あーっ!と吉田が声を上げた。それはある種、悲痛なもので聞いた者の憐憫を誘う。
「無くなったぁ~」
完全に主語が抜けていれば、見れば一発で解る。ペットボトルの口を下に向けた形で項垂れるも、そこからは一滴も零れたりはしていない。無くなった、とはペットボトルの中の飲料である。
「うう、暑い……喉乾いた」
不満と言うより、感じたままを口にしたのだろう。机に突っ伏していたら暑くなったようで、のっそりと起き上がる。
「いっそ、アイス食いたい」
吉田は言うが、生憎学校の購買はそこまでサービスは良くは無い。けれど、確かにこんな気温で食べるアイスこそ、格別に美味しいだろうに。
アイスで気を紛らわそうとしたが、やはり喉の渇きはそのままだった。仕方ない、暑い中を出歩くのも嫌だが、自販機で買って来よう。そう言って立ち上がる吉田に、佐藤がストップ掛けた。
「あ、待て、吉田」
何を引き留める事があるんだろうと、吉田は首を捻る。
「確かさっき、自販機が全部売り切れてたって騒いでたぞ」
「え―――ッ!マジで!?」
喚く吉田に、マジで、と佐藤は頷き返す。急に猛暑が訪れたものだから、業者の補充が間に合っていないのだ。コンビニではないから、早々継ぎ足してはくれないだろうし、何より学校には水道という奥の手(?)もある。自販機の中が空になったとはいえ、渇きで死ぬことは無い。当然だが。
じゃあ、これに水でも入れて来るかな、と吉田は手にしてある空のペットボトルに目をやる。無いよりはマシだ。が、そのレベルだ。
(いや、購買に行けば紙パックのジュースくらいははあるかも?)
ペットボトルと違って、一度口にした後の持ち歩きは出来ないが、一気に飲んでしまえそうな気がする。
水道水か、紙パックか。頭の中の天秤に乗せ、二者択一を吉田が済ます前に、佐藤がそれを取り出した。500mlのペットボトルのスポーツ飲料水。しかも、ご丁寧に外気熱を遮断するカバー付きである。佐藤は細かい所にまで気を配る男だ。特に吉田が絡めば。
佐藤の鞄から出されたそれを見て、吉田の喉が今さらに渇きを覚えてかごくりとなった。半分なんて言わないから、一口分けてくれないかな、などと思っていると。
「欲しい?」
と、蓋を指でつまんでペットボトルをプラプラと揺らして見せる佐藤。
「欲しい!」
吉田は基本根が素直な人間である。素直すぎて、たまに愚かさに転じる時もあるが。今なんかがちょっとそれだ。
揚々とした吉田の返事を受け、佐藤が浮かべたのはまさに悪魔の笑みだった。
「じゃあ、大好きって言ってほっぺたにキスなv」
にこやかかつ、軽やかに言えば、吉田が目に見えて硬直する。何度やっても慣れない吉田は、何度見ても面白かった。
キス自体は初めてでは無い。それこそ、付き合い出す前からしていた事だ。けれど、吉田の言葉にしての「好き」はまだ佐藤は聞いていない。それに相応するような台詞は聞いた事はあるが、佐藤はやはりその言葉が聴きたい。だから隙あらば交渉として使ってしまう。あまり口が開かないのなら、こっちがきっかけを与えれば良いのかと。
けれど、吉田の方としては、真面目に応えてもノリで口にしても「好き」は「好き」だ。大事な人に伝える大切な言葉で、そんなどんなに欲しくても飲料と引き換えにして言うものじゃない。そしてそうしろと言ってくる佐藤には、ちょっと腹も立ってくる。
「……いいよ、水入れて来るから」
むす、とまさに口をへの字にして言い放ち、部室から出ようとした。が、佐藤の横を通り過ぎる時、その腕を捕まられて安いパイプ椅子に再び腰を下ろす。
何だよ!と吉田がいきり立つ前に、佐藤が言った。
「ごめんって。そんなにマジで言ってないから」
まあ、言ってくれたらラッキー、くらいには狙ってはいたが。
このペットボトルは最初からあげるつもりだと言えば、吉田はむじゃきにわーい、と喜んだ。単純で可愛い事この上ない。だから苛めたくなるのだと、佐藤は責任の所在を最終的に吉田へと押し付ける事にした。
ちょうだい、とばかりに手を差し出している所に、しかし佐藤はくれてはやらずに自分の手で蓋を開けてしまう。やっぱり佐藤も飲むのかな、とそこには特に抵抗の無い吉田は黙して眺める。しかし、この後とんでもない展開が待っていた。
「はい、あーん」
なんて言って、佐藤が飲み口を突きつけるように差し出して来たのだ。思わず、目を点にする吉田。元から点ではあるが。
「……あ、あーんて……」
せめてそれは食べ物でやるべきだろうと、訴えのつもりで口ずさんだが、佐藤はスルーする方向にしたらしい。時には蛇よりも執念深く追及してくる癖に、流す所は流す。
かなり可笑しな行為であるが、それさえ我慢すれば冷たいスポーツドリンクが飲めるのである。ならば我慢すべきか?と吉田の思考もかなり危うくなってきた。足りない、というのは須らく正常な判断を見失うものである。
ほら、と差し出されているペットボトルに、吉田は口を寄せる。口を、あ、の形にして飲み口を食む。食べ物であればそこで事足りるのだが、飲料の場合はそうはいかない。若干傾けて貰わなければ飲めない。
飲ませると言った手前、佐藤はそこは素直にペットボトルを掲げてやった。けれど、ある意味二人羽織のようなこの状態である。吉田も何とか佐藤の動きと合わせようと思ったのだが、やはり途中で少し飲み口が外れてしまった。
「わ、わ!」
ドバっと溢れる大惨事は免れたが、零れた所から顎を伝ってぽたぽたと滴が落ちる。ハンカチ、と咄嗟に思ったが、咄嗟に取り出せる気の利いた吉田では無かった。そして、心の端で佐藤を期待した。清潔感溢れる佐藤は、ハンカチと共にポケットティッシュは常備である。
あーあ、と少し呆れたような佐藤の声はしかし優しい。顎を固定され、拭ってくれるんだなぁ、と思った所で想像外の感触に吉田は固まった。
ペロリ。
訪れた感触を擬音語にすれば、そんな感じだ。つまり、これは。
「舐めた―――――!?!??」
ギャース!と目を回す程に取り乱し、佐藤から離れようとする吉田。そんな相手こそ離さないのが佐藤である。まだついてる、と言って舌を頬から顎に往復させる。ふぎゃっと何か潰れたような声を出し、吉田がその感触に堪える。
暑い。まさに茹だるような暑さだと言うのに、佐藤の舌がなぞった部分からぞくぞくとした悪寒に近い感覚が背筋を這い上がる。耐え切れず、ついに「ん、」と声を漏らした所で佐藤の動きが止まった。
ああよかった、これで終わりだと思った吉田はあまりに浅はかだった。
ひょいっと持ち上げられた吉田は、ひょっとテーブルの上に腰掛けていた。かと思えば、佐藤に肩を掴まれて横になる。
「さ、さとう??」
何やら尋ねるのも恐ろしいシチュエーションだが、訊かずにはいられなかった。吉田の囁きを受けたか、佐藤は、んー、と考える素振りをして見せて。
「どうせなら、とことん暑くなってみるのもいいんじゃないか、吉田♪」
「―――」
それはどういう意味だと突き詰める前に、実地というこれ以上ない形で思い知った吉田だった。
今年の夏は暑い。
佐藤と居るとさらに熱くなるのだった。
<END>