「おい、吉田義男」
 朝、登校して早々、背後から不躾にフルネームで呼ばれ、吉田は「おはよう」ではなく「何だよ!」と言ってやるつもりで振り向いた。自分の事をそうやって呼ぶのは、とりあえず今の所一人しか居ないからだ。そして、その一人を吉田は知っている。
 けれど、後ろを振り返ってその姿を確認した途端、吉田は声を上げる気がそがれた。人違いでは無く、まさにその相手だったのだが普段と大いに違う所があったのだ。思わず、顔を呆けさせる程に。
「あれ、お前、制服……?」
 人差し指を突きつけながら、吉田は東に向かって言う。
 他校から越してきた東は、以前の学校の制服である学ランを着ていたのだが、今、目の前に立つ東は吉田と同じ制服に身を包んでいる。
 驚きに溢れる吉田に、東はふっと小馬鹿にしたように笑った。
「ここに来てからどれくらい経ってると思うんだ? 制服くらい出来上がっているに決まってるだろ」
 それはごもっともだが、しかし前に会った時とは違う装いをしていれば、驚くに決まってるじゃないか。そう言ってやりたいものの、相手を上手くやり込める手法なんて欠片も知らない吉田は悔しさに唸るだけだった。
 初めは東から、憎い恋敵とやたら睨まれたり恨まれたり泣かれたりされた吉田だったが、佐藤が東の背中を押した(物理)の一件から多少は東からの負の感情は薄まっている。とはいえ、西田が吉田を懸念している以上、和やかに和気藹々とはいかないだろうが。ある種の悪友とでも呼べば良いのかどうかすらも迷う東の立ち位置だった。
「でもさ、それにしても結構遅いんじゃないの?」
 制服が変わるのが、と吉田は言う。初日はまあ仕方ないにしても、購入すれば良いのだから、それを思うと東の衣替え(?)は何だか時間が掛かっているように思えた。吉田がそこを指摘すると、何故だか東が表情を曇らせる。図体が大きいこの男の涙腺がかなり弱い事を知っている吉田は慌てた。また泣かせたと噂されたら堪ったものじゃない。
 けれど、吉田が何かを言い出す前、東が言う。
「……俺に合うサイズが無くて、作って貰ってたんだ」
「ああ、なるほど……」
 後半、消えゆくような声で吉田は納得した。心から納得した。佐藤も背が高いが、東はその佐藤と並んでも高いと解る程に背丈がある。それはそうと、その事情で何をそんなに落ち込む要素があったのか。吉田が東をこっそり伺っていると、やがて零す様にその原因を呟いた。
「……また、身長大きくなってた」
「……………」
 これには吉田も何と返して良いか解らず、口を閉ざしてしまった東同様、沈黙を守るしかなかった。
 吉田としては全く知りたくも無かったが、半ば強制的に始まってしまった西田と東の過去の馴れ初めを知った分には、西田の興味が東から外れたのは、小さかった彼が逞しく成長したからのようだった。西田からの言い分はもっとあるかもしれないが、吉田から見ればそんな印象だ。あちこち遊びまくる山中も問題だけど、あっさりと対象を移し替える西田もどんなものかと思う。可愛いから好き、と言い続けていたのはむしろ西田の方だと言うのに。
 その西田の気持ちは完全に心変わりしてしまったのか、はたまた未だ残っているのか。それは西田本人にもまだ解らない事かもしれない。……吉田としては、このまま2人がくっ付けば何よりだと思うのだけども。
「いいな、お前は」
 と、力無い東の声。
「小さくて、西田に気に入られていて……」
「……それ、何一つ嬉しくないからな、それ」
 どうしても譲る事の出来ない吉田は律儀に反論してみた。案の定軽く睨まれたが、原因が解っているのとある程度耐性が出来たのとで、最初の頃のように闇雲に怯える事は無い。
「――てゆーか、俺だってもっと身長欲しかったよ。それこそ、東くらいにあっても良かったくらいだし」
 吉田が本音を零すと、東はまるで意表でも付かれたかのように目を丸くした。なんだその反応、と吉田は訝しる。
「良いのか? 佐藤だって、小さいお前が好きなんじゃないのか」
 今や公然の事実となっているが、やはり口にして自分達の関係を告げられると背中やら腹の中がむず痒い。
「佐藤の方は知らないけど……俺は別に佐藤が俺より身長低くったって、何も問題ないし、関係無いから」
 正直、自分より背の低い佐藤なんて想像もつかないが、かと言ってそれがデメリットに通じるとは思えない吉田だった。佐藤が今よりうんと小さかった所で、果たして今と何が変わるというのだろう。きっと、何も変わらないに違いない。
 然程力は入れず、むしろあっさりとした具合で言った吉田の台詞に、東は息を飲むように口を閉ざす。それから、まじまじと吉田を見た後「良いなぁ」と呟いたのだった。
 だからそんな良いもんじゃないって、と吉田が突っ込み返す前、ふと気になる箇所があった。
「なあ、東。ネクタイの結び方何か可笑しく無い?」
 出来ていない、という程ではないが微妙に歪んでいる。吉田が指摘すると、東はギクリとでも聴こえそうなくらい体を慄かせた。
「そ、そうか? 気のせいじゃないのか……」
「…………」
 東は結構解りやすい。声の張りがそのまま気質を表している。
「あー……結び方が解らない、とか」
「!!!!!」
 やはり、東の反応は素晴らしく解り易かった。動揺がかなりはっきり見て取れる。それは身体が大きいから……が、関係あるのかどうか。
「し、仕方ないだろうが! ついこの前まで学ランだったんだぞ!?」
 わぁ逆ギレだ、と吉田もちょっと引きながら、けれど退くまではいかない。
「俺だって中学は学ランだったけど、ちゃんと結べてるもんね」
 ふん、と今だけはちょっとだけ上から目線の吉田だった。まあ、こうして一人で結ぶことが出来るようになるまで、父親からさんざんレクチャーを受けたのであるが。中にはワンタッチ式で着けられるネクタイを用いている高校もあるが、ここはちゃんと結ぶネクタイである。普通のネクタイと言うか。
 しばし、東は羞恥に顔を赤らめていたが、やがて何かを決意したのか、彼にとっては遥か眼下である吉田をキッと見据えた。その目力に怯む吉田。
「吉田義男!」
「……いちいちフルネームで呼ぶなよ……で、何?」
 東が大きな声を上げると注目を集めるのだ。身長的にも人目を引くし、自分達の一件と絡んで話題性もある。周囲の目を気にしながら、吉田は東に尋ねる。
「……俺に、ネクタイの正しい結び方を教えてくれ」
「え、」
 何やらものすごく睨まれてるような表情であるが……多分、緊張の顔、なのだろう。
「いや……クラスの人にやって貰えよ」
 吉田は自分のは結ぶ事は出来るが、人に教えたり結んであげたりはかなり覚束ない。先ほど自分は出来ると大見得を切った手前、出来ませんとは言い辛かった。
「クラスに行ってからじゃ遅い」
 東は憮然として言う。どうしてだ?と首を傾げた吉田は、次の東の発言で真相を知る。
「……西田に、変な格好見せたくない」
 顔を赤らめ、今日これまでの中で一番低い声で告げられた台詞に、吉田もなんとも言えない気持ちに陥る。東の気持ちはどこまでも健気で真っ直ぐだ。感情に嘘が吐けないタイプというか。
 だからと言って自分を敵視するのは勘弁して貰いたい。本当に。改めて自分の立場に重い溜息が出そうな吉田だった。
「え、え~~っと、それなら~~~~……」
 言いながら、吉田は必死に目で探した。この時間帯なら、うまく行けばここを通るかもしれない。お願いだから来て!と念じる吉田の思いも虚しく、今まさに教わろうという東はしゅるりとネクタイを解いていた。あああ、と声にならない叫びをあげる吉田。
「さあ! 頼む! 吉田!!」
(た、頼むって言われても~~~!!)
 ネクタイを突き出し、頼み事をするには有り余る迫力でもって詰め寄る東に、吉田の嗜好は混迷を期した。
 こうなったら、とりあえずオチケン部室へ連れ込んで、そこで連絡取ってくるのを待つしか……と吉田が必死にこれからの行動を算段していると。
「おい……何をしてる」
 さっきの東より、ずっとうんと低い声が響く。まるで不可視の綿が吉田の周りをごそっと包み込んだような感覚だ。それにぞくり、と体を震わせる。
「あ、佐藤」
 東にはこの瘴気が感じられないのか、通常の反応だった。元より、ここまで敏感に佐藤の気配を分別出来るのは吉田くらいと言える。
 しかし、佐藤の登場はまさに吉田にとって幸運、渡りに船という奴だ。さっきからしきりに吉田がその姿が居ないかと探していた人物とは、佐藤に他ならないのだから。
「あの、佐藤! 東にネクタイの結び方、教えてやってよ」
「人を指さすな、吉田義男」
「お前もいちいちフルネーム止めろって!」
 告発するがごとくに突きつけられた人差し指を、東が軽くぺちっと落とす。吉田も負けじと言い返す。
「なるほどな、そういう事か」
 言い合いを始めた2人を余所に、佐藤は一人で納得していた。自身のネクタイを解いた東が吉田に詰め寄ってるなんて、一体何が起きたかというか、何かが起きるのかと思ったくらいだ。何せ男前度で言えば吉田は西田なんかより余程男前である事だし。
「て事で、頼む」
 東とのやり合いに、ひとまずの決着をつけた吉田は佐藤に頼んだ。良く考えれば、自分が頼み込んでやる必要はないと思ったのだが、それでもやってしまうのが吉田が吉田たる所以だった。
 そして、頼まれた佐藤と言えば。
「うーん、ヤだ♪」
 にこやかに告げられ内容に、東と吉田は揃って目を点にした。
「な、な、な、何でだよ! それくらい、やってやれよ―――!!」
「え、え? お前ら、付き合ってるんだよな??」
 そして吉田は激昂し、東は戸惑った。感情がストレートな東は、好きな相手は大事にすべきであるし、頼まれ事を断るなんてあり得ないとすら思っている。が、そこは佐藤なので。
「いいか、いつもほいほい聞いてやってばっかりだと、それが日常化してしまうだろ。たまには逆らって自分の存在を強く相手に残すべきなんだ」
「! そ、そうか……!」
「何もっともらしい事言ってんだ―――――! 佐藤が素直に聞いてくれた事なんて、全っっ然無いし!!!!」
 感心する東の横で、吉田は声を張り上げた。いかんせん、東は佐藤を師と仰いでいるので、そのアドバイスは絶対として受け取ってしまう。いや、そのアドバイス自体は良いのだが、そこに則ってここで拒否されるのは頂けない。
「だって俺、吉田のネクタイしか結びたくないし」
「自分のはどーなんだよ!?」
 頭に血が上っている吉田は突っ込み所を間違えている。
「ていうか、それこそ西田に教われば良いんじゃないか。折角の機会を不意にするのか?」
「え、でも……」
 ギャーギャー言う吉田を押さえつけ、佐藤は東に言う。東は、顔を赤くして俯いただけだった。その反応で、佐藤はその胸中を察する。好きな人の前でだらしない格好を晒したくないという所か。
 ここで関係ないと突っぱねるのは簡単だが、東の想いが成就するという事は、西田という害虫が吉田の周りから消えるという事だ。自分の利益に繋がるとなれば、佐藤も無碍に出来ない。
「仕方ないな……」
 ふ、と佐藤は軽く息を吐き出した。
「吉田、こっちおいで」
「? 何……ッギャ――――!!!何すんだ!!」
「ネクタイ取っただけだろ。おい東、やり方教えてやるからしっかり見てろよ」
「あ、ああ……」
 佐藤としては、他人のネクタイを結んでやるなんて真っ平ご免である。となると、吉田を手本にして教えるのが最善だ。そういう心情は東も、何となくは掴める。
「何でこんな面倒な事するんだよ! 訳わかんねー!!」
 東に直接結んでやれば良いだろ!と吉田は一向に理解出来ていないみたいだ。佐藤はちっとも通じていない吉田を見て、怒るどころかむしろ嬉しそうに笑顔すら浮かべている。普通、自分の考えが通じていないとなると、怒ったり悲しんだりするもんじゃないのか。東は軽く首を捻る。
 どうもこの2人は、自分にとっての恋人の定義とはあまり当てはまらないようだ。それはそれで、自分達の世界がしっかりしていると言えるかもしれない。吉田も、不満そうな顔を浮かべながらも、逃げだしたりせず、この場に留まっているし。
 そんな2人を見て、結び方の手ほどきを受けながら、東はやっぱり良いなぁ、と思うのだった。




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