「いや~~面白かったな!DVD出たら買うかもな、俺!」
 まだ本編の興奮を引きずっているのか、そう言ったのは牧村である。のっぺりとしたへもじ顔であるが、感情の起伏が激しい。
 まあ、確かに面白かったよな、と吉田も胸中で頷き返す。うっかり同意すると熱量の差があるテンションで返されるものだから、回避出来る所は回避したい。
 牧村と連れ立って映画を見に来た。昨日、牧村からのいきなりの誘いからだ。
 牧村が見ようと言っている映画はCMでも流れていて、吉田もちょっと見たいと思っていたから承諾した。こう言っては何だが、あまり期待していなかった分、余計に面白いと感じたのかもしれない。
「あーあ、夏休みももうすぐ終わりだな~」
 適当な店に入り、飲み物とフライドポテトを頼む。それを待つ間、牧村はぼやくように言う。夏休みも終盤。終わりに差し掛かり、一週間を切った。その名残惜しさに、まだどこかに遊びに行きたい牧村はこうして吉田を誘って映画へと来たのである。ある意味付き添いな吉田だった。まあ、残り僅かな夏休みに何かしたいという気持ちは吉田にもあった。正直、暇を持て余していた。
「大学生ってもっと夏休み長いんだろ? 高校も、も少し増やしてくれりゃいいのによ」
 ポテトをほそぼそと摘まみながら、牧村は夏休みを惜しむ気持ちと共にそんな愚痴も零す。
 この呟きにも、吉田は頷いてやらなかった。
 こちらは単純に、同意出来ないという気持ちの為に。


 夏休み最終日。
 長らくベッドの横で転がっていた通学鞄に、机の上に出しっぱなしだった課題の問題集を詰め込む。勿論、全部やってある。自分にしてはなんて快挙だ、と吉田はしみじみと頷いた。
「……………」
 映画を見に行った時、夏休みが長ければ良いという牧村の発言に、吉田は決して同意出来なかった。これが去年の自分であれば、勿論だともとばかりに頷いただろうが、今年は違う。
 夏休みの間、佐藤は家族旅行に行ってしまうからだ。蒸し暑い日本の夏を避けて、どこか過ごしやすい国へと行くのだろうだ。夏休みが伸びるという事は、すなわち旅行の期間も伸びてしまう。佐藤に――会えない。
 本当に、今年の夏休みは去年から何から何まで違う。
 夏休みが来なければ良いと思ったのも初めてなら、終わりが近づくのを心待ちにしたのだって初めてだ。
 いつもならギリギリまで目を背ける課題の束だって、吉田は率先して取り掛かった。おかげで、早く終わってしまったくらいだ。
 佐藤は夏休みが入ってすぐに経った訳では無い。行くまでの間、佐藤の部屋に行き、問題集の順番を無視してどうしても解らない応用問題の所を教えて貰ったのだ。
 問題集をやると、その時の事を一番色濃く思い出す。
 勿論メールは毎日しているが、生憎それでは顔は拝めない。
 まあ、言ってみれば佐藤は写メでも送っただろうが、さすがにそれは恥ずかし過ぎた吉田だった。
 今頃、佐藤は自分の部屋に着いているだろうか。本当は会いに行きたいけど、疲れもあるだろうし明日の為にもちゃんと休んで貰いたい。佐藤だって無理をすれば体を壊すのは、以前風邪にかかった事で知れている。
 でもメールしたいな、どうしようか、と携帯を持ってベッドの上で仰向けで寝そべっていると、急に携帯が着信の報せを奏でる。
 驚いて思わず手から滑らせてしまった携帯は、重力に従って真下に落ちた。つまり、吉田の顔に。
「んぎゃっっ!!」
 あまりの痛さに涙が滲んだが、携帯には傷一つ無いのが何よりだ。鼻を摩りながら、メールを見た。佐藤からだった。
 今は部屋に着き、風呂から上がった後だそうだ。文の最後には「また明日」という締め括りになっている。
 また明日。
 明日になれば、佐藤に会える。
 こんな浮き立つ心で、今夜眠れるか少し不安になりながら、吉田も最後の一文を「また明日」にして佐藤にメールを送信した。


 そして、新学期の朝――
 起きた直後、目覚まし時計見て吉田は「うわー」と呻いた。
 予定起床時刻を過ぎたのではなく、その真反対である。目覚ましを設定した時刻よりも早めに目覚めてしまった。
 二度寝するにも半端な時間で、吉田はそのまま起きる事にした。目覚ましのスイッチはオフにし、夏服に腕を通す。夏休み間はとにかく涼しさを第一に、タンクトップか袖なしが殆どだったので、腕に布がかかる感触も久しぶりだ。
 居間に行くと、自分を見た母親が凄く驚いた顔をする。
「あらやだ、こんな早起き何て雨でも降るんじゃない?」
 ゲリラ豪雨が夏の風物詩になりそうなこの頃、縁起でも無い台詞だ。どうしたの、とまで聞かれたがたまたま目が覚めたと軽く受け流す様に返事をしておいた。
 まあ、本当はたまたまじゃないんだろうけど。改めて佐藤が他よりも特別だと、他ならぬ自分自身で思い知らされた。朝食のトーストを齧る吉田の顔は、ちょっと赤い。
 佐藤に会えるまで、あと少し。


 長期休暇に入ると、一度リセットされたみたいに何もかもが新鮮に映る。そんなだからだろうか、夏休みが終わっても行き交う生徒の顔はそんなにも嫌そうなものではない。
 最も、自校の女子生徒に限っては、別の明確な理由があるのだろうが。吉田も同じ事が目当てなので、あまりどうこうとも言えない。
 校門が近くなると、そこらかしこでおはよう、という声が聴こえる。
 吉田も顔見知りのクラスメイト達と挨拶を交わしながら、佐藤はどこだろうと軽く周囲を気にしていた。
 と、そこへ。
「吉田!」
 びくっと吉田は体を戦慄かせた。実に40日強ぶりだが、そうそうに忘れられる声では無い。
 ――西田!
 吉田は胸の中で叫んだ。見つかってしまったという思いが過ぎる。 
 声を掛けられた時点では、まだ距離があったと思うのだが、西田はたちどころにその距離を詰めて来た。
 相変わらず、佐藤とは別の意味でキラキラしている西田だ。無意識に吉田は半歩後ずさる。
 そんな吉田の態度を知ってか知らずか、西田は吉田に語り掛ける。嬉しそうに。
「久しぶりだな! 休みの間、どこか行った?」
「え、えー、まあぼちぼち……」
 スルーしてしまえば良いのかもしれないが、吉田はそこまで非情にはなれなかった。佐藤は別の意味でスルー出来ないのであるが。
 吉田に尋ねた西田は、その後軽く自分の事も話した。夏休み間は、やっぱりボランティア活動に勤しんでいたようだ。夏休みになろうが、揺るぎない男である。
 不意に、西田が見つめて来た。何?と軽く首を傾けると、何故か西田が赤面する。そして、言う。
「いや、日焼けしたか、と思って」
「え、そうか?」
 別に吉田にはそういう認識は無いが、日焼け止めを塗るような事をしてもいないので、焼けているのかもしれない。
「うん、そうだよ。だって――」
 と、西田が吉田へ向けて手を伸ばす。あ、と思って吉田がそれを交わすよりも先に――
「おいコラ、朝っぱらから早速何をしていやがる」
 普段よりも低い声、柄の悪い口調であるが、この声は。
「佐藤っ!」
 吉田が叫んだのは抗議の意味も含まれている。吉田が避ける動きより、佐藤が吉田を片腕で胸に押さえつけるように抱き抱え込む方が先だった。西田の手からは逃れられたが、佐藤とゼロ距離の密着になっている。
「暑い!!!」
 ばたばたと暴れようにも、腕一本だけの拘束は外れそうにもなかった。
「おい、離してやれよ」
 見兼ねた西田が言うのだが、はっきり言って逆効果だ。佐藤は抱きしめる腕を緩めず、むしろさらに引き寄せてふん、と西田を一瞥する。
「お前が吉田から離れたらすぐにでも解放してやるよ。……俺よりも先に吉田に会いやがって」
 ぼそり、と吐き出された最後の一言は、暑い筈の吉田の背筋を凍えさせた。
 そりゃ、俺だって佐藤と先に会いたかったけど~、と背中で感じる殺意に吉田はどうする事も出来ない。
「それに、新学期で色々バタバタしているだろうに、こんな所で突っ立ってて良いのか?」
 佐藤の一言に、西田がはっとした顔つきになる。そして悔しそうな表情に顔を歪ませた後は「あとで覚えていろよ!」と昔の不良のような言葉を言い残して立ち去って行った。きっとその正義イヤーで困った誰かの声をキャッチしたのだろう。
 詰まらない台詞に、佐藤がまたもふん、と鼻を鳴らす。
 まだ学校に入って30分も経って居ないというのに、かなり疲れた吉田である。と、いうか。
「……ほら、もう離せよな!」
 西田はもう行っただろう、と吉田が再び暴れる。
 腕の中の拙い抵抗に、一転して佐藤は綻ぶような笑みを見せた。
「いいだろ? 久しぶりなんだから、もう少し」
「ヤダ! 離せ~~~~~!!」
 時間も経ち、登校する生徒も増えてそれに比例して女子生徒も増えている。それが解らない佐藤でも無いだろうに、というか絶対解ってやっている。
 この、女子からの突き刺さるとげとげしい視線も久しぶりだ。こればかりは、懐かしみたくもないが。


「吉田、ウチおいで」
 誘いの文句のようだが、まるで来る事がすでに決定しているような口ぶりだった。まあ、吉田も行くつもりでいたが。
 今日は始業式で、課題をあらかた集めた後はそこでお開きだ。熱心な進学校だとそのまま午後は授業になったりするらしいが、吉田達の通う学校はそこまでではない。
「やっぱり暑いな」
「でも、朝晩はちょっと涼しくなったよ」
「そう?」
 時差よりも気温差に辟易している佐藤のようだ。吉田はまだ海外旅行の経験は無いから解らない感覚である。
 旅行中の事は、これから行った先で聞かせて貰おう。まずはコンビニに入り、涼を取ると共にアイスを買う。
 アイスを齧りながら通学路を帰ると、何だかやっと自分の日常が訪れたような吉田だった。


 午前中で学校は終わったので、昼食もこれからだ。佐藤の作ってくれたパスタを、吉田は美味しそうに咀嚼した。アンチョビのペーストが効いている。
 アイスティーを貰い、汗で流れた水分を補給する。
「へー、宿題ちゃんと終わらせたんだ。偉いな」
「これくらい、やれるっつーの」
 ふん、と吉田はやっかみ半分、得意半分の声で言う。何せ、旅行に立つ前日、佐藤が吉田に掛けた声をと言えば「宿題ちゃんとやれよ」なのだから。
 これは意地でも全部やり切ってやる!と吉田の課題消化が早かったのはそういう意味も含まれていた。佐藤としては、勿論自分が勉強を見るが、万一実力テストの結果が不味かった時に提出物で内申を稼ごう、という考えだった。点数が芳しく無かった時、提出物を守れている否かというのは割と大きく響く。
「ん、偉い偉い」
 茶化す様に言ってから、頭を撫でてやれば「子供扱いすんな!」と顔を赤らめて喚き散らす。
 それなら、と佐藤はその手を吉田の頬に添え、流れるような仕草で口付た。
「!!!!」
 触れた唇を伝い、吉田が驚いているのが解る。きっと、あのツリ目を極限に見開いて真ん丸な状態になっているだろう。
 その表情が拝めないのは少し残念だが、今は吉田に触れる事を優先したい。
 舌を小さな口内に差し込み、絡めるように掬い取ればその動きに逐一戦く体を抱きしめる。より近くなった距離に、吉田がぎゅう、と袖を掴んできたのが解った。
 ああ、可愛い。
 長らくの空白を埋めるように、佐藤はキスを続ける。メールのやり取りはしていて、繋がりは確かに感じていたけれど。
 五感を使ってフルに吉田を堪能していたら、その吉田からジタバタと本気の抵抗を感じた。健気に掴んでいた手で、ばしばしと腕を叩く。
 どうやら、キスの加減と吉田の呼吸のタイミングが合わなくなってきたようだ。まだ名残惜しさは存分にあったが、吉田に目を回されても困るので、ここは一旦引く(一旦?)
 ようやっと佐藤が離れると、吉田はふはーっ!と大きく息を吸った。
 溺れるかと思った、と口周りを拭う。その時、周りが濡れているのに、吉田は何ともいえない気持ちになる。
「ごめん」
 こんな時だけ素直に謝る佐藤に、逆に卑怯だと思いながら「別に」と短く返す。ちょっと素っ気無かったかな、と自省して佐藤を見やると、そんな胸中はお見通しだというような顔をしていた。悔しさと羞恥で顔に熱が上がる。
 と、佐藤は不意に顔を歪めた。突然の変化に吉田も狼狽えると、佐藤がぽつりとその理由を語る。
「……今日、早く吉田に会おうと思っていたのに、よりによって西田に先を越されるとか」
「え、まだその事根に持ってたの?」
「悪いかよ」
 ぐに、と吉田の柔らかいほっぺたを抓る。いててて、という声が歪んた輪郭にせいで妙な発音となって外に出た。
「何か、幸先悪くてさ」
 2学期には運動会や文化祭という、学生にとって大きなイベントが控えているというのに。
 言われて吉田は、その事に気付いた。とりあえず今は、目下間近に控えた実力テストに意識が注がれている。
「文化祭とか、西田について行くなよ」
「……そんな先の事を言われても……って、行かないってば」
 佐藤に言われるまでも無い事なのに、何故そんな真剣な顔で言われなくてはならないのか。西田のアプローチも困るが、こんな佐藤の態度にも困る。
 ……まあ、力づくで無理やり引っ張られたらその限りでないが、西田はそんな実力行使には出ないと思うし……多分。
 周りが見えなくなる所はちょっと佐藤と似てるよな、とこっそり思う吉田だった。
 西田に腹を立てている佐藤と言うのは、見ていて面白くは無い。まるで自分がとんだ尻軽のように思えてしまうし、それにその頭の中で占めているのは西田だと思うと、かなりもやもやした気持ちになってくる。
「…………」
 そのもやもやした気持ちは、とても言葉にして吐き出されるものではなくて、吉田は思い切って抱きついてみた。
 佐藤は、その時には驚きを見せたものの、さすがというか、すぐに自分のペースへと戻る。
 抱擁というよりは、しがみ付くような吉田を少しだけ引き起し、最低限のスペースを開けて掬うようなキスをする。
「何、誘ってるの?」
 上から見下ろす佐藤は意地悪だ。
 違う、と前までの吉田なら速攻で反論しただろうが。
「……う、う~ん………そうなの、かな?」
 顔を赤らめつつ、しどろもどろで言う。しかも上目遣いで。
 最強のコンボにこれはさすがの佐藤も目を見張った。口元に手をやり、何事か思案するように眉間を潜める。一見すると機嫌の悪い仕草だが、佐藤にとってはあふれ出る素を堪えている必死の様子なのだ。最もそうやって隠そうとしても、何故だか普段は鈍感よりの吉田には気づかれてしまうのだが。
 いろいろ逡巡した佐藤は、最後にふーっと息を吐いてから徐に立ち上がる。勿論と言うか、吉田を抱き上げて。
「わっ、何だよ!?」
 慌てた吉田は佐藤を見上げる。けれど、そこにあったのは笑顔は笑顔だが、見る物に安心どころか不穏を与えるような笑顔だった。満開なのがまた怖い。
 堪らず引きつらせる吉田に、佐藤が言う。
「それなら、今日は手加減しなくて良いな」
 確認するような確信しているような。そんな呟きに吉田は赤くなったり青くなったり忙しない。
「ま、ま、ま、待った、待てっ、佐藤!」
 着実にベッドに向かう佐藤に、吉田が必死に待ったをかける。
「今日は勉強しないとだから!」
 それは無論佐藤だって解っている。吉田が失念していてくれないかと、僅かな可能性に掛けたのだが、水泡へと帰してしまったようだ。隠れて舌打ちをする佐藤。
 佐藤の立てたプランでは、これからベッドでする事をしてからでも点数を取れるレクチャーは十分できる。が、何が問題化と言うと、余所事に気を取られたのであっては、ちゃんとした繋がりが感じられないという事だ。佐藤にとって、行為は目的では無くて手段である。手段の為に目的は疎かには出来ない。
「解った。じゃあ手加減する」
 そう佐藤が言ったのは、しかしベッドの上である。
「……するのは変えないんだ」
「ダメか?」
 控えめな吉田の突込みに、佐藤がここで尋ねた。タミングがかなりずれているな、とは思うが言ってはやらない吉田だった。
「……別にダメとか言って無いし」
 というか、吉田だって十分そのつもりだった。会えなくて触れなくて、不足しているのは佐藤だけではない。
 吉田が遠回しな承諾を言うと、佐藤の顔が輝く。こんな無垢の表情の佐藤、佐藤本人も知らないかもしれない。
 そんな表情のまま、佐藤が顔を寄せる。吉田も目を綴じた。
 再び感じる佐藤の感触、体温、匂い、微かな息遣い――
 それらを感じて吉田は、長い休みも終わって、ああ自分の日常が戻ったんだ、と思った。




<END>