ひんやりとした空気で佐藤は目を覚ました。季節の境目を過ぎ、そろそろ冬用の綿が入った布団に切り替えようかと、目覚めの少しぼんやりとした頭で思う。
 そうして起き上がり、いつにない異変に軽く首を傾げた。何かがいつもと違う事は感じているのに、それが何か解らない、と言った具合だ。けれどその違和感の正体はすぐに掴めた。吉田の姿が無い。
 基本、吉田は佐藤より早起きだ。ただし、その前の夜に何もなければ、という前提だが。その何かは吉田にとって「変な事」とも言いかえられる。佐藤にしてみれば、勿論愛を確かめ合う行為他ならないのだが。けれど昨晩はそのまま寝入った筈だ。その時も、そろそろ寒いな、なんて吉田と寝る前の睦言のように囁き合い、二人して眠りの淵に落ちて行った。互いの体温でとろとろと融解するような微睡みは、どんな贅沢にも代え難い。森の奥の、ろくに人の来ない場所に家屋を構えるが、佐藤はそれを寂しいとは一度も思った事は無かった。人では無い者達が代わりに訪れるし、何より傍に吉田が居るから。
「吉田?」
 すぐ近くに居るとはあまり思っていなかったが、佐藤は声に出して呼んだ。が、特に期待せずに発した呼びかけはちゃんと結果を返してくれた。布団の中、何かがもぞりと動いた。憶測よりは直感として、佐藤はそれが何かを瞬時で把握した。ばっ、と布団を捲った所に居たのは黒い小さい塊り――もとい、黒猫。
 頭も尻尾も体に閉じ込めるよう、これでもかというくらい丸まっている。そしてやはり、これまた佐藤はただの勘で呼びかけた。
「吉田。何してんの?」
 少しだけ笑った声で言ってみれば、黒猫が頭を上げて佐藤を見つめる。
 人から猫へと変わった……というか戻った吉田だったが、その左目の傷だけは変わらなかった。

「朝、起きたら勝手に元に戻ってたんだよ」
 ぺしゃり、と耳を垂れ下げて吉田は言う。いつも通り目を覚ましたら、すでに変化が解けていた。あれっと思って再び変身しようと試みたものの、その成果は無く、どうしよう、と布団の中で文字通り丸まっていると、次いで佐藤も目を覚ました、という事らしい。
 猫に戻ってしまった吉田だが、会話が成立している辺り、妖力が完全に消滅した訳ではないようだ。佐藤は冷静に分析する。
「前にもこんな事はあった?」
「たまに」
 念の為にと尋ねた質問だったが、その返事は佐藤の意表を突くものだった。じゃあ心配しなくても良いのかと思えば、吉田の様子を見る分にはそうでもないみたいだ。猫の顔ながら、しっかり喜怒哀楽の哀の表情を浮かべ、吉田が言う。
「っていうか、俺に限った事じゃなくて、月とか星の巡り合わせで力が強くなったり弱くなったりは皆にもあるよ。もっと強いやつなら、弱くなった分を調整したり、いつまで続くかが解るんだけど、俺には解らなくて」
 そう言って、ますますぺしょんと耳を垂らしてしまった。
 吉田があやかしとしてあまり位が高く無い事は、佐藤も何となく察しはついている。何せ吉田が使える術は人身変化の1つきりだし、それにしたって街に出る時以外には、つまりは普段には耳や尻尾は出しっぱなしにしている。変化を不完全にして持続力に回しているのである。それでも、月に何度かは疲れたように猫の姿に戻って夜、寝床に着く事もある。
「う~、どうしよう……」
 地面についた尻尾が、吉田の心情を露わにするようにパタパタと右往左往に動く。それを見て、これまでどうにか堪えていた衝動を抑えきれず、佐藤は猫の姿の吉田をひょいっと抱き上げた。不意打ちの行動は、吉田を心底驚かせた。
「わああッ!?」
 人型を取っている時もだが、特に今は人よりもうんと小さい姿になってしまっている為、例え座ったままだとしても佐藤程の背に抱き抱えられるとちょっとした高見になる。驚きのあまり、吉田の毛がぶわりと毛羽立った。そこに、佐藤が顔を埋めるように言う。
「まあ、いつから戻るんならそれで良いじゃないか」
「え、で、でも、」
 じたじた、と佐藤の腕の中から逃れたい吉田だが、そんな抵抗はまさに子猫がじゃれつくようだった。まあ、吉田は子猫よりも少し成長した猫の姿であるが。
 ふかふかとした毛並みに頬を埋め、佐藤はうっそりと微笑む。形容こそ違うが、感触は人間の吉田と全く変わりない。その温もりも。
「猫だって人間だって、吉田は吉田だろ?」
 佐藤にとってはすれが全ての真理だった。そりゃぁ勿論、同じ人間の姿の方が色々出来るが、それを失くしたからと言って、一緒に居る意義を見失う筈も無い。
「~~~でも……」
 呟き、力を無くしてしょぼんとする吉田。そこで油断した佐藤の腕の無から、ぴょんと飛び出した。あ、と佐藤が小さく声を上げる。
「吉田、」
「でも、何とかしてみる~~~!」
 小さい身体ながら、吉田は四肢を駆使してぴゅーっと家から出て行ってしまった。佐藤は余程追い駆けて行きたかったが、さすがに獣の俊敏さには敵いそうも無いし、仮に追いついたとしても同じ事になりそうだ。
「……本当に、良いんだけどな」
 ちょっとだけ詰まら無さそうに言い、まだ朝食を済ませていない事に気付く。早速米を炊き、昼用におにぎりを拵えて椀に持って、あとは味噌汁をつける。これが平素なら、朝一で吉田が取って来た粋の良い魚がこんがりと美味しそうな匂いを漂わせながら横長の皿に並ぶのである。小ぶりの魚がそれぞれに出される時もあるし、大振りのものを一緒に食べる事もある。
 干物として拵えれた物もあるのだが、手を付ける気にならなくて佐藤は質素に朝を済ませた。吉田はいつ帰ってくるんだろうと、ぼんやりと考えながら。


 佐藤の腕と家から飛び出た吉田は、森の中を歩いていた。別に、無目的で歩いている訳では無い。いや、正確には目的地についたものの、会いたい相手が居なかったのである。
(野沢さん、どこ居ちゃったんだろう~)
 稲荷である彼女ならあるいは、と思ったのだが、すっかり当てが外れてしまった。というより、人の生活と密着している稲荷がこんな森の奥に居る方が可笑しいと言えば可笑しいのだが。今日は彼女にしては珍しく、双子の弟と共に人々の生活を見守っているのだろう。それは何よりなのだが、出来ればあと1日くらい遅れてして貰いたかった。まあ、己の職務に誠実な弟と違い、すこぶる奔放な彼女はまたすぐにでも森に訪れるかもしれないが。
 他に頼れる相手は居なかっただろうか、と吉田は歩きながら考えを巡らせる。けれど、付き合いの長い連中は力の強さも似たり寄ったりだ。仮に今の事象を彼らから相談されたら吉田は困る様に、彼らも困らせるかもしれない。
 とは言え、まるきり相談相手が居ないわけでは無い。基本、所持する妖力の強弱がそのまま位の高低に成り代わるこの世界、吉田はその性格からかかなり高位のあやかしからも気さくな関係を抱けてている。とはいえ、やはり気軽に会える相手では無い。相手の反応如何というより、まず所在地が解らないのである。
 こうなれば、そんな彼らのいずれかが森に来るのを待つか、自然に戻るのを待つかしかないんだろうか。あまり歓迎できない結論に落ち着きかけた時、背後からバァン!という小規模の爆発音が聴こえてその場で軽く飛び跳ねる。この音には、聞き覚えがあった。それも、歓迎出来ないものが。
(じゅじゅじゅ、銃だ!!)
 気づけば、当ても無く彷徨っていたらいつの間にか人里近くまで降りてきてしまったようだ。どこかの猟師が獲物目掛けて発砲したのだろう。しかも、割と近い。
 巻き添えを食らったら堪らないと、吉田は闇雲に駆け出した。人語を話せるものの、それ以外は普通の猫と大差ない。銃弾を防ぐ術も無ければ、受けた時の負傷を治す事も出来ない。と、いうか確実に死んでしまうだろう。
 この地を治める者が何度か変わる様を眺めていたくらいには生きながらえているが、それでも吉田は死にたくなかった。むしろ、今だからこそ死にたくない。
 吉田、と温かく柔らかく呼ぶ声。あの声の元にまだ居たいのだから。それも、ただ同じ空間に居るだけでは無く、助け合って支え合って、共に生きていきたい。その為には、やっぱり猫のままでは限界があって。吉田はどうしても人の姿を象れるようになりたかった。このままでは、魚捕りでさえままならない。こんな自分の唯一出来る事だというのに。猫のままでは、人の佐藤が満足する分量を取るのはかなりの苦労なのだ。
 それに、やっぱり。
 同じ人の姿じゃないと。
 佐藤から押して貰った事。佐藤と口と口を合わせると、温かくて熱くて、何だか切なくてでもとても嬉しくなる。佐藤の心に触れたようで、とても嬉しくなる。それにはやはり、猫の姿ではダメなのだ。
 なんて、思いながら走っていたら。
「わわわ、わぁ―――――ッ!!」
 傾斜に足を取られ、走った勢いのままに滑り落ちて行く。幸い崖では無い物の、その先に吉田を待ち受けるのは途中で折れた枯れ木の群れだった。大小さまざまなそれは、どれかが吉田のサイズでも貫通するだろうというもので。
「わ――――――ッ!!」
 吉田が一際大きな声を上げる。頭から突っ込む形になった吉田は、目の前に迫った切っ先にぎゅう、と目を固く閉じた。


 けれども、吉田が思ったような痛みはいつまで経っても訪れなかった。と、いうより宙に浮いているような?
 恐る恐ると目を開ければ、やはり吉田の体は空中で止まっていた。勿論、吉田にこんな術の覚えは無い。誰かが空中で掴んでくれているのだ。それが誰か、吉田はすぐに解った。
「とらちん!」
「ヨシヨシ、大丈夫か?」
 気遣わしげに吉田を覗き込むのは、虎之介だった。虎之介は北を司る白虎の一族であるのだが、その毛色が金色だった為堕とされた。そこを拾って自活できるまでに育てたのが他でも無い吉田なのだ。故に吉田を育て親と呼ぶべき間からであるが、そんな柄じゃないし、と2人の関係は親友という形になっている。
 真の姿は金色の大虎であるが、今の彼は人の姿になっている。その目つきの獰猛さは虎の時分の姿をそのまま残していた。人の姿になったのは自分を捕まえる為だろうな、と吉田は思った。あの立派な爪や牙は、本人にそのつもりがなくても相手に傷を負わせてしまうから。
 とりあえず、安全な場所へと移動して腰を落ち着かせる。虎之介は折角この世界に居るのだから、全てを見て回りたいと言って数年前から諸国漫遊の旅に出ていた。とはいえ、固い誓いでもないから、こうしてほいほい顔を出したりもするが。年末年始は勿論吉田と過ごすのである。
「とらちん、本当にありがとう~~! マジで助かった!!」
 にゃーにゃー、と猫の鳴き声を交えながら吉田が礼を言う。この近くに寄った虎之介は、吉田の様子を見ようとして訪れる前に千里眼でその所在を確かめたのだ。そこで見れた光景は、山の斜面を滑り落ちる所で、しかもその先には下手な罠よりも余程物騒な事になっていた。大慌てで駆け付け、間一髪の所で受け止める事が出来た。
「あんな所で何やってたんだ?」
 虎之介が素朴に尋ねる。あの先は村はあるものの、買い出しには向いていない場所だ。それどころか、狩猟で生計を立てる者が多い中、うっかりすれば流れ弾が当たるかもしれない。虎之介がそう言うのは、あの場所がそうやって危険な事を、吉田から教わっていたからだ。なのにその場所に居たという事は、その危機感よりも気になる事があったに違いないと。虎之介の予想は全く正しいものだった。吉田はうん、と1つ頷いてから事情を打ち明ける。
「実はさ、人間に化けれなくなっちゃって……そんで、何か方法無いかなって……」
 言いながら、吉田は目の前の虎之介を見た。堕ちたとはいえ、立派な神獣である。ぴん!と耳と尻尾が力を取り戻したように立ち上がる。
「と、とらちん! 何とかならないかな!?」
「あ、おおお、ぉう」
 吉田の必死の形相に、虎之介が戦きながら頷く。頷いてしまったものの、相手の妖力の具合を見たり、まして調整したりなんてした事はなかった。が、吉田が困っているのを前にこのまま通り過ぎるなんてあり得ない。
「んじゃ、ちょっとやってみる」
「うん」
 こっくり、と吉田は頷く。なるべく、その期待には応えたい。
 虎之介は、まずは額に手を当てた。そうして、精神統一を図る。目を瞑り闇に包まれた世界で自分の意識のみに集中させた。すると、そこに吉田の意識が現れる。視覚ではなく、感覚として、力の発動を邪魔しているものを感知した。目を開いた虎之介は、吉田の額に付けていた掌を放し、そして出て行けと念じながら――
 ずびしっ!!
 額を指で弾いた。
「アイタッ!?」
 急だったことで思わずそう口にしていたが、実際痛みはあまりなかった。驚きに目をパチパチしていると、「もう良いと思うけど」と控えめに虎之介が進言する。
 そうして、おそるおそる、吉田は変化の術を使った。


(……遅いな)
 佐藤は焦れた気分だった。吉田が居ない。これは佐藤にとって由々しき事態である。かといって、吉田の妨げにはなりたくないから、どこかへ行くという吉田を引き留める事はしない。が、それも本人の言質が合っての場合だ。それもなく、太陽が今日の務めを果たしたように翳る中でもまだ帰らないのは。
 それでも吉田の意思なら良い。問題なのは、そうではない場合。不慮の事故や事件に巻き込まれたという可能性だ。ここまで深い中ではわなを仕掛ける前に人は足も踏み入れないが、吉田の方がそういった場所にうっかり立ち寄らないとも限らない。
 探しに行こう。佐藤が腰を上げかけた時である。
「っ佐藤――――――ッ!!」
 出入り口の引き戸を勢いよく開け、突進してきたそれはそのまま佐藤の胸元に飛び込んだ。辛うじてそれを受け止める佐藤。
 佐藤、ともう一度呼んでぎゅう、と抱きしめる腕。この声、腕の感触、間違える筈も無かった。
「――吉田!? 戻れたのか!?」
 まさか一日で戻れるとは思って無かった佐藤は、心底驚いて声を上げた。いつにない佐藤のそんな態度が可笑しくて、顔を上げた吉田は目を細めてへへっと笑っていた。
「まあな!」
「そうか……そうか、」
 知らず、同じ事を2度口遊み佐藤が口元を緩める。そうして頬をなぞるように撫でると、今度は佐藤の方から抱き寄せた。小さい丸い頭、自分よりうんと細い体躯。そこかr耳と尻尾が生えている世界に1人だけの愛しい人。
 同じ肌で触れ合える喜びに、ほぅ、と息を吐くと頬同士を摺り寄せるように顔を近寄せた。そうして、軽い口付を何度も交わす。吉田の方も。鼻同士を擦り合わせるような動きを取った。何だかんだで、元は猫なのである。
「やっぱり、人の姿の方がいいな」
 猫の姿でも良い。猫のままでも吉田は吉田、と言った事に嘘偽りはないが、こうして触れ合う愉しみを決して放棄した訳でも無いのだ。出来るのなら、したいに決まっている。佐藤だって、吉田の妖力が戻る手伝いをするつもりではいた。まさか、こんなに早く戻るなんて思わなかったけども。
 ぽつりと佐藤が思わず呟くと、吉田は特に気を悪くしたでも無く「そうだろ?」なんて首を傾けて笑ってみせる。それって、自分と同じ意味合いとして思って良いのかな……なんて思いながら、佐藤が次に進もうとすると。
「良かったな、ヨシヨシ」
 佐藤にとって思わぬ第三者の登場に、吉田の体に添えられていた手が止まった。そこに居たのは、佐藤にも馴染みある姿だった。吉田がにこにこと上機嫌で紹介したのだから、いよいよ忘れる訳も無い。
「とらちんが戻してくれたんだ」
 吉田がそう言う。ならば、家から出すのは勘弁してやろうか、なんて思う佐藤だった。佐藤の手に掛かればそれらしい理由を持って虎之介をこの場から退散させるのは赤子の手を捻るより容易かった。特にこの2人は、素直でお人好しだから簡単に転がす事が出来る。
 結局その夜、虎之介はこの家に泊まる事となった。折角吉田が人の姿になれるようになったのに、今夜はお預けだ。まあ、その姿を見た時から予想した展開ではある。
 が、これはいくらなんでも予想外だった。
「暖かいよな~、佐藤」
「……そうだな……」
 まさに日向ぼっこをしているかのうに、目を細めてぬくぬくとしている吉田とは対照的に、佐藤は硬質な声で返事を返した。
「とらちんと一緒だった時、布団も要らなかったもんな!」
「ああ、そうだな」
 と喉の奥で笑って言う声は、極近くで聴こえた。今夜も寒いだろうからと、大虎になった虎之介の懐に潜り込むような形で吉田と佐藤は就寝と相成っている。
 確かに、暖かい。毛並みの質も上等だ。どの殿さまだってこんな獲物は持って居ないだろう。しかもこれには中身(?)もあるし。
 吉田と一緒で嬉しいのか、時折虎之介からごろごろ、と喉を鳴らす音が聴こえる。
 すっかり寝入った吉田を隣に、まず佐藤が思ったのは明日は絶対に冬用の布団を出そう、という事だった。



<おわり>