!7月号のネタバレを含みます!
!未読の方は注意!













 下り階段だからか、吉田の溜息もそれに合わせて下に沈むようなそんな溜息だった。まあ、確かに吉田にしてみれば散々な一日だっただろう。素性の知れない転校生に、あれやこれやといちゃもんをつけられた挙句、その転入生を泣かせたという謂れの無い疑惑までつけられたのだから。
 今日はあるいは吉田にとって厄日だったかもしれない。天中殺か。まるで残業疲れのサラリーマンのような吉田の背中は、普段よりもさらに小柄に見えて佐藤は口元が緩んでしまう。全くあの転入生はやってくれたものだ。自分だけが仕掛けるとマンネリ化しそうだからと、敢えて放置してみれば他人に弄られている吉田を見ると言うのは中々新鮮だ。しかも自分には絶対出来ないやり方で。
 最も、そんな事はたまにで良いのだ。さっきも東に言ってやったが、吉田を甚振って良いのは自分だけなのだから。その時の可愛い吉田を見る特権は、自分こそにある。
「吉田」
「んー?」
 目を開ける力もないのか、半分くらい閉じてるような目で吉田は佐藤を振り返った。
「今日、ウチ来るか?」
 けれど、そう佐藤から言われ、半閉じだった眼が一気に開いた。
「え、や、俺、もう疲れたし!!」
 それは知ってる。さっきから散々呟いていた事だ。もしかして無自覚のまま言っていたんだろうか、とそれすら佐藤には可笑しい。
「別に疲れるような事しないけど?」
 これには特に含みを持たせた訳でも無かったが、吉田が困ったように言葉を詰めて顔を赤らめた。南の島の一件で、こういう意識が吉田の中でも高まって来たのは嬉しい限りだ。
「とにかく!俺はもう!帰るの!!」
 羞恥が逆流してキレたのか、縋るように鞄の紐を強く掴んで吉田が言う。さっき、教室で東に校内案内を頼まれた時、助けてやらなかった事を根に持って居るようだ。その後、ちゃんと後ろから見守っていたんだけどな、という佐藤の意見は通用しないだろう。吉田はあくまで、あの時に庇って貰いたかったのだから。それを自分の楽しみの為に見送ったのは佐藤である。
 威嚇する猫のように、独特のくせっ毛を毛羽立たせている吉田。ここまで警戒心を剥き出しにされるのも久しぶりだな~と呑気に構え、佐藤が言う。
「今、家に美味しいロールケーキがあるんだよな。来るんだったら、一緒に食べよ?」
「……………」
 3分後、吉田は佐藤の家へと続く帰路に着いていた。


「美味っ!」
 さっそくそのロールケーキを一口含み、吉田は感じたままの感想を述べた。向かいに座る佐藤は、良かった、という台詞を乗せた微笑を浮かべている。一緒に食べよう、と言った割には、佐藤は自分の前には紅茶しか置いていない。普段はコーヒーを出す時もあるけれど、今日はケーキだからか紅茶を淹れて来たのだ。
 たまに家で淹れるティーバックのとは風味が格別に違う紅茶を飲み、口の中のクリームを洗い流す。最も、そんな事はしなくてもこのロールケーキのクリームは、とてもふんわりとしていて後味も然程しつこくは無い。昔、美味しそうだなと眺めた雲を生クリームにしたらこんな感じ、という口当たりと食感だった。
「もっと食べたかったらおかわり良いよ」
「ホントに!?」
 やった、と佐藤の申し出に吉田は喝采を上げる。ロールケーキは直径にして8センチ、厚さは5センチくらいだったから、吉田の胃袋にあっという間に消えた。そのスピードを鑑みたのか、佐藤はおかわり分をさっきよりもちょこっと分厚いめに切って持って来てくれた。2枚目だとしても、吉田の勢いは劣らない。それだけ美味しいケーキなのだ。
「それにしても、」
 ある程度腹も満たされて、頭にも糖が回った吉田が、幾分か平静を取り戻して言う。
「結局、あの東ってやつ、本当に何なんだろ」
 同じクラスでは無いのが辛うじて幸いだがこうして押しかけてこられては堪ったものじゃない。自分に非があるなら詫びようものだけども、生憎そんな覚えも全く無い。
 もしかして以前どこかで会っていただろうかと、必死に記憶を掘り返してみたが東に該当しそうな人物は一件も見当たらなかった。初対面で間違いないだろう。最も、向こうの方は吉田の事を知っていたようだが。実物を見たというより、伝聞の形で。吉田の名前は知っていても、その顔は知らなかったようだからだ。
 何か、自分の知らない所で思いっきり厄介な事に巻き込まれていそうな予感がする。いやもう、すでに巻き込まれているのかも。そんな予感に、折角のロールケーキの味が濁ってしまう心地である。
「なー、佐藤」
「ん?」
「……明日も、こんな感じかな」
 そう言って、がっくりと肩を落とす。確かに、あれが毎日続くとなると堪ったものじゃないだろう。
 吉田はまだ全く気付いていないようだが、東はどうやら西田の事が好きなようだ。
 自分を見た時の反応が女子と似ていたから、同性を対象として見るのだろうというのは解った。けれど、吉田はその範疇では無さそうなので、その辺は佐藤にとって歓迎すべきだ。自分が狙われるよりも吉田が狙われた方が余程業腹である。
 さっきのやり取りで西田の名前が東の口から出た事で、彼の中での吉田への印象も掴めた。好きな相手の意中の人。それはもう、世界で一番と呼べるくらい憎たらしい事だろう。一応、自分と吉田が付き合って居る事は告げたが、かとってそれで気持ちの整理が落ち着く訳でも無く。むしろ逆効果だったかもしれない。今、東の中で吉田は西田に好かれつつも他の男と付き合っている、とんだ悪い男である。
 というか、西田の気持ちが変わらなければ、何をしても吉田への印象も変わることは無いだろう。今の状態で、吉田が潔白の為に西田を悪く言っても、それはそれで東の心証を下げるだけだし、逆に褒めれば普通に妬かれるだけだ。詰んだな、吉田、と佐藤は胸中でそっと合掌をした。
「ま、いいんじゃないか。クラスは別なんだし」
「そうだけどもー」
 それは吉田も思った事だ。けれど、クラスが違うこの現状がそもそも歓迎できないでいるのだからどうしようもない。どうすれば打破できるんだろうかと、真剣に思い悩んでいるというのに全くと言って良い位ほど改善案が思いつかない。
 東の内情を正しく把握する佐藤が考えれば、改善策は東と西田が付き合う事の一択だと答えが出る所だが。
 東にとって吉田は悪い男かも知れないが、佐藤にとって西田は忌々しい男だ。本当に、さっさと吉田の事をすっぱり諦めて過去の恋にしてしまえば良いのに。吉田の良さを誰より知っている佐藤だから、敢えて惹かれるなとは言わない。けれど、付き合っている相手が居るのだから、そこは大人しく引いて貰わないと。
 まあ、けれど、仮に逆の立場だったとして、佐藤は絶対諦めないと思うが、そこはそれ、というやつだ。
 東の吉田への苛めっぷりは良いが、西田が絡むとなるとそうそう楽しんでも居られないな、と佐藤は思った。西田に吉田を会わせたくない。減る。
 弱気になっているのか不安になっているのか、今から気疲れしているのか、何となく吉田の様子は冴えない。
「佐藤、何かアイツに心当たりとかある?」
 吉田は尋ねた。何だかよく解らない事だったけど、さっき校内で佐藤は東の行動についてある程度把握しているようだった。その場で説明もして貰ったけど、まるで宇宙後のように意味不明だったが。
 また同じ宇宙語を言われたらどうしよう、とも思ったが、佐藤もその辺は弁えてくれたらしく。
「さあ、俺にも詳しい事はまだ解らないけど。とりあえず、西田と知り合いなのは間違いないだろうな」
 考えて視線を宙に這わす佐藤を見て吉田は思う。さっき、至近距離で東と佐藤が並んでいる所を初めて見たけど(以前にこの2人が近くで対峙した時は吉田は気絶していた)東に比べて佐藤の方が黒目がちだった。東も女子にもてそうなタイプだが、佐藤とは全く別種であろう。東は逞しさが目立が、まあ佐藤も決して華奢では無いものの、その容姿を称えるのならば、吉田の持って居る語彙では美しいとか、綺麗とか。
(ん?)
 そこまで思った時、吉田の中で何かが引っ掛かる。そのキーワード、最近でどこかで耳にしなかったか。
 あ、と思い出した。
「佐藤、」
「ん?何?」
「さっき、東に……その、」
 ケーキは口にしないのに、吉田の手にはフォークが握られたままだ。言いにくい事を言おうとしている。
「さっき、東に何か美しいとか何とか言われてなかった?」
 ここでまさかそんな事を聞かれるとは思って無かったのか、佐藤がきょとんと双眸を丸くする。
「ああ、まあ、言われてたな」
 佐藤にとってはどうでも良い事だ。あっさり頷いたのだが、吉田にとってはそうではなかったようで。
「…………」
 む、と口をへの字に曲げ、眉を顰める。甘いものを与えれば大抵怒りからは解放されるのに、珍しい現象である。そして佐藤はそれを正しく把握した。
「妬いた?」
「……別に……」
 佐藤を見て誰がどう思うかなんて、自分には関係ない、とでも言いたげな言い方だ。表情はその真逆を語っていると言うのに。
 くすくすと小さく笑う佐藤にも気付かないのか、吉田は自分の中で沸き起こった感情と向き合いので精一杯だった。女子が佐藤についてキャーキャー言うのは、良いとは言わないが今さらである。一々気にしていては身が持たない。と言いつつやっぱり気にはするけども。
 でも、それでも男子の中で佐藤を格好良いとやっかみ半分も含めてそう評する者はいても、綺麗とか美しいと表す者は居なかった。少なくとも、吉田の中では自分だけだった。
 けれど、自分がそう思うのだ。だから、他の誰かがそう思ったとしても不思議でも無い。なんて言い聞かそうとしても、何だか横取りされたような悔しさがある。変なの、と吉田はその心境に追いつけない。
「吉田だけだから」
 いつの間にか、吉田の隣に移動してた佐藤が言う。
「他の奴らから美しいだの何だの言われた所で、どうって事も無いよ。吉田だけだ。そういう事言われて、嬉しいのは」
 その声は柔和な雰囲気に反し、真摯な態度を感じられた。
「……べっ、別に俺がそう言ってる訳じゃ……!!」
 何だか心を見透かされたようで、吉田はあわあわと慌てふためく。もはや、目の前の美味しいロールケーキの事すら頭から零れ落ちてしまっていた。
 まだ高校に入学してから程なく、佐藤の正体(?)が解る前。佐藤会いたさに押しかけた他学年の女子に弾かれ、辿りついた先が佐藤の腕の中でかつてない程の近さで見上げたその顔に、綺麗だとは思ったが口にしていない。筈である。
 まさか言ってたとか!?とさっきの比では無く赤くなる吉田に、佐藤は満足そうに笑うと握られっぱなしのフォークをそっと取り出す。そして、ロールケーキを一口大の大きさで取った。
「ほら、あーん」
 そのまま口元に運ぶと、オーバーヒート気味の頭で正常な思考の出来ない吉田は、与えられたまま口に入れてしまう。それでも美味しい、と思うのだから、人というものも単純だ。
 美味しい?と佐藤に聞かれ、しかしその時はまだ口の中に詰まった状態だったので、吉田は頷くだけに留めた。食べながら口を効くと母親に窘められた経験がそうさせている。きちんと行き届いている躾に、吉田がこれまで健全に生きて来ているのを佐藤は知り、それを嬉しく思うのだった。
 最後にぺろり、と口の端についたクリームを舐め取る。それを見届けてから、佐藤は次を差し出した。
「ちょ、自分で食えるって!」
 まるで雛のように与えられ続けられる事に抵抗を始める。けれど佐藤は差し出したフォークを引っ込めることはしないで。
「いいから。今日は吉田をとことん甘やかしたい気分だからv」
 佐藤がにっこりとした笑顔で言うと、吉田がえぇぇ、と困惑した顔を浮かべる。
「苛められる吉田はさっき東のおかげでたっぷり拝められたからな」
 その台詞に、ああ、そういう事、と吉田は諦めたように納得した。また思い出して怒るかと思えば、そういう時期はもう超えたようだ。やはり、怒りの持続しない吉田である。そこがまた、ころころと変わる表情へと繋がるのだろう。
 はい、あーん、と差し出されたそれを、吉田ははむっと口に入れた。そのまま全部を平らげて、何だか別な所でお腹いっぱいになった吉田はおかわりはもうしなかった。何だか結局悪戯をされたような気分である。
「あと、これも食べる?」
 ロールケーキを間食した後、佐藤はチョコレートを摘まみ、指す出す。佐藤とチョコレートの組み合わせは、大抵吉田にとって良くない結果が待っていた。
 まあ、でも、今日は甘やかしてくれるって言うし、大丈夫だろうとトリュフに似たチョコレートをあむっと食べる。むぐむご、と噛むのと舐めるのと中間くらいでチョコレートを咀嚼していくと、まずはカカオの香ばしい香りが口内から鼻に吹き抜ける。
 そして。
「…………、…、―――――――ッッ!!!!」
「どう?そのタバスコ味のチョコv」
 その佐藤の台詞に被さり、吉田の「辛――――――ッ!」という絶叫が上がった。


 結局散々だった、とそれでも最後にはまた甘いジュースをごちそうになった吉田だが、立腹しながらの帰宅だった。風呂に入ってさっぱりした後は、もうさっさと寝てしまおう。
 程なくして夢の中に落ちた吉田は、明日、転入生を泣かせたという酷い誤解が校内に蔓延しているだなんて、この時はまだ、全く思いもしないのだった。



<END>