虎之介が不意に零す様に吉田に漏らす山中の話しは、殆どが山中の浮気の為の怒りの愚痴である。
 けれど以前、山中に対して虎之介が好きと言ってやった時、山中は月と一緒に覚えていると、虎之介にそう囁いた。
 しかしそんな山中だから、どうせ月と一緒に忘れているのだろうと、やっぱり愚痴に終わっているように見えてその顔はとても穏やかで、綻ぶ口元は笑みと呼ぶに相応しい。
 何だかんだで、虎之介はやっぱり山中が好きなんだと思うと同時に、自分がまだ中々言い出せない「好き」という台詞をすでに虎之介が伝えていた事も、吉田は何だかもやもやとした気持ちを抱えたものだった。

 そのエピソードが強いか、月の目立つ夜には吉田はその時の事を思い出す。見た訳では無いのだが、きっと口説くような甘い声と顔の山中まで想像出来るのが辛い。それに対して虎之介が喜ぶのだろうと。
 月を見上げる度についそう思ってしまい、もっとこういうのは穏やかな気持ちで見たい物だけどなぁ、と一人、吉田は微妙な胸中だ。別に、誰が悪いという訳でも無いのだが。
 それにしても、月を用いて口説くとは、さすが山中というか。牧村がやるとちゃんちゃら可笑しいが、山中だとまだ決まる。良くも悪くも、山中は自分をよく理解出来ていた。だから、女子を落とすのも上手かったのだと思う。ちょっと臭い位の口説き文句は、ある程度の水準を持ってから効果を発揮するのだ。それ以下が使った所で、失笑を買うのが関の山だろう。
 意識してモテている山中と違い、何もしないままでも女子にモテる佐藤が、月と一緒に覚えてるだなんて言ったら。吉田はそっと隣を伺った。今日は、佐藤と一緒に帰れる事が出来た。校内では接触厳禁を掲げる吉田だが、別に一緒に居たくない訳では無い。むしろそこは逆だろう。佐藤と一緒の帰りは、鞄も軽く感じる……なんていうのは、ちょっと言い過ぎかもしれないが。
「なあ、吉田」
「んー?」
 呼ばれた吉田は普通に受け答える。佐藤は続けた。
「月が綺麗だな」
 まさに思っていた事に近しい台詞が想像していた本人から出ていたものだから、吉田は危うくコケそうになった。すかさずそれを、片腕で支える佐藤。
「どうした?」
「ちょっ……ちょっと驚いただけ!」
「うん、だから、何に?」
 今の反応を見れば、驚いたことくらいは佐藤で無くても解る。片手一本で支えてくれた佐藤の手を振り払い、吉田はうぐ、と喉を詰まらす。
 だって、と少しだけ迷った後、吉田は素直に吐露した。こういう時の下手な抵抗は、素直に言った時に対して倍以上の羞恥を生む結果になる。それくらい解らない吉田では無い。
「佐藤が急に月っていうから、」
 それを聞き、佐藤は目をぱちくりとさせた。そのくらいで?という意味だろう。
 これ以上追究されたら、吉田はちょっとピンチだ。山中と虎之介との逸話(?)を説明する訳にも行かないし。
 まだ納得には遠いような佐藤だったが、不意に、ああ、と呟いてみせた後、何故か嬉しそうな笑顔を浮かべた。今度は、吉田が目をぱちくりとさせる。
「そういう意味じゃないけど、そういう意味で良いよ」
「えっ………へっ??」
 心底きょとんとした顔に、佐藤はあれ、違う?とまた怪訝な顔になった。何だか、ルールの解らないまま、ゲームに興じているような感覚に陥る。
 先に口を開いたのは佐藤だった。
「俺は、てっきり夏目漱石の例えの事だと思ったんだけど」
 夏目漱石って月と何か関係あったっけ?とまだ吉田はきょとんとする。佐藤が簡素に説明した。
「”I LOVE YOU”を訳す時、日本人は奥ゆかしいから直接愛してますなんて言わないで月が綺麗ですね、で通じるって言う」
「あー、何か聞いた事あるかも」
「あるかも、っていうか、まあどっかで聞いてると思うよ」
 小馬鹿にしているような佐藤の発言だったが、楽しそうでもあったので吉田は何も言わないでおいてやった。大人の対応だと吉田は自負する。
「けど、この話もちょっと眉唾らしいんだけどな」
 こういったやり取りが無かった訳でもないだろうが、ある程度話を盛ってはあるんだろうと、佐藤は独自の見解を示す。実際ガリレオだって板垣退助だって、あの有名な台詞が実際には言ってないとなっている。
「そうだなぁ……だっていきなり月が綺麗です、って言われても、月が綺麗なんだな、くらいにか思えないし」
 それが愛の言葉だなんて、教えて貰わなければ永遠に気付かないだろう。それに奥ゆかしいというより、ややこしいというか解り難いという感じだ。吉田にとっては。
「っていうか、何で月なんだろ」
 綺麗だと称するのなら、それこそ花でも何でも良い訳だ。月になった理由が解らないが、そもそも実際にあった事でもないというから、突き詰めるのも虚しい事かもしれないが。
「そりゃまぁ……月だからじゃないか?」
 答えになっていない答えをくれたのは佐藤である。
「科学的根拠は無いけど、月の満ち欠けが人の精神に影響するのは統計で結果が出ているし。だからもしかしたら、月を見たら口説きたくなる心理って事なんじゃないか、その例えって」
 交通事故の事例を上げれば、満月には暴走事故、新月にはうっかり事故が多いという。これだけを見て判断するのなら、満月には人の気は大きくなる傾向のようだ。
 まるで講義のような佐藤の台詞を聞いて、だから山中もそれで虎之介を口説いたのかと思う。きっと山中はこんな月と人のテンションの関連何て知らないだろうから、無意識に行っているのだろうが。
「それだから、狂気は英語でルナティックって言うんだろうな」
 うん、と一人納得しているような佐藤だが、生憎英語が悲しい程さっぱりな吉田は解らない事がバレないように装うしかない。まあ、この場合ラテン語であるが。月はラテン語でルナである。
 実際愛なんて狂気じみた感情だ、と佐藤は思う。少なくとも、自分のそれはそう呼ぶに値するとも思っていた。吉田の為なら誰彼かまわず倒すだろうし、吉田の幸せに繋がるのなら身を切られるより辛い事だって耐えられる。しかし、そんなまさに狂気じみた決意は、吉田と付き合っている限りでは発揮される事もないように思う。何やら矛盾した思いかもしれないが、吉田の隣では、佐藤はとても穏やかで居られるのだ。あまりに穏やかで、吉田に悪戯したくなるくらい。
 そう言えば、と佐藤は話を切り出した。
「”I LOVE YOU”の訳に、他に有名なのがあって……――――――」
「ん? 続きは?」
 単に呼吸の合間とは呼べそうもない、長い間に吉田が促す。口を閉じた佐藤は、吉田を見てにこりと微笑む。何故そこで笑うのかと疑問に思いながら、その綺麗な笑顔に顔を染める。
「いいや。吉田には似合わないし」
「は? 似合うとか似合わないとかあんの?」
「あるの」
 適当に流すような佐藤の態度だったが、吉田はそれ以上聞く事はしなかった。まあ、ちょっとは気になるけれど、でも佐藤が似合わないというから何だか良く解らないが、自分には合わないものだと思って。と、いうより単純に英文の訳についてこれ以上触れたくは無かった。最終的には自分の無知を開かすだけだからだ。
 そうこう話している間、道は吉田と佐藤の分岐に差し掛かった。今日は、ここでお別れである。
「じゃ、明日」
「ん、バイバイ」
 別れの言葉はいつも軽い。また明日会える、という事実が裏打ちされているからだ。けれど、それも高校の間だよなー、と夏休み以降、何となしに吉田はこの先をぼんやりと思い始めていた。
 強い日差しが延々と続きそうだった日中も、今は早く陽が落ち、端の方ではすでに夜が始まっている。肉眼でも見える星が現れ、月も昼間の白いぼんやりとした輪郭では無く、煌々と言えそうな輝きになりつつある。
 見上げた空、太陽の代わりに空高く上がるのは月だった。しかも、満月。
「……………」
 それを見上げた後、吉田は不意に振り返る。そこには、佐藤がまだ居た。
「佐藤」
「ん?」
「月が、綺麗」
「………」
 さっきの今での、吉田のこの台詞。さすがの佐藤も、咄嗟の反応が出来なかったようだ。
 その隙にとばかりに、吉田は「ただ綺麗だったから!」と言い訳なのか何なのか、喚くように言い放った後はぴゅーっと逃げるように立ち去ってしまった。最後にもう一声掛けたかった佐藤はやや残念だが、幸いな事にメールという手段が現代人の自分達にはある。
 眠る前位にでも送ってやろう、と今から佐藤は算段を建て始めた。
 そうして、吉田が綺麗だと口遊んだ月を見上げてやる。確かに、綺麗な月だが、吉田の心ほどでも無いと佐藤。
 さっき、吉田には言ってやらなかった、愛してるを用いらないI LOVE YOUの訳を思う。
 ――死んでもいい。
 前の自分だったら、この訳こそ自分には相応しいと思うだろう。けれど、今は違わない。死んでも良いなんて思わないし、思えない。絶対未練が残って、意地でも幽霊として現世にしがみ付くだろう。
 だって、今日の吉田より、明日の吉田の方が可愛いに決まっている。
 それを見るのだから、明日の自分は今日の自分より確実に幸せに違いない。
 佐藤は思った。もし、自分なりにI LOVE YOUを訳したのなら――
(――とても幸せです、とか?)
 それは結局愛していると大差無いのかな、と一人で小さく笑い、佐藤は暗闇の迫る中で自分の帰路を歩んだ。




<END>