「ん?」
「後で、新しいの渡すから」
 西田の申し出に、東が慌てる。
「い、いや、そこまでしなくても―――」
「――良いんだ」
 東の声を遮り、西田が言う。
「俺が、したいんだ」
「…………っ」
 まだ着慣れないブレザーの胸部をぐっと掴み、東はまた荒れ狂う動機を抑える。
(――西田は良い奴だから、きっと他の奴に対しても同じ事をするだろう)
 自分だけが特別なのではない、と東は己に言い聞かせた。
 そして一方で西田は、
(……こいつ、可愛いのが好きだから、可愛いプリントのハンカチにしようか……あ、でも、学校に持って来辛いかな)
 西田に贈るハンカチについて、つらつらと考えていたのだった。




<END>