夏休みに病気になる事程、つまらないものは無いと思う。この真夏の盛りに夏風邪を引いてしまい、吉田はベッドの上で過ごさなければならない。牧村と秋元と予定していたプールには勿論行けない。気の良い友人達は、吉田に労いのメールを寄越してくれた。
 携帯を枕元に置き、吉田は不貞腐れるように寝返りを打った。風邪の時にあまりクーラーには当たらない方が良いのだろうが、この猛暑の中ではエアコン無しの室内では、風邪ではなく熱中症で病院に直送されてしまう。普段は口やかましく節電を掲げる母親も、息子の体を気遣ってクーラーを掛けてパートへと出掛けて行った。本当に単なる夏風邪なので、わざわざパートを休んで看て貰うまでも無い。
 吉田が喉に違和感を覚えたのは一昨日の事。ほっといてもやり過ごすだろうという楽観的観測が崩れたのが昨日の夜。そして今朝、はっきりとした不調となって表に出た。熱は微熱であるが、ここで堪えておかないと悪化を辿る。今日は大人しく寝て、完治を待つのみだ。もうすぐ盆に入り、父親の里帰り前には治しておきたい所ではある。
 夏風邪なんて、吉田にして初めての事かもしれない。風邪自体滅多に引かないのだから。空手を辞めて体力が落ちたというのは違うと思うけども。
(う~ん……)
 頭は睡眠を欲しているのに、身体が火照って中々寝付けない。額に貼った保冷剤も温くなってきてしまった。けれど、立ち上がって代わりを持って来るのを面倒だと感じている。
 それでも辛抱強く目を瞑っていれば、やがて真っ暗な視界に溶け込むように意識が沈んでいく。その最中、微睡みと呼べる最中、吉田は佐藤の顔を見たような気がした。夏休みの今は、佐藤は家族そろっての長期旅行中で、この界隈は愚か日本にも居ない。
 抑えていた、会いたいという感傷が佐藤の顔を思い浮かばせたのだと、思う。

 どれくらい寝ていたのか。ふとした折に覚醒した吉田は、頭が幾分かすっきりしているのに気付く。
 もう熱が下がっただろうか。漫画を読むのも禁止と言われたが、折角の夏休みなのだから、怠惰に過ごしたい。それは決して病床に伏している意味では無く。
 んー、と軽く呻きながら身を起こす。
「ああ、起きた?」
「んー……… ――――――ッッ!!!」
 自分に向けられた声に、何気なく対応してしまったが、母親がパートに出掛けたとなれば、今この家には自分だけのはずだ。と、いうよりもその前に!
「佐藤! 何でここに!? っていうかどうやって!?」
 驚愕に顔を染める吉田を眺め、佐藤は「あ~、この顔、良いなぁ~」なんて呑気に構えていた。けれど、病人に興奮させてばかりはいけないと、吉田の疑問には応えてやった。
「丁度、吉田の家に向かっている所にお母さんと出会ってさ。で、お前が風邪ひいて寝込んでるっていうから、俺が看病します、ってここに」
 合鍵渡された、と佐藤はとても嬉しそうに言った。反対に頭を抱えたのは吉田である。なんて事をなんて相手に頼んでるんだ母ちゃん!!とパート先に居る母親に投げかけた。その台詞が当人に届く事は無いが。
 それに、母親ばかりに非を押し付けるのも頂けない。佐藤がきっとあらゆる手管を弄していたに違いないだろうし。
「夏風邪って、腹出して寝ていたんじゃないか?」
 小さく佐藤が笑いながら言う。吉田は違う、と言いたかったが、生憎心当たりと言えばそれだった。窓を開けっぱなしにした夜、気づけば腹が出ていた。しかもその日は、熱帯夜の続く中でたまたま気温の下がった夜でもあった。いくつもの原因と偶然が重なり、吉田は夏風邪になってしまったという。
 けれどこの件は母親には打ち明けていない。言おうものならすぐさま腹巻をして寝ろと言われるに決まっているからだ。誰が見るでもないだろうが、みっともなくてそんな恰好はしたくは無い。
 なんて吉田が思っていると、佐藤が立ち上がる。
「お粥、作ってくるよ」
 吉田に薬を飲ませる事を頼まれてるんだ、と佐藤はちょっと悪戯っぽく言って部屋を出た。
 佐藤が居る事ばかりに驚いて、何をしに来たのかを全く聞いていなかったなと吉田が気付いたのはこの時だ。まあ、後で聞けば良いか、と吉田は佐藤が作ってくれるお粥をとりあえず待った。

「ほら、あーん♪」
「自分で食べれるっつーの!」
 小鉢によそったお粥を、さらに匙に乗せて口元に近寄せる佐藤に、吉田は一喝するように吠えた。多分やるとは思ってたんだ、やるとは、と小鉢を改めて佐藤から受け取り、ふーふーと息を吹きかけて適度に冷ます。口に頬張ってみれば、丁度良い塩気と米粒に絡んだ卵が滋味として口の中に広がる。
「ん、おいしい」
 口の中の物を飲み下し、こちらの様子を眺めている佐藤に向けて感謝の気持ちも込めながら言う。それを受け、佐藤はふわりと笑った。感情のままの表情を浮かべるなんてあり得ないと佐藤は自分自身をそう言っているが、吉田から見れば佐藤は凄く、自然な表情を浮かべられていると思うのだが。
「なあ、旅行中じゃなかったっけ?」
 卵粥を半分食べた所で、ようやっとその疑問を口にした。熱い物は熱いうちに食べなければ、と後回しにしただけであって、決して忘れた訳では無いと主張しておく。
「うん、途中俺だけ帰国した」
 1週間も付きあえば十分だ、と呟く佐藤には疲弊が見えた。吉田は詳しく聞くのは避けてやる。
「でも、それならメール位入れてくれてもよかったのに」
 言いながら、多少唇を尖らせた。まだ会えないんだ、と折角の夏休みだと言うのに、吉田の心は今一晴れていなかったのだから。
「だって、急に行って驚かせたかったからv」
 吉田の驚いた顔って好きなんだよな~なんて嘯く佐藤である。それを事実とするならば、さっきの寝起きの慌てふためきようは、さぞかし佐藤を悦ばせたものだろう。
「まあ、でも、まさか風邪引いてるとは思って無かったけど。お前こそ、そういうのメールで言えよ」
 佐藤は後半の台詞を、やや不貞腐れたように言う。佐藤が長期海外旅行に出かけてしまう際、一日に一回で良いからメールをする、という取り決めを何となしに決めた。拘束力は緩いものであるが、代わりにお互いの意思は強かったためそれは遂行されている。その時の文面の内容までの指摘は無いが、何か変わった事が起きたのなら、それを伝えるのではないか。佐藤がそう言いたげな雰囲気を、吉田も感じる。
「……あー、うん、でも、外国に行ってる相手に風邪引いたっていうのも、」
「……そりゃ、どうせ何も出来ないだろうけど、」
 佐藤が後ろ向きな発言したのを聞き、吉田は慌ててそうじゃなくて、と改める。
「折角の旅行中なんだしさ、楽しんでもらいたいじゃん」
 これが仮に逆の立場だったら、吉田は旅行中ずーっと佐藤の事ばかり気に掛けていただろう。メールや電話で大丈夫だと言われてもすぐには頷けない。
 本当にただの、寝ていれば治るような風邪なのだから、報告する間でも無いと吉田は思ったのだ。決して、佐藤が頼りにならないからとか当てにできないからという理由では無い。
「…………」
 しばし、見つめ合うように無言だったが、佐藤が手を伸ばして吉田の頭を撫でる。
「うん、でもやっぱり、教えて欲しかったかな」
「……………」
 自分の意見を聞き入れた上での台詞なので、吉田は特には言い返さなかった。
「会いには行けないけど、見舞いのメール位は入れたかった」
 撫で続けている佐藤の手つきは優しい。まるで壊れ物を扱うような手つきだ。病人だから、というよりは好きな相手だからだろう。そう思った途端、吉田はいきなり落ち着かなくなった。さっきは、佐藤の作った粥を食べても平然としていられたというのに。自分でも何がスイッチになるのか、良く解らない吉田だ。
「熱以外にもなにか症状あるの?」
 撫でていた手を戻し、佐藤が尋ねる。掌の感触を名残惜しく思いながら、吉田は応えた。
「んー、特には。喉が変だったけど、今はそんなでもないし」
 そう言って、喉を摩る。昨夜は喉の真ん中に何かが引っ掛かっているような違和感があったが、今は無い。
 喉か、と佐藤はそこを呟いた。そして、唐突に自分のバックを漁る。
「それは丁度良かった」
 佐藤が独り言のように呟く。何が丁度良いんだと思った吉田だが、差し出された物を見て納得できた。
 佐藤が取り出したのは、小瓶に詰められたキャンディだった。その瓶を、吉田に渡す。
「蜂蜜で作ったキャンディなんだ。レンゲ、オレンジ、アカシア、ソバなんかの蜂蜜が入っている」
 そして佐藤がさらに言うには、西洋のミツバチは巣の中に1つの花の蜜のみを集めて来るが、日本のミツバチは色んな花から蜜を集めて来るのだという。後者がブレンドされた複雑な味わいを持つのに対し、前者は特徴を際立たせる。どっちを好むかは完全に人それぞれだろう。
 どれがどの蜂蜜なんだろう、と興味深そうに瓶の中を眺める吉田に、多分色が一番濃いのがソバだと思うよ、と言って見る。
「へー……佐藤、ありがとな」
 結局の所、佐藤の本来の目的はこの土産を届ける事だったのだろう。嬉しそうに瓶を眺める吉田だったが、その瓶が再び佐藤の手に戻った事にきょとんと瞬きをした。
 視線を向けた先、佐藤はにこりと微笑む。さっきとは違う笑みに、吉田がぎくりと強張った。
「さ、食事がもう良いなら、薬飲もうなv」
 その台詞に、さらに吉田が強張る。滅多に病気に掛かる事もなく、甘い物を好む吉田はある意味当然のように薬が嫌いだった。母親がパートに出たのを良い事に、薬は飲まずに済まそうと実は思っていたのだが。
 母親があっさり佐藤を上げたのは、佐藤の手管と共に見張りの役割を求めたからなのだろうか。
 飴の入っていた瓶の代わりに吉田に手渡されたのは、錠剤の入った瓶。ぱっと見、チョコレート菓子のようにも見えるが、当然ながらその糖衣の下はチョコレートではない。
 薬飲まないとこの飴もやらない、と吉田から見て実に残酷な事を佐藤が言った。先に見せる辺り、性質が悪いと言えよう。
 それでも何とか、踏ん張って飲込む。これくらい、普段の佐藤からの仕打ちから思えばなんともないと自分に思い込ませ。
 そうして飲んでみたら、ご褒美だと軽いキスをされてしまった。昨夜の発熱より、余程吉田の体温が上がる。
「あれー、吉田。顔が赤いぞ??」
「!!!!!」
 白々しく言ってくれた佐藤に、何も言い返す事の出来ない吉田は、シーツをぎゅう、と握りしめるばかりだった。
 夏の風邪なんてもうこりごりだ!!!なんて、真っ赤な顔で思いながら。



<END>