それは11月22日の事である、と吉田は語る。
「母ちゃんが父ちゃんと喧嘩した」
「えっ、いい夫婦の日なのに?」
 思わず佐藤が問い返す。すると、吉田は。
「いい夫婦の日でもいい肉の日でもポッキーの日でも、喧嘩する時はするんだよ」
 淡々と語るその素振りに、その時の吉田の気苦労が伺える。それと、「母親と父親が喧嘩した」ではなく「母親が父親と喧嘩した」という口ぶりで、イニシアチブがどちらにあるかも解る。
 ふはぁ、と微妙な溜息を吐いた後、吉田は説明してくれた。
「結婚記念日に父ちゃんが出張入れちゃってさー。昨日母ちゃんがその日の事話題にして、父ちゃんがしまったー!って顔してて」
 なるほど、誕生日もであるか、夫婦にとってその日を蔑ろにされるのは許し難い事だろう。普段仲が良ければ尚更だ。
 吉田の両親が仲が良くて、その為の喧嘩も多い(専ら母親が手を出すのだが)というのはすでに聞いている佐藤だ。けれど、今回のはちょっと根が深いと吉田は言う。
「まさか、お母さん実家帰っちゃったとか?」
「いや、そこまでは……っていうか、むしろ逆?」
「逆?」
 言葉を探した吉田に、佐藤はおうむ返しにその単語を口ずさんでいた。
 つまり、その逆、とは。
 時間は遡り昨夜の就寝時間である。
「義男、すまないねぇ」
「全然良いんだけど……父ちゃん大丈夫?」
 お父さんの馬鹿馬鹿!と言いつつも的確に繰り出すパンチをまともに位続けた父親を吉田は気遣う。かつて、空手を習っていた経験はあのパンチは効く、と囁いている。息子の気遣いに、うん平気だよ、と父親はあっけらかんとしたものだ。その様子に無理が見えないから、実際に大した事でもないのだろう、と判断したが、あれだけボッコボコにされて何とも無いくらい打たれ強いのもちょっとどうかと思う。というか、山中を彷彿してあれだ。最も、父親は浮気なんて3回生まれ変わってもしないだろうが。
 現在、父子が揃っているのは吉田の部屋だった。さっき居間で父親にしこたまパンチを繰り出した母親は、まだ虫の腹が治まらないようで寝室に籠ってしまった。というか、父親が寝室から追い出されてしまった。それでも、一緒に夫の分の布団を放り出す辺り、完全に愛想を尽かした訳でも無さそうだ。この時期、布団が無いと眠る事も出来ない。
 居間で寝る事も出来たが、それだと何かの折に目を覚ました母親と鉢合わせしそうだ。今日の所はそっとした方が良いだろうと、そこは吉田も思った。
 決して広く無い、佐藤の部屋の半分程のスペースの吉田の部屋だが、吉田の父親はその名称に相応しい背丈をしている。十分、のびのびと寝る事が出来る。
 夕食後から突如怒涛の展開を見せた今日だったが、その日ももうすぐ終わる。実は吉田は日付を越えてもちょっと夜更かしするが、さすがに夫婦喧嘩後の父親を横にそんな自堕落は出来ない。吉田はベッドに、父親はその傍らに敷いた布団にもぐり、電気を消す。
「父ちゃんもさー、なんで結婚記念日に入れちゃったんだよ」
 自分でも覚えているくらいなのに、と吉田は言う。すっかり寝る準備だけは整えたのだが、環境が揃っても感覚の方が落ち着かない。
 息子の苦言を受け、父親はうーん、と唸る。こうして親子間でまともに受け答えをしてくれるのは、吉田にとって当たり前の事だが、学校に通うようになってから、特に中学くらいからは周りはそんなでもないと知った。そこであるいは、自分も周りと同じように親に反発しようとする輩も居るが、吉田は特にそんな事は思わなかった。親に呆れる事はあるけど、反抗したい気持ちにはならなかった。最も、中学の時には虎之介の巻き起こすトラブルで手一杯だった、という面もあるが。
「別に、忘れてた訳じゃないんだけどね」
 そして、父親は言う。
「ただね、記念日もだけど、こうして皆で過ごす日も、もう2度と訪れない大切な日ばかりだからね」
 そうして1日1日を大切に思って過ごしていたら、うっかり結婚記念日を失念してしまった、という事らしい。何とも父親らしくて、吉田はベッドに仰向けになったまま嘆息する。この両親の喧嘩はいつだってその仲睦まじさが原因だ。
「でもさ、悪気があった訳じゃないんだから、父ちゃんももっと言い返して良いと思うんだけども」
 両親の喧嘩でもう1つの特徴は父親は決して対抗しない事だ。ごめんごめんと謝るばかりで。実際父親の失言が原因なのが多々なのだが。
「まあ、それだけ母さんは悲しかったって事なんだから、父さんとしてはそれを受け止めないと。それに、母さんは怒った所も可愛いからなぁ♪」
「………………………」
 一瞬でも離婚の危機を考えた自分が馬鹿だった、と吉田はその心配を宇宙の彼方まで吹っ飛ばした。はやぶさみたいに戻って来なくて良い。
「……父ちゃんは、ホント~~~~~に母ちゃんが好きなんだ……」
「もちろん!」
 即座に返事をした。まさに速答である。
 まあ、良い事なんだろうなぁ、と結論付けて父親に背を向けるように寝返る。すると。
「義男は?」
「ん?」
「居ないのかな、好きな子」
 父親にそう問われ、ドキ、と心臓が撥ねた。そう言われてすぐに浮かぶのは勿論佐藤だった。ふわりと優しく笑う佐藤。かと思えば上からにやりと笑ったりして、電気の消した暗闇の中、吉田は苦い顔をする。
(ど、どうしよう……)
 いない、とか適当な事を言ってやり過ごす事は出来る。今までだって自分なりにそうやってやり過ごしてきた。
 でも、この父親なら良いんじゃないだろうか。母親みたいに決してやたら追究したり囃し立てたりしないだろうし、佐藤であるという事は伏せたまま、居るという事実だけでも伝えられたら。
「あ、あの………」
 暗い室内で、胸の心音がやけに耳に響く。
「あのさ、父ちゃん……俺、その、好きっていうか、付き合って……」
 言いながら、そろそろと父親の方に寝返りを打つと。
「ぐーぐー、すやすや」
「……………………………」
 寝てた!!!!!!!


 最後の方の場面には蓋をして、吉田は自室に父親が寝に来た事実だけを佐藤に伝える事にした。聞いといて先に寝るなよ父ちゃん!!と今さらのように怒りがぶり返す。こういう所が喧嘩の引き金となり得るのだろうか……などと思ってみたり。
「で、今朝は?」
 佐藤が言う。
「んー、喧嘩のまま……っていうか、母ちゃんが口きかない」
 ややげんなりして吉田が言う。親の問題と割り切ってるような吉田ではあるが、さすがに堪えているのだろう。これは何とかしたいなぁ、と佐藤は顎に手をやった。
「こう言っちゃなんだけど……そんなに拗れさせちゃ、気まずいままだと思うんだけど」
 折角好きな人と居るのだから、楽しく過ごしたいのではないか。怒る気持ちも解るけど、ある程度それを示せたのなら、それでもう十分だと思うのだが。
「いつもならそうなんだろうけどなー」
 でも、と吉田は続ける。
「父ちゃん、結婚記念日に出張入れちゃったのが解って、母ちゃんに怒られた時言っちゃったんだよな。『それよりクリスマスにホテルのディナーに行かないか』って……」
「あー、……それは」
 父親としてはフォローのつもりで言ったのだろうが、”それより”なんて付けてしまっては台無しも良い所である。
「父ちゃんってさー、言ってる事は悪くないのに、うっかりな発言が多いんだよな~」
 それが大体喧嘩の原因、と吉田が呟くと、何やら横からねっとりとした視線を感じる。
「え、何、何だよその目は」
「別に……吉田の父親だよな、っていうか、吉田がその父親の息子だよな~って」
「…………」
 吉田は言われた意味を考える。英語の訳は壊滅的だが、読解力が乏しい訳でも無いのだ。
「え……えっ……俺も結構言っちゃってる!?」
「言っちゃってる、言っちゃってる」
 自分を指さして瞠目する吉田に、佐藤はうんうん、と頷いた。
「そ、それじゃ佐藤も、俺をボコボコにしたいとか思ってんの!?」
 今まさにそう思われているとばかりに、吉田がザッと距離を取る。警戒する小動物のような動きに、佐藤が喉の奥でククク、と笑った。
「まさか、そんな。俺は好きな子は殴らないよ」
 好きな子、とさらりと言う佐藤に吉田はうぐ、と言葉に詰まる。そして赤面する。
「……まあ、殴りはしないけど、とびきり辛いの食わせてヒーヒーさせてやろうかとは思うよ」
「……って、思うだけじゃなくてもう食わせてんじゃん!!」
「あれはからかって遊んでるだけ。本気でやろうと思ったらあんなもんじゃ」
「怖い! 何それ怖い!!!!」
 佐藤を怒らせるのは止そう、絶対に止そう、と思う吉田であった。


 そうして帰宅した家では、すでにパートが終わった母親が居る。一目見て、ああまだ怒ってるんだな、と解る。
「なー、母ちゃん……」
「何よ」
 まだ夕方前から酒を飲むのは止めてくれ。は、一旦置いておいて。
「父ちゃんと仲直りしろよー。悪気はなかったんだからさー」
「だから許せないんじゃないの!」
 ダン!とグラスを叩きつけるようにテーブルに置いた。
「悪気が無い事で傷つけられたこっちの身にもなってみなさいよ!!!」
 それもそうだ、とうっかり納得してしまうあたり吉田は自分の中で父親の血を感じた。
 母親の怒りも御最もだが、折角今週は出張も無くて自宅で家族が揃う日が続くというのに。そんな中で滅多に無い失言をしてしまう父親も間が悪いというか何と言うか。
 こういう時、息子の立場としてどうすればよいんだろう、とその相談相手に一瞬佐藤の顔を浮かべた時だった。父親が帰宅した。
「ただいま、母さん」
「……………………」
 顔を父親とは真逆に向け、ツン!という効果音が聴こえそうなくらい見事なそっぽ向き方である。もう~、と吉田が苦い顔でその様子を見ていると、父親が何か紙袋を差し出す。
「昨日は、ホントにごめんね。これ、お詫びにもならないと思うけど、母さんが好きかなって思って」
 察するにそれは食べ物の類らしい。受け取ろうとしない母親に、父親はテーブルに紙袋を置き、中から白い箱を取り出す。金色の文字で何か書いてあるのだが、それが読めないのは吉田の視力が低いからではなく、英語力が低いからだ。
 母親は食べ物なんかでつられてやらない、という態度を決めていたが、ぱか、と蓋を開けられた中を確認し、目がキラリッと輝いた。
「ま~~~!これってアレじゃない!?あそこのチーズタルトじゃない~~~~!?!???」
「…………」
 母親の変わり様に、まず吉田はどこだよ、と胸中で突っ込んだ。何故だか母親というものはアレとかコレとかソレとか代名詞で言う事が多い。固定名刺を言おうよ、固定名詞を!
 母親は、出来るのならば頬ずりでもしかねない勢いで感激している。
「嬉しいわ~~~!これってすっごい並んでるんでしょ?売り切れも多いんでしょう~~?」
「許してくれるかい?」
「んもうっ! お父さん、大好き!!!」
「はっはっは~」
「…………」
 とりあえず……とりあえず、仲直りは出来たらしい。今までで一番あほらしかった気がする……と居間の片隅で吉田が遠い目をする。
 そして母親は、意気揚々と夕飯の支度へと取り掛かった。ぶっちゃけ吉田は、親の不和によって食生活に影響が出る事を主に不安に思っていたので、夕飯前に解決してくれて何よりだ。今夜はむしろちょっと豪奢になるかもしれない。
「なあ、父ちゃん。このタルト、どうしたの」
 母親の居ない隙を狙って、吉田はこっそり父親に話しかけた。あれとかあそことか、母親の台詞ではさっぱりだったが、よくよく包装を見てみれば、駅前にもある有名な店のチーズタルトだった。吉田でも覚えているくらい有名な店だ。美味しい事もさる事ながら、母親の言った通り長く並ぶ事と早々に売り切れる事でも有名である。それがこうしてここにあるという事は、父親は結構な無茶でもしたんじゃないだろうか。ちょっと、心配になった吉田である。
「ああ、それがね」
 父親はちょっといたずらっ子な笑みを浮かべた。そして、そっと母親の方を見た後、吉田の方に声を潜ませて話しかける。
「実はね、駅の所で若い子から迷ったからって道案内を頼まれて、そのお礼に、って貰ったんだよ」
「えっ」
 思わず声が出た後、吉田は慌てて口に手をやった。そんな経緯で来たとは、予想以上も甚だしい。しかし、思えば父親は「買って来た」とは言ってなかった。まあ、別に敢えて避けたという訳でもないだろうけど。
「一度は断ったんだけどねー。貰いものなんだけど自分はあまり甘いものが好きじゃなくて困ってる、って言われてそれじゃあ、って貰ったんだよ」
 父親も、その包装でこのタルトの価値は解っていたらしい。その情報ツールは会社の女子社員からだそうだ。
「使いまわすようでちょっと気が引けたけど……でも、母さんが喜んでくれて良かったよ」
 にこにこ、と人の良さそうな笑みを浮かべる父親だった。
 タルトの事が解ったのなら、そこから次なる疑問が浮かんでくる。
「それくれた人って、どんなだった?」
 父親が若い子、というのだから最低限20代ではあると思うが。父親は思い出す様に言う。
「男で、義男と同じかちょっと上かも知れないね。凄く背が高くて、さらさらの黒い髪が真ん中で分けられていたよ」
「……………」
 ふーん、と相槌を打とうとした吉田だったが、その動きがふと止まった。自分と同じか少し上、背が高くて前髪がセンター分けだという男性……
 それだけの特徴なら、当て嵌まる。
 まさかまさか、と吉田が狼狽える中、父親は台詞を続ける。
「そしてとってもカッコ良い人でね! モデルか芸能人かと思って、思わずカメラを探してしまったよ~」
 ははは、と朗らかに父親は笑う。
「………………………」
 まさかまさかまさか!と一層深まった嫌疑を、しかしどうする事も出来ず、吉田はかなりもやもやしたまま夕食を迎える羽目になった。


 次の日。佐藤は特に何も無いように見えて、普段通りに思えた。
 まさかまさかまさかまさか、と引き続き紋々を悩んでいる吉田を見て、佐藤がほくそ笑んでいる様子はその事情を知らない者達ばかりが目撃する。




<END>