一学期の最終日、吉田は肩が抜ける程では何しろ、歩くにつれ疲労と苦痛を伴うばかりの重量を感じていた。
 夏季休暇に入るに当たり、ロッカーや机の中の教科書類は全部持って帰れという担任からの言葉にに対し、ギリギリまでサボった報いだった。全教科とは言わないが、主要教科の類は全てこの鞄に入っている。灼熱の太陽に合わせ、これはもはや苦行に近かった。尚且つ吉田は徒歩通学だ。今迄はぼんやりとしか浮かべて無かったが、今は自転車通学の連中が心底羨ましい。
 いやけれど、この重量を乗せて自転車で帰る事は可能だろうか?無理やり詰めたバックはその容量をフルに活用されていた。前のカゴに乗せたらバランスが取れずに転倒しそうだ。なら、荷台に括りつけたらよいだろうか。そんな事を考えても、実際には自転車が無い事実に、肩の重みが増したような吉田である。
 牧村も、吉田並みに教科書を残していた。今日、一気に持ち帰る羽目になり、あのへもじ顔が悲痛そうに歪んでいたのを思い出す。牧村は生徒会長に現を抜かしまくっていた為に、持ち帰りが滞っていたのだ。まだ牧村は辛うじて失恋はしていない。辛うじて。
 帰路のこの先を脳内で辿り、自宅までの道のりはまだ遠く、吉田はややげんなりとした顔になった。
「うわー、吉田、重たそうー」
 なんて、完全に他人事だと思った声が上から降る様に掛けられた。吉田はぎょっとして上を向く。そして改めて驚いた。
「佐藤! 何で!?」
 今日が一学期最後だからと、女子に囲まれるようにして下校した姿を見たのはついさっきだ。あれを見て、今日は一緒に帰る事は無いだろうと思った吉田だったのだが。
「撒いてきた」
 けろりというかあっさりというか、そんな風に言う佐藤を見て吉田は何と尋ね直せば良いものか、困る。
 けれど最終的に「まあ、佐藤だもんな……」で終わるのも吉田なのだった。実際佐藤にはそう思わせる事ばかりだ。
吉田を見て、重たそうと呑気に言った佐藤は、だからこそか実に身軽だ。一応通学バックは引っ提げているが、その中身には筆記具以外は入っていないのだろう。今日は終業式がメインで、授業らしい授業は無かった。中には今日から早速補習、という哀れな連中も居るが、佐藤は勿論そんなものには無縁である。吉田もそんな気配の感じられる微妙なラインだったりもしたが、佐藤のおかげで事なきを得た。おかげで、40日強の夏休みを満喫出来る。
 まあ、休みと言っても課題はばっちり出ている訳だが。課題さえなければ、吉田もこんな重たい思いをしてまでわざわざ教科書を持ち帰ろうとは思わない。
「ちゃんと持って帰らないから。早い内から言われていた事だろ?」
 好きな子の困っている顔が好きという、Sっ気のある佐藤は重たい荷物に四苦八苦している吉田を見るのが楽しくて仕方ないようだ。女子の前では見せない良い笑顔をしている。
 実際佐藤の言う通り、担任は7月頭からその旨を朝や帰りの時間で口うるさく言っていたのだ。終業日の見回りで、机やロッカーの中に教科書があったら破棄するとまで言っていた。それが本当なのかただの脅しかは解らないが、買い直しのリスクを鑑みれば持って帰った方が良いだろう、というのが吉田の判断である。その判断を下したのがせめて2,3日でも早ければ良かったのだが。
「……なぁ~。佐藤~」
 吉田は言うだけ言ってみる事にした。限りなく望みは薄いが、言ってみる価値はあるだろうと。
「教科書、ちょっと持ってくんない?」
「いいよ」
 あまりに佐藤があっさり頷いたので、吉田は思わず「え!?」と住宅街の中では似つかわしくない大声を上げてしまった。
「マ、マジで!?」
「うん、ほっぺにキスしてくれたら♪」
「…………」
 一瞬佐藤が菩薩に見えたが、何の事は無い、佐藤は佐藤だった。一瞬でも当てにして喜んだ俺が馬鹿だった、と吉田は口を噤んで歩き出す。
 身長差に比例した歩幅差を上回る速度だった為、佐藤が「ちょっと待ってよ」と言いながら再び吉田の隣に並ぶ。
「今日、この後暇?」
「…………」
 さっきの今で、素直に返事は出来ないけど、言葉の代わりのように顔を上げる。見上げた先には至って穏やかな顔の佐藤が居た。
「お母さん、まだパートだろ? 昼飯とか、俺の家で食べて行けば」
 今日はもう、終業式を済ませば後はホームルームしかなかった。辛うじて午前中に引っ掛かっている時間である。家で適当にカップラーメンでも食べようかと、重い荷物を担ぎながら思っていた吉田には、至って僥倖である。ジャンクな食べ物も嫌いじゃないが、佐藤の手料理の方が好きだ。何より、美味しい。佐藤が悪戯に、やたらと辛い調味料を入れなければ、という前提であるが。
「来る?」
「…………うん」
 吉田は頷いた。それを見た佐藤はほっとした顔になり、吉田が体力を削りながら持ち運んでいた鞄をひょいっと自分で担ぎ上げ、返せという吉田の抗議を心地よく耳で聞きながら自分の家へと向かった。

 昼食にと佐藤が作ってくれたのは、キュウリとレタス入りの蟹チャーハンだった。しゃきしゃきとした野菜の歯触りが良かった。スープは中華風の味付けで溶いた玉子とシメジが入っている。
 どっちも美味しく平らげ、後片付けを済ませた後(調理は全般佐藤がこなした)食事ととったリビングでは無く、佐藤の部屋で寛ぐ。
 佐藤の部屋には、吉田に部屋には無いエアコンが備え付けられている。人工的ながらも涼しい冷たい風に、吉田はすっかりリラックスして行った。
 あとは佐藤の蔵書でも読ませて貰って、日が暮れるまでのんびりしておこうと思った吉田なのだが。
「ちょっと課題進めておこうか」
 なんて佐藤が言い出してきた。
「えー、何でー!」
「だって、折角教科書もあるし」
 傍らにある、パンパンに膨らんだ鞄を佐藤が目で指し、吉田はこの時こそ計画に持ち帰らなかった事を後悔した。
「それに、俺、夏休み中あんま居ないし」
 そうだ、そうだった、とその事実に吉田はちょっと目を伏せる。夏休み中、佐藤は家族旅行に行ってしまう。近郊で1泊2日、なんてレベルでは無く、海外で夏休みの殆どを費やしてしまう。一応、登校日には出て来るようだが。
 じゃあちょっとだけ、と吉田は渋々ながらにも教科書と課題のプリントを取り出した。

 夏は暑いというだけで体力を消耗するものだ。
 そこから離れ、適温に過ごせる室内。そして、食後という条件が加わり、つまり何が言いたいかと言えば。
(……ねむい……)
 昼下がりの窓際の席で座っているかのように、吉田に怒涛の眠気が襲う。
 今、この睡魔に身を任せたら、実に気持ち良く眠れるだろう。そんな予感を抱かせつつも、吉田はとりあえずはその誘惑に反発していた。まだ、佐藤から提示された範囲を解答出来ていない。
 やたら辛いチョコを食わせたり、女子をけしかけたりと、無茶な事を吉田にさせる佐藤であるが、勉強に関してはそんな真似はしなかった。吉田の能力に見合った量を出してくる。
「…………」
「……吉田? 吉田?」
 ついでだからと、吉田の真向かいで佐藤も課題を消化し始めた所、吉田が何も動きをしていない事に気付き、声を掛ける。
「ぅえ、あ、うー……」
 佐藤に声を掛けられ、吉田は寝起き、というより半分ほど眠りに突っ込んでるような顔を晒した。やれやれ、と佐藤が嘆息する。その表情を、内心可愛いな、と思いつつ。
「寝るか?」
「ん、んー………――――――ッ!!!!」
 もう殆ど何を言っているのか言われているのか、解らない状態の吉田だったが、自分の背中に張り付いた佐藤にはさすがに目を剥く。
「ちょっっ! ぅわっ! 何してんだ――――!?」
「ベッドに運んであげようかなって♪」
 ああ、またこの良い笑顔だ、と吉田が瞠目する。
「ね、寝ないから! 起きてるから―――――!!!!」
「ふぅん?」
「ぎゃっ!!!」
 体温を伴った吐息が後ろの首筋にかかり、その何とも言えない感触に吉田の身体が戦慄く。その反応ごと抱きしめて、佐藤は大層機嫌が良さそうだ。勿論と言うか、吉田の機嫌は下降しているが。
「………………」
「なあ、おい、ちょっと。佐藤、」
 まだ納得してないのか、と背後から腕を回す佐藤にそう呼びかけてみれば。
「……もう少し」
 微かのような声がした。と、次の瞬間、とん、と肩に軽い衝撃、佐藤の頭が乗っている。肩に頬を乗せ、擦り寄る格好を取った。
 あまりに密着し過ぎるこの姿勢に、吉田の熱がどんどん上がる。けれど、さっき日中の道路を歩いていた時のような、茹だる熱さでは無かった。もっと芯から蕩けさせる、そんな熱だ。
 あーあ、と佐藤の口からため息が漏れた。これだけ密着していると、些細な動きもダイレクトに伝わってきてむず痒い。
「吉田と会えないなんて……」
 ふぅ、とまた溜息。だからくすぐったい、と身じろいでみたが、伝わったかどうか。
「でも家族旅行なんだろ? 仕方ないじゃん」
「まあな……」
 吉田の意見に同意した返事の佐藤であるが、その中身は大分違う。佐藤が旅行に付きあうのはむしろ義務である。養われている身として、保護者には逆らえないという諦めからだ。
 まあ、今からでも自生出来なくもないのだが、その場合非合法というか超法規的手段というある意味反則技のオンパレードになるだろうし、そんな身分の自分に吉田を付き合わせる訳にも行かない。
「海外でもメールって届くっけ?」
 吉田が自分の方を向きたそうに動くので、佐藤は顔を上げて少しだけ腕を緩める。その中で半回転した吉田は佐藤を見て言った。
「うん、届くよ」
「んじゃ、メールする! 大した内容じゃないと思うけど」
 たまーに宿題の事も聞くかも、と、にかっとした笑顔に、旅立つ前から感じる寂しさが少しだけ癒された。傍に吉田が居ないなんて、佐藤にはもう考えられないくらいだ。
「それじゃあ……夜、寝る時にメールしてよ」
「へ? 日記みたいな?」
 一日の報告をしろ、という文面に受け取ったらしい吉田がそう言う。違うよ、と佐藤は訂正しつつも吉田らしい勘違いに顔を綻ばせる。
「おやすみ、ってメール、頂戴」
「……それだけでいいの??」
「勿論、もっとあっても良いよ」
 けれど、寝る前のおやすみのメールは必ず欲しい、と改めて佐藤が言うと、吉田は快く承諾した。それくらいのメール、手間でも何でもない。
 場所も、時間さえも違う所へ旅立ってしまうけれど、それでもそんな生活の中で佐藤は少しでも吉田を感じていたかった。時差で就寝に相応する時間は勿論お互いずれるけれど、休みだからと吉田が夜更かしして、たまには合致したりすることもあるだろうか。
「あ、夜更かししても、真面目ぶって早い時間にメール送らないで、ちゃんとその時間に遅れよ」
 その危険を思った佐藤は、早速注釈する。
 何だか良く解らない注意事項だな~と吉田は思いつつも、やっぱり佐藤が強請る事に素直に応じてしまうのだった。
「佐藤も俺に送れよ、夜寝る時。おやすみって」
「……俺もか?」
 その発想は無かったばかりに佐藤が言う。少しきょとんとなっている辺り、これは意地悪では無く素で言っている。
「だって俺だけメール送ったんじゃ馬鹿みてーじゃん」
 自分だけが佐藤の事を凄い好きに思える、と、むぅ、と剥れる顔は赤くなっていた。可愛い、と佐藤は思う。
「うん、解った」
 正直、おやすみだけのメールの何が面白いかと思うが、そこはお互い様だろう。
 佐藤の承諾を得て、吉田は今日一番の笑みを浮かべると、辛抱の切れた佐藤にそのまま寝室へと運ばれてしまった。

 かくしてこの夏休み、2人のメールには「おやすみ」というメールが受信ボックスに大量に残される事となったのだった。



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