佐藤=画商
 吉田=助手




 仮にも駅前だが、快速は素通りしていくような辺鄙と言っても良い駅ビル。再開発に着手されようものなら、真っ先に潰されそうなそのビルが吉田の職場だった。
 しかしやや小ぶりとは言え、5階建てのビル一件――実は地下室もある――まるごとが所有なので、その裏に佇んでいる資産はおぼろげだが吉田にも掴めるほどだ。何より、その収入減を吉田は目の当たりにしているのだから、そんな推測は最初から必要としていないのだけども。


(こっ、こっ、これが……さ、3億の小切手……!!)
 そんな額面は初めて目にする。いやそもそも、小切手なるものを見た時点からして初めてなのだが。
 何せ3億である。これが盗難されたら、正真正銘3億円事件だ!そんな物が目の前にある……これまでの吉田の日常からあまりにかけ離れていて、上手く現実が飲み込めない。
 それより吉田の目に信じられないのは、そんなやり取りがまるで自分にとって虎之介と漫画の本やゲームを貸し借りするようなノリで行われた事だ。じゃあこれを、ああどうも。みたいな感じで。
「……意外と金払いが良かったな。もう少し吹っかけてやっても良かったかも」
 しかし一番度肝を抜かれたのは佐藤のこのセリフだった。まるであたかも、5億では足りないような口ぶりだった。
「あ、あの絵ってそんなに価値あるの?」
 そうとは知らず毎日を過ごしていた。自分に芸術的センスが無いのは解っていたが、完全にスルーしていたかと思うと少しばかり情けない。仮にも……というか正真正銘、このギャラリーの店主である佐藤を覗いた、たった1人の従業員なのだから。
 吉田の問いかけに、佐藤はしかし「さあ?」と拍子抜けするような返事を打った。
「向こうの要望は「この店で一番値が張る物」だったからな。だから俺も、一番高いのを進めただけ」
 あの時点でな、と佐藤はにやり、と口元を吊り上げた。その表情で吉田が解るのは、やはりあの絵にはとてもそれだけの値打ちは無いという事。あくどいといえばあくどいのだが、窘める気にならないのは、吉田は今の客があまり好きでなかったからだ。
 いや、好きとか云々とか前に、何だかヤバそうな空気を持っていた。自分に従わないなら殺す。言葉や態度の端々に、そんな幼稚な残酷を潜ませているような気がして。自分が感じたくらいだから、佐藤もきっと解って居る。だからこんな真似をしたのだろう。信用できる客にはいいものを売るが、いけ好かない客はとことんおちょくるのが佐藤だった。
(だ、大丈夫かな〜)
 もし鑑定士に判断させたら、ややこしい事になるのではないだろうか。ひやりとしたものを感じる。予感、なのかもしれない。
 ここは表立った所では普通のギャラリーだが――まあ、吉田には他に勤めた経験も無いから何が普通という基準も掴めていないが――その見えない所では、今のように何億と言う大金が動くやり取りがされる。財閥界やら海外の巨大企業とも繋がりがある、実はそんな場所だった。
 何故そんな胡散臭い場所に吉田が居るのかと言えば――話せば長いしややこしくなるが根元として、佐藤が吉田に傍に居て欲しかったからだ。
 そして、吉田もそれを由とした。そういう、事だ。



 ――ここは図書館に併設されているカフェのオープンテラス。一面の庭を眺められる、ちょっとしたスポットなのだ。
 そんな場所で、吉田の対面に坐るのは、西田だった。近くの美術館に所属する学芸員の。
 西田は到着した吉田を見るなり、パッと表情を色めき立たせた。明らか好意を寄せているその反応に、吉田はどうしていいものやら、毎回出口の無い迷路に飛び込んでしまったように、困惑してしまう。――だって、吉田は佐藤の事が好きだから。西田も解って居る筈なのに、意識的にも無意識的にも吉田にアピールを止めない。それはわざとではなく、止め方が解らないんだろうけど。
「良かった。来てくれたんだ」
「まあ……約束したし……」
 出来れば来たくなかったんだけど、と吉田は心の中でひっそり付けくわえた。西田の自覚のないアピールは元より、西田に会う事で佐藤が良い顔をしないのは初めから解って居る……ので、内密にして外出しているのだ。嘘が好きではない吉田には、歓迎できない状況だ。
「で、話って?」
「ああ、佐藤の事なんだけど――」
 天敵と言っても過言ではない佐藤の名が西田から出た事に、吉田は意表を突かれたように目を丸くする。そして次に、ハッとなって西田に叫んでいた。
「だ、ダメ!!」
「へ?」
「さ、佐藤と付き合ってるのは俺だから!だから、ダメ!!」
 真っ赤になって、涙目で訴える吉田に、西田はその勘違いに気付いた。慌ててそれを訂正する。
「違うって!そういう事じゃないよ」
「え?……そ、そうなの?」
 今度はきょとんとする吉田。そのクルクル変わる表情に、西田はついつい見入ってしまう。だって可愛いから!
 思えば、本人に直接アピールするのが西田である。吉田はそれを思いっきり知っている。本人以外から責める手段は、あまりに西田ではあり得ない事だ。
(て、てっきり佐藤を好きになったとかいう話しかと思った……)
 同性から見ても、佐藤は格好いいし魅力的だし、西田はホモだしいい人だけど。
 勘違いに気付いた事に、吉田は顔を赤らめる。
「俺が佐藤を口説く訳ないだろ。……それにしても、今ので吉田……本当に佐藤が好きなんだな……」
 解っていたけど、とややアンニュイに呟く西田に、吉田はあわわ、とさらに真っ赤になった。熟れたトマト以上に真っ赤だった。
「と、とにかく本題に入ろうよ!話、あったんだろ?」
 吉田が半ば怒鳴るように言うと、西田もああ、そうそう、と頭を切り替えた。
「実は、という程でもないんだけど……ウチの美術館に1人辞める事になって。その欠員に、佐藤を推薦したいと思ってるんだ」
「えっ、さ、佐藤、を?」
 吉田は瞬きを繰り返しながら、尋ねる。まさか西田からそんなセリフが出るとは思わなかったからだ。西田と佐藤は犬猿の仲というか、相容れない存在と言うか、まあ原因は吉田なんだけどね!
 そんな吉田の反応に、西田も苦笑を交えて返した。
「そりゃあ、個人的に佐藤の事は気にくわないよ。でも、あいつの持ってる知識や技術は買っているから。悔しいけど、俺以上の実力がある。そういう人に、もっと前線に出て貰って日本の美術界を発展していって貰いたいんだ」
 高い志を持って仕事に取り組む西田が、吉田にはちょっと羨ましい。吉田が今の職(と、言う程でも無い)に就くのに、そんな意識はおそらく無かっただろうから。
「――それに……」
 と、西田は言いにくそうに言う。
「その、同業者から妙な噂とか聴くんだよな。佐藤の画廊について。
 ヤクザを相手に仕事してるとか、ヤクザを騙す仕事してるとか、そもそもヤクザ以上にヤバいのとつるんでるとか……」
「……………」
 どれもホントです、の一言が言えない吉田は黙るしか無かった。人の口に戸が立てられないとは、よく出来た諺だな、と思いながら。
「まあ、それを鵜呑みにする訳じゃないけど……個人で経営してるなら、そういう性質の悪いのと関わる事もあると思う。その点、美術館ならそんな事はないから、困ってるならどうかな、と思って」
 西田は吉田にとって苦手な人ではあるが、あくまでそれは個人的な感情が付随しての話で、そうでなければ勿論普通にいい人だなと思える。今だっていけ好かない人物の実力を正当に認め、さらに置かれている身の上を純粋に心配している。そこには何の裏も見られない。そう、佐藤のように。
 佐藤は別に、今の現状に困って居るとは思えないが……むしろ率先して作り上げたような気もするが。それでも安全とは程遠い世界に居るのだというのは、吉田も常々懸念していた事だった。とはいえ、別の職場で働く佐藤なんて、想像もしなかったけど。
「俺からの話だと解ると、そこで終わっちゃいそうだから。吉田からそれとなく持ちかけてくれないかな」
「……う〜ん……」
 はっきり言って、あの佐藤を説得させる自信なんてこれっぽっちもない。それが表情に出たのか、西田がまた口元を緩める。
「そんなに悩まなくても、吉田が無理だと思ったらそれで止めていいよ。俺も、本当に引き受けてくれるかどうかは半々だったし……」
 そこで西田は、頼んであったコーヒーを一口すすった。大分温くなっているだろう。
「……今日呼び出したのも、ただ吉田に会いたかったから、って方が主、みたいな感じだしな」
「……………」
 照れくさそうに言う西田に、吉田はうっ、となって言葉に詰まってしまった。その後、さりげなく伝票を取られ、つまり奢られてこの席は終わった。
 西田はいい人だ。とてもいい人だから、会うと吉田は疲れてしまうのだった。


 こんな疲れている時、階段しかないビルは心情的にも身体的に優しくないな、と思いながら吉田はビルの2階を目指す。5階建ての内、1階が事務所、2階がギャラリー。3階、4階、そして地下室が倉庫扱いで佐藤と吉田の私室があるのは最上階だ。
 てくてくとそれでも2階に辿り着き、ドアノブを捻る。開きながら、中に居るだろう佐藤に声をかけた。
「ただいまー。戻った……よ……… ………………」
 開けた室内に、佐藤は居たけど佐藤以外も居た。スーツに身を包んでいるけど、明らかに堅気では無い。だって、手には拳銃を持っているから!!!
 吉田の登場に、その場に居た全員の視線が来訪者へ一斉に注がれる。銃口も。
 吉田がその恐怖に目覚めるより、佐藤の行動が早かった。
 まず、目の前で拳銃を突きつけていた男の顎下に、鋭く重い拳を一発。頭との連結部にダメージを食らった男は、呆気なく昏倒した。
 佐藤の反撃に、周囲の男達が飛びかかる。しかしどれも大した敵にはならず、確実に仕留められて行った。
(け、警察……!!)
 ここにきてやっと動き出した吉田の頭は、助けを呼ぶ事を思い付いた。幸い自分には、というか自分達には警察の知り合いが居る。しかも、キャリア組の。110番ではなく、その人へ直通する番号を呼ぼうと、吉田が携帯を取り出す。
 吉田のその動きに気付いてかそうではないのか、吉田にまだ倒されていない1人が向かって行く。おそらく、人質にでも取る算段だ。
「!」
 敵意むき出しで迫る相手に、吉田の動きが止まる。その腕が、吉田を掴もうと伸ばされる。そして――
 ――ドグワシャァァン!!
 吉田を捉える前に。
 佐藤がぶん投げた椅子が彼を直撃し、そのまま倒れた。
 ずるずると、吉田はその場にへたり込んだ。それは危く人質になりかけた危機にというより、椅子が真直線で飛んで来た方に驚きが強かったからだと思う。


「……またハデにやらかしたなぁ、オイ」
 出だしから疲れた様な顔を見せたのは山中だった。こんなのがキャリアで行く行くは警察の上層部に食い込むのかと思うと、日本もいよいよ住みにくい国になるなぁ、と吉田は案じずにはいられない。
「手柄になるんだから、いいだろ」
「そうは言うけど、手柄にするまでに色々手順ってもんが、」
「いーから早くしろって。こっちも商売あるんだから!」
 吉田に急かされ、山中は苦い表情を浮かべながら携帯を取る。程なく数名の警官が訪れ、男達を連行していく。意識を取り戻した彼らが、昏倒していた時より余程顔色が悪いのは、しっかり佐藤が脅しつけたからだ。それはもう、トラウマにまでなる程に。吉田はちょっと向こうに行ってなvと笑顔で言われるまま、吉田は別室に移動したので、何が起こったかは知らない。というか何も知りたくない!
 まあ、そういう経緯も含まれている訳だから、実際の現場が佐藤の画廊だと言う事も無いだろう。山中は勿論知っているが、勿論暴露する筈も無いだろうし。この場に佐藤が姿を見せないのは、山中への配慮である。無駄に怯えて貰って手順の運びが鈍っても困る、と(つまり山中個人が精神的苦痛を感じるのはどうでもいい)。
 車が出た所で、佐藤が代わりのように顔を出した。ついさっき、大乱闘を果たしたとは思えない程、平素な表情だ。
「さて。ちょっと遅くなったけど、お茶にしようか」
「………うん」
 さっきの男達の中で、吉田はその中で見知った顔を見つけた。ついこの前、3億の絵画(多分嘘)を売り付けた相手だった。
 あの時感じた嫌な予感は、決して気のせいでは無かった。
 しかしそれは自分にではなく、彼らにこそ降りかかるものであったのだろう。


 ここまでの直接的で暴力的な行動に出るのは早々居ないが、それこそ恫喝くらいは結構朝飯前というか、日常茶飯事というか。
 何気に慣れてしまったけど、やっぱりこれは良くない事なのだろう。再認識をしなければならない時点で、吉田も大分世間ズレしてきてしまっている気がしないでも無い。
「……あのさ、」
 ケーキを食べ終わった後、吉田はさりげなくを装って話を切り出した。勿論というか、佐藤はいきなり見抜いたのだが、何だか面白そうなのでそのまま泳がせといた。
「そのー、佐藤って、ここでしか働いた事が無いんだっけ?」
「……まあ、商売してる、っていう意味だとそうなるな」
 およそ吉田の口から出る話題にしては不審さを覚えたが、とりあえず全部聞く事にした。
「えーっと、それじゃ、試し的にも別の場所で働いてみない?
 ……美術館、とか」
 最後に呟かれた単語に、佐藤はピン、ときた。
「……そうか、西田か」
「えええッ! なんでいきなりバレた!!?」
 西田の名前は出さなかったのに!とばかり驚愕する吉田だった。佐藤は、ふん、と鼻で吹き飛ばす。
「お前にそういう話を持ち出すのなんて、あいつしか居ないだろ」
 とは言え、半分くらいは勘だったのだが。かけたカマが当たっただけに過ぎない。
「……うー、まあ、バレたならこの際全部言っちゃうけど、」
「パス。絶対受けない」
「まだ何も話してないだろーが!」
 そりゃ吉田も引き受けるなんて思っても無かったが、話も聞いてくれないとも思っていなかった。憤る吉田とは対照的に、佐藤は冷めている。それはもう、水のように氷のように。
「どうせどこかの美術館で欠員が出たから、俺に来いとかそういう話なんだろ」
「う、うん」
 なんでこうも何もかも見透かされるんだろう……と今更に悩む吉田だった。俺ってそんなに解り易いか?(そうかも)
「その……なんか、佐藤の事、凄く買っててさ。それに、凄く心配もしてるし……」
 心配?と佐藤は眉を潜めた。
「だから、西田は今日みたいな事、噂くらいにしか思ってないけど、実際には現実な訳で……」
「どっちかというと、俺個人が心配じゃなくて、俺の持ってる能力が美術界を盛り上げる事に使われないまま終わるのが嫌なんじゃないか?それってさ」
「……そういう言い方はどうかと思うけど」
 吉田は決して西田の肩を持つつもりではないが、あまりに他人を切り捨てるような物言いには何やらカチンと来るものがある。しかし、ヤキモチが絡むと極端に思考能力が落ちてしまう佐藤は、やはり西田の味方をしていると思いこんでしまう。
「俺がどうしたいかなんて、俺が全部決める。持った知識や技術をどう使おうが、それこそ俺の勝手だ。そうじゃないのか?」
「それはそうだけど、でも今日みたいな事がもっと酷くなったら、佐藤、もしかして死んじゃうかもしれないだろ?だから……」
「あいつの部下になるくらいなら、それこそ死んだ方がマシだ」
 まだ続くだろう吉田のセリフを遮り、佐藤は吐き捨てるように言った。これ以上、西田を援護する吉田なんて見たくないとばかりに。
「……………」
 吉田からの声が途絶える。
 目先の嫉妬に目が眩んだ佐藤は、気付くのが遅れた。自分が決して言ってはならない事を言ってしまった事に。
 はっ、と気付いてた佐藤が吉田を見やるが、その顔は目に見えて強張っていた。ぐっ、と引き締められた口元が、痛々しい。
「吉………」
「………解ったよ。詰まらない事言って、ごめんな」
 吉田には似つかわしくない、硬質な声で言い、空になった食器を持って立ち上がる。佐藤の分も持って。
 いつになくテキパキと動く吉田に、本気の怒りが見える。
「……………」
 佐藤は、何度か言いたげに唇を動かし――結局、何も言えなかった。
 暫く、そっとしておいた方がいい。そう自分に言い聞かせても、上手く自分の気持ちを伝える自信が無かっただけだ。これ以上拗れてしまったら、吉田に嫌われてしまったら。そう思ってしまったら、佐藤にはもう、何も出来ない。


 その後は、表立って言い争う事こそなかったが、何処かギスギスした空気を纏っていた。居辛い、というヤツだ。
 終業時刻を迎え、画廊のドアノブにcloseの札と鍵をかける。何気にドイツ製の最新セキュリティなので、ここが破れたらペンタゴンにも潜れるだろう、というレベルだ。
 いつもは食事は一緒に過ごすのだが、修理の依頼が入っているから、と佐藤は席を外している。逃げやがったな!と食べる手が荒くなる吉田だった。
(何だよ、佐藤のヤツ!西田の事気にくわないのは解ってたけど、でもあんな言い方しなくてもいいだろ!!)
 死んだ方がマシ、だなんて。
 佐藤は死んで終わるだけだろうけど、自分はその後も生きていかなきゃならないのに。そしてその逆もあるだろうに、その点について無頓着のような佐藤が腹立たしい。
 でも、佐藤本人も言っていたように、佐藤の人生は佐藤が決めるものだ。結果的に死を招いたとしても、それはそれで自分が口を挟むべきでもないのかもしれない。ずっと傍に居て欲しい、なんて自分の我儘なのだから。
(………佐藤は、俺とずっと居たいとか思わないのかな……)
 例え人生を縮めても、自分の思うように生きたいと決めているのだろうか。ある意味、外見で他人に振りまわされている佐藤だから、そう決め込んだ所で特に不思議でも無いけど。
 それでも、自分だけは違うと思ったのだろうか。それでは、他の子の誘いを断っても自分の誘いは受け取ってくれると思いこんでいる、佐藤の周りの女性と同じだ。吉田は自己嫌悪に、肩を落とした。


 そんな1日だったからか、勿論寝付きも悪い。何度か寝がえりを打った所で、吉田は音を上げるように起き上がった。眠れない、と。
 佐藤は、寝ているだろうか。吉田は気になった。
 作業に入ると没頭するけど、佐藤はそういう所も、ちゃんと管理できている……筈。
 ちょっと、佐藤の部屋を覗いてみよう。寝ていたらそれでいいし、起きていたら……その時はその時で考えよう。
 寝ている場合にも良いように、吉田はそっとドアを開けた。
「あ………」
 室内は皓々と照らされていて、様々な画材で埋め尽くされているその中心には油絵に向かう佐藤が居る。ドアを開けた事で空気の流れが変わったのに気付いたのだろうか。佐藤は程なく吉田に気付いた。
「……あ、え、えーと、」
 その時考えよう、と思っていた吉田は、いざ起きている相手に何を言えばいいか、とても困った。
「……その仕事、急ぎ?」
 やっとの事で言えたのは、それだった。もっと気の利いた事が言えばいいのに、と吉田は自分にダメ出しをする。
 修理をと依頼されたその絵画は、吉田も見ていた。素人目の吉田のもこれは酷い、と言える状態のもので、どう直すのか見当もつかない程で。他、いくつもの画廊に断られたらしい。無理も無いな、と吉田も思った。佐藤の目の前にあるのは、その絵だった。ぱっと見、完全ではないが、最初見た程の悲惨さは無い。吉田は美術の知識は欠片も無いが、佐藤の腕だけは知っているから、普段の作業進行時間を逆算して、やはりあれは酷い状態だったのだなと今更に知る。
「いや、別に急ぎって程でもないけど」
 佐藤は元の絵に塗っても不自然ではない様、いくつもの絵具を混ぜ合わせる。
「でも、あのままなのも可哀想だろ」
 折角直せる自分の所に来たのだから、と佐藤は言う。
 そう言って筆を進める佐藤の手は、患部を癒す医師の手にも見えた。実際、そうなのだろう。
「……そっか」
「うん」
「――俺、コーヒー淹れて来る!」
 パタパタッと軽い足音を立てて、キッチンに向かう吉田。その顔は、とても嬉しそうに綻んでいた。
 本当は、佐藤も吉田と同じく、どうせ眠れないからと作業を続けていただけに過ぎないのだけど。まあ、あの酷い状態を早く直してやりたいと言った気持ちにも嘘は無い。
 仲直りのきっかけを貰ったようなこの絵に、佐藤は感謝の気持ちも込めて修復作業を進めた。


 邪魔はしないから近くで見てていい?なんて殊勝な事を好きな人から言われ、断れるヤツが居たら見てみたい。佐藤は頷き、勿論承諾した。
 そこからは、会話はなかった。ただ、吉田は絵を直していく佐藤の様子をじっと見ていて――やがて、吸い込まれるように眠りに就いた。小さい吉田は、ソファでも簡単に横になって寝てしまえる。佐藤は、仮眠用にこの部屋に置いてある毛布を、縮こまってもっと小さくなった身体にそっとかける。
 毛布を巻き込むように丸くなった吉田に、そっとキスをして、佐藤は再び作業に取り戻った。


 後日――西田を呼び出し、吉田はこの前の話の返事をした。
「ごめん。やっぱ無理だった」
 と。座ったままペコリと頭を下げる吉田に、そこまでしなくていいから、と西田は取り直させた。
「そうか……ダメ元だったとは言え、断られるとちょっと残念だな」
 かなり佐藤に酷い事を言われたのを、西田は知らないとは言え、そんな風に言える彼はやはりいい人なのだ。期待に添えないのが、ちょっと申し訳なく思えるくらい。
 とは言え。
「……あのさー、」
 と、吉田は自分でも決して良いとは思えない頭で、それでも自分の思う事を言葉にして伝えよう、と思った。この前、ほぼ徹夜で絵の修復に挑む佐藤を見てから。いや、その前からずっと自分の中にあった思いだ。
「その、西田みたいにさ。貴重な美術品とか、きちんと管理して、沢山の人に見て貰えるようにするのも、偉い仕事だな、って俺は思う。
 ――でも、」
 西田は、まとまりきれていない吉田のセリフを、それでもじっと聞いている。
「人間でもさ、多くの人に好きになって貰うより、たった一人に愛されたいっているの、居るじゃん。
 佐藤の仕事は、まあ、やり方はちょっと置いといて、そういう感じっていうか……
 絵とかもさ。美術館に仕舞われて沢山に人に見られてるより、誰かの家に飾られた方が幸せかもしれないし。
 ――俺も、どっちかというと、そういう仕事の手伝いの方がいいかなーって」
「――うん」
「あ!でも!西田の仕事否定してる訳じゃないから!さっきも言ったけど、美術品管理するのって凄い大変だって思うし!!」
「うん、大丈夫。解ってるから」
「そ、そう?」
 ああ良かった、と胸を撫で下ろす吉田。考え込んで難しい顔をした後、慌てて取り繕うようにふためいて。ころころ変わる表情がとても愛しい。その頭を撫でたくなるけれども、それは自分に許された事ではないのだ。
 じゃあね!と吉田は元気よく手を振り、西田の前から去って行く。そして戻って行くのだ。自分の場所へ。
 この広い世界。無数に居る人の中で、あれほどの理解をしてくれる人に果たして自分は巡り合えるだろうか。見つけたと思ったその人は、すでにもう、傍らの人を決めていてしまった。――まあ、そもそも、佐藤と自分が相容れないように、吉田とも合わないのかもしれない。たった一人の為に、という考えは西田に無いものだから。
(まあ、俺は俺なりに、吉田に関わって居ればいいか)
 生きている内に数多く差し出せる腕の中、一回でいいから彼の助けになれたらと。それが西田の選んだ付き合い方だった。


 佐藤程の能力があれば。
 それこそエルミタージュやルーブル、メトロポリタンのキュレーターにだってなれるだろう。事の次第によっては歴史に名を残すかもしれない。
 でも佐藤は自分の目指すのはそこじゃなくて、たった一人の、所有すべき人へ直に手渡す事。それを生業にしたいのだという。不特定多数に見入られるのを、絵だって辟易するかもしれないからな、なんて冗談交じりに言いながら。
 いつもは捩れた素しか見せない佐藤が、そう語った時はとても眩しくて。
 自分が佐藤が好きだと言う事実が、この上なく心の中でしっくりと馴染んだのだった。


「ただいま!」
 と、吉田は元気よくドアを開いた。佐藤だけかと思ったら、来客が居て吉田は慌てて佇まいを直した。
「あっ、つ、艶子さん、いらっしゃい」
 ぴしぃ、と姿勢を正す吉田に、艶子はクスリ、と優雅に微笑む。
「どうか楽にしていらして。吉田さんは友達ですもの」
「うー、で、でも、今は仕事中だし……佐藤は?」
 作業場に身を移しているのか、この場には姿が見えない。直に戻って来るという艶子の説明の前に、佐藤が現れた。
「お。吉田、おかえり」
「うん、ただいまー」
 互いの存在を意識に入れた後とその前とでの、明らかな変化は当事者ではなく、観察者である艶子にのみ解る事だった。何とも、幸せな顔をしている。それも、ごく自然に。当たり前のように。艶子はそれが自分の事のように嬉しく、口元をが綻んでしまう。
「ほら、艶子。これ」
「ありがと、隆彦」
 両者の間を渡った長方形の小箱。これが艶子の来訪の用件だったようだ。
「ネックレス?」
 半ばあてずっぼうだったが、当たった。
「そっか。直してたのか」
 佐藤は手先が器用で、装飾の修理もこなしてしまう。だから吉田もそう考えたのだが、こちらは外したみたいだ。
「違うな。強いて言うなら、逆だ」
「逆?」
 どういう事?と吉田は首を傾げる。
「わざと壊れやすいようにしたのよv」
 艶子が煌びやかな笑顔と共に言う。ますます訳が解らない、といった感じの吉田に、艶子が悪戯の種明かしをする様に説明する。
「今度出席するパーティーにね、ちょっと女癖の悪い男性が居るの。声をかける手口は呆れるくらい単純で、人の波に押されたふりをして文字通り接触してくるの」
 そこでこのネックレスの出番だ、と佐藤が間をつないだ。
「いつも通りの手口でぶつかって――ネックレスが壊れてしまったら、どんな顔してくれるかしらv見ものだわvv」
 吉田はその相手の顔なんて知る由も無いが、かなり蒼白になってる事だろうは想像出来た。気の毒とは思うけど、女癖が悪い、という時点で同情の余地は吉田にはない。せいぜい、今回の事でお灸を据えればいい。
「そして、その後の修理が俺がやって、3割増しの代金請求をするって計画だv」
「……そ、それは……何て言うか……」
 にっこりと計画を話す佐藤に、顔を若干引き攣らせつつ言う吉田。
「あら、それなら5割増しにして、2割分は私に回して下さらない?」
 しれっと艶子が言う。
「強欲だな……お前、十分金持ちじゃないか」
「巻き上げれる所からはきっちり巻き上げるのが、金を集めるコツでしてよv」
「まあ、いい。でもその分、次回に回すからな」
「もう、隆彦の方がちゃっかりしてるわ」
「……………」
 西田の誘いを断ったのは誤ったか……と、自分が誘われた訳ではないが、ついそう思ってしまった吉田であった。



――END――


*実は一番最初に浮かんだパロです。
感じとしては某ギャラリーフェイク的な。
非人道的で業を深めてくばかりの佐藤を唯一救ってあげるのが吉田ならな〜って思いますv