制服が半袖に切り替わって少し経った頃。焼けるような暑さの前に、やたらと蒸す季節の中、湿気の籠るオチケン部室で吉田が吠える。
「っあ―――!痒い――――!!」
 蚊に刺された!と実に解り易く申告してくれた後、吉田は剥き出しとなった左腕をぼりぼりと掻いた。掻く、というのは結局爪で皮膚を傷つける行為だ。見兼ねた佐藤がストップをかける。
「おい、あんま掻くなよ」
「だって痒ぃんだもん!!」
 この辛さが解ってたまるか!とばかりに吉田は一層眦を吊り上げてがなった。やれやれ、と佐藤は嘆息する。
 かゆみ止めでも持って居れば良かったのだろうが、生憎さすがにそこまでの用意はない。今度、薬局に行って携帯用のでも買ってこようかな、と考えつつ、佐藤はさりげなく席を移動して吉田の横に座った。止めろと言ったにもかかわらず、相変わらず吉田は腕をぽりぽりと掻いている。
「何だよ」
 と、横に座った佐藤には気づいた吉田。そこまで鈍くはない。
 自分を向いた吉田に、佐藤はにこっとこれ見よがしに微笑んだ後、がばりと自分より遥かに小さな体躯を抱き留めた。うわわわわ!?と慌てる吉田は、さすがにもう腕を掻く事は止めていた。むしろ、止めさせるための佐藤のこの行為だが。
「だから、掻いちゃダメだってば。そこから膿んだらどうする?」
 ん?とわざとらしいくらいに優しい声を、耳のごく近くで囁いてやる。びくっと可哀想な程戦く吉田の身体。
「わ、解った!もう掻かない!!」
「ふ~ん?」
 吉田の言葉を聞き入れたのか、はたまた信じていないのか。佐藤は抱きしめる腕を解いてはくれなかった。おい!とかちょっと!とか背後の佐藤に声だけで呼びかけてみるが、何やら相槌めいたものは打ってくれるものの、離そうとはしない。
「何なんだよ!もー!!」
 終いには吉田も軽くキレたようだ。そんな様子に、佐藤は楽しそうにくすくすと笑う。
「いいだろ、別に。本当は俺がずっとこうしていたいって、解ってるよな?」
 吉田の癖っ毛の上に頬を乗せるようにしてそう言えば、吉田は身じろいでその台詞に反応する。ああ、可愛いなぁ、と染入る様に佐藤は思った。
「で、で、でも、牧村とか来たら……秋本も……」
「牧村は例によって生徒会長の雑よ……手伝い。秋本はこの昼休みは委員会の会議があるって」
 この部屋に訪れる可能性が最も高い2名の所在をすらすらと淀みなく述べる佐藤に、吉田はもはやぐうの音も出ない。
 一見吉田の言う事に反する事ばかりしている佐藤であるが、吉田をまるきり無視しているというでもない。学校ではしてはダメだというが、それは人目につくからそう言っているのである。だから人目に付かなければ良いのだろうと、佐藤は校内でそういう場所を選んで手を出しているのだ。
 まあ、だがしかし、そこは所詮佐藤だって人間である。多少特殊かもしれないが。
 完璧になんては出来ないので、ちょっとくらい目撃されても、まあそこはご愛嬌だろう。と、佐藤は思っていた。
 う~う~、と声にもならない呻きを上げ、吉田は佐藤の腕の中だ。早く出たいのに、力を込められているようには見えないのに、思いの外腕はがっちりと組んでいて、抜け出す隙間も与えない。
 衣替えもした。汗ばむ季節である。自分の汗臭さも吉田は気になるが、気になる事がもう1つ。
 痒い。 
 さっき掻いていた所もだが、痒みが治まって来た別の虫刺されれの箇所まで疼いてきた。佐藤に抱きしめられて、身体の温度が上がったのが原因だろうか。
 痒い。
 自覚してしまったら、もっと痒くなってきてしまった。けれど実質拘束されているような状態では、自分の手で掻き毟るのは不可能。ただえさえ、掻いたらダメだとも言われているし。
(でも、痒い!!)
 痒いから掻きたいんだ!とよく解らない自己完結をし終わった吉田は、その欲求をどうにか叶えようと回らない頭を必死に回転させる。現状で出来るせめてものと、吉田は痒い個所を佐藤に擦りつけるようにして擦った。これでちょっとはまし……にはならない!変に刺激されて余計に痒くなった!!
(~~~~~っ!)
 もっと強く擦りつければ、と吉田は気持ち密着した。
 けれど、ここまでされて何も気づかない佐藤でも無い。
「吉田?」
「ん?」
「そんなに体摺り寄せて……ここでしたいの?」
 にっ、と捕食者的な色を乗せて微笑めば、吉田の身体が可哀想なくらいぎくりと強張った。
「ち、ちちち、違う!!!」
「ふーん、そうなの?まさか、俺が掻いちゃダメって言ったのに、虫刺されを掻こうなんてしてないだろうしな~」
 だったら何なのかな~と白々しく言う佐藤に、けれど吉田はぐうの音も出ない。
「う、……で、でも、」
 果敢にも吉田は何事か言おうとしている。何を言うんだろう、と佐藤がわくわくしていると。
「でも、掻きたいんだもん……!!!」
「…………」
 だもん、と来たか。しかもうっすらと泣いているのか、声が何やら震えているように感じられる。
 他の男子高校生がそんな台詞を佐藤の前で言おうものなら、その場で吹っ飛ばしてやろうかというくらいなのだが、吉田が言ったとなると別の意味での破壊力が佐藤に訪れる。
「佐藤~……ダメ?」
 ぐす、と余程むず痒いのか、ごそりと腕の中でどうにか自分を見上げる吉田は、やっぱりちょっと泣いていて、所謂涙目だった。
 涙目、上目つかい、好きな人。
 このコンボに参らない人が居るだろうか。いや、いまい。
 そんな反語を用いた所で、何も始まらないし解決もしない。佐藤は吉田には勘付かれないように、胸中で深い溜息を吐いて何とか平静を装った。
 佐藤は一旦吉田を離し、そうして腕を引いて立ち上がらせる。どこに行くの?と表情で語りかける吉田に、佐藤は保健室、と答える。
「え、」
 と言って膠着した吉田の中では、青年漫画によくある展開が広がっているのだろう。顔が赤い。
 大丈夫。さすがにそこで初めてはしない。
 けれど、そこまで言ってやるのも何だか億劫で、さっき散々自分を掻き乱した分、吉田も振り回されれば良いんだと、佐藤は吉田の腕を引いて保健室へと向かった。


 その目的は勿論と言うか、痒み止めの薬である。多分あるだろう、くらいの気持ちで向かったのだが、ちゃんと置いてあって何よりだった。そうでなければ、学校を抜け出してまで佐藤はかゆみ止めを買いに走っただろう。
 吉田は虫刺されくらいで保健室に何かに来たら、保険医の迷惑ではないだろうかとすら思ったのだが、佐藤と同じく掻いたらだめだと言う事を言われ、痒み止めを貰いに来たのをむしろ称賛している素振りでもあった。
「まだ痒い?」
「う~ん、何とも……」
 そんな、今さっき塗ったばかりで効果なんて現れる筈も無い。塗り立てはちょっとべたついた箇所が気になったけど、今はさほどでもなくなった。
「そういや佐藤って、蚊に刺されたりしてないな」
 割とクラス内でちらほらと被害の声を聴くのだが、その中に佐藤の声が含まれてはいない。
「まあ、今年はまだ刺された事は無い」
 何て事の内容に言えば、吉田がいいなぁ、と羨ましがってきた。
「俺、刺される時は結構刺されるんだよな~。なあ、刺されない秘訣とかって、あんの?」
 汗を出さない時みたいな、と吉田が訪ねて来るが、そんな秘訣もコツもへったくれもない。普通に過ごしていて、ただ刺されないだけだ。ちょっと言ってやれる事と言えば、佐藤の居住地は吉田と違い高層のマンションだから、蚊が家の中まで侵入しては来ないという事実はある。羽を持って居ても、どこまでも飛べるという訳でも無いのだ。
 けれど、佐藤はちょっと考えてそれとは別の言葉を言った。
「吉田が美味しそうだからじゃない?」
「………、―――んなっ!!」
 きょとんとした吉田が言葉を理解し、何かを言い返す前に佐藤は吉田の手を取った。何だよ、とあわあわする吉田を横目に眺め、掴んだ腕を上にあげさせ、露わにした内側の白くて柔らかい皮膚に口付ける。
「―――――ッ!!」
 ビク、と戦く吉田の腕。そして身体。
 そこを軽く吸い上げ、佐藤は手を離した。吉田がその腕を、慌てて抱き込むようにガードする。
「うん、美味しいv」
「――――、馬鹿――――――ッ!!」
 吉田は真っ赤になって怒鳴った・


 けれど、吉田が本格的に赤くなるのはそのちょっと後だった。佐藤に口付けられた後。そこを見れば、赤い印のよいなものが浮き上がっている。虫刺されとよく似ているが、決定的に違うのは痒くないところ。同じなのは、吸われた事。
「…………」
 その時の感触を思い出し、じくじくと熱を持って疼く。
 けれど、その相手が蚊ではないものだから、かゆみ止めの薬も全く効いてはくれないだろう。

 そしてその後、虫刺されと紛れさせる事が出来ると、夏の間佐藤がキスマークを自重しなくなるのは、さらにもう少し先の事だ。




<END>