山中と虎之介は始終一緒に居る場面を畳み掛けるが、山中が一方的に付き纏っているに近く、約束等を交わして2人は居合わせている訳では無い。今も、山中はキョロキョロと首を動かし虎之介の姿を探していた。
 場所は中庭の、視界の先に虎之介の姿を見つけた山中は、すぐさま彼に向かって駆け寄った。すっかり慣れたと山中は断言しても良い、背中の感触を体当たりで感じる。一瞬虎之介は息に詰まったが、やはり慣れたように遠慮のない山中のスキンシップ(?)を受け入れる。
 お前なぁ、と睨むように首の上からだけ振り返った虎之介を山中はとびきりの笑顔で迎えた。
「とらちん見つけた~! ここで何して……る……」
 にこにこのご機嫌の山中の顔が突如として引き攣る。虎之介は1人でここに居た訳では無く、誰かと話をする為だったのだ。そして、その誰かとは、吉田だった。吉田の姿を確認するなり、山中は顔色を無くす。
「よよよ、吉田ぁぁぁぁ!? お前、何っ、ここでっ!!」
 吉田を見て激しく狼狽するものの、山中の目は吉田から外れている。そして、探しているのだ。
 けれど、その必死になっている人物は居ないと吉田はげんなりした態度で示した。自分達の複雑な、というより無駄にややこしいだけの関係性を、虎之介はまだ知らないし、この先も知る必要はないだろうと吉田は思っている。
「今度、町内会で運動会すっから、その話してたんだよ」
 そして、山中の台詞の文面だけ読み取った虎之介は、吉田が何故ここに居るかの説明をしてやった。ようやく、佐藤はここに居ないと理解出来た山中は、動揺を落ち着かせて虎之介の横に座る。吉田と山中で虎之介を挟む形だ。
 吉田も虎之介も、意欲的に町内行事に参加する性質ではないが、その反面出てくれと言われた事に断り切れないお人好しでもあった。
「町内会? とらちんと吉田って、同じ町内だっけ?」
「いくつかまとめてんだ」
 軽く首を捻った山中に、虎之介が説明してやった。そして、会場となる学校が自分が通っていた小学校であるという事も。吉田と虎之介は中学から一緒だから、吉田はその学校には始めて足を踏み入れる事になる。その辺りの事も含め、虎之介とちょっと話をしていたのだ。主な内容は、どの種目に出るかという事だったが。
 運動会が行われる会場が虎之介の母校だと知り、山中の目に輝きが宿る。
「ねえ、とらちん!」
「うん?」
「その日、応援に行って良い? っていうか、行く。絶対行く!!」
「はあ!?」
 訊くどころか、すでに断定されている山中の台詞に、虎之介が目を剥く。
「バッ、お前、来んなよ!そんなもん!!」
 言う虎之介の顔はもはや赤かった。元々の凶相と相まって壮絶な顔となっているのだが、何故か鶏並みのハートの持ち主だというのに、虎之介の形相は平気な山中だった。もし本人にその理由を尋ねれば、愛だとか屁理屈をこねるだろう。
 横で始まったやり取りに、吉田は何やら居心地の悪さを感じ始めていた。
 何だかんだで、山中に甘い虎之介の事だ。散々ダメだと言った後、それでも折れない山中に虎之介が折れる形となって、結局許してしまうのだろう。いつこの場から出ようか、見上げた空は綺麗な鰯雲が空を飾っていた。


「ねえ、見に行って良い?」
 若干形は違えども、ついぞ先に交わされた山中と虎之介のやり取りを彷彿させるには十分の台詞だった。佐藤の口から出たそれを聞き、吉田はコケそうになる。
 吉田が佐藤に運動会の事を言えたのは、その日の帰りの事だ。昼休みにでもと思ったのだが、生憎佐藤は女子と捕まってしまった。というより、一緒に帰る為に昼休みを潰したという感覚なのかもしれない。一度要求を叶えてやると、追求の手は随分違うと以前佐藤は語った。所謂、ガス抜きというやつか。
 そうして、一通り話した後、にこにことした佐藤が第一声に放ったのがこの台詞だ。佐藤は山中を忌み嫌うが、その中に同族嫌悪も含まれているのではと思う。
 一瞬こけそうになった吉田の妙な動きに、佐藤が怪訝そうな顔をして立ち止まる。別になんでもない、という体を装って、吉田は佐藤に言った。
「見に来たって、楽しい事なんて無いって!」
「吉田を見てるだけで十分楽しいよ♪」
「どーゆー意味だよ!?」
 詰まらないヤツとも言われたくないが、それ以上に勝手に面白く奉られるのもどうかと思う。
「運動会なら学校のがあるじゃん」
 まだもう少し先であるが、確実にその日はある。けれど、佐藤は。
「やっぱり、自分も出るとなると見る方に専念出来無いし」
 どれだけまじまじと見るつもりなのか。佐藤に見られる事がすでに恥ずかしいが、佐藤に見られていると周囲に知られるもの羞恥が考えるだけで倍増する。
「いいから、とにかく、来なくて良いから! 休日なんだから、しっかり休め!」
 ある意味正論の吉田に、佐藤が詰まら無さそうにえー、と平坦な声で不平を訴えた。また、何か言うのかな、と吉田は知らずに身構える。佐藤の追撃は山中のとは比較にもならない。が、しかし。
「まあ……吉田が嫌なら行かないけど」
「え、」
 らしくなく、佐藤はあっさりと引いた。それは本当に諦めたからか、あるいは単に帰路の分岐点だったからか。
 最後にそれだけ言った佐藤は、じゃあな、と軽く手を上げていつも通りに角を曲がって行く。
「……………」
 何やら吉田は釈然としない気持ちになり、次の一歩を踏み出すのにちょっとだけ時間がかかった。


 いや、でも。
 あんな殊勝な態度を取った所で、結局は佐藤だ。自分のしたいと思った事は必ず完遂する恐ろしい執念を見せる事もある。そんな佐藤だし、きっとどさくさに見に来ているのではないだろうか。そんな気持ちを抱いたまま、吉田は町内運動会当日を迎えた。ほら、例えばあの木の後ろとか……そんな風に、不自然に辺りを見渡す吉田に、虎之介が声を掛けた。
「ヨシヨシ、誰か探してんのか?」
 それなら自分も探そうか、という台詞がその声の中に混じっている。そんなにあからさまだったかと、吉田は慌てて虎之介に向き直った。
「う、ううん! そんなんじゃないから! あ、そろそろとらちん出番じゃない?」
 吉田が言うや否や、スピーカーからパン食い競争の選手は集まるようアナウンスがかかる。虎之介は何となしにスピーカーの方を向いた後、じゃ、行ってくると立ち去った。虎之介の背中を見送って、ふぅ、と息を吐く吉田。来なくても良い、とあの場では思った癖に、佐藤を探して見つけられないでいる現状を残念だと思っているのを自覚した。
(素直に来て良いとか言えば良かったんかな~、でもな~……)
 ぐらぐらとヤジロベエのように揺れる吉田である。
 あれだけ応援に行くとはしゃいでいた山中は、まだ来ていなかったりする。あいつ、休みの午前中は大体寝てるかなな、といっそ虎之介は落ち着いた風体だった。午前中と言っても、もう10時は回っているというのに。おおよそ、出る種目は一人平均2つである。パン食い競争の外、虎之介は後は玉入れに出る予定だ。この種目は昼休憩をはさんだ午後の部だから、そこまでならさすがに山中も顔を出すだろう。ここに来る道中で、女を引っ掛けていなければの話だが。
「…………」
 自分の想像ながらに、腹立たしい気分になってしまった吉田は虎之介の応援に回ろうと、運動場が良く見える場所へと移動した。と、その時。
「――ぅわっ!?」
 何かに急に腕を引かれ、倒れた先に何か固いような、けれど毛皮のような感触も感じた。相手が誰で、何故急に腕を引かれたのか、その疑問の後者についてはすぐに解った。吉田の目の前を、これから競技に使うのだろうハリボテを乗せたリアカーが通る。吉田が立っていた場所だ。
 それならば、何故口で注意しなかったのか。その疑問も相手が何者かが分かると同時にあっさりと氷解した。倒れ込んで感じた衝撃から薄々解っていた事だが、軽く振り返ったその先には着ぐるみが佇んでいた。勿論、中身(?)も入っている。
 小学生の参加者が多い中、そんな子供らに楽しんでもらおうと着ぐるみを借りたらしい。
 そこは良い。そこには何も問題が無いのだが――敢えて突っ込むのなら、なぜにタヌキなのか。タヌキ。タヌキである。物語で言えばずる賢くかつおっちょこちょいなイメージしかない。かちかち山のような。
 まあ、だからこそ町内運動会レベルでも借りれたんだろうなー、と吉田も高校生になり、世知辛い社会のシステムというのものもだんだんと解って来た。きっと、うさぎとかくまとか、いかにも子供に人気の着ぐるみたちは、もっと人の集まるイベントへと駆り出されているに違いない。
 中に入っているのはやはり役員の誰かなんだろうか。誰かに依頼するより、ずっと楽だし何より金が掛からない。
 と、いうか。
(……放して欲しいんだけど)
 腕を引かれ、タヌキの腹へと倒れ込んだ吉田は、そのままタヌキの両腕に抱き留められた形で止まっていた。リアカーが目の前を通る中、へたに動かれると困るとでも思って拘束したのかもしれないが、リアカーの音も遥か先となった今、いい加減腕を解いて貰いたいのだが。
 軽く身じろぎしてみるが、放してくれそうな素振りは無い。着ぐるみごしだから気付かないのかと、今度はちょっと強めに動いてみる。
「……あの、ちょっと!!!」
 ついに吉田は、タヌキの腕をばしばしと叩く実力行使に出た。虎之介の競技が始まる前に場所を移りたいし、周囲の人の目もいつまでも着ぐるみに抱き留められている吉田の元に注がれ始めている。哀しい事に、吉田は視線に関しては結構敏感なのだ。学校だけで十分過ぎる程なのだから、こんな所まで注目を浴びたくはない。
 そんな願いが通じたか、タヌキは今度はあっさりと離してくれた。けれど最後に、ぎゅむ、と抱き留めて背中をぽんぽんと叩かれた。そうして、何処ともなく移動していく。
 何だったんだ、とタヌキのあの対応に釈然としないものを抱く吉田。
 まさか、小学生とでも勘違いされたか。
「……………」
 どうも今日は、浮かべる想像が自分にとって不愉快になってしまう。
 大丈夫!俺は高校生に見える!だって高校の体操服着てるし!と実は何もフォローになっていない事で己を奮い立たせる吉田だった。


 運動会ではあるものの、その目的は地域交流が濃く、競技を競うのは二の次といった感じだ。だからこそ、純粋な徒競走よりもこういったパン食い競争など、ちょっと遊びの入った種目が多い。吉田も、学校ではやらないようなこのパン食い競争にちょっと出たい気持ちはあったが、吊るされたパンに齧り付くという、身長がものを言う競技はやはり遠慮したくなる。
 運動場のコースには、そのままだと衛生を気にしたのか、袋詰めされたパンがぶら下がっていた。パンはあんぱんやらメロンパンやら、結構種類があった。チョココルネを見て、そういや昔良く食べたっけなぁ、と吉田は思い出に浸る。今度見かけたら、食べてみようかなんて密かに思いながら。
 パン!と軽い鉄砲の合図の後、スタンバイしていた選手たちが走り出す。各種目には子供の部と大人の部があり、中学生以下が子供の部になる。つまり、高校生である吉田達は大人の方へと分類されるのだった。とはいえ、高校にもなるとその身長はほぼ見受けられなかった。それに比べると、子供の一歳差はいかにも大きい。
 中に大学生も居て、虎之介はその大学生から少し遅れてコースを走る。とらちん頑張れ!と複数重なる声援に混じり、吉田も声を張り上げた。
 一番最初にパンが吊られている場所に到着した大学生は、パンを取るのに苦戦していた。下から被りつこうとしているのだが、吊るされたパンはあちこち動いて位置が定まらない。そんな様子を見てか、次に到着した虎之介は横から齧り付いた。2,3回の失敗の後、しっかりと捕える事に成功し、クリップから外すと咥えたままゴールを潜った。見事、一着である。
「とらちん、やったじゃん!!」
 次々と後続がゴールするのを横目にすぐさま虎之介の元へ駆け寄り、吉田は称賛を浴びせた。どちらかと言えば偏見の対象である虎之介は、明け透けな態度に未だ少し慣れていないような照れくささを見せた。
「結構上手く出来たな……あ、ヨシヨシ」
 吉田の前で、虎之介はパンの入ってるビニール袋を引き千切った。そうして、中に入っていたメロンパンを吉田に差す出す。
「良かったら食ってくれよ」
「えっ、良いの!?」
 ああ、と虎之介が頷いたのを見て、吉田は受け取り、その場で早速齧り付いた。うん、美味い、と吉田はご満悦だ。
「ヨシヨシは障害物競争だっけか」
「うん、あと20分くらい後かなー」
 校舎に取り付けられている時計を見上げ、吉田は言った。出来るなら学校ではしないような競技をと思って吉田が選んだのがまずは障害物競争だった。種目自体は学校での体育祭でもあるが、その障害物が中々バラエティに富んで面白そうだったのだ。
 メロンパンを平らげ、虎之介とちょっと話していると障害物競走出場者の収集のアナウンスが流れる。
「それじゃ、行ってくるね」
「おお、ヨシヨシも頑張れよ~」
 軽い激励に手を振り返し、吉田が集合場所へと向かったのだった。


 誘導されるまま、コース上の配置に付き、軽く屈伸なんてしてみる。たかが町内運動会ではあるものの、本番直前という空気を感じる。少しぴりりと緊張を感じるこの雰囲気は吉田は嫌いでは無い。むしろ、懐かしい。空手道場に通っていた時を思い出した。
(ん?)
 と、吉田は視界の中に何か妙な物を見た気がして、その方を二度見した。妙な物とは多少言い過ぎだったかもしれないが、あのタヌキがまた居たのだ。しかも、手に「大漁」と書かれた大きな旗を持ってぶんぶんと振っている。文字が綺麗に見えている辺り、振り方が上手なのだろう。
 今、運動場を見ている人たちはもれなく、そんなタヌキの様子を見て笑顔を浮かべている。あれって、何か応援のつもりなんだろうか。ちょっと考えてしまった吉田は、スタートダッシュがほんの一瞬遅れてしまった。


 障害物競走は、まずは5メートル走った所で網の中を潜り、通り抜けたら縄跳びで走り飛びをして、進んだ先には平均台。その後ホッピングで進んだ後台の上に置かれた粉一杯の箱の中から手を使わずに飴玉を探すのである。身体能力も使うが、最終的には運がものを言うラインナップだった。あれが無ければ、吉田が一位だったのにな、と虎之介の素直な感想が事実でもある。が、この障害物競争が齎した結果はそれには留まらない。
「ヨシヨシ、顔、すげー白いぞ」
「マジ? っていうか、そうだろうな~」
 一生懸命手で擦ってみるが、顔に着いた小麦粉がそれくらいで完全に落ちる筈も無い。手を使わずに探せというルールなのだから、顔を突っ込んで息を吹きかけ、粉を飛ばす事で飴玉を見つけるしかない。吉田の顔はまさに白塗りしたようになっていた。
「顔、洗ってこいよ」
「うん、そうするー」
 顔を擦りながら、吉田は水道のある体育館裏に向かう。こんな愉快な所、母親に見られたら堪ったもんじゃない。その母親といえば、知り合いがPTA役員となったのでその手伝いにと本部テント内に居る。本部テントには茶菓子とお茶と茶飲み友達と全部が揃っているから、余程の事が無ければ出歩かなさそうだ。息子の応援にすら顔を出さなかった母親であるが、運動場のコースを走る種目となれば、もれなく本部の前を通過するのでわざわざ外へ出ない方が良く見えるというのもある。
 体育館裏はまさに裏、といった感じだった。覗き見防止にも一役買っているのだろう、木々が生い茂り、運動場からの喧騒も何だか遠くに聴こえる。というか、今はばしゃばしゃと顔を洗う音しか聞こえない。
 小麦粉を洗い落せ、ふーっと吉田は一息ついた。運動した後だったから、よけいにさっぱりした。
 そう言えば、顔を拭くものを持って来ていなかった。まあ、秋とは言え動けば汗ばむ陽気だ。時期に乾くだろうと、吉田は適当に構えた。
 それでも水気を飛ばす為、ぷるぷると首を振っていると、誰かに肩をぽんと叩かれた。反射的に目を開くと、そこには水分を良く吸いそうなタオルがあった。が、それにすぐさま飛びつく程吉田は不躾では無い。まずは、その持ち主を見た。
 しかし、改めて顔を見る前に、すでにその正体は掴んでいた。肩に手を置かれた時点で。特別吉田が聡かった訳では無く、相手にあまりに特徴があったに過ぎない。見ればやはり、そこには件のタヌキが佇んでいた。片手は吉田の肩に、そしてもう片方にはタオルを。
「……良いの?」
 まずは確認だった。吉田が問えば、タヌキは勿論と頷く。ありがとう、と吉田は一言礼を言ってタオルを受け取った。そうして、顔を拭く。やっぱり水気が取れるとさっぱりした。
「あ、タヌキさんだー!」
「ホントだ、タヌキさん!!」
 聴こえた声は幼い。幼稚園くらいだろうか。滅多には入れない校内にはしゃぎ、探検にとここまで来た、というような具合かな、と吉田は思ってみる。
 タヌキは呼ばれたからか、子供たちの方へと歩いて行く。タヌキが自分達の方に来てくれた事で、子供達は歓声を上げる。そうして、まるでハーメルンが笛を吹いた時のように、歩くごとに子供達を引き連れてちょっとした行進のようになっていた。うさぎよりかは人気が無いかと思ったが、着ぐるみが身近にいるというだけで子供は嬉しいものなのだろう。
 和やかになるその光景を見た後、あ、タオル、とその存在を吉田が思い出すのは、少し遅かった。


 そして待っていた人は待っていた昼休み。つまりは、弁当タイム。自宅から弁当を持って来ても良いし、近くのコンビニから購入しても良い。けれど、人が集中して混雑してしまうから、皆この時間よりも前か来る途中にあったコンビニで買ってきている者の方が多そうだ。とはいえ、今のコンビニにはかなりの人が押しかけているだろうが。
 吉田は事前に、昼は母親と一緒に摂るかと聞かれていた。そして吉田は、首を振った。母親と一緒に食べるのが嫌だというより、きっとパート仲間が居るだろう場に行くのが嫌なのだ。母親たちに囲まれた日には、良い玩具になるに決まっている。そういう訳で、昼は虎之介と食べる事にした――のだが、予定はあくまで予定でしかないのだ、という現実を吉田はひしひしと味わっていた。そして、虎之介も。
「もー、とらちん! どうして出る時にメールくれなかったの!? そうしたら間に合ったかもしれないのに!!」
 昼休みが始まって少し経った時、ようやく、本当にようやく山中が現れた。あれだけ応援に行くのだと散々駄々をこねたくせに、こんな途中の参加も良い所である。さらに言うなら、午前の部より午後の部の方が断然に短い。
 遅れて来たのは自分だというのに、山中はまるで連絡してくれなかった虎之介に非があるとでも言いそうな口ぶりだった。もし自分に向けられたものなら、吉田は今すぐにでもぶん殴っているだろうが、ここは虎之介に向けられているので、まずは虎之介に任せるべきだろう。けれど、浮気以外は基本甘受してしまう虎之介である。見たかったのに、としつこいくらいに言う山中に、逆に申し訳なさそうな顔まで見せている。
 吉田は気の短い方ではないが、キレる時はキレる。そして、それは今こそ発揮されるべきだ。
 ごん!と吉田は山中の頭頂目掛けて拳を降ろした。やはり虎之介を間に置いて並んで座っているが、さすがに吉田も立ち上がれば座っている虎之介の頭上を越えて1つ向こうの山中を殴る事は出来る。
「いっ……てぇな! 何すんだよ!?」
「いい加減、ぐちゃぐちゃしつこい! とらちん、もう1つ出るんだから、それ見ておけば良いだろ!?」
 吉田の意見は至極真っ当に見える。が、山中はそれには頷けない。
「えー、だって、それって玉入れだろ?」
 平均して2つくらいの競技に出るのだが、1つは個人種目、そうしてもう1つは不特定多数の大勢で取り掛かる競技といった具合だ。後者は応援の声を掛けるにしてはあまり相応しいものではない。そう落胆する山中だか、誰が同情してやるものか。吉田が一貫して山中に手厳しい態度を保っていたからか、虎之介も過度に甘やかす事は無かった。
 そうこうしている間に、虎之介の出る玉入れが始まった。吉田は見張りの為、山中の隣でそれを観戦する。さっきは不満たらたらな態度な山中だったが、運動場の中に虎之介の姿を見つけ出し、嬉しそうにはしゃいでみせる。こういう所を見ると、山中は虎之介が好きなのだと解るのだが。
(でも、浮気するんだよなぁ)
 それさえなければ、外見に惑わされず優しい虎之介の本性を見抜き、その上で好意を持ったという割と良い奴なのだが、その一点が全てを台無しにしている。勿体ないというより、落胆しきりである。虎之介の方も山中を好いているのがより一層悩ましい。
「なあ、そう言えばよ、」
 とらちんの投げた玉が入っただの、本当に確認したのか解らず歓声を上げていた最中の山中が、不意に吉田に呼びかけた。
「佐藤は?来てるんじゃねーの?」
 まさか山中から佐藤の事を聞かれるとは思わず、吉田は少しだけ驚いて山中に向き直る。しかし、今の台詞を鑑みると、山中は天敵というよりトラウマである佐藤が居るかもしれないと踏んでも尚、虎之介の応援の為にやって来たという事か。それならこの遅刻も許せ……る訳ないけど。絶対。
「……いや、別にこんなの、大会とか試合じゃないんだし、来なくても……」
 山中相手に言い訳がましくなってしまうのが、ちょっと情けないというか悔しいというか。ぽつぽつと語る吉田に、山中はそうかー?と軽く顔を顰めた。
「俺だったら、来て欲しいけどな」
 だから逆に、虎之介に行きたいと言い募ったみたいだ。自分を基準に行動を決めるのが、いかにも山中らしかった。そして不意に、あ、と山中が声を上げる。
「って事は、あいつ今一人じゃん! うわー、まずくね? 吉田に来るなって突き放されて、そこにいい女とかの逆ナンが来たらあいつでも……ごぶべぁっ!!!!」
 吉田の前で最も言ってはならない事を言ってしまった山中は、怒りの吉田から無言のアッパーを食らい、顎に多大なダメージを受けていた。


 運動会なので軽い負傷者は出したものの(山中も含まれる)大きな事故も事件も無く、無事に幕を閉じた。競う事が目的では無いので、閉会式には得点表も無く、今回携わった町内会長が挨拶をして終わった。参加賞として、ノートを貰った。これは数学のノートにしよう、と何となく決めた吉田である。こういう、学習道具は小遣いと別途に貰えるが、母親からの節約が知らず身に染みついた吉田は、ラッキー、と軽く喜んでいた。
「まあ、何だかんだで楽しかったよな」
 同じノートを持って、八重歯を見せながら虎之介が言う。出る前は億劫でも、出てしまえば楽しめるものだ。とらちん、と横から山中が割り込む。
「どっかお茶しに行こうよ。今日は奢るし」
 何と珍しい。明日は、というか今から雨か、と思わず空を見上げる吉田と虎之介だった。このリアクションは山中にかなり不本意なものだったようだ。
「何だよその態度! 俺だってたまには奢るって」
「たまに、じゃなくて積極的に奢れ……つーかとらちんにたかるな!!」
 吉田の失跡に、回復したとはいえさっきの顎への打撃を思い出したか、山中が虎之介の後ろに慌てて引っ込む。そんな山中に、虎之介はやれやれ、と嘆息する。自分が玉入れしている最中、何か要らない事を言って吉田を怒らせたのは察した。が、怒るくらいだから触れられたくはないだろうと、その内容までは山中に言及していない。謝れとは言ったが。
「それじゃとらちん、行こうよ」
 そう言って腕を軽く引っ張る山中だが、その手は虎之助によって外される。
「今から片づけ手伝うんだよ」
 テントを畳んだり、テーブルや椅子を校内の所定の位置へと仕舞ったりと、力仕事は多い。成人やそれに近い男手はあるに越した事は無かった。前日の準備に参加していない吉田達は、後片付けに出る事になっている。
「え~、じゃ、俺その間どうしてよう……」
 やや困った顔つきになって腕を組む山中の中には、自分も手伝うという選択肢は無さそうに見えた。常ならば、ここでお前も手伝えと吉田の鉄拳がまたも炸裂する所だろうが、今はちょっとそういう状態でも無かった。
 2人をそこに残す形で、吉田はちょっと場所を移動する。見つけなければならないものがあるのだ。解りやすい相手だから、見つけるのも容易いかと思ったが、中々そう簡単には目に付かなかった。まあ、運動会も終わったしな、と吉田が胸中で呟きながら、それでも初めて踏み入れた校内を散策していると、大きな人影を見つける事が出来た。運動会中、そこらかしこで目にしたタヌキの着ぐるみである。階段に腰掛け、休んでいるように見えた。
「…………」
 吉田は無言で歩み寄り、すぐ近くに佇んだ。そこまでくれば相手も気付いてか、吉田を見上げる。ユーモラスでちょっと間抜けなタヌキの顔が、吉田を真っ直ぐに見つめている。
 吉田は口に出すのをちょっとだけ迷い、けれどきっぱりと言った。
「佐藤だろ?」
 その発言を受け、タヌキはゆっくりとした動きで徐にその頭を脱ぐ。外された頭部から、さらりとした黒髪が現れた。
「バレたか」
 そう言う佐藤は、けれどそれが嬉しいのだと言わんばかりの笑顔だった。


 片づけをさぼるようで心苦しいが、とりあえず何故に佐藤がタヌキの着ぐるみを着るに至ったか、どうしても気になって吉田は佐藤の横に腰を下ろしてその経緯を聞く事にした。
 吉田に来なくても良いと言われ、それに従うかのような素振りをして見せた佐藤だったが、勿論そんなつもりはなくて、当日はいきなり押しかけて驚かせてやろうというサプライズをその日の内にすでに計画していた。
 そして当日。ちゃっかりと佐藤は開場となるこの小学校へと訪れていた。吉田から直接は聞かなかったが、これくらいの情報収集は、佐藤からしてみればまさに朝飯前である。そして、佐藤は山中と違い、開会式が始まる前にやって来た。そしてそこで、思わぬ事態に遭遇する事になったのだ。
「いきなり目の前でタヌキが倒れてるもんだから、さすがに吃驚したなぁ」
 佐藤は頭部は取ったものの体はまだ着ぐるみのままだ。そしてそのまま腕を組んでみせる。その時の佐藤はきっと、本当に驚いたのだろうが、頭から下がタヌキの見た目では、その時の瞠目は今一伝わりにくい。
 佐藤は西田のように自ら突進して人助けに行く性質ではないが、かと言って目の前で倒れている者を前にしてスルーする程人でなしでも無い。まあ、相手によってはそのまま通り過ぎるか、あるいは止めを刺していたかもしれないが。
 まずは身を起こさせ、今の佐藤のように頭部だけを取って話が出来る状態にした。中から現れたのは大学生くらいの男性で、突如腹痛に見舞われて着ぐるみの体を支えきれずに倒れてしまったとの事だった。朝から調子を崩していたらしく、だったら最初から休めば良いのに、と労いというよりは辛辣な突っ込みの佐藤の台詞に対し、それでは着ぐるみをやる人が居なくなってしまう、と相手はそう答えた。使命感はありそうだが、残念に感じるくらい何かがズレていると佐藤は感じられた。そしておそらくそれは正しい。別の人に頼むとか色々やりようはあるだろうに。無理をしてまで携わったとして、とても真っ当に遂行出来るとは思えない。それは逆に無責任とも取れよう。
 そしてその時、佐藤はふと妙案を思いついた。それは、彼の代わりに着ぐるみ役を買って出るというものだ。
「それで、影ながら吉田を応援しようと思ったんだ」
 こんな機会早々に無いしな、と悪戯が成功した子供みたいににこにこして佐藤が言った。実際、運動会は終わったし、佐藤から見れば成功したようなものなのだろう。
 学年一位になる学力と偏差値を誇る佐藤だが、時折こうして小学生並みかと言えそうなちょっと詰まらない事を全力でしてみせる。そんな時、大体は傍迷惑なのだが、可愛く思えてしまうのも事実であった。
 ところで、と佐藤は吉田の顔を覗きこむように言った。
「いつ、俺だって気付いた?」
 へ、とちょっと固まってしまった吉田だが、思えば至極真っ当な質問ではあった。確かに、気になる所だろう。けれど、問われて困るのは、確たる証拠が無い事だった。
「何となく……かな~」
 強いて言えば、歩き方とかそんな立ち振る舞い。自分に対する動きや、まあ怪しかったのは抱き留めていつまで経っても離してくれなかった事だが、それで即座に佐藤に繋げた訳では無い。いきなりはっと気づいたのではなく、あれ、もしかして、と段々と突き詰めるような流れで佐藤なんじゃないだろうか、と吉田は思ったのだ。
「そうか」
 具体的な事を言うまで追究でもされるのかと思った吉田だが、佐藤はそこで満足したようだった。本当に満足したようで、佐藤だと言い当てられた時と似た笑顔で吉田の方を眺めている。口元は揶揄するようなのに、向ける眼差しは優しい。ちょっと居た堪れなくて、吉田は染まった頬を隠すように別の方角を向いた。そしてそのまま、
「タオル……」
「ん?」
「ありがとう」
 いつから、なんてはっきりとした線引きはないけれど、きっかけとしてはタオルをくれた時だったかもしれない、と吉田は思った。意地悪くて、詰まらない悪戯もする佐藤だけど、根底には常に吉田を気遣う想いで満ちている。それに気付けない程、愚鈍でも無かった。佐藤だったら、あのタイミングでタオルを差し出してくれるだろう。そう思ったのが、始まりみたいな気もした。
「どういたしまして」
 きちんとした礼を言った吉田に対し、畏まった調子で返す佐藤だった。ぽふ、と着ぐるみのタヌキの手を吉田の頭に乗せる。いつもの繊細な長い指先では無いから、髪を弄ったり頬をなぞったり、なんて事は出来ないのだろう。だから油断した、というでもないけれど。
 首から下は着ぐるみのままなのに、佐藤はいつものように吉田へ口付る。
 そして、来てくれてありがとな、と吉田はキスが終わった口で、小さくそう言った。


 その後、着ぐるみを返さなくちゃいけないからと、佐藤と吉田は連れ立って片づけ最中の運動場へと戻った。するとそこには、片づけを手伝っている山中の姿が。自発的に行ったとはとても思えないので、虎之介が尻でも叩いたのだろう。
 椅子を運んでいた山中は、吉田と、その隣のタヌキを見て驚いたように目を見開き、椅子をその場に降ろした。戻るに当たり、佐藤は着ぐるみの頭部を被り直した。手で持って行くより、身についていた方が軽し手間が無いのだという。
 タヌキを間近で見て、山中はぷーっと噴出した。
「さっきからちょろちょろ見えてるけど、間抜けな顔だよな、こいつー! ちょっと顔見せろよ」
 どうせ冴えない男でも入っているんだろう。そう高を括って頭部をずらした山中であるが。
「…………、………………」
 その隙間から覗いた顔に、会場全体に響き渡る悲鳴を発したのは、その直後の事だった。




<END>