新年が明けて一か月経った。そしてこの頃、中だるみしていた気分が再び引き締められる。全てが、とは言わないが、ある一定の年代はとくに機敏に、敏感になるだろう。
「おい、吉田~」
 と、声を掛けて来たのは相変わらずのらくがき顔の牧村である。近日迫るあのイベントに、吉田が知る中で最も意欲的で、もっとも惨敗するだろうという人物だ(失礼)
「お前、佐藤にどんなチョコあげるんだよ?」
 そんな牧村からそんな質問を食らい、朝、登校して席に着いた早々、吉田はそのテーブルにしたたかに額を打ち付ける羽目になってしまった。ゴン、という音が額を通じて頭全体を響かせる。
「な、なんでそんな事、お前に言わなくちゃならないんだ――――!?」
 ガタンッと席を立ちあがり、吉田が叫ぶ。佐藤ならまだしも、というか佐藤にも答えられないというか。全うである筈の吉田の反論に、しかし牧村はむしろ「バカヤロウ!」と強気に出た。
「お前と佐藤が別れたら、また女子が佐藤に夢中になるだろう!? 今だってそうだっていうのに、フリーになったらそれがもっと加速しちまうだろ!」
 牧村の奮う熱弁に、周囲の男子がうん、うん、と頷いている。なんだここ、俺にとってのアウェーか、と朝一番ですでに吉田は帰りたくなった。
 それに佐藤と別れたら、なんて縁起でも無い。佐藤の方だって、そんな可能性を思っていたのならあんな大々的なカミングアウトはしないだろうし。勿論、吉田本人だって。
「だ・か・ら、バレンタインに佐藤のハートを改めてがっちり掴むようなのを渡すんだよ! もう決めたか? まだか? 何なら、俺が選んでも……」
「俺がなんだって?」
 何が悲しくて牧村の選んだチョコを佐藤に渡さないとならないのかと、吉田が口を挟む前、まさに御当人が現れた。さすがの牧村も、本人を前にしてこの手の話をするつもりは無いらしい。ピタ!と一旦停止ボタンを押したように止まった。
「い、いや、何でも無いんだ。吉田と仲良くなっ!」
 何だか勝手な言い分を残し、牧村はさっとその場を立ち去った。全く、色々調子の良い奴め、と遠く離れる牧村の背中を、吉田は軽く睨んでやった。牧村の意見に同調していた男子も、佐藤の登場からさりげなく背を向け、無関係の第三者を決め込んでいた。
「何だ、あいつ」
「さぁ……」
 吉田も、今さっきの会話を佐藤に教えるつもりも毛頭ない。恥ずかしいというより、馬鹿らしいという気持ちが先立っている。
 本当にもう、朝っぱらから疲れてしまった、とさっき牧村に突っ込んだ時に立ち上がっていた姿勢から、椅子へと腰を下ろした。
 座った吉田の顔を覗き込み、佐藤がにこっとした笑みとともに言った。
「仲良くする?」
「……~~~~~~!!!!」
 今は教室内に居る為、しない―――!と声に出さない真っ赤な顔を浮かべたのみの吉田の突込みだったが、佐藤には十分伝わったようで、クスクスとした笑みが絶えず続いた。


 佐藤の衝撃のカミングアウトの中、女子からかは基本的に四面楚歌だし、男子からは生ぬるい応援を貰うし、野沢双子にはよくやった、と謎のエールを貰うという散々な吉田の生活だが、どんな砂漠だとしてもオアシスは存在する。吉田の場合、それは秋本であった。
「……吉田も大変だね~」
「そう言ってくれるのは秋本だけだ……」
 そう返す吉田の声にはあまり力が無い。疲弊した友人を労わるように、秋本は体躯に見合った掌でぽんぽん、と吉田の背中を叩く。
「まあ、バレンタインが来るまでだから」
「……それまで結構あるよな。あと、他の事でも同じ目に遭いそうな気がする……」
 吉田は胡乱な目で呟いた。その嫌な予感が覆る予感がしない。
 あれから、こうして帰る時間になるまでの間に牧村からは3回、そして何と他の男子からも「佐藤にどんなチョコをあげるんだ」という質問を食らった。牧村はさておき、そう尋ねて来た他男子は、おそらく気合が入り過ぎて妙な事になったチョコを貰った事があるのだろう。その惨劇を佐藤に遭わせまいという親切心かもしれないが、吉田からしてみれば大きなお世話以外の何ものでも無い。
 しかも、何故にすっかり自分があげる事が前提なのか。佐藤から吉田へとチョコを贈る可能性だって十分あるだろうに。佐藤の恋人と見られるのはまだ100歩譲って良いとして、彼女扱いされるのは何だか腹の立つ吉田だった。
 そんな吉田を近くで見た秋本は、吉田にとても同情した。同情なんて言うとあまり良い意味で使われない単語であるが、吉田が気疲れしているのを見て、自分の事の様に感じて労わる秋本の同情はむしろ寄せられて心地良いものだ。
 そんな風に気が緩んだ吉田は油断した。全く、うっかり油断した。
「――吉田義男ぉぉぉぉぉぉおおお!!!」
「わぁぁぁぁぁッ!?」
 目の前の曲がり角からばばーん!と突如現れたのは、吉田に対し常に攻撃的な東だった。吉田本人が、というより西田の想い人が気に入らないのであるが、結局吉田にとっては同じ事だ。なので、極力出会うのを避ける為、平素であれば近寄るこの気配に気付けた筈なのだが、今は疲れた所を秋本に慰められて普段働くアンテナまで休んでいた状態だったのだ。おかげで心の準備も出来やしない。
 不意打ちのエンカウントに、吉田は腰が抜ける程驚く。そして、横を見れば、秋本はすでに腰を抜かしている。吉田は悲しい事にすっかり東に免疫が出来てしまったが、そうではない秋本にはその衝撃が過ぎたらしい。
 ここで秋本を守れるのは俺だけか……!と何だかハードボイルチックな気分になった吉田だが、東の一言がさっきまで続いていた日常に戻らせる。
「お前、あの美しい男にどんなチョコを贈るんだ!?」
 思わず「ブルータスお前もか」という有名ゼリフが吉田の脳裏に過ぎった。
「……別に、どこで何買おうが良いじゃねーかっ! なんでいちいち言わなくちゃならないんだ――――!大体、こんな早くからチョコなんて買うかぁぁ――――!!!」
 ほっとけ―――!と、ここにきてとうとうこの日の吉田の溜まった鬱憤が爆発した。相手が東だったから余計にだろうか。しかし東だからこそ怒らせてはまずい。吉田落ち着いて、と秋本が腰を抜かしたまま吉田を宥めようとする。
「と、いうことはまだ買ってないんだな!? よし!!」
 けれど秋本の心配は不発に終わったようで、東は怒るというより何だか焦っているのか、吉田の肩を縋るように掴む。指が食い込んで痛いと思えるくらいの力で掴まれ、逃げ場をすっかり失った吉田に、東は言った。
「それなら、俺と一緒に買いに行け!!」
「……はっ?」
 何やら命令形で言われた事は解ったのだが、その内容はとても命じるようなものとは思えなかった。
「……えーと、一緒に買いにって……??」
「だから、バレンタインのチョコレートをだ!」
 何故解らない、とでも言いたげに東は吉田に言ってやる。ああ、なるほど、バレンタインのチョコかー、チョコをねー。って。
「何でそれを東と買いに行く事に!?」
 やっと思考がまともに回転し出した吉田。
「だって、まだ買ってないんだろう?」
「いやだから、どうして一緒に!?」
「……一人で入れるか! あんな所!!」
「………………」
 東の最後の台詞で全てを察してしまった吉田だった。確かにあの独特な空気となった特設売り場に、男性がおいそれと近づけるような所では無い。何か結界でも貼られてるのではというくらいだ。
「……でも、二人で行った所でどうにかなるもんじゃないけど……」
「数で押せば何とかなるかもしれないじゃないか」
 なるかそんなもん。というにべもない突っ込みを必死の顔つきの相手に言えるほど吉田も鬼では無い(佐藤なら言っただろうが)。
「で、でもほら、最近男でも自分用にチョコを買っていく人も多いっていうし、そんなに辛い場所でもないんじゃないかなぁ?」
 と、フォローを入れたのは腰を抜かしたままの秋本である。おお、立てないながらに窮地を救おうとするとはなんて良く出来た友だ!彼を選んだ洋子の人を見る目は確かだ!吉田が友情に打ち震えてると、秋本の言葉を受けた東がふむ、と納得してから告げる。
「それなら、構わないな。おい吉田義男。明日、駅の前で朝8時に集合だ。遅れるなよ」
「「へ?」」
 秋本と吉田の声が揃う。まるで素っ気無いメールの文面みたいな台詞を吐いて、東はもはやこの場に用は無いとばかりに踵を返し、ずんずんと足を進めて立ち去ってしまった。半ば茫然と見送る2人。そして。
「……ご、ごめん吉田! ごめんねぇ~~~~~~ッ!!」
「い、いや、秋本は悪くない……」
 そう、秋本は悪くは無い。悪くは無いのだが、秋本の一言が招いたのは確かな事実として、2人に重く伸し掛かったのだった。


 全くなんでこんな事に、と吉田はこうして貴重な休みに東と一緒にチョコを買いに行く羽目になってしまった。まあ、特に予定もないし、佐藤も実家に帰っているというこの週末だから、その辺は良かった……と思おうとしたがダメだ。やっぱダメだ。こんな休日、間違ってる!!
 よほど追い駆けてあんな一方的な約束を直ちに破棄したかったのだが、歩くのが早いのか吉田に探そうという気力が戻るのが遅かったのか、あの後校内を探しても東の姿は無かった。しかもおまけに、吉田は東の連絡先なんて知らない。西田は知ってるだろうが、色んな意味で最も頼りたくない相手だ。という訳で、吉田は仕方なく、言いつけられた予定の時間に合わせ、折角の休日に朝に朝寝坊も出来ずに起床した。今日も、寒そうだ。風邪を引いたりするなよ、という佐藤の言葉を思い出し、吉田はマフラーをしっかり巻き付ける。
 もし待ち合わせ場所に東が来なかったら、帰って二度寝出来るなぁ~なんて不埒な事を考えたものだが、生憎吉田が辿り着いた先、すでに東はそこに居た。私服の東を見るのは初めてだが、これと言った感想は無い。ただイケメンは何を着ても似合うなぁ、と凡庸に思うだけだ。
 ダウンジャケットにマフラーをぐるちと巻いてきた吉田に対し、東は青色のかかった灰色のロングコートという佇まい。中に来ているハイネックが見える。マフラーは無しだ。シンプルですっとした出で立ちに、何だか自分だけがやけに寒がりな気がしてきた。
 東は元々体育会系の高校に進んだというし、運動とかしていて筋肉もついて代謝が良いのかもしれない。
「来たか」
 相変わらず、東は射抜くように吉田を睨む。時間には間に合ってるのに、まるで吉田が遅れたとでも言わんばかりの態度である。
「っていうか、そもそも時間早く無いか? 今行ってもデパート開いてないと思うけど」
 きちんと調べてこなかったが、ああいう所が開くのは大抵午前10時くらいだろう。そして、今は午前8時。移動時間を含めても、辿り着いた時に開店はしていないだろう。まさか、その前にモーニングとか洒落込むつもりじゃないのは、聞かずとも解り切った事だが。
 吉田の問いかけに、東は答えずに歩き出す。おい!と文句を言いつつ吉田がその後を追いかけると、東は歩きながら説明してくれた。
「西田に渡そうと思ってるチョコの整理券が出るのが9時ごろなんだ」
「えぇっ! お前、そんなにばっちり調べて来たのか……」
 驚く吉田に対し、東もまた「お前は違うのか?」と意表をつかれたような顔をした。普段が敵視されているせいか、そういう表情を取られると結構幼く映った。
「好きな相手に渡すんだ。気合を入れて当然だろう?」
「それはそうかもしれないけど……」
 入れ過ぎじゃないか、と吉田は胸中でこそっと突っ込む。本音を奥に仕舞いこむ吉田に、東が「ちなみに」と付け足した。
「このチョコ、すでに買ってるという女子をクラスで何人かが言ってるのを聞いた」
「へー、人気なんだ」
 吉田が割と素直に返事をしてみれば、東は盛大に溜息を吐いた。なんだよ、と東の失礼な仕打ちは今に始まった事じゃないが、かと言ってやり過ごす事なんて出来ない。
 あのなぁ、と東は呆れた声で吉田に言う。
「佐藤にあげるんだと思うが」
「……え、」
「まあ、そこまで聞いた訳じゃないが」
 そこまで東が言った時、電車が来たので乗り込む。車内に入るとこんな休日には朝早いと呼べる時間帯だが、それぞれ予定があるようで座席はほぼ埋まっていた。出入口付近に立ち、吉田はさっきのやり取りをぐるぐると考える。
(……整理券が出るチョコか……)
 直接手渡してきたものはちゃんと断る、と佐藤は言っていたが。
 でも。
 しかし。
 些細な葛藤を乗せ、電車は進む。


「こっちじゃないのー?」
「整理券を配るのは地下にあるんだ」
 さすがにこの時期最も大きなイベントでもあるバレンタインの特設会場は、駅を降りた時点ででかでかとした広告がその場所を教えてくれる。10階催事場という綴りを吉田は見たのだが、東はてんで見当違いの方向へ進もうとしている。吉田が真っ当であろう道を指さして言えば、東は迷い無くそこじゃないと告げる。どうやら、大人しく東に任せた方が良さそうだ。大きな体躯は人並みを避けてくれるから、後に続く吉田はとても楽に歩けた。
 ここのデパートには何度か足を運んだ事はあるのだが、東の行く道はそれまで通った事もない連絡通路みたいな道だ。へー、こんな所に繋がってるんだ、と東を見失ってしまわないよう気を付けながら、今通っている道を興味津々といった面持ちで眺める。
 そうやって、整理券配布会場に辿りついてみれば――
「―――わっ、もうこんなに並んでる!」
 まだ配布される時間前であるが、すでに列は「ずら~っ」という効果音がつくくらいに伸びていた。吉田はチョコは好きだが、その為に早起き出来るかと言えば微妙な所だ。今日は止むに止まれる事情を持ってここに居るが、現状に匹敵するような事が無ければ自発的に赴く事は無い。
「先着200名だから、余裕だな」
 東が存外穏やかな声で呟く。さっきまでちょっと気が立っていたのは、整理券が入手できるかを気にしていたからなのだろうか。だったら、もっと早い時間にすれば良かったのに。それとももしかすると、付き合わせるのにそんな早い時間を指定しては申し訳ないとでも思ったのだろうか。東が憎いのは「西田の想い人」であり、吉田個人ではないのだし。まあ、西田の想い人は吉田であるが。
 壁に沿って作られた行列の先、おそらく店員だろう「最後尾」のプラカードを持った人物の元へ赴く。可愛らしいコック帽を付けた女性店員は、まず東の大きさに驚き、吉田の小ささにも驚いたらしかった。けれどそこはプロとして、にっこり笑って腰のケースに入れていたリーフレットを差し出す。それを開いた時、ここで吉田はようやっと東の求めるチョコを知った。
「結構安いんだな」
 整理券がいるなんて、どれだけ高額なんだろうと最初訊いた時は思ったのだが、今の吉田の手持ちでも十分買える金額だった。アシンメトリーの少し崩れたハートの形をしたブラウニーにチョコレートがかかっていて、その表面には小さなピンクのハートが3つ、縦に連なっている。リーフレットの情報を見ると、地元のパティシエが作っているらしい。
 他にも製品があるが、こちらは小さなチョコが1つ400円と、吉田の財産ではちょっと無理のある金額だった。どうも見ていると、純粋にチョコレートだけの製品は高値になるみたいだ。
 吉田の呟きは決して西田に呼びかけたものでは無かったが、かと言って聴こえていない距離でも無い。東からの反応が何も無いのを怪訝に思い、見上げてみると東はまるで難解な問題に挑むかのように、真剣な顔つきでリーフレットに載っている製品の説明を熟読していた。
 これは下手に声を掛けたら邪魔だな、と吉田はひっそりと時間を過ぎるのを待つ事にした。列が動き出すまで、あと少し。


 やった、貰えた、と整理券を手にして吉田はちょっと嬉しくなった。休日に早く起きて、並んだ甲斐があったものだ。番号が書かれているが、その順番通りに製品を渡すのではなく便宜上つけただけで、売り場に来た人から順次売り出していく、という事だ。整理券と言うより引換券と呼んだ方が正しかったのかもしれない。まあ、どっちでも良いんだろうけども。
「んーと、どうしようか?」
 整理券は貰えたが、開店まであと1時間近くはある。一緒に買いに行くが東の目的なので、ここで解散とは思えない。吉田の問いかけに、そうだな、と東が言う。何だか、やっと東とまともな会話が出来たような感じだ。
「どこか店に入って、何か食うか」
「うん、そうしよ」
 開店したら、あの密集した売り場に行くのだから。胃袋と体力は満タンにしていくに限る。
 時間帯が時間帯なので、まだモーニングセットを出す店も多い。その中で、トーストのおかわりが自由だという店を見つけて2人はそこに入る事にした。セットを頼むに辺り、飲み物を選ぶ必要がある。東はブレンド、吉田はオレンジジュースを頼んだ。
 先に出されたお冷を口にし、ふぅ、と吉田はひと息吐いた。寒い中で30分近く立って待っていたのだ。暖かい店内に入り、そんな体を気温に馴染ませるように解す。
 相手は指して親しく無い相手だ。沈黙が続いても吉田も特に会話を設けようという気にもならなかった。それはお互い様のようで、店内のBGMがとてもクリアに耳に届く。やがてセットが届く。サラダとゆで卵。そしてトーストのセット。おかわり自由という名目なので、吉田も3回おかわりした。東は5回だったが。
「そろそろ行くか」
 壁に掛けてある時計を見た東が言う。開店まであと5分。ここに来るまでそこそこ歩いたから、移動時間で満たされるだろう。ん、と吉田は短い返事をして身支度を始める。東はさっとコートを着込めば良いが、吉田はもこもことしたダウンジャケットを着こんでマフラーもある。もそもそと吉田が動いでいると、東は伝票を持ってレジに向かう。後で渡せば良いのかな、と吉田が動ける状態になった時、すでに精算は済まされ、東は一足早く店先に出ていた。
「行くぞ」
 ドアを潜って出て来た吉田を確認し、東は一言言って来た道を進む。あれっ、と吉田はその背中を呼び止めた。
「ちょ、ちょっと待った! 金! いくらだった?」
 メニュー票は勿論見たが、記憶する程でも無かった。金銭が絡む事で曖昧な事はしたくはない。
 吉田の呼びかけに、東はぴたり、と一瞬止まったが、その後吉田を振り返る事無く歩き出す。ちょっとー!?といよいよ焦って吉田が追い縋ると、東はそこでぐるんっと勢いよく振り向いた。その動きにもだが、何だか思わず「赤鬼?」と言ってしまいそうな程顔を赤らめている方に驚く。
「――いいんだッ!!!」
 それだけを言って、のしのしと歩き出す。
「………………」
 ちょっと取り残されたような吉田は、考える。これは、えーと、つまり。
(……今日付き合ったお礼って事で良いのかな……??)
 まあ、いいと言っているから、いいか。あれこれ考えるのが面倒になった吉田は、そう片づける事にした。そして、少しの間に随分と先に進んでしまった東を追い駆ける。この距離の分が東の照れ隠しかと思うと、ちょっと可笑しい気持ちになった。


 そして、いよいよ挑んだバレンタイン特設会場であるが――
「……………」
「…………・………」
「じゃ、俺はここで待ってるから」
 ガンバッテ、と心にもない言葉を残すと、踵を返す吉田の肩を東はすかたず捉えた。
「待て!話が違うだろ!?」
 確かに、吉田だって一緒に買いに来てくれと言われてここに来たのだから、一緒に買ってやるつもりでいた。だが、しかし!!
「無理だって! こんなのそもそも入れないし――――!」
 店舗に対しての広さとしてはまずまずなのだろうが、なにせ人口密集率がものすごい。母親に付き合ってバーゲンセールを覗いた事があったがそれくらい、いや、それ以上かもしれない。フロアの一角なので明確な出入口は無いが、、かと言って入れる隙が見当たらない。
 果たしてここはこんなに恐ろしい場所だっただろうか。何せ、とんと縁のない場所だったので、詳しい実情は吉田にも良く解らない。
「とりあえず――行くしかないだろう」
 吉田達が目指す店舗は、整理券を配るだけあって比較的広いブースのようだ。けれど、それがこの場合何の慰めになるだろうか。いや、ならない(反語)。
 東は覚悟を決めて据わった目で言うが、吉田の決意はまだ固まっていない。いやだ、あの中に入るなんて!出れなくなる!!
「うわ!」
 肩にあった東の手が、吉田の手首をがっしり掴む。そして、それを手綱の様に引っ張り、吉田を強引に連れて行く。
「こっちか」
 天井からは店名を記したプラカードがぶら下がっている。それを目当てに東は進んでいるようだ。背が高いとこういう所でも便利なんだな~、と吉田が思っている余裕は今はない。掻き分ける人込みの流れに押されても吉田の手首を離さないよう、東の大きな手がしっかりがっちり掴んでいるのだ。
「ちょ、馬鹿! 手首握り過ぎだって! 痛い痛い! 血が通わない~~~~~~!!!!!」
 とても混雑した空間で、吉田だけはチョコと無関係な出来事を口ずさんでいた。


「……っていう事があって、大変だった」
「……………………」
 ここは佐藤の自室。なので、バレンタインのチョコを東と一緒に買いに行った全貌を吉田から聞かされたのも、勿論佐藤である。今年のバレンタインは生憎の平日だが、週末なのでウィークデーよりはまだゆっくりと過ごせている気になれる。最も、今日、佐藤と過ごす時間が普段よりもたっぷり取れてるのは他の要因もあるのが、それはちょっと後に取っておく。
 東と買いに行った週明けに放しても良かったのだが、あえてこちらから打ち明けるような事でも無し、と話題を取り上げるのを先延ばしにしていた。何せ全体的に疲れた日なので、思い出すだけでも疲弊したものだ。今になって、ようやっと話せるくらいには整理がつくようになった。
 吉田としては、東が西田にチョコを渡そうと頑張っているという奮闘記として伝えたのだが、佐藤の方はどうもそう受け取らなかったようで話の序盤から何やら考え込むような素振りを見せた。どうしたの、と吉田が訪ねても話続けて、と促すので全部話したのだが、話し終えたら終えたで何やら苦渋をかき集めたような顔を浮かべている。
「ど、どしたの??」
 3回目くらいになる質問を佐藤に向ければ、佐藤は散々言うかどうかを迷った挙句、ようやく重たくなる口を開いた。
「……まさかとは思うんだけど……」
 途中で使えた台詞に、うんと合いの手を入れて話し易いリズムを作る吉田。これが計算では無いのだから、心地よい。
「そのチョコ……もしかして、その時に買ったものじゃないよな?」
 そ、っと指差したのはさっき吉田から貰ったチョコレートだ。その時はもう、天まで昇ってしまおうか、というくらい舞い上がっていたのだが、今は地獄の底で蜘蛛の糸を掴みたい気分ですらある。
「え、違うけど」
 そきょとんとし、んな事をそんなに真剣に悩んでたのか?と首を傾げた吉田だが、心の底から安堵したような佐藤を見て、ようやっと思いついた。東と同じ店で同じ製品と言う事は、要するに西田も貰ってるチョコを佐藤も受け取ったという事になる。それは確かに……かなり、微妙な気持ちになるだろう。そこに気付いた吉田は、2度目にしてもっとちゃんと否定した。
「ち、違う違うって!佐藤にあげたのは、近所のケーキ屋で買ったヤツ!!!」
 ちゃんとしたお店で買いたいと思った吉田だが、さてちゃんとした店は何だろう、と軽く悩んでいた時、急な来客があって母親にケーキを買ってくるように頼まれたのだ。言われた先に入った店内にはケーキが並ぶショーケースとは別に、チョコレートだけが入ったショーケースも並んでいた。そしてその時、すでにバレンタインに向けての予約を受け付けていたので、すかさず予約を入れたのである。ちょっと予約までしたと話すには何か恥ずかしいから、佐藤には探した先で見つけてそのまま買った、という体を取ってみる。あげたのはボンボン・ショコラが4つ入ったセットである。それぞれ味が違うらしい。包装紙もチョコレート色で、シックなデザインが佐藤に似合うと思った。
「そっか、良かった」
 吉田からきっぱりした否定を貰い、嬉しそうにした後、吉田を抱き寄せた。傍に寄せただけでは飽き足らず、よ、っと軽く持ち合えて胡坐をかいた足の上に乗せてしまう。そこまでの行動がまさに「ひょい」といった感じで、吉田は体格差を恨めしく思う。東と良い、何でこんなに背が大きいんだ!と訳もなく八つ当たりしたくなる。
 そんな吉田の怒りを余所に、佐藤は後ろからぎゅう、と吉田を抱きすくめる。吉田の頭頂に頬を埋めるように凭れ掛かり、全身を使って吉田を堪能していた。
「……苦しい」
「我慢して」
「…………」
 割と佐藤、東と出掛けたのを根に持ってるのかなぁ、と今の速答に吉田は危惧を抱く。佐藤の沸点は低く、独占欲の働くスイッチはいくつも存在した。
 後ろからのっしりと伸し掛かれられているような姿勢だが、多少の苦しさはあっても支障を来たす程では無い。
「……………」
 何となしに吉田は、自分の腰に回る佐藤の手を取る。佐藤はその動きを拒まなかった。自分よりも一回りも二回りも大きな手。
「何?」
 外された片手を、佐藤は遊ぶように動かし、吉田の指の間に自分の指を滑り込ませた。そして、軽く握る。誰が名づけたか知らないが、所謂「恋人繋ぎ」という形になった。別にこういう事をしたかった訳じゃないのに、と顔を赤らめてしっかり結ばれた自分達の手を見て、吉田はむぅ、と赤くなる。
 生憎吉田は、お付き合いも心の底から愛しく感じるのも佐藤が初めてで、他に比較が無い為に後になって気付かされる事も多い。
 東に手首を握られて、いつも乱暴だ雑だと喚いていた佐藤の行動がかなり自分を気遣ってされていた事を知ったのである。少なくとも吉田は、佐藤と手を繋いで痛いと感じた事は無かった。
 佐藤の事は大事にしたい……というか、大切にしたいというか。
 気付いてあげたい、と思うから。
 背中に佐藤の温もりを感じ、そう思い改めていると「それで、」と上から佐藤の声が降るように掛かる。
「その整理券で買ったチョコは誰にあげたんだ?」
 ああ、そこは佐藤は気になるだろうな、と吉田は割と他人事のように思う。何せ、あげた所で全く後ろめたさを感じない相手にあげたのだから。
「母ちゃんにあげた。たまには美味しいチョコ食べたい、ってこの前言ってたし」
 表だって日々の感謝を伝えるには恥ずかしい年頃だが、労いたい気持ちはいつだって持っているのだ。それにまあ、期末テストでの惨敗な結果についてこれで手を打って貰いたい、みたいな気持ちも無かった訳ではないが。
 バレンタインを待つ必要もないので、買った日にすぐにあげたのだ。しかし、その後を思い出して吉田は背後の佐藤を振り返る。
「そしたらさ~、母ちゃんってば、すっげー驚いたのは良いんだけど「雪でも降るんじゃない?」とか言ってさ!」
 一言多いだよな、と吉田。しかもその後には「息子にチョコもらったって自慢しちゃお♪」なんて言うものだから、吉田は必死になって「それは止めて」と食い下がらなければならなかった。そんな自分を見る母親の眼には、佐藤に通じる何かがあったと思っている。
 ぷんすか、と可愛く怒る(佐藤視点)吉田の台詞を聴き、佐藤は「あ~、」と相槌を打った。
「だから今日、こんな天気なのか」
「……それを言うかッ!」
 別に自分が起こした訳では無い。吉田は視線を移した先、窓の外は依然として空から雪が舞って落ちている。朝から足首まで降り積もる雪に、帰りの交通機関を危ぶみ、学校は最後の6時限目を切り上げての下校に踏み切ったのだ吉田と佐藤は徒歩通学だが、バス通学の秋本と電車通学の牧村が少し心配だ。今の所、遅延の情報は出ているが運休まではいっていないようだ。
 まあ、授業が早く終わったおかげで、その分佐藤と居る時間も長くなるのは、吉田も良かったと思うけど。
 案の定というか、吉田と付き合ってる事を公言した後でも佐藤はとてもモテる。以前から声を掛けられる勉強会や帰りのお茶とかを、佐藤は今は、嘘では無く実際の事を取り上げて女子に断りを入れていた。今日も、手渡しで来る相手にはきちんと受け取りを拒否していた。下駄箱や机など、あらかじめ仕込まれそうな所にもばっちり対策を取って勝手に入れられないようにしたのだそうだ。だから、バレンタインに吉田がチョコくれないと、俺ゼロだから、なんて笑って見せて。
 東が言ったように、朝早くから並んで手に入れたあのチョコレートを、誰かは佐藤の為にと買ったかもしれない。けれど、それは佐藤の手元には届いていないのだ。誰かと付き合うには他からの想いを切り捨てなければならない。常に思い浮かべろとは言わないが、忘れてもいけない事だ。
「……な~、佐藤からのチョコは?」
 いつまでこうして抱きかかえられてるんだ?と疑問符を浮かばせる一方、佐藤からのチョコが出てこない事も気になる。別に示し合せて決めた事ではないが、佐藤も自分にチョコをくれるものだと吉田は思っている。自分が甘いものが好きだと知ってる佐藤は、普段からも、特に部屋に来た時には甘いものを振る舞ってくれるし。
「ああ、勿論。用意してるよ」
 言えば吉田は「やった!」と顔を綻ばせる。本当に可愛いなぁ、と至近距離でそれを眺めた佐藤が内心にやにやする。
 しかし、佐藤は吉田が喜んだ顔も好きだが、困ったりした顔も大大大好きなのだ。大好物である。
「でも、もうちょっと後で」
「えーっ! 後って、いつだよ!?」
「今日中にー」
「今日って……わっ、馬鹿!何かした!?」
 耳の付け根に妙な感覚を感じ、身を竦める吉田。
「大丈夫、痕はつけてないから」
 佐藤の台詞で何をされたか把握した。ぎゃあ、と声を上げて顔を真っ赤にする。
「ほ、ホントか!? ホントにつけてない!?」
「信用無いなぁ。だったら自分で確かめれば」
「自分で見れない所だから聞いてるんだろ!?」
「じゃあつけてない」
「じゃあって何だ!」
 今は冬だといって安心できない。というか、家で母親に見られる可能性が大だ。ただえさえ、いきなり自分にチョコを買って来た息子に、もしかして「彼女でも出来たんじゃない?」なんて探りを入れて来たのだから。
 彼女じゃなくて彼氏だよ、しかもうんとイケメンの!とは(まだ)言えないが。
 吉田とのやり取りに、雪の降る外とは違い、佐藤の胸中はほっこらと暖かい。からかって完全に吉田がへそを曲げてしまう前に、チョコレートを出そうかな。
 そうして、佐藤が吉田の為だけに用意したチョコレートは、吉田だけが知っている。




<END>